第18話 雇い主の秘密



「まあ適当に座れ」

 氷室に促されて、幸はとりあえず座卓の一辺に置かれていた座布団に座った。

 通されたこの部屋は玄関とは反対側の方角にあるらしく、部屋の一辺が本当に昔ながらの縁側になっている。今は雨戸含む全てが開け放たれており、庭にある大きな楠が見える。

 五月の風が通り抜けて気持ちいい。

 車回しのあった表玄関側は見栄えの良い美しい庭だったが、裏手はグラウンドのように固い砂地で広い空間になっている。広さも小学校のグランドくらいありそうだ。氷室が小さな頃は遊ぶ場所には困らなかったであろうことが容易に推察できた。

 氷室が幸の向かい側に胡坐をかいた。

「実際に仕事をもう少し手伝いたい、ということだったな」

「えーと、はい。もう少しと言わずもっと、ですけど」

「結論から言うとそれは無理だ」

「なんで!?」

 ばっさり切って捨てられて、思わず幸は座卓に前のめりになった。

「それはあれですか、やっぱり私の頭が残念だからとかそういう感じですか」

「違う。少しばかり特殊な技能が必要なだけだ」

「技能? 資格ではなく?」

「そう」

「その特殊技能とやらは、努力とか経験とかで身につけられないものなんですか?」

 今や伝統芸能や伝統工芸といった世界でさえ、何も知らない都会育ちの人間が後継者になる時代だ。いくら特殊といっても、氷室ほどのレベルではないにせよある程度まではできるようになるんじゃなかろうか。

 しかし幸のそんな希望的観測は、次の言葉で打ち砕かれた。

「残念なことに生まれ持つかどうかの能力だ。その点で努力の余地はない」

 だから幸がその部分を手伝うというのは、土台無理な相談なのだと氷室は続けた。

 多少打ちひしがれながらも、ここで一つの疑問が幸の頭に浮かぶ。

 では一体どんな技能をこの雇い主は持っているのか。少なくともこれまでの二カ月間で、目に見えて幸がそれと分かるような特殊技能らしい特殊技能は、披露されなかったような気がする。

 おのずと幸の二の句は決まった。

「どんな技能なんですか?」

 すると、氷室の顔が明らかに曇った。予想外の反応だ。

 何かを言いたげにしつつも言葉を探しているような、そんな微妙な面持ちになる。

「氷室さん?」

「一応ここから先は守秘義務に該当するぞ」

「誰にも言っちゃいけないってことですよね」

「まあそういうことだ。面倒だぞ。それでも知りたいか」 

「面倒っていうのがよく分かんないですけど、はい知りたいです」

「……そうか」

 氷室が重めのため息をついた。

 そのまま思案顔を見せた後、氷室が改めて口を開いた。

「手を出せ」

「手?」

「口で説明するより実演した方が早い」

「はあ、そうですか……どうぞ」

 言われるままに、幸は右手を差し出した。氷室に向かって握手を求めるような格好だ。氷室が応えるように右手を出し、流れのまま幸の右手を握った。

 大きい。幸の手がすっぽりと収まってしまう。

 そして、温かい。

「少し痛いが我慢しろ」

「え?」

 断りを入れた瞬間、氷室が思いっきり握る手に力を込めた。

「ちょっ、いたたたた!」

 なんでそんな親の敵の如く握り込むのこの人!

