第27話 氷室の夜・後


 そもそも。

 そもそも論として、大きな懸念事項が別にある。「一時しのぎにしかならない」と氷室が幸に言ったことだ。

 道義的な面でどうだとかそういう気持ち的な問題ではなく、これには歴然とした理由がある。


*     *     *     *


 氷室は渋い顔をして、机の上に放り投げっぱなしだった携帯を手に取った。

 アドレス帳を開き、目的の見慣れた番号で指を止める。一瞬氷室は考え込んだが、やがて意を決して発信ボタンを押した。

『はい、氷室でございます』

 聞き慣れた高めの声がすぐに応対に出た。

「もしもし、お袋?」

『あらあら。その声はもしかして稜さん?』

 無警戒な声に、氷室は携帯を持たずに空いている右手で頭を抱えた。

 こちらが名乗る前に名前を呼んでしまうあたり、巷を賑わすオレオレ詐欺の格好の餌食だ。氷室自身が電話をかける機会はそう多くはないが、それでもかける度口を酸っぱくして言い含めても、この母には危機感というものがない。

「だから先に名前を呼んだらいけないと何度言ったら」

『詐欺の人はそんなふうに怒らないわ、やっぱり稜さんでしょう』

 受話器越しにも分かる勝ち誇った声に、氷室は再度頭を抱えた。

 しかしここで問答しても目的は達成できない。気を取り直して、氷室は言った。

「親父は?」

しんさん? 残念ね、明後日まで北海道にいるわよ。この前から中々会えないわねえ』

 ころころと可笑しそうに、母――志乃しのが笑った。

『稜さんが面倒事を持ち込もうとしてるの、分かってるのかしら』

 志乃の声音は完全にからかい調子だ。知っていて言うから性質たちが悪い。

 この母は氷室の分家筋にあたる家から、本家の跡取りだった父――しんに嫁いできた。はとこよりもう一つ遠い筋なのだが、ここ最近では珍しく非常に強い力を持っていたが為、是非にと本家に娶られたのだ。見合い以前の問題で纏まった話らしいが、時代錯誤な話ながら両親の仲がすこぶる良好であるのが幸いか。

 氷室一族の力それ自体は、一族の中でもやはり本家が頭一つ飛び抜けている。その本家を継ぐのは中でも力の強い者と大体決まっていて、そこには特段長男がどうとかいうしきたりはない。父親の真が次男ながら本家を継いでいるのはそういった理由によるものだ。

 その前提を鑑みると、つまり本家の家長が氷室一族の中で最も強い力を持っている道理なのだが、この母、あるいは本家家長の真より感覚が鋭い部分がある。

 そんな志乃でもさすがに心を読むことまではできない。よって氷室の言わんとする具体的な内容までは知るまいが、それでも何事か腹に抱えているというのが見えているのだろう。あれこれごまかしても無駄であることを悟り、氷室はさっさと二の手を打った。

「じゃあ慶次けいじは」

『帰ってるわよ。替わりましょうか』

「ああ」

『よほど切羽詰ってるのねえ。ちょっと待ってね』

 のんびりした相槌だが、毎度毎度的確だ。

 しかしそれに関して氷室が返事をする前に受話器の向こうが静かになった。そしてややあって、話し声が遠くから聞こえてきた。さして待たなかったことを鑑みるに、茶の間で寛いでいたところか。

 会話は聞き取れないものの、どうも驚いている風のやり取りだ。徐々にそれが近づいてきて、「オレオレ詐欺じゃねえの」という言葉と共に受話器が持ち上げられた音が響いた。

『もしもし』

「慶次か」

『うわ、本当に兄貴だったのか。俺に用事だなんて珍しい、てっきり詐欺かと思ったわ』

 兄弟揃って思考回路が似ているところが何とも言えない。とりあえず氷室は「大丈夫だ詐欺じゃない」「お袋にはさっき注意した」と、本筋とは全く関係ない話を開口一番伝える羽目になった。

