第20話 希望的観測と知りながら、抉られる



 幸にくっついて離れない座敷わらしがどこから来たのかというと、それは分からないということだった。

 わらし曰く、わらしがいた場所に幸と母の恵美子、そして父の雄三が通りがかり、楽しそうな家族だと思ってついてきたらしい。わらし的には自分が元いた場所などどうでも良いようだ。

 楽しそうというそれだけでとりあえずついてくることを決めるあたり、やはり人外ということか。

 真偽の程は定かでないが、大雑把にそういう方向性らしい。

 例えば昔飼っていた犬や猫が、死んだ後も恩義を感じてそっと飼い主に寄り添っている、というちょっと心温まる話は聞かないこともない。見えない幸にはそれが妄想の産物なのかそれとも現実なのかの判定基準が備わっていないが、まああってもおかしくないというか嬉しいんだろうなあ、と思う。

 だがここにきて、座敷わらしという選択肢。

 斬新すぎる。

 しかもそのわらしは、何となく楽しそうという適当極まりない理由で幸の傍にいるというのだ。縁もゆかりもへったくれもない。せめてもう少し取り繕えというか、言いようがあっただろと説教してやりたくもなる。

 そんなどこをどう聞いても他人以外の何ものでもない関係のくせに、わらしは幸にどうしても言いたいことがあるのだという。何事かと幸が問うと、氷室のお母さんは困ったように笑って教えてくれた。

 たまにでいいから、幸がおやつを食べている時に分けて欲しい。特に、小麦粉系――ケーキとかクッキーとか肉まんとか。

 おいちょっとまて。最後に方向性が違うやつ紛れこんでたぞ。いや確かに小麦粉だけど。

 心の中で盛大に突っ込みつつも、幸はもっと重要なことを確認した。分けろっていったってあんた、どうやって。

 だって、幸には座敷わらしの影も形も見えていない。どこにいるのかとかそれ以前に、そもそも本当にいるのかという疑問が先に立つくらいだ。そんな状態で、何をどうお裾分けしろと言うのだこのわらしは。

 怒涛の勢いで溢れ出た幸の疑問はしかし、氷室のお母さんによって無事に解決した。

 分けるといっても、思いついた時に小皿に入れて、リビングのテーブルに置いておけば良いらしい。そしてしばらく時間が経てば、後は幸が食べるなり捨てるなりご自由にだそうだ。

 捨てるという言葉に幸が首を傾げると、お母さん曰くその手のものが齧った食べ物は味が薄くなっているから、らしい。

 当たり前のように言い放つお母さんを目の前にして、色々なことに疑問を呈す方が頭がおかしいんじゃないかという気にさえなってきた。最初から世の理がそうだったのであって、知らなかった幸が世間知らず、のような感覚だ。

 そうですか、としか返せなかった幸だが、肯定の相槌を打てただけ頑張った方だろう。



 さて、始まりは限りなく緩くかつ言いたい放題ながら、最近のわらしには何やら心配事があるそうだ。

 そこまで聞いて、幸には別の疑問が湧きあがった。座敷わらしの心配事とやらはとりあえず保留だ。

 氷室のお母さんは、本当に淀みなく座敷わらしの言葉とやらを通訳してくれている。冷静に考えてみれば凄い話だ。座敷わらしが学問上どういった類に分類されるのかは甚だ疑問だが、明らかに人間ではないことは確かなので、つまりどういう能力を以ってして通訳という偉業ができているのだろう。

