第26話 氷室の夜・前



 ふと喉の渇きを覚え、氷室は字面を辿るのをやめて顔を上げた。

 壁にかけた時計は十時を指している。バイトである幸が帰ってから五時間も経っていて、湯呑みはとうの昔に空になっていた。喉が渇くのも道理だ。氷室は本を脇に置いて立ち上がり、給湯室へと向かった。

 電気を点けると、最近では任せきりになっている小さな空間が浮かび上がる。

 どこを見ても整理整頓されていて、掃除も行き届いている。見ればポットは保温になっていて、何種類かの個包装ティーバッグが横にそっと置かれている。氷室が残る間に飲むと想定された気遣いであることはそれと知れた。

 前のバイトは幸よりも年は幾分上だったが、この手の仕事は得手ではなかった。氷室は氷室で「虫が這わなければ良い」程度の感覚であるが故、口うるさく言うことはしなかったが、その差は歴然としている。

 比べるものではない、と分かってはいる。

 しかしそれでも、彼女は今時珍しいくらいしっかりと躾けられたものだと思う。

 事あるごとに幸は彼女自身が平凡であることを強調するが、その濃やかさを平凡と呼ぶのは失礼だろう。そして掃除や整理整頓だけに留まらず、感情の機微にも敏い。

 置かれている個包装の一つを手に取り、氷室は中身を湯呑みに落とす。そのままお湯を注ぐ。待つ間に頭に浮かんできたのは、前のバイトが辞めた経緯だった。

 およそ三年ほどは雇っただろうか。

 よくよく考えればそれなりに長い方だったと思うが、彼女は氷室の仕事内容には頓着しなかった。だから氷室も自身の持つ特殊な力については特に何も言及しなかった。つかず離れず、取っ付きにくい雇い主とそこそこに仕事をこなすバイト。個人経営の零細企業には良くある話だ。

 前のバイトからは分かりやすく好意を寄せられていた。分かりやすかったが明確に言葉で伝えられたことはなかった為、氷室は特段取り合うことはしなかった。それが百八十度変わったのは、丁度氷室が二回目の離婚をした時だった。

 昨年の一月、今から一年と半年前のことだ。

 ふとした拍子に離婚の事実がそのバイトの知るところとなり、氷室は罵倒された。「そんな人じゃないと思ってたのに」と涙ながらに訴えかけられた挙句、頬に平手打ちを頂戴した。そのまま彼女は「話が違う」だの「騙された」だの立て続けに捲し立てつつ、事務所を飛び出していった。そして翌日から来なくなったという寸法だ。

 色々と言いたいことはあったが、言うべき相手と二度と顔を合わせることがなかったが為に、結局氷室は諸々を飲み込んだ。

 ただでさえ私生活で二度目の離婚という面倒事を抱え、その上仕事でもバイトに逃げられた。すぐに替わりを募集したが無しのつぶて、忙しさだけが募り、この一年半で生活はそれなりに荒んだ自覚はある。

 それがどうだ。

 合縁奇縁、めぐり合わせ、縁とは異なもの。

 諦めかけていたバイト募集に引っかかってきた相手は、初手から訳ありそうな雰囲気を醸し出していた。なんせ足元に、それなりに力を持っていそうな何かがくっついてきている。いつもならその手の類は敬遠するが、その時ばかりは荒れた生活に終止符を打ちたい気持ちが勝った。そこまで多くは期待しない、せめて辞めたバイト程度に掃除や雑用をこなしてくれれば恩の字くらいに思っていた。


 蓋を開けてみれば新しいバイト――幸は非常に真面目で良く働いた。

 ここにたどり着くまでの一年半が嘘のように、事務所はものの一週間で見違えるようになった。それだけに留まらず、彼女は少しでも給料分を働きたいと言って、昼の食事まで用意をしてくれる。お陰で氷室自身の体調に随分と余裕ができた。結果として氷室は力を楽に出せるようになり、出力が上がったことで相談者が相談所に来る回数は必然減った。

