第25話 互いの立ち位置から見える相手の景色



 ほとんど眠れないまま、幸は病院で二回目の朝を迎えた。

 あの後雄三はもう一度眠りについたが、先程見に行くとちゃんと目を覚ましていた。小康状態になったのは間違いないようで、今日の夜は泊りこまなくても大丈夫とのお墨付きを医師より貰っている。

 恵美子は仮眠室で休ませてもらっている。幸も勧められたが、二晩の徹夜くらい若さでどうとでもなる範囲だったので遠慮した。身体は疲れているが、むしろそれ以上にお腹が空いている。

 そして幸は今、コンビニで買いこんできたおにぎりやらパンやらを、談話室の隅っこで一人もぐもぐやっているという寸法だ。


 頭の中を占めているのは、当然結婚式のことである。


 やむにやまれぬというか退っ引きならなかったというか。どうあれ四の五の言えた状況ではなかったので、口からでまかせとなったことは今更後悔してもどうしようもない。こうなったからには潔く偽装結婚に全力投球するのみだ。たったそれだけのことで父の命が少しでも長らえるのなら、それでいい。

 まず、相手をどうするか。

 目下のところ最大の問題がそれだ。

 元より見目麗しい人間ではない。故にただでさえ男友達という枠が少なく、またそこまで格別に親しい仲の相手がいるわけでもなく、よってそれぞれの学生時代の友人には頼みづらい。学生結婚なんて本気で目論む二人でもハードルは高いというのに、偽装結婚となると更に色々と問題がありすぎる。

 最悪、バイトと称して誰かを雇うという手も、なくはない。但しこれをやろうとすると、給料前借り必須だろう。バイトの分際でそれが許されるかどうかはまた別の問題として残る。

 ともかく。

 金で解決するにせよ、無償で付き合ってくれる奇特な相手をどうにか見つけたにせよ、次に来るのは会場をどうするかという問題だ。決行はできれば今月中が望ましいのだが、奇しくも時は六月。いわゆるジューンブライドの月だ。目ぼしい有名どころの会場はどこも満杯であろうことは、素人の幸にも簡単に想像できる。

 最悪、あるのかどうかは知らないが山奥の教会とか、受け入れてくれるかどうかは分からないがその辺の神社とか、自分達の両親だけを立会とするならばどこかしらにはまああるだろう。多分。

 ともかく。

 例えば会場の都合もどうにかついたとして、今度は相手の親御さんをどう説得するか。普通に考えて、偽装結婚なんて素っ頓狂な真似、親としては許さないだろうことも想像に難くない。相手の親がいなければ、幸の両親も不思議に思うだろう。端的に回避するには音信不通であるとか既に他界しているとかのごまかしはあるにはあるが、結婚自体が偽装なのにそこまでやればどこかで舌を噛みそうだ。

 ふむ。

 分かりやすく手詰まりだ。

 あらゆる角度から、どうしたら良いのか皆目見当もつかない。当たり前だ、一回も結婚したことがないのにどうして想像できようか。自分でしたことながら無茶ぶりも良いところだ。

「……!」

 考えれば考えるほど頭が痛い。

 幸は口を動かしながら、とうとうテーブルに突っ伏した。


*     *     *     *


 その日の夜。二日ぶりに帰ってきた自宅の二階、八畳の自室で幸は項垂れていた。

 両親から早々に王手を掛けられたのである。

「近い内に紹介してね。できれば今週末とか嬉しいわ」

 なんて。

 期待の眼差しで言った恵美子に、嬉しそうに頷いた雄三。親として至極真っ当な反応だ。幸はぐうの音も出なかった。

 その場はどうにか取り繕ったものの、このまま行けば相手の名前や年齢、職業など早晩訊かれることになるだろう。その時に答えられなければ、どう考えても疑義を呼ぶ。下手をすれば親に言えないような相手なのかとか、別次元に面倒な拗れ方をしないとも限らない。

 そもそも幸は大学休学中だ。雄三が奇跡の生還を果たした感動で両親は一時的に忘れ去っているらしいが、冷静になって考えれば相手はどこの誰なのかと絶対に不審に思うはずなのだ。

