第23話 不意に切られた期限



 幸が頭の痛みを堪えている内に時間はあっという間に過ぎ去った。

 檀さんが「帰る」と立ち上がった頃には夕方の四時半を回っていて、湯呑みの後片付けをしたらもう帰って良いと氷室からのお許しが出た。

 いつもより少し早い時間に相談所を後にする。夕方とはいえ随分と日が長くなっていて、この時間でも日中とさほど変わらない明るさだ。しかし明るくはあっても六月に入って梅雨入り宣言もされ、このところは曇天が続いている。今日も空の機嫌は芳しくなく、幸は雨に降られる前に寄り道を済ませようと歩を速めた。


*     *     *     *


「あれ、お母さん来てたの」

 幸が雄三の病室に到着すると、そこには恵美子の姿があった。

 この時間にいるとは珍しい。どちらかといえば恵美子は日中の見舞いが主で、夕方から夜にかけては幸が見舞う時間帯なのだ。入れ替わるように帰った後、同じ時間に恵美子は家で晩御飯を作ってくれている。

 幸が声をかけると、入り口に背を向けていた恵美子が振り返った。

「あら、お帰り。少し早かったのね」

 もうちょっと遅いと思ってたわ、などと続けつついつも通りの笑顔で恵美子が言う。病院で「お帰り」と言われるのも微妙な気分だが、家族三人が揃っていればそこが家のような気にもなるだろう。特に突っ込まずに幸が「ただいま」と応えると、恵美子が一つ奥のパイプ椅子に移動した。

 ほんのりと温もりをお尻に感じつつ、幸もまた恵美子に倣って腰かける。

「この時間に珍しいね」

 幸が首を傾げると、

「うふふ」

 大層上機嫌に恵美子が笑った。

 何だどうした。そう訝って幸は雄三に目をやるも、元から穏やかな父はご機嫌な妻を見て目を細めている。仕方なし、幸は自分で尋ねることにした。

「何かいい事でもあったの?」

「今日は結婚記念日なのよー」

「結婚記念日? お父さんとお母さんの?」

「それ以外に誰がいるのかしら」

 ははあ、なるほど。幸は母の歌うような上機嫌さに納得がいった。

 今年四十三歳になるとは思えないほど、恵美子は未だに良いとこのお嬢さん然としている。がつがつせずおっとりした気性が理由の八割を占めるだろうが、それにしてもこの素直な喜びようときたら。十八かそこらの娘に見えてくるから不思議なものだ。

 冷静に考えてみれば、六月ということはしっかりジューンブライドだったらしい。

 女性であればそれなりに誰もが夢見る、幸せな花嫁だ。

 この母のことだから、結婚式を本当に心待ちにしていたことだろうと思う。恵美子は雄三のことが好きで好きでどうしようもなくて結婚したと折に触れ言っている。やっと結ばれたその日の思い出は、恵美子の中では未来永劫色褪せなさそうだ。

「記念日だから、今日は八時までいようと思って」

 恵美子が言うのは面会終了時間だ。

「いーんじゃない? 私、先に帰ろうか」

「何言ってるの、幸。あなたもここにいなきゃ駄目に決まってるでしょう」

「え、そう?」

「そうよ」

 夫婦水入らずで、と幸は思ったが、それはあっさり恵美子に却下されてしまった。

 ここしばらく雄三も調子を崩していたが、今日は体調が落ちついているようだ。昨日までは蒼白かった顔が随分と明るく見える。或いは記念日という特別さが、元気の源になったのかもしれない。何にせよ、幸は安心した。

 


 ひとしきり両親の結婚思い出話が主に恵美子によって語られた後、雄三がぽつりと言った。

「幸ももう二十一か」

「うん」

 幸の誕生日は四月二日だ。同級生の中で、一番早い誕生日なのである。

「お母さんが結婚した年を越えたのか。早いもんだなあ」

「えーと、お母さんって二十歳で結婚したんだっけ?」

「そうよー」

 やはり嬉しそうに恵美子が応える。めろめろだ。

 計算すると、結婚して二十三年。それでこれだけの表情を憚らずにできるあたり、我が母ながらすごいと言わざるを得ない。

「お母さんて昔からこうだったの?」

「……そうだなあ」

 雄三が柔らかく笑った。

「結婚式当日が、一番凄かったかな」

 父いわく、恵美子は式が始まるまでは満面の笑みだったという。当時から流行っていた教会式だったそうだが、牧師の説教から指輪交換までは何の問題もなかった。本当にただただ嬉しそうだった。頬はバラ色に染まって、純白の衣装との対比がそれはそれは可憐だったらしい。しかし、最後の誓いのキスをした途端、恵美子は泣いて泣いて手がつけられなかった、と。

