第21話 従業員特別手当と夜の帳


 あの後結局、氷室の父は別件が入ったとかで、昼になっても戻らないことが判明した。

 そういうことなら、と氷室は長居しない旨を氷室の母に告げ、彼女もまたそれを強く引き留めるようなことは言わなかった。おそらく幸の沈んだ雰囲気を肌で感じ取ってのことだろう。

 帰る前に渡すものがあると言って、氷室の母は一度退席した。

 彼女が待つ間、幸は開け放たれた縁側の向こうにそびえ立つ、大きな楠をずっと見ていた。五月の風に梢が揺れる様が目に優しい。近頃はここまで立派な樹は中々珍しいだろう。

 程なくして、客間の襖が開けられた。風呂敷で包んだ荷を二つ、氷室は彼の母から受け取った。

 家路につく為に乗り込んだ助手席で、幸は一言も喋らなかった。

 左側の窓を眺める形で、ただ流れていく景色を漫然と目に映し続ける。緑が美しい山間、晴れた午後の薄青い空。シートに深く背中と頭を預けたままで何も言わないのだから、明らかに幸の様子がおかしいことはとうに氷室は気付いているだろう。だが氷室は何も訊かず、一切の口を差し挟んではこなかった。

 幸はずっと物思いに沈んでいた。

 考えていたのは家族のことだ。もっと詳しく言えば、父の雄三のことである。


 父の雄三は五人兄弟の三番目に生まれ、上に兄と姉、下に弟と妹が一人ずついる。彼ら彼女らはつまり幸の伯父叔母にそれぞれあたり、四人もいればこのご時世に珍しいほど幸は沢山のいとこに恵まれることとなった。そういう家系なのか、どの親戚も子沢山で、幸のいとこ達も軒並み三人以上の兄弟姉妹構成だ。

 そんな一族にあって、幸は一人っ子だ。

 兄弟がいたことがないので幸には今一実感が湧かないのだが、いとこ達は会う度に幸を大層羨ましがる。理由は至極単純で、ありとあらゆるものを一人占めでき弱肉強食に晒されないことが、彼らにとっては至上の楽園、桃源郷であるらしい。兄弟間での争いがどれほど熾烈なのかは想像の域を出ないが、友人に対してもどちらかといえば譲ることが多い幸にとって、自分にもしも兄弟姉妹がいたとしても彼らほどの闘争心は出せなさそうだ、と思ったこともある。

 一度、雄三に聞いてみた。

 他でもない雄三は五人兄弟だった。しかも絶大な権力を誇る長兄ではなく、かといって上の失敗を横目で学習し随一の要領の良さを発揮する末妹でもなく、丁度真ん中だった。上からは態よく使い走りにされ、下からはものを頼まれやすい立ち位置だったと他でもない雄三自身がかつて何かの折に言っていた。

 そういう競争というか関係を煩わしく思って、幸は一人っ子になったのか。

 特段兄弟姉妹を欲しいと幸は思ったことはなかったが、あまりにもいとこ達が幸を羨ましがるので、つい聞いた。しかし雄三の答えはとても穏やかで、気持ちの問題ではなかったことを教えてくれた。

 雄三は声を荒げて怒るようなことは一度もなかった。

 それは幸がそこまで無鉄砲であったり勇猛果敢ではなかったことも寄与しているかもしれないが、それでも雄三は何かあれば幸と目線を合わせ、静かに諭す人だ。

 どちらかといえば物静かで、暇さえあれば本を読んでいる。一方でその妻である恵美子はあれやこれやの免状を持ちつつ多趣味で、いつも朗らかに良く喋る。ただ、両者共におっとりとしていて夫婦喧嘩など幸は見たこともなく、本当にどこにでもある普通の幸せな家庭がそこにあった。

 よくある父親の夢、「お父さんと結婚する!」という台詞は誠に残念なことに、幼児の幸は言わなかったらしい。

 その辺りは小さな頃の話なので容赦してもらうしかないが、大学に入ってからは、特定の相手がいないことはともかくとして、雄三みたいな穏やかで誠実な人と結婚できればいいなどとぼんやり思うようになった。