 在学中の出会いだったとして、相手は同じ学生なのかとか。学生だったのなら、まだ卒業もしていないのに何故これほど結婚を急ぐ必要があるのかとか。この場合、雄三を理由にしてしまうと論理が成り立たない。そうでなければ相手は社会人なのかとか。社会人なら一体いつどこで出会ったのかとか。

 考えれば考えるほど、飛んできそうな質問がそれはもう枚挙に暇がない。

 であればこそ、一刻も早く適当な人選をしなければならない。あんなに喜んだ父を見て、今更がっかりはさせたくない。

 

 誰かいないか。

 せめて既婚者で、会場とかそういう情報だけでももらえそうな人。

「既婚者……って」

 そういえば。

 経験者経験者と念仏のように口ずさんでいたところ、はたと幸の脳内検索に引っかかった人物がいた。

 先日事務所に来た檀さんが確かに言っていた。氷室はバツ二だと。つまり結婚を二回経験しているわけで、氷室に聞けば有用な情報が出てくるかもしれない。

 むしろ、或いは全てひっくるめて氷室にお願いできないだろうか。

 あの人は立派に働いている社会人で、昔の3K、いわゆる高学歴・高収入・高身長にも該当し、おまけというには恐れ多い整った顔を持っている。少なくとも要素だけで見れば、どこにも反対される要素が見つからない。

 絶望の中に光が差し込んだ。

「……でも、」

 独りごちて、しかし幸はまた項垂れた。

 自分が持ち掛ける場面を想像して、尋常ではない勇気がいることに気付かされる。氷室は「二度と結婚はしない」と言い切っていた。心底嫌そうな顔で。楽しくない思い出が多そうだった。偽装とはいえ話題に出されるのも不愉快かもしれない。


 あの日の衝撃が俄かに蘇ってくる。


 独身だとばかり思っていた氷室が、バツ一どころか二だという事実は驚天動地だった。

 ただし驚きはしたものの、「あってもおかしくはない」と納得はできた。昔で言うところの三高、高身長高学歴高収入ときて顔もずば抜けて整っているとくれば、世の女性が放っておかないのは自明の理だ。

 それよりも。

 そこまで考えて、日にちが経っているというのに新しく動揺する自分に気付き、幸は心底戸惑った。

 心に引っかかっているのは、氷室が「二度と結婚はしない」と言い切ったことだ。今でも耳に残る声のトーン。思い出す度に年甲斐もなく泣きたくなるので、どうやら自分は傷付いているらしいのだ。

 それが何故かは幸自身にも良く分からない。

 自分が結婚したいからかというと、そんなことは怖れ多すぎて仮定にさえ上がらない話だ。そうではなくて、そうまで言わせる何があったのだろうと思う。

 あんなに優しい人が、にべもなく撥ねつけるなんて。

 何が痛かったのだろうと想像してみても、過去の氷室に今の幸ができる何かがあるわけではない。けれど、そんな顔を今でもしてしまうのなら、まだ痛いのだろうかと気に掛かる。考えてみたところで、幸には分かるはずもないのだが。


 いずれにせよ、進退窮まった。時間は差し迫っている。

「……」

 明日。

 言うだけ言ってみて、駄目だったらその時に次を考えよう。

 そう決めて、幸はベッドに潜りこんだ。


*     *     *     *


 いつもの時間に幸がライオン付き扉を開けると、氷室が目を瞠って視線を寄越してきた。

 驚いたのは幸も同じだ。

 時刻は朝の七時を少し過ぎたところで、幸としてはいつもより三十分ほど早く事務所に到着したつもりだ。勿論それには理由があって、休んだ二日分の掃除を氷室が来る前に片付けてしまおうと思ってのことだ。

 この時間に氷室がいるなど聞いていない。

 いや、昨日休んでいるからそれは当たり前っちゃ当たり前なのだけれども、言いたいのはそういうことではないのだ。

「……お、おはようございます」

「……ああ」

 互いが互いにぎこちない。

 どちらもこの時間にまさか相手が来るとは思っていないから、まあ致し方ない部分もある。とりあえず幸は扉を閉めて、一つ深呼吸をした。そのまま所長椅子に座っている氷室の前で、一度立ち止まる。

