第19話 多少規格外にアクティブなそれ


 幸の人生はとてつもなく平凡だった。

 ごく普通のサラリーマン家庭に生まれ、幼稚園から小学校、中学校、高校に至るまで、本当に何の変哲もない人生だった。多くはないが大切な友達はいたし、成績は抜きんでて良くはないが将来に差し障るほど不得手な科目もなかった。

 心配事といえば宿題を忘れたとか課題が終わらないとか、振り返ってみれば平和なものばかり。

 ただ、心安らかであったことは間違いない。

 所謂深刻な悩みとはとんと無縁だった。ダイナミックに新しい世界に飛び込んでいくような芸当はできなかったが、それでも幸は自分の周りの小さな世界を好きだと言えた。

 

 翻って、氷室はどんな人生だったのだろう。

 誰もが羨むような長身に、好みは別としても十人いれば十人とも「整っている」と間違いなく認めるであろう端正な顔立ち。頭も間違いなく良く、おまけに普通の人間では逆立ちしても真似できない不思議な力を持っている。

 物語の主人公になれそうな人の、現実の生き方。

 今なら幸にも少しだけ推し量れる。何もかもがバラ色では決してなかっただろうこと。現実は本の中とは違って、優しいばかりではなかっただろうこと。

 妬まれたり恨まれたり疎外されたり。お門違いや勘違い、思い込みも多分にあるだろう。けれど誤解であったとしても、負の感情をぶつけられ続けるのはしんどい。

 しんどいのに、声を大にして主張することは――しなかったのか、それともできなかったのか。どちらでもいい、いずれにせよそれは叶わなかった。


 知られたくない秘密だったから。


 それと気付いて振り返ってみると、氷室の言葉には随所にそれが滲み出ていた。

 だから涙が出る。無神経だった自分を詰りたくなる。

 そしてもう一つ。

 諦観なのか達観なのか。どちらであるとも幸には決められないが、それでも氷室が誰かに語りかける言葉は掛け値なしに優しい。それはまるで、痛む心に寄り添うようだ。

 だから余計に涙が出る。


*     *     *     *


 最初の一粒は氷室が拭ってくれた。

 だが、その後もまったく止まる様子を見せずに涙は次から次へと幸の目から溢れだし、幸はそれをごしごしごしごし自分の両手で必死に拭った。

 二度と絶対、氷室に拭ってもらわなくても良いように。

 ただでさえ無神経なことを言って、その上で勝手に自分が感極まって泣いているのに慰められるとか、残念にしても程があると心底思う。だから幸は、一部の隙も見せずにひたすら目を、頬を、拭い続けていた。

 氷室は何も言わない。

 そうして五分か十分経った頃か。とうとう我慢できずに幸は言った。

「ティッシュ。ティッシュぐだざい」

「……は?」

 氷室が目を瞬いた。

「鼻が垂れそうなんでず」

「……ああ」

 理解したと言わんばかりにやおら氷室が立ち上がる。こんな立派な客間にティッシュなんて俗物があるのか不安だったが、地袋の中からそれは出てきた。良かった。

「ほら」

 軽い音を立てて、見慣れた銘柄のティッシュが幸の目の前に置かれる。

 上流階級でも使っているティッシュは佐藤家と一緒。違和感あるなあ、などと本当に今この場所で最もどうでも良いことを考えつつ、幸は一気に三枚を引き抜いた。

 ぷいーーーーっ。

 詰まりかけた鼻からは盛大に鼻水が出て、同時に力んだ所為か涙もまた同時に零れた。ついでとばかり幸は更に二枚を追加で取って、目元にびしりとそれを当てた。

「あ゛ー……」

「仮にも二十代前半の女子がそれはやめておけ」

 おっさんか、と心底呆れ果てた声音で氷室が言う。

「だって鼻詰まってるんですもん」

「……それだけ泣けばな」

「ああ゛ーー……なんかすいません、昨日から今日から。どうしたんだろ」

 もう一度鼻をかみつつ、幸は首を捻った。

 そんなに自分は泣く性質ではないはずだった。悲しい時や気まずい時、どちらかと言えば愛想笑いでその場を乗り切ることの方が多かった。昨日も今日も、それで無難に終わっていただろうに。

 と、氷室が珍しく噴き出した。

「そこ笑うところですか?」

 随分収まってきたとはいえ、未だに幸の涙はたまに零れている。

 氷室が十二分に優しいことは昨日から今日からこの身を以って体感してはいるものの、それでも泣いている女性を目の前にして笑うとかどうだろう。

 いや別に、もっと慰めろとかそういうことを言いたいんじゃないけど!