 そんな父が病に倒れたのは、去年の暮れだった。

 駆け込んだ救急ではとりあえずの処置をされただけで、病名は分からなかった。ただ、倒れた状況とそれまでに顕著になっていた体調変化を聞き、救急の医師は検査入院を強く勧めてきた。雄三は大したことはないと再三固辞していたが、恵美子が心配のあまり取り乱しかけて、ようやく検査入院をすることに同意した。

 一週間にも及んだ検査入院の結果は、残酷だった。

 この国における三大死因の一つに、雄三の身体は侵されていた。それも医学用語で表わせばステージ四期、発見が遅れ、いわゆる手の施しようがない状態だった。

 残された選択肢は一つしかなかった。

 病気の進行を遅らせること、そして痛みを和らげること。そう遠くはない先に見えている終わりを、できるだけ遅く迎える為だ。そこに「完治」という望みは最初からなかった。


 だから幸は休学することに決めた。

 お金の心配も勿論あるが、何かあった時に飛んで行けないのが嫌だった。いつでも連絡が取れるようにしておきたかった。大学に通い続ければ、嫌でも試験の準備はしなければならないし、友達付き合いもこなさなければならない。元から自分が不器用であることは他でもない自分自身が知っている。だから、全てを一旦白紙に戻した。

 後悔など少しもしていない。

 置いていかれる、そんな恐れさえ微塵も感じない。

 そんなもの、日々少しずつ痩せていく雄三を目の当たりにすることに比べれば、何ほどのものだろう。そして誰より辛いはずの雄三自身が毛ほども弱音を吐かないから、幸もこのことに関しては絶対に泣かないと固く誓ったのだ。本人でさえない、娘の、それも五体満足な自分が何を泣くことがあるというのだろう。

 在学中の恩師の言葉が、今でも幸の耳に残っている。

「君の父上は待ってはくれないかもしれない」

 人生の折り返し地点を既に過ぎたその教官は、迷うことなくそう言い切った。強く強く背中を押してくれたこの人に、いつか再び師事できたならいいのにと、心からそう思った。


 残された時間は少ない。

 その日がいつか来ることを頭の片隅で理解していながら、一縷の望みを捨てきれない自分がいるのもまた事実だ。


 そういえば、また氷室を困らせてしまった。

 氷室の力は幸の為にあるわけではないのに、あんな言い方をして。幸の事情は幸の勝手であるのに、落胆してみせるなんてお門違いも良いところだろう。それを氷室は一つも責めずにいてくれている。

 謝らなければ。

 真摯に謝らなければ。

 けれど今は、どうしても声を出せそうにない。


 変わらず外の景色を見つめたまま、幸は唇を真一文字に引き結んだ。


*     *     *     *


 ついたぞ、と声を掛けられて幸が顔を上げると、そこは見知らぬ駐車場だった。車のエンジンが程なくして止められる。フロントガラスから様子を窺うと、どうやらここは地下か、屋内の立体駐車場らしいことが知れた。

 ずっと考え事をしていたので、途中の道に全く注意を払っていなかった。

 動揺して幸が右側に視線を走らせると、ハンドルに寄りかかるようにして両手を休ませる氷室と目が合った。

「連絡は俺から入れるから、とりあえず降りろ」

 言葉尻は物騒だが声は脅迫するような響きではない。

 まして、車は駐車場に止められている上に、エンジンも切られたばかりだ。言葉だけ切り取ると捨て置かれると勘違いしそうになったが、どうやらそうではないとみえる。

 そうすると不可解なのが「連絡を入れる」と言われた部分だ。

 理解できずに幸が固まっていると、氷室が諭すように言った。

「こんな状態でお前を帰したら、間違いなく親御さんが心配する。俺から親御さんに断りを入れる。だから少なくとも今夜はここで休んでいけ。業務命令だ」

「ここ、って?」

「俺のマンションだ」

 言うが早いか、氷室はドアを開けて外に出た。そのまま車の後部に向かって歩いていく。トランクに荷物を取りに行ったらしい。それを目で追いながら、幸は言われたことを咀嚼した。

