第24話 偽装結婚への決意



 主治医に呼ばれて説明を受けていた恵美子が戻ってきた。時間にして十五分ほどだったが、顔に疲れが滲んでいる。

 雄三は未だに目を覚ましていない。既に周囲は暗くなってきており、面会者も一人帰り二人帰り、随分と減った。夜の気配は濃厚だ。日中のざわめきがあればそうでもないが、こうして徐々に静けさが増す病院にいると否応にも心細さが募る。

「先生、何て?」

 いてもたってもいられず、幸は尋ねた。

「この前の風邪が悪かったんですって」

 恵美子が眉を八の字にする。

「熱も出してたし、先生の予想以上に体力を消耗してたみたいなの。見た目は回復したように見えても、少し無理をするとがくっと来ることも珍しくないって」

「……昨日はちょっと元気になったかな、って思ったけど。そうじゃなかったんだね」

 眠り続ける雄三の横顔を見つつ、幸は呟いた。

 顔色が随分と良くなって一安心したのは早計だったのだ。健康な人間ならばその見立てで良かっただろう。だが雄三は不治の病に侵され、既に半年もの間、闘病生活を続けている。体力は確実に減っているはずなのだ。

「ねえお母さん。珍しくないってことはさ、どうなの?」

 単刀直入に幸は重ねた。

 もう子供じゃない。自分の父親が今、崖っぷちにおそらくいるであろうことは痛いほど理解している。恵美子が主治医に呼ばれたのも、現状を説明される為だったはずだ。

 家族なのだ。こんな状況になって尚、目を逸らすことはできない。

 幸が恵美子を見ると、恵美子もまた曇る表情を隠しはしなかった。

「今は何とも言えないみたい。二、三日で体力が戻って目を覚ますこともあるし、このまま眠る可能性もあるんだって。お父さんの体力次第らしいわ」

「体力……」

「ただ、もう一度発作が出るとあんまり良くないみたいね」

 恵美子が続けた。

 持ち直す人は、発作をぶり返さずに眠り続けて体力の回復ができることが多く、逆に息を引き取る場合は発作を繰り返すことで、体力が徐々に奪われてしまうのが起因となるらしい。意識が回復すればもう少し打てる手もあるらしいが、昏睡状態の今、後は患者本人の体力――つまり生命力に頼る部分が大きいのだという。

 恵美子の言葉はオブラートに包まれているが、本当はもっと直接的に明示されたのだろう。「覚悟はしておいて下さい」とか、「回復する保証はできません」とか。そうでなければ、おっとりとしてはいるが本来気丈な恵美子の目が赤くはならないはずだ。

 この部屋に戻る前に、どこかで声を押し殺して泣いてきたのだろう。

 決して幸にはそんな姿を見せまいとして。

「お母さんの所為じゃないよ」

「幸?」

「昨日、八時まで残ってたからこうなったわけじゃないと思う、って。そう言ったの」

 この母のことだ。絶対に、彼女自身のことを深く責めている。

 折角風邪が治りかけていたのに、記念日だからという理由で雄三を付き合わせ、無理をさせた。その所為で体力を消耗して、発作を起こしてしまった。きっとそんな風に彼女は考えている。

「だから大丈夫だよ」

 幸は自分が握っていたハンカチを恵美子に差し出した。

 俯いていた視界にそれが入って驚いたのか、恵美子が顔を上げる。その拍子に涙が頬を伝ったので、幸はそのまま恵美子の頬と目尻をそっと拭った。

 心細いだろうなと思う。

 二十年以上も連れ添ってきた相手が今、手の届かない場所に行ってしまうかもしれないのだ。自分を置いて。

 幸にももちろん沢山の想いがある。生まれてから今日の日まで、二十一年分だ。けれど恵美子はそれ以上の長さをこの人と生きてきた。その手が温かいこと、声が聞こえること、些細なことであればあるほど、それがなくなるとはとても思えないのではないだろうか。