「お母さんって、どういうことができる人なんですか? 氷室さんは、痛みを取ったりできるみたいですけど」

 何せ未知の世界すぎるので、例えらしい例えも幸の口からは出てこない。抽象的な質問になったがそれでも意図は伝わったらしく、氷室が解説を受けてくれた。

「お袋は俺の上位互換だ」

「上位互換って、具体的にどんな?」

 思わず幸は、氷室のお母さんに顔を向けた。やはり彼女は人好きのする笑顔でにこにこと屈託ない。天真爛漫な少女が、そのまま大人になったような可憐さだ。

 先に氷室が口を開いたので任せることにしたのか、お母さんは小首を傾げて氷室に目配せをした。どうぞお先に、とでもいうような風情だ。

 上位互換という言葉だけ聞くと、凄そうだが何が凄いのか良く分からない。

 噛み砕いてくれ、もしくは具体例をくれ、と幸が目線で訴えると、氷室が彼自身の掌をしげしげと眺めつつ言った。

「俺の力はお袋譲りだ。そしてお袋の方がもう少し俺より強い」

「もう少しって、どれくらいですか」

 氷室に眉間に皺が寄った。

「……難しい質問だな」

 氷室が顎に手を当てて考え込む。

 当のお母さんはというと、成り行きをやっぱりにこにこしたままで見守っている。口を差し挟む気は皆無らしい。彼女自身が俎上に上がっているというのに、不思議な人だ。

「何でも治せちゃう、とかですか?」

 上位というのであれば、ありそうな設定ではなかろうか。

 大体ゲームの世界などでもそうだ。レベルが低い内は特定の魔法しか使えないが、敵と戦ってレベルアップすれば、新しく色々な種類の魔法を使えるという「あるある」設定である。

 ところが幸の予想に反し、氷室は首を横に振った。

「いや。できることは一緒だ」

「一緒なのに、上位互換ですか?」

「出力が違う、とでも言えばいいか。力の及ぶ範囲や対象は同じだが、治る速度が違う。例えば俺が三日かかることを、お袋は半日でできたりする。ただし、俺が治せないものはお袋も治せない」

 そこまで言って、ふう、と氷室が一息入れた。幸は幸で、説明されたことを頭の中で反芻を試みる。

 それはつまりあれか、中耳炎は治せるけれども骨折は治せない、そういうイメージなのだろうか。で、その中耳炎を治すに必要な日数は、イメージで言うとお母さんの方が優秀なので半日で済むが、氷室は三日かかる、そういうことか。

 何となくではあるが、氷室の言わんとしていることは分かる。

 幸が理解を示す為に大きく頷いて見せると、氷室が続きを口にした。

「上位互換の理由はもう一つある。お袋の目は良く見える。良く捉える、と言う方がより正確か」

「あの……何が見えるんでしょう……」

 何となく薄っすら予想はできているのだが、敢えて幸は尋ねた。

 すると、幸の問いに答えるように、氷室がおもむろにとある一点を指し示す。迷いが見えない。やっぱり答えは最初から決まっていたらしい。

「そこにいる座敷わらしとか。基本的に分け隔てなく、此岸彼岸や種族分類関係ない」

 だったよな、と氷室が問うと、お母さんがにっこりと笑って一つ頷いた。

 駄目だ、理解が追いつかない。

 幸は深夜に延々放送される通販番組を見ている気分になった。こちらの商品、ここが大変優れものなんです。従来品と比べてその性能は二倍、いえ無限大。これまで人間だけに留めていたものを、なんと今般、幽霊と妖怪と物の怪その他一切合切全てを把握できる豪華仕様となっております。見て下さい煌めくこのボディー!