 それを聞いて幸が当の恵美子に視線を向けると、顔を真っ赤にしていた。

 乙女か。

 我が母ながら、よわい四十を越えて尚その仕草が絵になるなど、俄かには信じ難い。そんな状態で「だってあんまり嬉しかったから」とこれまた素直に白状するのが凄い。

「そうか。あれからもう二十三年も経ったのか。幸も大きくなったなあ」

 それはこの上もなく情感の籠った声だった。

 雄三がこんなに感慨深げな声を出すのを、幸は聞いたことがない。思わず顔を上げると、白いベッドの上に座る父と、その横に寄り添う母が目に飛び込んできた。

 真っ直ぐに雄三は幸を見ている。

 その手前、恵美子は彼女の左手にそっと視線を落としている。指に光るのは、二十三年間肌身離さず身につけ続けた結婚指輪だ。


「見たいなあ。幸の花嫁姿」


「綺麗だろうなあ、見たいなあ」


 鋭い刃物で胸を抉られたようだった。

 声に言葉に父の切望が滲んでいる。けれど父の表情は穏やかそのものだ。記念の写真を撮る時のような、控え目ながらも笑っているのが分かるような。絞り出すような言葉だったのに、涙の一つも零れてはいない。

 強要されているのではない。

 早く結婚しろとか、そういうことを父は言いたいのではない。

 きっと叶わないと知りながら尚口に出した願い。もう少しだけ長い寿命でさえあったのなら、多分簡単に叶えられたであろうささやかすぎる願い。

 その胸の内は、幸には量りしれなかった。

 半年前の幸なら言えた。親馬鹿でしょう、と。こんな普通の娘を掴まえて綺麗だなんてどう見ても欲目だし、そもそも相手もまだいないのに気が早すぎる、と。

 だが今日は言えなかった。どうしても言えなかった。

 と、恵美子が指輪から目を離し、雄三に顔を向けた。


「急がなくてもその内見れるわよ」


「あなたは泣かないでね。私はきっと泣いてしまうから、両親がそんなだと相手の親御さんにびっくりされるわ」


 まるでその未来は必ずあるのだとでも言うように。

 恵美子はいつも通りの声と笑顔で、そう言った。それを受けた雄三が「そうだな」と相槌を打って、困ったように笑った。「君はもう少し泣くのを我慢した方がいい」と付け加えもして。

 そしてまた二人で笑い合う。

 こんな生活になる前と全く変わらないやり取りだった。


 そのまま面会終了時間の八時まで、家族三人で他愛のない話をずっとした。

 雄三は変わらず穏やかで、恵美子は変わらず朗らかだった。


*     *     *     *


 真夜中の静けさを切り裂くように、電話の音が鳴り響いた。 

 眠りが浅かったのか、耳元で大きな声を出されたように驚き、幸は跳ね起きた。急に起きたせいか心臓がどきどきとうるさい。そうする間にも、大きな呼び出し音が二度鳴った。

 暗闇の中、目を凝らして枕元を見る。スマホは光っていない。ということは、鳴っているのは家の固定電話だ。

 こんな時間に?

 カーテン越しの外は真っ暗だ。携帯に手を伸ばすと、時刻は午前二時半だった。

 いたずら電話だろうか。だがこうして幸が逡巡している間にも、三度、四度と呼び出し音は重ねられていく。いたずらとはとても思えず、確固たる意志を持って電話は鳴り響いているような気がする。