 最初に頭に浮かんだのは、「申し訳ない」ただその一点だった。

 驚くとか恥ずかしいとかそういう次元の感情は露ほども湧かなかった。ただひたすら、幸の所為で本来かけなくてもいい手間暇を氷室にかけさせていることが申し訳ない。

 と、助手席のドアが開けられた。

 見ると、荷物を降ろした氷室がエスコートさながらにドアを押さえてくれている。流石に幸はその時ばかりは正気に返り、慌てて車から降りた。



 氷室の部屋はあまりものがない、殺風景な部屋だった。

 玄関に入ると廊下が真っ直ぐ伸びていて、突き当たりの扉の向こうはLDK空間だった。但しものが非常に少ない。事務所の雰囲気と良く似ていたが、殊の外同じで安心したのは、観葉植物がリビングのテーブルにどんと陣取っていたことだ。モンステラがこれでもかといわんばかりに四方八方にわさわさと葉を伸ばしている。明らかに鉢の高さより大きく育っている為、次の葉が出てきた時には倒れてしまうかもしれない。それほどに、青々と元気よく茂っている。

 瑞々しい緑を見て、ふと幸の頬が緩んだ。

「この子は四郎ですか?」

 幸が尋ねると、氷室が荷物を床に置きつつ振り返った。

「四郎?」

「事務所に三郎までいるので、四郎なのかなって」

「……一郎だ」

「え。でも太郎がいましたよね? ベンジャミンの」

 太郎も一郎も名前的には長男を表すので同じだ。まあ駄目というわけでもないが、多少は引っ掛かる。

 しかし種明かしは簡単だった。

「同じ時期に買ったからな」

「そっか。逆にそういう理由だったんですね」

 小さく笑って、幸は一番上の柔らかい葉をそっと撫でた。



 その後は特に会話をするわけでもなく、やがて夜になった。

 氷室が「お湯を注ぐのとレンジでチン、どっちがいい」と聞いてきたので、皿を汚さなくて済みそうな前者を幸は選んだ。本来であれば、一宿のお詫びも兼ねて幸が買い出しに出てご飯を作るくらいするべきなのだが、いかんせん今日はそれだけの気力がない。

 心の中で再三再四頭を下げ、幸は氷室手ずからお湯を注いでくれた「すぐおいしい、すごくおいしい」アレを有難くすすった。

 三分でできる夕食は、三分とは言わないまでもやはり相応の早さで片付いた。

 ごちそうさまでした、と幸が手を合わせると、間を置かずに「風呂に入ってこい」と氷室が勧めてくれた。返事をしつつ、とりあえず食べ終わったカップをキッチンに下げに行くと、帰り道に氷室が着替えを貸してくれた。

 至れり尽くせりだ。

 だが幸はもう驚かなかった。 

 この雇い主が優しいのは疑う余地がない。これだけ世話になってまだ裏があるのではと疑っては、幸自身の人間性の方が疑われると言うものだ。存外に濃やかな部分――たとえばこうやって風呂を勧めるだけではなく、合わせて風呂上がり用の寝間着まで準備してくれる所などは、むしろ見習わねばと焦るくらいである。

 幸は「ありがとうございます」と頭を下げて着替えを受け取り、風呂を借りた。

 リビングから廊下に出る。数歩進むと左手に扉があり、そこが脱衣室だった。照明は既に氷室の手によって入れられていたので、迷うことなく辿りついた。一歩足を踏み入れると、その広さに瞠目する。服を脱ぐ前にそっと浴室の扉を押すと、やはりその向こうも広かった。

 多分、独身者ではなく家族向けのマンションなのだろう。

 氷室は「物置だ」と言っていたが、風呂とは反対側にも部屋があった。LDKの隣にも仕切りがあり、その向こうにも部屋があってそこは寝室だと聞いた。いわゆる2LDKというやつだ。独身らしい氷室がこの部屋を選んだ理由は定かでないが、幸にとっては特段気にもならなかった。広いが故、掃除に手が掛かりそうだという客観的な感想を抱くに留まる程度である。

