第22話 傷付く資格を有していないが為に
相談所が平常運行に戻って一週間が経った。
平常ということはつまり、いつも通り閑古鳥が鳴いている。例によって幸は幸でいつも通り掃除をしたりお茶を淹れたりご飯を作ったり、さながら専業主婦のように毎日をこなしていた。
尚、表面上は平静を装っているが、内心はその限りではない。
うっかりすると、一週間前の夜が脳裏をよぎる。あの時は全っ然、毛ほども恥ずかしいとは感じなかった。それが眠気のせいなのか真夜中独特の雰囲気のせいなのかは分からないが、氷室に背中から抱かれて眠るのが一番自然なことのように思えた。
それが今はどうだ。
真正面から氷室の目を見られないほど落ち付かない。目が合おうものなら顔から火が出そうだ。
その気になれば、いや、その気にならずとも相手には困らないであろう氷室の心は、どうせさざ波ほども乱れていないのだろう。現にこの雇い主は今日も今日とて平気のへいさで本を読んでいる。
横顔をこっそり窺えば、まあこんな相手が慰めてくれただけ一生に一度の運を使い果たしたわと妙なところで納得する自分がいる。
相手はどうせ一時の気の迷いというか、幸ではなくとも誰に対しても同じ優しさを見せただろう。逆に幸の方も、自分だから氷室がそうしてくれたと勘違いできるほど自惚れてはいない。
分かっている。
分かっているのだが心の中でそれを自分に言い含める度、微妙に胸が痛くなるのは何故なのか。再三再四「特別ではない」と呪文のように呟きながら、つい氷室の一挙手一投足に過剰なまでに反応してしまう。そんな残念な自分に対して痛むのか。多分、そうだ。
そんなこんなの問答を胸の内で忙しく繰り返し、幸はこの一週間乱れっぱなしなのである。
もう一つ大きな気掛かりもある。
父である雄三の調子が芳しくない。出張から戻った翌日に見舞いに行ったのだが、熱を出したとかで深く眠ったままだった。三時間ほどは傍にいたが、結局話は出来ずじまいだった。
大きく二つを悩むが為にどんな顔をしたらいいものか。
幸が今日もまごついていると、嵐のようにその人はやってきた。
* * * *
いきなりライオン付き扉が音を立てて開かれた。午後二時を少し回ったところで、気だるい空気が事務所内に流れていた時のことである。
急に立てられた開け閉ての音、そして外から入りこんできた風の流れに、幸も氷室も肩が跳ねた。
「お邪魔します」
声はやや高め、澄んでいてとても聞き良い。
入り口で仁王立ちするその人は、モデルと見紛うほどに背が高かった。確実に八頭身だ。艶やかな黒髪は烏の濡れ羽色で、肩より少し上で切り詰められている。絹の髪に縁取られた顔は小顔な一方、目は大きく鼻立ちはすっきり、どこからどう見ても正当派の美人だ。来ている服が和装であれば、それは見事だったろうと軽く想像できるほど。いや、洋服でも十二分に際立ってはいるのだが。
抜けるような白い肌が、黒髪との対比で美しい。若い女性は軒並み髪を染めるのが当たり前の昨今、一度も染めたことがなさそうだ。
そんな彼女は大きく切れ長の目で二度瞬きをしてから、手に持っていた紙袋を掲げた。
「お土産」
何の話だろう。
幸が首を捻りかけると、所長椅子に座っていた氷室がおもむろに立ち上がった。
「珍しいな」
「だってお母さんから聞いたんだもの。さっちゃんがいるわよって」
当たり前のように女性の口から出たのは、紛うことなく幸の名前だった。
幸は記憶のある幼児期から今に至るまで、ありとあらゆる他人から「さっちゃん」と呼ばれてきた。幸という漢字一文字の名前だ、確かに他に呼ばれようもない。
ただしそれは、少なくとも自分から名乗った場合において、だ。
こんな、モデルや女優のような人と知り合いになった覚えはなく、つまり名を名乗った記憶も一切ない。にもかかわらず、黒髪の華やかな美人さんは窺うように上半身を僅か傾け、幸に向かって親しげな笑みを見せている。