 電話口の弟――慶次は、それを聞いてからりと一つ笑った。

 氷室家には長男である氷室を筆頭に、三年間隔で弟妹がいる。長女であり妹の檀が三歳下。次が六歳下、次男の慶次。最後に三男である颯真そうまに至っては氷室から見て九歳下、まだ二十三歳である。

 今時珍しく四人兄弟という多さだが、実家で暮らしているのは慶次だけだ。氷室や檀のように個人で商売をやっているのではなく、父親である真の片腕として働いているから、まあ家業を手伝っているということになる。

「急に悪いな。ちょっと聞きたいことがある」

『聞きたいこと?』

「お前、親父と一緒で後ろが見えただろう」

『見えるけど、今更それがなんだっての?』

「話はできるか」

『……うーん』

 電話の先で、迷う気配があった。

『俺はまだ、全部が全部というわけにはいかねえなあ。親父は相変わらず相手選ばずだけど』

「どれくらい記憶が残っているかとか知ってるか」

『そりゃ人によるって』

「……そうか」

『なに、悩みでもあんの? もう少し具体的に説明してくれたら、もっとマシな回答できるかもよ』

 さすがに親父ほどの精度は求められても困るけど、と慶次が続けた。提案を受けて、氷室は言い方を一瞬考えた。

 慶次はこの世の常ならざるものほとんど全てを見通す目を持つ。その点だけは母親譲りとも言えなくはないが、母の志乃と異なるのは慶次にはそれらに干渉する力がある、ということだ。「白い手」とそれは呼ばれている。

 干渉と一口に言っても多岐に渡る。

 意志疎通を図るのは朝飯前。基本的に生きている人間と同じように接することができるのだが、特筆すべきは良くないもの、こちらに害意のあるものに対抗し、排除する力が備わっている部分だ。氷室家に伝わる特異な力の内、常ならざるものの姿を見ることそれ自体はさして難しい話ではない。事実、精度にブレはあるものの一世代に必ず二人や三人はその目を持つ者がいる。

 一方で干渉できる力はそんな一族の中にあっても、大変に珍しい。

 それは生まれながらであって、修行や法具、呪文といった媒体を必要としない純粋な力だ。

 二、三世代に一人生まれれば良い方で、父親の真と息子の慶次――親子二代で立て続けにその力を持つというのは、江戸の早い時期まで遡ってようやく同じ例を見つけられるような、希有な状況でもある。

 氷室の「緑の手」も珍しいが、慶次の「白い手」はもう一つ珍しいのだ。



 氷室が今尋ねようとしているのは、常ならざるものが生前の記憶をどの程度留めているのかということだった。

 常ならざるものの中には、後ろに立つもの――とある人間を見守る存在がある。それはその人間の血縁であったり、人より神々しい何かであったりする。俗物的な言い方をすると、守護霊という言葉の持つイメージと概ね合致するだろう。

 後ろに立つもの達はいずれも理由を持っている。

 血縁の情であったり、受けた恩義であったり、抱いていた慕情や愛情であったりする。生前の想いが強ければ強いほど、後ろに立つ理由もまた大きくなる。

 氷室が案じているのは、幸の父親が闘病を終えた後、おそらくは幸の後ろに立とうとするであろうことが感じられるからだ。

 その時に生前の記憶を留めているのだとしたら、娘の後ろに立った時に真実を知る、これほど辛いことがあるだろうか。まさか、娘が自分の為に嘘の結婚をしたなど、親としてはやりきれないだろうと思う。

 この世の記憶はこの世だけのものとして、旅立つ瞬間に全てが溶けて消えるのならいい。

 だが、確か昔、父の真が言っていた。

 死に旅立つ直前の記憶ほど残りやすいと。

 ただそれは、いつ聞いたかも思い出せないほど前の話であって、氷室の聞き間違いかもしれない。どうかそうであってほしいと心の片隅で願いつつ、氷室は確かめる為にこうして電話をかけた。本来であればその話をした張本人である真に確認すべきことだが、いかんせん不在にしているというのだからどうしようもない。このご時世になって尚、携帯電話というものを持ち歩かない人種でもあるので、帰ってくるまでは連絡の取りようがないのだ。