 服を適当に脱いでふと顔を上げると、脱衣室に備え付けられている大きな洗面台の鏡が幸の目に入った。そこに映る自分は、傍目にも分かるほど顔に元気がなかった。

 これだけしょぼくれた顔をされては、あの優しい氷室のことだ、確かに帰すに忍びないと思ってくれたのだろう。

 ただひたすらに申し訳ない。

 結局夜になってもまだ自分は何一つ打ち明けることができていない。

 何度も言おうとした。何度も心の中で踏ん切りをつけて、実際に引き結ぶばかりだった唇を解きもした。けれど声がでなかった。言葉が見つからなかった。何をどうやって説明したら良いのかが分からずまた黙り込む、その繰り返しだった。

 説明することが正しいのかさえ、本当は自信が持てずにいる。

 期限の切られた寿命――余命は、誰にもどうすることもできない。

 氷室のお母さんが言っていた。痛みや傷を癒やすことのできる不思議な力を持つその人自身が、彼女達の特異な力をもってしても手の施しようがないと言ったのだ。わざわざ詳細を伝えたところで、気を遣わせるだけにしかならないのでは、とも思う。



 風呂から上がり、幸はバスタオルで身体を拭いた。大きい。多分、背の高い氷室仕様だ。

 借りた洗いざらしのTシャツに袖を通すと、氷室の匂いがした。香水とかではなく、日だまりのような、森のような、心地よく安らぐ匂いだ。

 そしてこちらもバスタオルと同じく大きい。Tシャツのくせに、裾は腿まで、袖が肘のあたりまできている。ちなみに下衣は多分氷室が着れば膝丈なのだろうが、幸にとっては軽く七分から八分丈だ。長いのを貸されなかっただけまだましか。そんなことをつらつらと考えながら、およそ半分は余っている腰回りを絞る為、幸は思いっきり腰紐を引っ張った。

 リビングに戻ると、氷室がソファで読書をしていた。

 本当に、良く本を読む人だ。「お先に頂きました」と幸が声を上げると、氷室が本を閉じて立ち上がった。自分もシャワーを浴びてくると言う。「適当に休んでおけ、冷蔵庫は好きに開けていい」と追加の配慮を寄越し、氷室はさっさとリビングを出ていった。



 氷室は烏の行水とまではいかないものの、幸よりは遥かに早い時間で風呂から上がってきた。濡れた髪をタオルで適当にがさがさと拭く様子に、その辺は頓着しない人だなあと幸は再認識した。

 そのまま二人でやはり会話もないまま、夜は更けていった。

 もうそろそろ日付も変わろうかという頃になり、氷室から「おい」と唐突に声がかかった。それまで静かだった部屋に急に肉声が響いた為、幸の肩は一瞬揺れた。

「は、はい」

 見ると、氷室の髪はすっかり乾いていた。

「眠くはないのか」

「すいません、考え事してて」

 眠いとか眠くないとかが吹っ飛んでいた。聞かれて実際の時刻を目にすると、途端に眠気らしきものが襲ってくる。

「言われてみれば眠いかもしれません。全然気付いてませんでした」

「だろうな」

「え?」

「痛い」

 と、氷室が顔を顰めた。

 前後の意味が繋がらずに幸が首を傾げると、氷室からため息が一つ出た。

「治まるどころか酷くなる一方だ」

「え、氷室さんもしかして具合悪いんですか? 熱とかあります?」

 風邪でも引いたか。

 慌てて幸はソファから腰を浮かせ、反対側に座る氷室の額に手を当てようとした。


 ら、幸の手首は無造作に掴まった。

 氷室の大きな手に。


 目が合う。氷室の手は発熱をしているような熱さではなく、いつも通りの穏やかな温かさだった。

「氷室さん……?」

「言っただろう。勝手に波長が合う所為で、お前が痛いと俺も痛い。いい加減限界だ」

 言うが早いか、氷室はソファから身体を起こして立ち上がった。そのまま幸も手を引かれる格好で一拍遅れて立ち上がる。何だろう、と幸が考えるより早く、氷室の両腕が幸の背中に回った。