どう頑張っても、幸が知り合いになれるようなタイプじゃない。
しかし確実に目が合っている。
良く分からないが氷室は彼女のことを知っている風なので、幸は慌てて頭を下げた。もしも相談者だったら事だ。
「こ、こんにちは!」
「……まあー!」
絶世の美女は右手を頬にあて、何故か感慨深げにため息混じりの感嘆を漏らした。
あれ、この感じ。
なんか、どこかで見たような気がする。
この良いところのお嬢さん風の相槌とか、思わず見惚れてしまうほどに整った造形とか。つい最近、どこかで見たような気がする。幸が必死に脳内検索をかけている前で、氷室は彼女から差し出された紙袋を無造作に受け取った。
「それはさっちゃんにだからね。兄貴にはこれよ」
どこに隠していたのか、謎の美女はもう一つの紙袋を氷室に押し付けた。「お母さんから」と付け足して。
謎の美女の謎は呆気なく解けた。
今、彼女は氷室のことを「兄貴」と呼んだ。実の妹なのだろう。そうと分かって見れば美貌の鋭さなど、性別は違うものの氷室に良く似ている。そして、中身は多分、あのお母さんの影が色濃い。
妹さんは
栴檀は双葉より芳し、の檀だ。兄の氷室といい、名は体をまさに表す兄妹のようだ。
彼女もまた氷室の一族であるが故、不思議な力を持っている。氷室とは方向性が違うようで、目が良いらしく、特にものの目利きが得意なのだという。美術品などの真贋見極めはもちろんのこと、知られた来歴や名がついておらずとも、曰くのあるものを見分けることができるらしい。
そんな彼女は石の仕事をしている。
宝石商から個人用の数珠に使うものまで、会社ではないが手広く扱っている。やはり広告などは出していないそうだが、それでも彼女の取り扱う石を持ってから人生が変わったなどと言う人が後を絶たないらしく、噂が噂を呼んでその筋では知らない人間はいないという。それは宝石商でも同じことだそうで、彼女が卸した石は客と幸せを呼ぶと言われており、こぞって取り扱いたがるとか。
そうはいっても彼女は彼女の都合というかペースというものがあるらしく、気に入った石がなければ仕入れないし売りもしないと言い切った。
さすがだ。
容貌だけではなく、中身も完全に兄妹だ。
少し前の幸なら驚くだけだっただろう。しかし、今は彼女が言い切る理由が薄っすら分かる。多分氷室と同じで、石を選ぶ時に力を使っているのだろう。だからこそ偽物ではなく、古来より力があるとされる石の中でも本物を選び取ることができるはずなのだ。
今日彼女がここに訪れたのは、氷室が頼みごとをしたかららしい。
曰く、氷室の客である相談者に渡す為に、とある力を込めた石のブレスレットを作ることになっていたという。それが完成したので届けがてら、そういえば新しく雇われたという幸にも会いに来てくれたというのが顛末だ。ちなみにその情報のリーク元は、もちろん氷室のお母さんだ。
今は、お持たせながら「幸に」と頂いたお土産を広げつつ、三人で応接に座り込んで少し早いおやつの時間を楽しんでいる。
自己紹介も兼ねてか、ひとしきり檀さんが仕事のことなどを幸に話してくれた。興味深かったのは、石のブレスレットを手首につけている人が最近増えてきたが、あれらの石にほとんど力などない、と彼女が言い切ったことだった。様々な力の謳い文句が所狭しと掲げられ、自分で好きな石を選んでブレスレットにできる店も随分増えているが、気休めならば充分、本気ならばそんなものを当てにするなど金と時間の無駄だそうだ。
注目すべきは「本気ならば」という部分だ。
檀さんは、石の全てに力が無いとは言っていない。願いがどのようなものかはともかく、本気を叶えるだけの力を持つ石もこの世には確かにある、と彼女は言っているのだ。
やはり少し前の幸ならば「眉唾な」で終わらせた話だが、氷室の力を体感した今ならば、そういう石もどこかにあるのだろうな、と信じる気持ちになった。