 幸は閑古鳥の鳴いている事務所を訝っているようだが、その原因のおよそ半分が彼女自身によるものだとは露ほども思っていないだろう。言ったところで、どうせ彼女は「自分がそんな大したことできるはずがありません」などと言って、全力で否定するのだろうが。

 それにしても、彼女からまさか偽装結婚を持ち掛けられるとは予想していなかった。

 そこまで考えて、氷室はティーバッグを湯呑みから取り出した。


 椅子に腰を落としつつ、淹れたばかりの茶を喉に流し込む。熱さが渇いた喉に沁みた。

「さて、……どうする次郎」

 パソコンの横に陣取っているディフェンバキアの葉をそっと撫でつつ、氷室は独り言ちた。

 ふ、と掌に柔らかな感触がある。風が通り抜けるような温かさで、それは次郎からの返事だ。

 この力に関しては、まだ幸には明かしていない。彼女が知った時にはどんな反応をするだろうか。驚きつつも「そんなこともできるんですね」と、それこそ「合気道してたんですかすごいですね」と同列くらいの感想が出てきそうではある。彼女は色々なことに素直に驚きを表すが、内容如何に拘わらず驚く質というかトーンが一緒なのだ。そんな彼女にはのんびり、おっとり、そんな言葉が良く似合う。

「……」

 触れたままの次郎の葉からは穏やかな温かさが伝わってくる。

 これができるのは、今の世代の氷室家そして一族の中では氷室だけだった。

 氷室の目は母親ほど精度が良くない。どちらかといえば妹である檀の方が、母親の影響が色濃い。人間以外の「もの」、特に無機物が纏う空気を見極めるのはもう一段難しいにも拘わらず、あの妹はそれを簡単にやってのける。その点、規格外に図抜けた目を持つ母親とほぼ遜色ないと言ってもいいだろう。

 その代わり、氷室には植物と親和性が高いという力が備わっている。

 氷室が面倒を見る植物は、不思議と良く育つ。これまでにも似たような能力を持つ先祖はいたらしく、一族の中ではこの力を持つ者を「緑の手」と呼び習わす。

 「緑の手」は同時に「癒やしの手」となり得る。

 氷室の一族が持つ癒やしは、本来自身の生命力のみを源とする。分け与えるという行為である以上、必然そこには限界がある。一方で「緑の手」を持つ者は、植物から彼らの生命力を少しずつ譲り受けてそれを自分の力に変換することができる。分かりやすく言い換えれば、燃料切れを起こさないのだ。

 瞬間の出力自体はやはり母親の方が大きい。しかし持続性という観点から最終的な総量という意味では、実は氷室に軍配が上がる。母親以外にも何人かは同じように癒しの力を持つ血縁はいるが、誰も氷室に匹敵する力は出せない。そうであるからして、氷室はこの力を使った商売をしているわけでもあるのだ。

 特異な点はもう一つある。

 「緑の手」は植物から力を借りると同時に、その意識も読み取れる。

 意識とはいっても人間のそれとは少し感覚が異なっていて、彼ら自身が好き嫌いを言うのではなく、彼らは人間の心理状態や感情を読み取る力に長けている。耳目を持たない所為なのかは今一つ定かではないが、表情や言葉に惑わされることなく、今まさにそこにいる人間の喜怒哀楽を彼らは真正面から受け止める。ありのまま生の感情が分かると言い換えてもいい。

 そんな彼らの傍にいれば、彼らを仲立ちにして氷室もまた相手がどう思っているかが分かる。その感情の原因や理由は分からなくても、誰が誰にどんな想いを抱いているのかが分かる。

 正直なところ、この部分は扱いが微妙な力だと氷室自身は思っている。

 小さな頃はこれで随分と痛い目を見た。

 人の心の機微や道理といったものを理解する前のことだ。誰かの言葉や行動が、心の奥底にある感情と合致していないことを不思議に思う、純粋だった頃と言ってもいい。

 本音と建前であるとか、素直になれない天の邪鬼であるとか、好意の裏返しであるとか。長じた今ならばむしろ言葉と心が合致していることの方が珍しいとさえ思えるくらいだが、昔の氷室はそうではなかった。