 幸の目の前が、白一色に埋め尽くされる。

 鼻腔をくすぐったのは氷室の日だまりのような匂いだった。

「勝手に流れ込む分では埒が開かん」

 独り言のように呟いて、次に氷室が行動に出た。

 それまでの白い景色が一転、幸は氷室を下から見上げている。足は床から離れている。氷室が、幸を、横抱きにした為に。

 元々今日は頭の回転が散々鈍っていた。

 そんな状態で今がどういう状況かを把握しようと試みても、無駄な足掻きに終わった。驚いてはいるが、慌てる前に氷室が次の行動に移る。

 軽々と幸を抱え上げたまますたすたと歩き、リビングに隣接している寝室の扉を開けた。部屋の中は薄暗い。リビングのように天井照明ではなく、ベッドサイドの小さく柔らかな照明だけが灯っている。温かな橙色に、部屋がそっと浮かび上がる。

 ベッドは一人用にしてはいささか大きい。

 枕は一つしかないが、明らかにベッドはダブルだ。体格の良い氷室だから、このサイズを選んだのだろうか。

 漫然と考えていると、幸はベッドの奥、壁側にそっと降ろされた。

「壁を向け」

 言われたことに幸は素直に従った。時間も遅い。このまま「さっさと寝ろ」と言われてもおかしくはない。

 目の前にある本来白い壁は、優しく灯りの色に染まっていた。ぼんやり見ていると、少しだけ幸の心が落ち着いた。

 数秒後、幸の背中でベッドがぎしり、と軋んだ。続いた声は、「頭を上げろ」だった。良く分からず幸がそれにも従うと、首元に氷室の長い腕が差し入れられた。

「元に戻していいぞ」

 意図を完全に汲み取れないまま幸が頭を枕に沈めると、背中が温かくなった。

 そして、腰に適度な重みと圧迫感。それも温かくて、氷室の左腕が回っているのだな、とややあって幸は理解した。


 つまり幸は後から氷室に抱きこまれている。


 いくら呆けているとはいえ、さすがに普通の状態ではないことは気付いた。しかし呆けていた所為か妙なところに冷静で、さすがに恋人云々とかそういう雰囲気ではないことも同時に分かっている。

 組み敷かれる、というような恐怖は少しも感じなかった。そういう空気を氷室は一切纏っていなかった。

 言うなれば、ただ、何も怖くなかった。

「あの……これ、どういう状況でしょうか」

 壁を見つめたまま振り返らずに幸が尋ねると、氷室の回答を得るまでに数秒かかった。

「……従業員特別手当をつけてやる」

 そして幸は、今日はもう何も考えずに目を瞑れ、とだけ言われた。


 鼓動が響く。

 一拍ごとに導かれるように、意識が深淵へと沈んでいく。


「氷室さん、あったかい、ですね……」


 夢に滑り落ちる前、幸の目蓋に浮かんだのはあの楠だった。

 大きくて涼やかな優しいあの樹。

 そう、あれは、まるで氷室のような。


*     *     *     *


 規則的な、それでいて穏やかな寝息が耳に届いた。そのまましばらくを待ってみる。乱れる様子は僅かも感じられず、無事に深く眠りに就けたらしい。それを認識してから、氷室はゆっくりと目を開けた。

 腕の中は柔らかく、温かい。

 抱きしめている相手がいるからだ。

 体格の良い自分と比べて小柄だとは思っていたが、抱きこんでみるとそれが際立った。その小さな身体に、どれだけ大きな葛藤を抱えているのだろう。どうでもいいことで氷室には泣いて謝るくせに、肝心な部分は強情が過ぎる。

 今日一日、傍に置けば癒やせると思っていた。

 偶然ではあるが波長が合うという滅多にない相性の良さだ。傍にいるだけで、氷室から滲み出る気を彼女は意図せず受け取ることができる。

 ところがそうはいかなかった。時間が経てば経つほど彼女は沈む一方で、当初の予定とは真逆にとうとう押し負けて氷室自身が痛みを感じる始末だ。それほどまでに、彼女の悩みは深い。


 推し量ることはできた。

 だが口に出すのは規定ルール違反だ。


 と、腕の中で彼女が身動ぎをする。氷室が僅かに左腕を緩めてやると、彼女は氷室側に寝返りをうった。柔らかな薄い光が、その頬を控え目に照らす。寝息は安らかであるのに、閉じられた瞳から涙が零れた。

「……本当に、強情だな」

 氷室は雫をそっと指で掬い、もう一度彼女を腕の中に閉じ込めた。


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