「大丈夫」

 もう一度幸は声をかけた。

 祈るような気持ちで時計を見ると午後六時、まだ宵の口だった。


*     *     *     *


 動きがあったのは深夜だった。

 雄三に繋がれていたモニターがけたたましい警告音を上げた。見れば、心拍数がかなりの数値に跳ねあがっている。顔も苦しげに歪められ、胸は明らかに激しく上下して呼吸が乱れていることが一目瞭然だ。壁にもたれかかってうたた寝をしていた恵美子が、身体を揺らして起きた。

 幸が慌てて看護師を呼びに行こうと立ち上がると、呼びに行くまでもなく廊下を挟んで向かいにあるナースステーションから一人の看護師が処置室に駆け込んできた。おそらく恵美子より年上であろう年配の看護師は、無駄の無い動きでモニターと雄三の様子を確認するが早いか、「先生を呼んできます」と端的に言い残して足早に出ていった。

「あなた、」

 張り詰めた恵美子の声が部屋に響く。恵美子は枕元に寄って、雄三の手を強く握っていた。

 心電図モニターは忙しない。血圧が二百に届こうかという数値を叩き出している。常人のおよそ二倍だ。それだけでも、さぞ苦しかろうことが伝わってくる。

 と、廊下を足早に駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 幸が入り口を見ると、夜勤らしい医師が先頭で飛び込んできた。後ろに看護師が二人ついてきている。恵美子はそれを見て、邪魔にならないようにとすぐに壁側に移動した。


 医師の背中を見守るその十分ほどが、幸には一時間にも感じられた。

 振り返った医師が、看護師二人に何事かの指示を与える。彼女達は受けてすぐに部屋を出ていった。おそらく輸液などの準備に取り掛かるのだろう。彼女達がいなくなったのを見計らってから、医師が恵美子に向き直った。

 宣告されたのは「非常に危険な状態です」という趣旨だった。

 素人である幸や恵美子に分かりやすいようにと、極力ゆっくりと丁寧に話してくれようとしているのが分かる。彼は決して早口にはならなかったが、しかし声は緊迫していた。その雰囲気だけで雄三の状態がどれだけ逼迫しているかが知れた。