「あの、ご迷惑おかけしました」

 頭を下げつつ、次いで「ありがとうございました」とお礼も合わせる。

 すると氷室が幸の腰辺りを見て、目を眇めた。

「大丈夫なのか」

「あ、はい。お陰さまで」

「……ふうん」

 何かを言いたげにしつつ、氷室は幸を真っ直ぐに見つめてきた。

 二の句が継ぐかと思いきや、口は閉ざされたままだ。幸は完全に聞く態勢で待ちの姿勢に入ってしまった為、目を逸らすタイミングをうっかり失った。

 そういえば、こんなに真正面から目を合わせたのは久しぶりだ。

 涼月への出張で怪奇現象に遭遇したかと思えば氷室の怒鳴り声を聞き、かと思えばいきなり氷室の実家に寄ることになってまさかの座敷わらし談義。ついでとばかりに氷室家の特殊技能の何たるかまで知り、不思議に思ったのも束の間、万能ではないことを諭されて落ち込んだ。それはどう見ても筋違いだったのに、氷室は何も言わず面倒を見てくれた。

 ここから先は思い出すだけで顔から火が出そうだ。

 恥ずかしさのあまり悶絶する。

 結局それが元で氷室と碌に目を合わせられないまま、そうこうする内に氷室の妹である檀さんが事務所に来て、そこでまた氷室がバツ二であるという衝撃の事実が発覚した。衝撃から立ち直る余裕もなく雄三が危篤状態に陥り、破れかぶれで幸が高らかに結婚宣言をかまし、雄三が奇跡の持ち直しを経て今ここ、なのである。

 これだけの出来事が、僅か二週間足らずで起こったとは今もって信じ難い。

 怒涛すぎる二週間だった。

「……」

「……」

 脳裏で漫然と幸が振り返っている最中にも、氷室は何も言わなかった。

 目が合ったまま静止すること十秒。

 今言わずしていつ言うのか。もう一人の自分がそれを言い終わるか否かの内に、幸は口を開いていた。

「あの!」

 勢いに押されたか、氷室が目を僅かに瞠る。

「十年間ただ働きでも構いません! 一生のお願いが!」

「お前は小学生か。藪から棒に血相変えて、何事だ」

 言葉のチョイスが陳腐すぎた所為か、多少の小言が入った。しかし一応聞いてくれる体勢を作ってくれているあたり、らしいと言えばらしい。

 幸は所長机に詰め寄った。

 氷室は座っているので、目線は幸の方が高い。位置関係の勢いを利用して、幸は上から被せるようにぶん投げた。

「婚約者になってください!」

「は?」

「で、結婚してください!」

「……は?」

「でも婚姻届はいりませんので」

 言い切った後で、力の抜けた笑いが幸の口から洩れた。

 途中まで最高潮に怪訝な顔をしていた氷室だったが、支離滅裂なことを口走る幸を見て思うところがあったのか、ふと真面目な顔を寄越してきた。

「落ちつけ。とりあえず最初から理由を言ってみろ」

「……聞いてくれるんですか? 門前払いじゃなくて?」

「むしろ一生に一度の頼みを門前払いされて、はいそうですかと引き下がるのかお前は」

「あ、いえ、えーと、そうなったら俄然食い下がるつもりはあったんですけど、一発オーケーが出るとはまさか思ってなかったので、ちょっとびっくりしたといいますか」

「受けるかどうかは内容と理由次第だぞ」

 思いっきり釘を刺されたが、馬鹿も休み休み言えと一蹴されなかったことが幸には驚きだった。


*     *     *     *


 幸はそこで洗いざらい全てを打ち明けた。

 父親が病に侵されていること、そうであるから休学しているしお金も必要であること。

 完治は望むべくもなく、むしろほとんど時間は残されていないこと。

 そんな父親のおそらく最後になるであろう願いが、「娘の花嫁姿を見たい」ということ。

 