 小学生の頃は、直球勝負で不思議に思ったことを指摘していた。大体がありがちな話で、男子に多かったのは好きだと思っているくせに相手の女子になぜ悪口を言うのかとか、女子に多かったのは口では仲が良い事をアピールしながらなぜ相手の女子より自分が優れていると思うのかとか、良くある話だ。

 当然、奇異の目で見られた。やがてそれは嫌悪に変わった。そういうわけで、氷室は友達を失くした。


 多少大人になった中学の頃は、本音と建前の存在をしっかりと認識していた。

 予防線として氷室は必要以外に口を開かないよう心がけた。級友とも距離を置いた。大人になった今でこそ「緑の手」の力をコントロールできるように――つまり、植物からのコンタクトを意識的に遮断できるようになったが、その頃は植物の傍にいるだけで勝手に他人の感情が流れ込んできた。

 植物が近くに生えていなければ問題は無かったが、外での体育や教室で育てる観葉植物など、三年間の学校生活全てにおいて植物との邂逅は完全排除できるはずもなく、それが故に氷室は同級生の秘めた想いを散々味わう羽目になった。それも本人たちが知らないところで、だ。居心地の悪さは拭い去れなかった。

 同じ相手を好いている親友同士などまだ微笑ましい部類だった。成長途中の心は、嫉妬や憎悪、羨望あらゆる感情が鮮やか過ぎた。

 知らなければ口にさえしないであろうことが、知っていればふとした拍子に零れ出ることもある。

 よって、知れば知るほど他者と関わらないよう徹底した。会話の中で口を滑らせるかもしれない、そう思って自分自身を信用していなかったというのもある。いずれにせよ全ては面倒事に極力巻き込まれないようにする為だった。

 話しかけられても碌に返事をしない氷室は、そういうわけで中学でも友達らしい友達はいなかった。小学校時代と違うのは、友達を失くしたわけではなく、最初から友達がいなかったという点だ。


 高校に入ると別の問題が浮上した。

 身長が一気に伸び、一年の二学期には一八○センチメートルを越えた。結果、自分についている顔がそれなりに整っていることと相まって、やたらと異性に言い寄られるようになったのだ。

 「緑の手」はまだ上手く扱えていなかった為、完全に有難迷惑以外の何物でもなかった。

 直接告白される実数よりもっと多く好意を寄せられているらしいことも理解していたが、更にその周りに渦巻く色々な思惑さえも感じ取ってしまい、三年間はひたすら好意を断り続ける結果を招いた。

 最終的には同性異性双方から無駄に硬派認定され、遠巻きに眺められる三年間を送ることとなった。

 遠巻きにされたことは願ったり叶ったりだったものの、強い想いを寄せられることに食傷気味になったのはまた別の話だ。


 大学に入ったあたりから、「緑の手」は徐々にコントロールができるようになった。

 しかしその時既に対人関係を色々と割り切っていた為、他者との付き合い方は変わらなかった。夢や希望、幻想を抱けるほど他人に対して興味を持つことができなくなっていた。


 そんな自分が二回も結婚することになったのは、ひとえに相手側に溢れんばかりの情熱があったからに他ならない。

 一人目は分かりやすく氷室の容姿目当てだった。事あるごとに彼女は氷室を連れて歩きたがったし、折に触れ外見を褒めてきた。氷室は身に付いた癖で距離を置こうと試みたが、元妻の押しは大変に強かった。結婚に至ったのは責任を取らねばならない事態になったからである。騙し打ちといっていい手管を使われたのだが結果は結果ということで、氷室はそれなりの罪悪感と責任感を持って結婚に踏み切った。