喉を潤す為に湯呑みを持ち上げた檀さんは、次にひょいと氷室に視線を移した。
「で、兄貴は相変わらずなの?」
「どういう意味だ」
「仕事に生きてるのかってこと」
「それの何が悪い」
優雅に緑茶をすすっていた檀さんは、彼女の兄の言葉に片眉を吊り上げた。
何度も言うがこの兄妹は、兄もさることながら妹も神の恩寵を受けたとしか言いようのない程、綺麗な顔立ちをしている。そんじょそこらの大人数アイドルグループは論外、モデルでもどうだろう、実は女優なんですと言っても九割の一般人は疑わないレベルだ。
であるが故、メンチを切っているその顔は壮絶に迫力がある。氷室と良く似ているが、それとはまた違った怖さがある。
そんな檀さんが、大体ね、と前置きをして話し始めた。
「兄貴は
急に凄い話題転換だ。
幸は息を詰めて氷室の横顔を見た。当の氷室はといえば、思いっきり目を眇めている。
「お前は藪から棒に上から目線だな」
「血の繋がった妹として親切にもアドバイスしてあげてるのよ」
「それはご丁寧にどうも」
「少しは真面目に聞いても罰は当たらないと思うんだけどどうかしら。そんなだから二回も離婚するっていうのに」
突如目の前で始まったやりとりに、幸はただ視線を左右に動かすので精一杯だった。
何をどう聞いても一ミリも穏当じゃない。
ていうか、え。
妹御である檀さんの放った言葉に、何故か幸の心臓は飛び上がった。精々口から零れないようにするのが努力の限界値だ。え、どういうこと、なんてとてもじゃないが口に出せる余裕はない。
話が飲み込めずに一人混乱する幸を余所に、兄妹の応酬は尚も続く。
「放っておけ。好きでそうなったわけじゃない」
「だからこそよ。脇が甘いのよね、情にほだされるっていうか。だから
「要らん。余計な世話だ」
「お母さん心配してるわよ」
「何度言われても一緒だ。結婚はもうしない」
「……相変わらずね」
氷室の頑なになった声に、檀さんが舌鋒を収めた。そして、諦めたように肩を竦める。
「どうせ
ばっさりと氷室が言い切った。
「そういう意味であの子は如才ないけど……うーん、そういうことじゃないのよねえ……」
何かを言いたげにするがしかし檀さんは飲み込んだようで、それまで怒涛だった会話がふつりと途切れた。
しばし思案顔を見せつつ檀さんは湯呑みをずっと温めていた。
* * * *
兄妹の会話に口を差し挟めるわけもなく、ただ幸は成り行きを見守り、彼らのやりとりに耳を傾けるに徹していた。
思考が痺れていて、むしろそんな余裕はない。
鈍器で殴られたようだ。
虚を突かれ、同時にまた与えられた不意の衝撃に、身動きが取れない。氷室は独身だと思っていた。その理由は薬指に指輪がなかったからだ。今にして思えば、何と単純だったのか。結婚しても指輪をしない人は一定数いるし、まして指輪の有無で過去は見えない。法律でも何でもないのに、何故そうだと決めつけていたのだろう。
もっと分からないのは、何故殴られたと感じるのだろうかということだ。
得体の知れない感情が胸の縁からせり上がる。驚きとも悲しみともつかず、何とも形容が難しい。責めたいような、咎めたいような、燃える気持ちが先に来た。
その後は、夕立に降られたように気持ちが冷えた。
好きでそうなったわけじゃない、と氷室は言った。
だとすればきっと
特別な関係などではない。
あくまでも、ただの雇い主とバイト。
「そうだったんですね」で流すべき話題だ。或いは相槌も打たずに聞き流す方が良い。根掘り葉掘りなど訊けるものか。そんな無神経なこと。いくら気になるからといって、そんな無神経なこと。
特別な関係でもなんでもないのに。
頭の中で幸は自分自身に言い聞かせた。その度に、ずきずきと頭が痛んだ。
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