 そうじゃないんだけど何かこう、ドラマや映画とまでは言わないから、せめてもう少しロマンチックな感じになっても罰は当たらないと思う。まあ、「おっさんか」と言われるような声を発した自分が悪いといえば悪いのだが、それにしてももうちょっとこう何かあるだろ。

「いや、すまん。つい」

「何がついなんですか……」

「随分真面目に考え込むもんだと感心した。お前は素直というか、単純だから影響を受けやすいだけだ」

 どこから突っ込むべきか迷い、一瞬幸の出足は遅れた。

 感心されたのもどうかと思うし、何で素直をわざわざ単純に言い換えたのかと噛みつきたくもなりつつ、しかし氷室に悪気はないことを百パーセント理解してもいるので、幸は大人しく耳を傾けることにした。

「影響ってなんのですか?」

「俺の」

「氷室さんの?」

「そう」

「治したり、癒やしたりするやつですか?」

 質問ばかりの幸に、氷室はもう一度「そうだ」と頷いた。

「本来であれば意識的にそうしようとしなければ、届かないものなんだが」

 その後に続いた氷室の説明は、幸のレベルを勘案して随分と噛み砕かれていた。つまり氷室の言わんとしているのは、俗世間的な言葉で表すところの「波長が合う」というやつらしい。

 本来であれば氷室の力を受信する為には、氷室が意識してその相手に合わせる――いわゆるチューニングをしなければならないそうだ。ラジオの局を探すような、楽器の音程を正確に取るような、そういったイメージの「合わせ」である。ところが幸は違うようで、特にそれと頑張らなくてもシンクロしている状態らしい。氷室の力は意識的に相手に向けるものとは別に、体温のように常日頃からうっすら滲み出てもいるのだそうだ。そうなるとシンクロする幸が近くにいると、自然と「ものを治す、癒やす」力が流れ込むわけで、結果として感情の振れ幅が大きくなるのだという。

 泣くという行為がストレス発散になることと原理的には近い、と氷室は言った。

 とりあえず受けた説明に「そういうもんか」と幸は思ったが、「単純だから」を理由に挙げたのはいかがなものかとも同時に思う。

 いずれにせよ氷室自身も最初は半信半疑だったらしい。

「俺としても初めてのことだ。隠れた才能があるのかもな」

「生まれて初めて取柄らしい取柄にめぐり会えたのかもしれませんけど、釈然としませんね」

 ぷいっ。

 幸はもう一度勢い良く鼻をかんだ。氷室の解説を聞いている内に随分落ち着いたようで、ようやく涙は止まってきた。その代償として、両手はティッシュで一杯になったが。


*     *     *     *


 その後、お茶を運んできてくれた氷室のお母さんが幸の赤い目を見て、「自分の息子がうら若い女性をこんなに泣かせるなんて」と盛大な勘違いをしてしまい、一瞬だけ修羅場になりかけた。

 幸が必死に「お母さん違うんですこれはそういうあれじゃないんです」と訴えたが、覆水盆に返らず、お茶がひっくり返るのを止めることはとうとうできなかった。南無三。最終的に、零れたお茶を氷室が無言で拭いている間、幸が必死に事の顛末をしどろもどろつっかえながら説明し、ようやくお母さんは息子への非難を止めてくれた。

 今はすっかり落ち着きを取り戻した部屋の中、三人でコの字に座卓についている。

「ごめんなさいねー、取り乱してしまって」

 ころころと屈託なく笑う母に、氷室がため息で返した。

 既に三人の前には新しいお茶が淹れられている。両手で湯呑みを持ちながら、氷室のお母さんが幸に目を向けてきた。

「うっかりしてたわ。本当に泣いていたのなら、その子がもっと心配してるのに」

 その子?

 って、どの子?

 幸が首を捻っていると、お母さんが「あ、いけない」と右手を口に添えた。

「見えていないのよね。でも勿体ないわねー、こんなに珍しい光景も中々ないのだけど。勿体ないわー、勿体ない」

「お袋」

「なあに、稜さん」

「一人で話を進めないでくれ。こいつは一般人だから何も見えない。そして俺も、お袋ほど見えるわけじゃない」

「あらやだそうだったわね、ごめんなさい」

 親子の会話はするすると進んでいく。が、幸にはちんぷんかんぷんだ。

「な、何が見えてるんですか?」

 かろうじて聞きとれた会話の断片からすると、氷室のお母さんには何かが見えているらしい。だが残念なことに、それが何かは幸には当然分からない。

 これまでの流れからいって、多分超常現象というかオカルト的な何か――いわゆる守護霊とか悪霊とか生霊とか、そういった類なのだろうか。

 どうしよう、変な何かに取りつかれてますよとかそういうこと言われたら立ち直れないだって小心者だもの。この際良いものじゃなくていい、せめて悪くない何か、可もなく不可もなくぐらいだったら尚嬉しいから何かそういう極力無害そうな奴であってほしい。