 迷った挙句、氷室は名前や関係を伏せて状況を説明した。つまるところ、偽装結婚したことに後ろに立つものは気づくのかどうか、と。後ろに立つ理由は理由になるだけあって、それなりに鮮やかな記憶が元になっているだろうことは想像に難くない。だがそれ以外の記憶はどうなのだろうか。

 真にはまだ及ばないものの、近しい力を持つ慶次は真摯に耳を傾けてくれた。が、その返事は氷室の期待する通りにはならなかった。



『そりゃ十中八九バレるだろうなー』

 心底残念そうな声で慶次が言った。直近の記憶であればあるほど、やはり覚えている可能性は高いらしい。

 だが氷室はその言葉尻に引っかかった。

「待て。残りの一割、気付かれない方法があるのか」

 端から駄目元の確認だ。僅かでも可能性があるならばそれに縋りたくもなる。

 誰かを見送るというのは、それほどに重いことだ。

 天寿を全うできるのが最善ではある。だがそれが叶わないのなら、せめて後顧の憂いを取り除いてやりたい。無くなったと安堵していたその気がかりが実はそうではなかったと突きつけられる、ただひたすらにそれは辛い。

 前のめりに重ねた氷室に、「兄貴は相変わらず優しいな」と慶次が言った。

『気づかれないイコール後ろに立たないってことだって』

「ということは後ろに立った時点で?」

『バレるさ。だって偽装ってことはいつまでも一緒にいるわけじゃないんだろ? 後ろに立ったからって心の中まで読めるようにはならんけど、見てる景色が一緒だもの。結婚したはずなのに一緒に暮らさない、むしろ二度と会うことのない夫婦? あり得ないだろ。それで気付かない方がどうかしてるぜ』

「後ろに立つか立たないかはどうにかできるものか」

『こればっかりは本人の意思だから、最初からどうこうするってのは無理。ただ、まあ、後ろに立った瞬間を狙って力づくで引っぺがすっつー野蛮極まりない方法ならある。気合入れたら俺もできるし、親父なら朝飯前だと思うわ』

 出された提案に思わず氷室は唸った。

 慶次自身が「野蛮極まりない」と宣言するあたり、やろうとすると本当に容赦のないやり方になってしまうのだろう。それくらい無理を通すような話なのだ、氷室が持ちかけたことは。

 むしろ慶次の言う手段に訴えると本末転倒になってしまう。

 そもそも後ろに立つことを是が非でも阻止したいわけではなく、真実を知って悲しませることをどうにかして避けたいだけだ。逆に後ろに立つことは良い守りが約束されるので、むしろ歓迎すべき話である。

 どうにも難しい。

 次の一手がすぐに浮かばないまま氷室が考え込んでいると、慶次が「あのさあ兄貴」と話しかけてきた。

『一つ聞いていいか』

「うん?」

『どこの誰かは知らんけど、兄貴がそこまでしてやる義理のある相手なのか?』

 率直な問いに、氷室は言葉に詰まった。

 沈黙をどう受け取ったのかは分からない。だが慶次はそのまま続けた。

『また貧乏くじ引かされるくらいなら、正直放っておけば、と俺は思ってるけど』

「俺が何をどうするとかはまだ言ってないだろう」

『言ってないけどどうせその偽装結婚の相手でもやってやろうとしてるんじゃねえの』

 鋭すぎる指摘に思わずまた氷室はぐ、と黙り込んだ。

『ほら図星だろ』

 六歳上の兄に向けたとはとても思えない言葉遣いである。

『ちなみにこれ、姉貴でも颯真でも同じこと言うと思うぜ』

「……」

『兄貴が単純だとか言いたいんじゃないからな。兄弟で一番出来のいい兄貴にそれ言ったら俺にブーメランで返ってくるわ』

「ブーメランってお前、」

『ともかく。兄貴は「緑の手」に負い目を感じてるのかもしれねえけど、そんなの兄貴が好きでそうなったわけじゃないだろ。色んなことを飲み込んで兄貴が優しかったり許したりしても、それを相手がそのまま受け取るとは限らない。つーか、そんな殊勝な奴いなかったじゃねえか。元嫁二人でさえそうだっただろ』