 曰く、悪いことに発作状態に陥ってしまったこと。

 曰く、意識の戻らないままでこれが続けば、遠からず自発呼吸は失われてしまうこと。

 曰く、そうなると後は人工呼吸器に頼るしかなく、しかしそうすれば意識が回復する可能性がほぼ潰えてしまうこと。

 それらが簡潔に説明された。


 幸は何も言えなかった。言葉が見つからなかった。それは恵美子も同じようで、医師を真っ直ぐに見つめながらも、ただ首を二度三度力無く横に振っている。

 縋る視線には慣れているのだろう、壮年の医師は恵美子に言い含めた。

 呼びかけて下さい、と。

 意識はなくとも聴力は残っているのだという。事実、家族の呼びかけに応えるように意識を回復したり、容体が落ち着く患者は一定数いるらしい。

 そして医師は「この一時間が勝負だ」とも言った。体力の消耗が激しすぎて、いつ自発呼吸が失われてもおかしくない。だからそれ以上は待てないのだという。

 そこまでを聞いて、幸は雄三の傍に歩み寄った。一分一秒を争うのなら、もう迷っている暇はない。

「お父さん!」

 手を握り、耳元で叫ぶ。

「寝てる場合じゃないよ、起きて! お父さん!」

 返事はない。

 手が白くなるほど力を込めて握るが、まったく反応がない。その一方で、相変わらず胸は激しく上下している。

 恵美子が横にくるが、何を言うこともできずハンカチで口元を覆っている。元々おっとりした気性の人だ、あまりの衝撃に喉が詰まって金縛り状態なのだ。

 そうであれば三人しかいない家族、雄三を呼び戻せるのは幸しかいない。幸が声を出して語りかけるより他ない。


 どうしたらいい。

 何を言えば雄三は目を覚ましてくれる。

 どう呼びかけたら戻ってこようと思ってくれる。


 人生で一番、考え抜いた瞬間だった。大学受験の時でさえ、これほど真剣には考えなかったと思う。

 そして幸は一つの可能性に行き当たる。一昨日、他でもない雄三自身が言っていたではないか。娘である幸の花嫁姿が見たい、と。

 多分叶うことはないと理解しながら尚、それでも口に出さずにはいられなかった父の願い。

 病に倒れてからというもの、厳しい闘病生活にもかかわらず雄三はそれを受け入れている節があった。最初こそ戸惑っていた風も感じられたが、体力が落ちてきた最近は穏やかな顔をすることが多くなった。まるで達観したようだった。やりたいことや心残りなどを口にすることはなかった。強いていえば好きな本を沢山読みたいというのが希望で、幸と恵美子はそれに応えるべくしょっちゅう新しい本を図書館から借りたり、新書を買ったりしていた。

 そんな父が、初めて口にした希望らしい希望。

 つまりそれは、心残りがそれほどに大きいということではないのか。

 その瞬間、幸は言葉を斟酌する余裕もなく叫んだ。

「お父さん! 私、結婚したい人がいるんだよ! 今まで黙ってたけど!!」

 耳元であらん限りにがなりたてる。隣で突っ立っていた恵美子が、びっくりした顔で幸に顔を向けてきた。

 しかし、今は恵美子に説明している暇はない。それどころじゃない。今、確かに、手が握り返されたのだ。

「ほんとは近い内に挨拶に来るつもりだったんだから、起きてくれなきゃ困る!」

「……う」

 雄三の喉から、苦しげではあるが確かに声が漏れた。

 思わず幸と恵美子は顔を見合わせる。医師の言っていたことは本当だったのだ。確かに耳は聞こえているらしい。

 もう一息だ。

 あと一言、なにがしかを呼びかければ間に合いそうな予感がする。

「娘の結婚式も見てくれないとか、お父さんとしてあり得ないでしょ!?」

 完全に破れかぶれで幸は絶叫した。


*     *     *     *


 その後、およそ五分ほど雄三は昏睡と覚醒の狭間を行き来するように、唸ったり、顔を歪めたりを繰り返した。幸はその都度「娘の結婚」というキーワードを随所に散りばめて、雄三の意識がこちらに向かうべく画策した。

 結果。

 なんと雄三は意識を取り戻し、見事死の淵から舞い戻ってきたのである。

 幸と恵美子は思わず互いに抱き合った。「お父さん、分かる?」と問えば、掠れた声ながら「ああ」とちゃんと返事がある。そんな些細なことさえ奇跡のように思えた。

 感激している幸と恵美子を余所に、医師と看護師はてきぱきと処置を進めている。幾つか医師が質問を投げかけた後は一段落したらしく、幸と恵美子は雄三の枕元に寄ることが許された。

 恵美子はひたすらハンカチで涙をずっと拭っている。それを、疲れた顔をしつつも優しい目で雄三が黙って見つめていた。

「お父さん……心配したよ、ほんと……」

 気を張り詰め過ぎたせいか、幸は特に涙は出なかった。

 それよりも安心したという気持ちの方が大きくて、頬が緩む。

「幸に呼ばれたような気がしたんだよ」

「え」

「いやあ……臨死体験てやつだったんだろうなあ、多分」

 ははは、と雄三は力無くも笑うが、聞かされるこっちは気が気じゃない。

「ま、まさか三途の川とかいうやつ?」

「花畑が綺麗だったよ」

「ちょっ、おとーさん!? 娘が言うのもアレだけど、よくそこまで行って戻ってこれたね!?」

 今まさに死にかけた人間がそんなあっさり言っていい内容じゃない。通常は片道切符の死出の道、花が綺麗とかそういう問題じゃないでしょと突っ込みたくなる。我が父ながら大らかすぎる。