 何を伝えようとしているのだろう。

 幸の背中に冷たい汗が滲む。しかし階下の電話は決められた間隔でずっと家人を呼び続ける。意を決して、幸は部屋を出た。

 廊下に出ると、階下から灯りが漏れていた。そのまま階段の中腹まで降りると呼び出し音が途中で途切れ、恵美子が応対に出る声が聞こえてきた。

 一瞬幸は立ち止まったが、ここでは恵美子が何を言っているかまでは聞き取れない。

 音を立てないように気を配りながら下にリビングに行くと、電話を握りしめた恵美子が、固い声で「はい、はい」と断続的な応答をしているところだった。

 それから一分ほど経っただろうか。

 礼を言いながら恵美子が丁寧に受話器を置いて、ソファに座っていた幸に向き直った。

「幸、すぐに着替えなさい。病院に行くわ」

 理由は訊けなかった。

 訊くまでもなかった。

 こんな時間に連絡があった。恵美子が蒼褪めながらも険しい顔をしている。朝までも待てず、向かう先は病院。一刻の猶予もないということだ。

 真夜中。

 着替えに袖を通すと幸の肌が粟立った。初夏を迎えたというのに、ぞっとするほど冷たかった。


*     *     *     *


 幸と恵美子が病院に着いた時、雄三は病室にいなかった。

 ナースステーションの横にある個別の処置室に搬入されており、医師と看護師が入れ替わり立ち替わり目まぐるしく雄三の周りを取り囲んでいた。

 夜半にかけて雄三の容体は急変した。

 電話が鳴る少し前に、一度心肺停止に陥ったらしい。ナースコールがあり看護師が対応に出たところ、その時点で意識は混濁していたという。

 病院スタッフの素早く的確な処置のお陰で脈はどうにか取り戻せた。

 だが拍動は弱く、今は昏睡状態で話をすることなど到底できない。予断を許さない状況であり、幸と恵美子は一睡もせず僅かな変化も見逃すまいと、雄三の傍で夜を明かした。


 午前七時半。

 雄三の意識は戻らないままだが、呼吸と脈拍は夜中よりは安定の兆しを見せていた。この分ならば、ほんの五分ほど開けても大丈夫そうだ。幸は恵美子に断りを入れてから、スマホ片手に病院の中にある電話コーナーへと足を運んだ。

 まだ面会時間前の為か、電話コーナーに隣接する談話室は人の姿がまばらだ。三人ほどが思い思いの場所に腰かけているが、皆寝間着を着ていて入院患者であることが知れる。

 彼らを横目で見ながら、幸はガラスで仕切られた小部屋の一つに身体を滑り込ませた。

 今はほとんど見かけなくなったが、そこは電話ボックスのような空間で、有難いことに椅子と机が置いてある。椅子を引いて腰かけつつ、幸は電話帳を検索した。

 は行をめくる。

 程なくして、「氷室 稜」の名前が画面に出てきた。

「……」

 ボタンを押そうとした指が止まった。


 何と言えばいいのだろう。


 氷室には、家族が――父が重病を患って入院していることを伝えていない。かといって、このタイミングでしかも電話で簡単に済ませるような内容ではない。説明するのなら、しっかりと自分の口で直接氷室に言うべきだ。

 それだけの面倒を見てもらっている。

 どんな顔をするだろうか。雇い入れの時に言わなかったことを怒られるだろうか。そういえば、現代医学でも手の施しようがない病は氷室にもどうしようもないということ、勝手に詰め寄った挙句に勝手に落胆した失礼を、まだ詫びてもいない。

 中途半端に言えば、逆に気を遣わせるだけかもしれない。

 何もかもが終わってから全てを言った方が良いかもしれない。

 優しい氷室のことだ、幸が沈んでいればきっとその手を差し伸べようとしてくれるに違いない。想像するだにありそうで、正直に言えば嬉しくもあり面映ゆくもあり、また何より申し訳ない。

 思考は堂々巡りだ。

 そうこうしている内に、十分ほども時間が経っていた。いい加減電話をかけなければ無断欠勤になってしまう。幸は覚悟を決めて、呼び出しボタンを押した。

 受話器を耳に当てる。

 沈黙が数秒。

 ややあってコールが始まり、五回目で音が切り替わった。

『……はい』

「あ、佐藤です、朝早くからすみません。今、大丈夫ですか?」

『ああ。どうした』

「……ちょっと体調崩したみたいで、申し訳ないんですがお休みさせて頂けないかと」

『それは構わないが……風邪か?』

「えっと、……はい、多分。今日、病院に行こうと思ってます」

『そうか。今日と言わず明日も休め』

「すみません、ご迷惑おかけしまして」

『様子を見て無理そうなら今週一杯休んでいいぞ』

「え、でもさすがにそれは」

『いい。どうせ予約は入ってない』

「でも」

『俺にうつしたら給料五割カットだ。肝に銘じておけ』

「ご……と、とりあえず明日まで様子見ます。また連絡します」

『ああ。大事にな』

「……すみません、ありがとうございます。それじゃ、……失礼します」

 つっかえながらの会話だったので、電話は二分と少しかかった。

 朝の早いこの時間帯、予想通り氷室の声は気だるそうだった。けれど予想通り、途中は辛辣ながらもやはり氷室は優しかった。

 幸は唇を噛み締めた。

 嘘を吐いた。疑いもせず心配してくれると分かっている人に、嘘を吐こうと思ってその通り嘘を吐いた。そんなに優しいことばかり言わないで下さいと言いたかったが、言えるはずもなかった。


 結局逃げるように言い訳を並べ立てた状態で、幸は今日も本当のことを言えなかった。


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