 最後の方は慶次の語気が荒くなった。

 つまり心配されているのである。氷室は二回の離婚を経験しているが、その当時家中の誰より激昂してくれたのが他でもない慶次だった。この忠告は、言葉遣いの悪い弟なりの気遣いなのである。

 慶次に指摘されたことが的を射ているかどうかはすぐに判断できない。負い目があるかどうか。人の心を垣間見ることができる、そんな不躾な能力に。

 心底面倒だと思ったことは多々あれど、有難いと感謝したことは確かに一度もない。

 確かに過去、二人の妻の心を読み取ってしまったことはある。たまたま、偶然、不意に。だから責任を取って結婚したのかと言われればそれが全てではないが、彼女たち二人共がその当時大きな悩みを抱えてもいた。それを知って尚放り出すことが憚られたのもまた一つの事実だ。


 翻って、今回も同じなのだろうか、と。


 携帯電話を耳にあてたまま、氷室は次郎に目をやった。今回の相手――幸は、明らかに気の毒だ。彼女は雇い入れてまだほんの二ヶ月とはいえ、良く働いてくれている。およそ一年半にも及んだ荒れた生活に、終止符を打てたのは彼女のお陰である。そんな彼女が困っているのなら、助けてやりたいと思う。

 人として。

 多分、恋や愛ではない。多分。

 一度だけ腕の中に抱いたことはあるが、あれも傷ついた彼女を癒す為、ただそれだけだった。それ以上でも以下でもない。ただの雇い主とその従業員、それだけだ。二人の間には何もない。

 ほんの少し。

 僅か一筋だけ向けられる淡い想いは、本来であれば彼女が口にしない限り、氷室は知り得ない気持ちなのだ。面と向かって言われない限り、それを氷室がどうこう考える資格はない。

 だから今の原動力は、あくまでも人としてという情だ。

 だからきっと、慶次の心配は杞憂に終わる。

「大丈夫だ。深い仲の相手じゃない」

『どうだか』

「いずれにせよ、まあ、……乗りかかった船だ」

『言うと思った』

 存外に慶次はあっさりと引き下がった。言うだけ言ってさっさと引くあたりの呼吸は、檀に似ている。

「そうか」

『まあ止めはしないけど、一応これでも心配してんのよ、俺も姉貴も』

「……悪いな」

『別に。いずれにせよ兄貴の心配はその通りだ。そういう意味で、偽装結婚なんてやめとくに越したことはないぜ』

 軽く言ってはいるが、念を押された格好となった。

 他にはと慶次が訊いてきたものの、氷室はそこで話を切り上げて電話を切った。


*     *     *     *


 結局、懸念事項は解決するどころか増えた。

 氷室は体温で温かくなった携帯を放り投げて、目を閉じた。テレビも何もなく、氷室一人で佇む事務所は静かだった。日中は聞こえない壁掛け時計の針の音が小さく響く。深まる夜に不思議と心安らぐ音だ。



「……次郎?」

 感じた温かさに驚いて顔を上げると、氷室の目だけが捉えられる動きで、次郎の葉が微かに揺れた。

 「緑の手」でそうして欲しいとは頼んでいないにも関わらず、次郎はその力を氷室に寄越してきた。

 珍しいことだ。

 次郎の葉から伝わる意思を読み取るに、氷室が思いのほか消耗していることを気遣っているらしい。あながち的外れではないので、氷室は有難くそれを受け取った。

 夜は確実に更けている。

 だが今しばらくは帰れそうになかった。


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