 流石に幸が呆れた顔をしてみせると、雄三がため息を吐いた。

「娘の結婚式に出ないと、父親としてあり得ないんだろう?」

 幸は完全に度肝を抜かれた。

「そう言われたら、やっぱり三途の川なんて渡ってる場合じゃないぞ。父親として」

「そ、そっか……三途の川まで私の声、届いたんだ……」

 幸の認識としてはそういう類の特殊技能は持ち合わせていないはずなのだが、これも火事場のクソ力というやつか。

 確かにあの瞬間は「もうどうにでもなれ」の極致だった。後先は完全に考慮の対象外でもあった。

 両親は互いに見つめ合いつつ、うんうん、と互いに頷き合っている。

「びっくりしたけど、良かったわ。あなたは目を覚ましてくれたし、この上幸が結婚するなんて」

 恵美子は涙を拭い鼻水を拭い忙しい。手に握られているハンカチは、多分いい加減使い物になっていなさそうだが。

「そうだな。嬉しいなあ」

「幸ったら、どうして一昨日言ってくれなかったの?」

 特段責める風ではないが、恵美子が「んもう」の顔をしている。

 確かに言われてみれば恵美子の指摘はその通りで、あの日雄三が「花嫁姿を見たい」と口に出したのだから、そのタイミングで言っておいて不思議ではない、というかむしろ言っておくべきだったのだ。

 幸は五秒、考えた。

 そして。

「お、驚かせようと思って」

 言いながら、心の中でもう一人の幸が「そんなわけあるか」と盛大に突っ込んできた。

 ところが喜びに沸いている両親はその不自然さにはまったく気が付きもしない様子で、ただひたすらに「良かった良かった」と手に手を取って笑顔を交わしている。

 部屋の入り口では医師と看護師が微笑ましく佐藤家の様子を眺めている。当たり前だ。危篤状態から奇跡的に持ち直した重病患者と、近々結婚を控える若い娘。見守る視線が必然温かくなることに、なんらの疑いもない。


 駄目だ、こんな状況で白状できるわけがない。

 破れかぶれで叫んだらまぐれ当たりのクリーンヒットでしたなんて、まさか今更そんなこと。


 幸は額に滲む汗を手の甲で拭きつつ、これから先どうしたものかと思考をフル回転させた。

 父の容体が持ち直した喜びは早々に吹っ飛んでいた。


*     *     *     *


 医師は去り際、恵美子と幸を廊下の外に誘った。

 部屋の扉を閉めて声が入らないようにしつつ、「差し出がましいようですが」と一つ断りを入れて医師が話した要旨は、結婚式の日取りを早めてはどうか、という提案だった。

 幸は膝が折れそうになったが、そこは気合で堪えた。

 当然医師は幸の内心など知る由もなく、更に続けた。まさに今危機を脱したのを見ても分かる通り、真に望むことを目標とすれば生きる力が大きくみなぎるのだという。

「今回は持ち直しましたが、いつまた急変するか予断を許しません」

 医師の指摘はもっともだった。

 確かに昏睡状態からは回復したが、雄三の抱える病巣が無くなったわけではないのだ。当然、日にちが経てば経つほど病気は進行するし、雄三の体力は落ち続けていく。

「ご家族の御事情を勘案せずに、医師としての視点だけで言わせて頂きますと、一ヶ月以内……今月中が理想です」

 今は六月に入ったばかりとはいえ、普通ならばあり得ない強行軍だ。しかしそれだけ状況が切迫しているということでもある。

 今回の件で十二分に分かった。

 思った以上に雄三に残された時間は少なくなっている。



 ああ。

 本来は援護射撃となるはずの言葉に、幸は完全に退路を断たれた格好となった。ここまできたら四の五の言っていられる状況でもない。どうしようも何もやるしかないのだ。

 どうしても自分の花嫁姿を見せてあげたい。何よりその気持ちに嘘はなかった。 

 幸の決意は固まった。



 残された道は、偽装結婚しかない。


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