 つっかえながらもどうにか幸が説明し終わった時、氷室からは沈痛なため息が漏れた。

 長い指がこめかみに添えられる。

「成程、そういう訳か」

 氷室がものすごく渋い顔で言い放った。

 そして、

「親父さん危なかったのか」

 気遣わしげに訊ねてくる。

 聞かれたことに幸は首を傾げた。あまり長くは保ちそうにないとは言ったが、危篤になったことは敢えて伏せたのだ。あまりにも生々しくて、口に出すのが怖かったから。

「なんで分かるんですか……? 私、言ってないのに」

 と、氷室がとある一点を指し示した。幸の左側、腰より低い位置だ。

「入ってくるなり大騒ぎだ」

「……座敷わらしが?」

「そう。これだけはっきり見えるから、何かあったなとは思ったが」

 そういえば特殊なものを見る為に、氷室は無条件で見えるわけではないと言っていた。氷室自身の体調と、相手の強さに左右されるものだと。今日ははっきり認識できたことを鑑みると、余程座敷わらしがアピールをしたようだ。

 やはり規格外なのか。

 多少どころか十二分にアクティブすぎる。

 つらつらと幸が考えていると、氷室が椅子の背もたれに身体を預けた。そしてそのまま天井を見上げる。

「状況は分かった」

「何とかお願いできませんか」

「まあ、力になってやらんこともない。が、……それは一時しのぎにしかならんぞ?」

「一時しのぎでもいいんです! だってお父さん、私が結婚するって言ったら目を覚ましたんです! その後にちょっとだけ持ち直して、今は私が相手を紹介するのをすごく楽しみにしてて」

「ってお前、既に話を動かしてるのか!」

 氷室が目を見開いて前のめりになった。

 それだけ焦った顔は、初めて見たかもしれない。

「はあ、あの、すいません……切羽詰まってたので、つい」

「鈍くさいと思ってたのに、意外だな」

 呆れた声を出しながら氷室が前髪をかき上げた。


 少しだけ考える素振りを見せた後、氷室がおもむろに立ち上がった。途端に目線の高低が逆になる。

「本当にいいのか」

 高い位置からそっと視線が下ろされる。

「はい」

 斜め前の端正な顔を見上げながら、幸は真剣に頷いた。

「お父さんの希望、どうしても叶えてあげたいんです」

「それは分かった。後はお前の気持ちがそれでいいのかと聞いている」

「勿論です。嘘を吐くことになりますけど、でも最後まで黙っていれば」

「そうじゃない」

「……え?」

「真似事とはいえ、隣に立つのが俺でいいのかという意味だ」

「俺で、って……だって起業してて身長も高くて顔もか、格好いい、じゃないですか。氷室さん以上の人がいるとはとても思えませんが」

「……そうじゃなくて」

 そこで氷室が言い淀んだ。

 一体この人は何をそんなに気にしているのか。幸の気持ちに迷いはないのだ。純粋に疑問を抱きつつ幸が待っていると、言い辛そうに氷室が続けた。

「他に相手がいるのであれば、俺がわざわざ隣に立つ必要はない。その役は譲るとして、それ以外の部分を俺が面倒見るのはやぶさかじゃない。真似事とはいえ、女性にはそれなりに思うところがあるだろう」

「結婚式への憧れとか、そういうのですか?」

「有り体に言えばそうだ。この前、檀が言ったことを聞いてただろう。離婚歴が二回もある男なんぞ碌でもない」

 だから他に候補がいるならできればそちらを選んだほうがいい、繰り返すが、横に並ぶ以外のあらゆる面での協力は惜しまない。そう氷室は言った。

 幸の胸が詰まった。痛いと思った次の瞬間、幸はもう口を開いていた。


「何でそんなこと言うんですか。碌でもないかどうかは私がこれから氷室さんと付き合っていく中で決めることであって、過去の氷室さんが何をしてたか、どうだったかは関係ないはずです」


 本当に碌でなしだったとしたら、何故そんなに優しいのか。心の底からの想いは大きすぎて、とうとう声にはならなかった。

 その代わり、「付き合っていくって、恋人とかそういう恐れ多い話じゃなくて、人としてですね!」というどうでもいいエクスキューズが幸の口から飛び出した。

 氷室が小さく苦笑する。

「……そういうものか?」

「そうです」

 幸が言い切ると、氷室がもう一つ頬を緩めた。

「そうか」

「です。それにどうせ彼氏とかいませんし!」

「……そうか」

 何故か最後は多少残念そうな目で見られたが、幸は敢えて黙殺した。

 そうであればやむなしということで、とうとう氷室は頷いてくれたのだった。


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