 ……違う。

 明らかに最後は別次元に間違った。いや、ていうかそういう話じゃないんだっつーの。

 某通販会社の声が高い某社長が主役である下らない脳内劇場を強制終了させる為に、幸は頭をぶんぶんと横に振った。

 気を取り直してもう一度。

「でも氷室さんも見えてるんじゃ?」

「俺の目は体調や相手の気配に左右される。調子が良かったり、相手の自己主張が強いとそれなりに姿形を見ることはできるが、そうでなければほとんど見えない」

「自己主張が強いっていうのも微妙ですね……見たくなくても見えるってことですよねそれ」

「珍しく察しがいいな。その通りだ」

 多少うんざりした顔で、氷室がため息をついた。

「まあ、そういう気合の入った奴はそこまで多くない」

「気合って……一昔前の不良みたいですね」

「絡むという習性で言えば、確かに同じだな」

 心底うんざりした顔で、氷室がこめかみに長い指を置いた。本人にとっては頭の痛い問題らしい。



「そういえば、座敷わらしが何か言いたいことあるんでしたっけ」

 一区切りがついてから思い出し、幸は氷室のお母さんを見た。

 すると、それまでは一点の曇りもなかった笑顔が急に陰ってしまった。それはもう、いくら幸が鈍感とはいえそれと分かるほどに。

 彼女は右手を頬に当て、困ったように考え込む。

「あの……?」

「あ、ごめんなさいね。何て言えばいいかしら、と思って」

 右手は変わらず頬に添えられたまま、お母さんが言った。

「そうね。ええと、」

 お母さんの視線が彷徨った。

 幸を見て、

 氷室を見て、

 幸の左腕あたりを見て、

 氷室を見て、

 幸を見た。

 〆に瞬きを二度、三度。ややあって、意を決したようにお母さんがもう一度幸を見た。

「相槌は要らないわ。私が今から言うことは、あくまでも通訳として伝えるだけだから。それに対して何を思うかは、あなたの胸の中だけに仕舞っておくべきことよ。私も稜さんも、口を挟める問題ではないから」

「ええっと、……分かりました」

 ふわりと諭されて、幸は返事に困った。とりあえず無理をして感想や意見を述べなくても良いことは読み取れたので、頷くだけ頷いた。

 氷室のお母さんはまた笑ってくれた。けれど眉が八の字になっていた。

「あなたは悩んでいる」

 言われた通り、幸は相槌を打たなかった。「それでいい」とでも言いたげに、氷室のお母さんは小さく頷いた。

「けれどそれはあなたにもお医者様にも、誰にもどうしようもない。それでも悩み続けるあなたを、この子はずっと心配している。あなたがどうにかなってしまうのではないか、心が折れてしまうのではないか、そんな心配をしているわ」

 心臓が鷲掴みにされたような気がした。

 氷室のお母さんには、何がどこまで見えて、聞こえているのだろう。当てずっぽうにしては、言葉の選び方が的確に過ぎる。

「だからあなたについて歩くんですって。だから稜さんにもお願いしたんですって」

「……氷室さんにお願い?」

「相談所に来るお客さんだけじゃなくて、あなたのことも見てほしい。悩みを聞いてあげてほしい。何とかしてほしい。そういうお願いよ」

 そうでしょう稜さん、とお母さんは呼びかけた。

「まあ、……頼まれてないといえば、嘘になる」

 言い辛そうに氷室が語尾を濁した。


 少し考えて、不意に幸の記憶が蘇った。そうだ、確かにそんなやり取りをしたことがあった。

 あれは、そう。

 本棚の整理をした日だ。

 あの日確かに氷室は言った。「悩みがあるなら聞くが」と。随分唐突な話に大層焦ったが、結局最後まで幸は何も言わなかった。


 幸は唇を噛んだ。

 誰にもどうしようもない。頭の片隅で認めていながらも、面と向かって言われると息が詰まった。

 そしてどれくらいそうしていただろうか。止まっていた幸の思考を動かしたのは、この常ならぬ状況だった。一般人の幸や医者には無理でも、この底知れぬ世界に生きる氷室や氷室のお母さんなら、あるいはどうにかできるのではないのか。

 一縷の望みを懸けて、幸は顔を上げた。

「氷室さん」

 氷室が視線を寄越してくる。静かな瞳だ。いつも以上に。

「手が痛いのを治せるなら、病気も治せますか」

 食い入るように幸は氷室の双眸を見つめた。

 氷室は何も言わない。僅かに目を眇めて、幸の真意を量るようにただ真っ直ぐ見つめてくる。整った顔に、しかし今は幸の鼓動が跳ねることはなかった。

 感情の揺れはどこにも見えない。

 眉も、頬も、唇も。

 氷室はまったく表情を変えず、ただ幸をそっと見つめるばかりだ。是か非か。氷室の目からはどちらも読み取れなかった。だが読みとれないことそれ自体で、答えが幸の胸に突き刺さった。


「治せるって、言って下さい。何の取柄もない私なんかと違って、氷室さんならできるって。こんなこともできないのかって、いつもみたいに言って下さい……!」


 涙は出なかった。

 横顔に視線を感じたような気がして、幸は氷室から視線を外した。代わりのように、氷室のお母さんと目が合う。だが幸が口を開くより先に、彼女は静かに首を横に振った。


「……ごめんなさいね」


 氷室の視線がそっと座卓に落ちた。

 頭が割れるように痛んで、幸は強く目を瞑った。

 

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