 しかし結婚した理由が簡単ならば、離婚した理由も簡単だった。およそ一年と半年にも満たなかった結婚生活の終わりは、彼女が他の男を見つけてきたことによる。

 中々手に入らないものや他人のものが欲しくなる性質の人間だったのだ、一人目は。

 決定打は氷室に「興味が無くなった」と彼女が言い放ったことだ。いっそ清々しい終わりでさえあった。

 心残りだったのは、当時まだ十ヶ月になったばかりの娘だった。親権を取ることもできず、娘はそのまま元妻に引き取られていった。


 二人目は金目当てだった。

 最初はそんな素振りは見せなかった。大企業に勤める所謂キャリアウーマンというやつだ。出会いは彼女が相談所の客で、そこから単に頼られただけである。氷室より年が上で、結婚するまでは「対等でありたい」と仕事に打ち込む人間だった。事実、結婚するまでは非常に良好な関係だったと今でも思う。

 そんな元妻は、結婚して三か月後のある日、突然仕事を辞めてきた。

 そしてその日から一切の家事もしなくなった。

 話し合いを試みたが、曰く元妻がどれだけあくせく働いたところで、氷室の稼ぐ金には到底及ばないことに理不尽さを感じたのだという。元妻の論理はそこから遥か彼方に飛躍し、これだけ金があるのだから自分は何もせず良いはずで、金で全て解決すればいいそれが夫の甲斐性だという結論に着地した。

 氷室としては別に元妻が仕事を辞めるのはやぶさかではなかった。借金をするのでなければ、買い物でも何でも好きにしていいとも思っていた。しかしそれは、大前提として二人の間に夫婦としての尊敬や配慮があっての話である。結局氷室はハイスペックのATMに成り下がり、その瞬間に婚姻関係を継続する意味は無くなった。

 終わりを切り出したのは氷室で、一人目とは違って最後は泥仕合の様相を呈した。出るところに出てどうにかけりをつけた矢先、バイトに罵倒された挙句勝手に辞められたというおまけもついた次第だ。


 思い起こせばそれなりに残念な人生を送っていると思う。世間一般と比較すれば容姿と頭に恵まれているのだろうが、氷室自身はそれで嬉しかったことなどおそらく唯の一度もない。

 それなのに、偽装とはいえ三回目の結婚話が舞い込んできたのは、縁というより他なさそうだ。

 縁はいいとして、しかし困ったことに微妙な問題がここにきて俄かに浮上した。

「……そんな部分まで正確に言わんでいい」

 氷室は眉間に皺を寄せて、釘を刺した。相手は次郎だ。観葉植物であるディフェンバキアの。傍から見れば独り言を呟く怪しい男だが、今は見咎める第三者は誰もいない。

 久しぶりに「緑の手」を使う気になったのは、純粋に心配したからだ。

 女性側にしてみれば結婚は人生の一大イベントである。夢もそれなりに抱いているはずで、その予想が的外れでないことは過去二回の実体験が証明している。

 そうであるから、まだ年若い幸の「大丈夫です」を鵜呑みにするわけにはいかなかった。彼女は意外と強情で、我慢をする傾向が強い。頼み事をした負い目でこれ以上我儘なんて、くらい思っていてもおかしくはなかった。

 「緑の手」を使うのは人付き合いにおいて規定ルール違反だと氷室は思っている。コントロールできるようになってからは、力を借りることはあっても誰かの意識を読むことは極力避けてきた。事実、氷室は幸を雇い入れてから今日まで「緑の手」を使ったことはない。

 今回は事が事だ。

 本当に想う相手がいるかいないか、それだけを確認するつもりで氷室は次郎に訊いた。すると予想外の回答があった為、氷室は現在進行形で久しぶりに動揺している。

 釘を刺したが遅かった。

 氷室は一度、次郎の葉から手を放した。そのまま掌を口元に持っていき、椅子の背もたれに深く身体を預ける。


 まさか、と。


 大きな葛藤の中に一筋、淡い想いが見えたなど。

 まさかあるはずがない。


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