 幸が完全に固まっていると、お母さんはにっこり笑って正解をオープンしてくれた。


「座敷わらしよ。まあー、本当に珍しいこと」


 凄いのきた。

 良く聞く「ご先祖が祟ってますね」とかそういう初心者レベルじゃなかった。想定から斜め四十五度上だった。

 お母さんは「あらあらまあまあ」と目を輝かせている。どうやら本当に珍しいらしいが、こんな時にどういうリアクションを取るのが正解なのか、人生経験の浅すぎる幸には無理難題すぎた。

 目を泳がせていると、氷室の視線とぶつかる。と、おもむろに氷室が口を開いた。

「やっぱりか」

「え?」

「たまにまとわりついてる」

「は?」

「調子の良い時に薄らぼんやり見えてはいたんだがな。俺はそういった類を見るのがあまり得意じゃないから、まさかとは思っていたが」

 氷室の視線がすい、と横に動く。幸の右手側だ。

 それは非常に覚えのある視線だった。

「……もしかして靴を見てたんじゃなくって、その座敷わらしとやらを見てたんですか?」

 採用初日に就活用の黒パンプスを穴が空くほど見られた記憶は新しい。パンプスが駄目なのかと考えもしたが、それは別の無難な靴に履き替えても同じことだった。

 駄目な理由を言ってくれ、と詰め寄ったこともある。

 しかし氷室は「好きな靴を履いていい」と言った。あの時、よーく思い返してみると、氷室は多少面食らったような顔をしていた。今ここにきて種明かしをされ、なるほど合点がいった。両者の考えていることが靴と座敷わらし、次元が違いすぎて噛み合わないのも道理だ。

「まあな。悪いものじゃないらしいのは分かっていたんだが」

 語尾を濁した氷室は、感心したように顎に手をやった。



「座敷わらしって、座敷にいる子供だから座敷わらしなんじゃないんですか」

 とりあえず持てる知識を総動員して、幸は現状理解に努めることにした。

 東北の古い旅館などにいるとされる座敷わらしの話は聞いたことがある。彼らがいると商売が繁盛したり、家が隆盛を極めるというのが通説だったはずだ。

 それがどうして自分にまとわりついているのか。

 座敷わらしは座敷わらしらしく、座敷にいてしかるべきじゃないのか。

 そんな幸の疑問を汲み取ったか、氷室が首を捻った。相変わらず視線は幸とは合わず、幸の右手側に注がれたままだ。

「本来そういうもんだがな」

「なんでこの子? は、ついてきてるんですか?」

「さあ。多少規格外にアクティブな座敷わらしなんだろう」

 なんだそれ。

 適当にも程があんだろ、と幸は叫びそうになったがここはぐっと堪える。どうせ舌戦を挑んでみたところで、勝てた試しがない。まして今話題になっているのは、幸にはまったく見えていない世界の話なのである。

 この雲を掴むような話。

 成人とされる二十歳を越えて尚、こんな話を真面目にするなど夢にも思っていなかった。影も形も見えず、気配さえも感じない。だが氷室や氷室のお母さんが嘘やでたらめを言っているようにも見えず、それをする利益も見えず、摩訶不思議としか言いようがない。

 色々と幸が考えていると、横から声がかかった。

「心配なんですって」

 呆れたような、優しい笑みを含んだ声は、氷室のお母さんからだった。

「え?」

「だから『つい』だそうよ」

 顔は言わずもがな、それと隣接している頭も限りなく平平凡凡だ。そんなことは誰より幸自身が幼少のみぎりから自覚している。そんな幸にとって、お母さんが言うことの内容全てがとんちんかんだった。

 ダヴィンチも真っ青なくらい、訳が分からない。

 暗号か。暗号なのか。自分は試されているのか。初対面なのに何を試されてるのか。初対面だから何かを試されているのか。しかし文脈も見えなければ行間も読めないが為に適切な相槌さえ打てないこの状況で、これ以上何をどうしろと。輪ゴムできっちきちに縛られて、煮立った鍋に放り込まれる寸前の蟹並みに、手も足も出ない。

 およそ十秒で日本海溝より深く悩んだ挙句、幸は白旗を上げた。

「お母さんすみません、何が何だか私にはさっぱり」

「あらやだごめんなさい、先走っちゃって」

 掴みどころのない彼女は、僅かに視線が合わない。辿ってみると、それはある時には幸の左側であったり、ある時には少し手前に注がれているのだ。

 とても演技には見えない。この視線の動きは、明らかに何かを捉えている。そして動きを正確に捉えているのだとすれば、アクティブが過ぎると言いたくなる程の落ち着きの無さだ。

 先に氷室が言った、「多少規格外にアクティブ」という表現が俄かに現実味を帯びてくる。

「稜が連れてきたお嬢さんだから、気が緩んじゃったわ」

 ということは、こういった話は普通の初対面にはしないということだろうか。どうも氷室家の基準が良く分からない。

 氷室のお母さんは一度お茶に口をつける。

 少し休憩した後、「こんな変な話をしてごめんなさいね」と困ったように笑いながら、話の続きをしてくれたのだった。 


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