 氷室は涼しい顔をしていて、多分本人的には全力には程遠い力なのだろう。しかし幸には痛い。あまりの痛さに幸が腰を浮かしかけた時、氷室がふと手を離した。

 幸は手を差し出したまま軽く放心した。物凄く、じんじんとしている。

「まだ痛いか」

 真顔で聞いてくるのが凄い。

 幸は若干涙目になりつつ、頷いた。

「いい感じに痺れてます」

「だろうな」

 と、氷室がもう一度右手を差し出してきた。思わず幸は放り投げていた右手を引っ込める。この痺れている状態でもう一回同じことをされたら、次は骨が砕ける。

 完全に警戒態勢に入っている幸を見て、氷室が苦笑した。

「大丈夫だ、もうしない」

「ほ、本当ですか?」

「ああ。むしろ治してやるから」

「……治す?」

 幸は久しぶりにきょとん、となった。

 しかし氷室が促すように右手を出したままなので、疑問を差し挟む余地もなく、幸はもう一度言われるままに痺れる右手を座卓の上に乗せた。

 氷室の手がもう一度重なる。今度は触れるか触れないかの、遠慮がちな握手だった。

 やはり氷室の手は温かく、そして大きい。

 世の中には手を専門とするタレントさんもいると聞くが、氷室の手ならできそうだ。指が長く爪の形が整っていて、関節は適度に男らしくごつい。しかも体質なのだろうが、体毛が薄いが為に見目が良い。手タレになる為に生まれてきたような手だ。何しょうもないこと考えてるんだ自分は。

 綺麗な手に釘付けになって下らないことを考えていた幸は、そこではっとなった。

 握手中の手を見る。

 顔を上げて、氷室を見る。

 自分の手を引いてみる。何の抵抗もなく氷室の手は解かれた。幸は自由になった手を、自分の目の前にかざしてしげしげと眺める。握って、開く。もう一度、握って、開く。

「……痛くないんですけど」

 五秒前までは本当に痺れて痛かったはずだ。

 なんで、どうして。摩訶不思議すぎて、何をどうすれば適切な質問になるのか。それさえも幸には分からなかった。

「だから治してやると言っただろう」

「すいませんやっぱり何言ってるか分かんないんですけど解説お願いできますか」

 もはやこのやり取りが「氷室相談所あるある」の光景になっている。それもどうかと思うが、分からないものは分からないのでどうしようもない。

 問われた氷室は事もなげに言い放った。

「つまりこれが特殊技能だ」

 言われたことに、幸の腰は今度こそ抜けた。


*     *     *     *


 その後に続いた氷室の解説を、幸なりに解釈するとつまりこういうことらしい。

 理由は良く分からないが、氷室の家は代々こういった科学では説明できない不思議な力を持つ者が生まれる。先の氷室の力でも分かるように便利なことも多く、昔からいわゆる支配者階級に重用されてきた。よって、氷室の家自体は貴族でも何でもないが、その特別な能力の為に時の為政者から厚遇されたり、地の民に為政者とはまた別の意味で敬われたりして、それなりの家格になった。その結果がこの広大な敷地に建つ立派な家屋だそうだ。

 氷室本人曰く「こんな眉唾な能力、公言するようなもんじゃない」らしい。

 能力のあるなしは本人が一番分かっていることだろうに、当の本人が眉唾ものとぶん投げる辺りが凄い。ただ氷室がそう言う理由の一つには、氷室が見せた能力は比較的体感できるからまだましとしても、他の親兄弟が持つ能力は万人に見えたり体感できたりするようなものではないらしく、結局のところ信じる信じないは受け手に依存するからだそうだ。

 再現性や視認性があやふやなものを、大手を振って言ったところでペテン師扱いだ、と。大昔はともかくとして、現代日本ではそういう扱いになるのだと、氷室は淡々と述べた。

 というわけで、昔から氷室の家と付き合いのあるところは別にして、だから氷室はそういった家の出であることも、自分が特殊技能を持っていることも、ほとんど誰にも言ったことがないそうだ。依頼を受けて状況的にやむなく明かす場合を覗いて、幸が二人目だと言う。

「もしかして一人目って、昨日お話してくれた滅多に陸にいないお友達だったりします?」

「不本意ながらそうだ」

「なんでって聞いてもいいですか?」

 今回は幸があまりにも食い下がった為に、やむなく氷室は教えてくれたのだ。一人目となった猛者は、一体何をどのようにして氷室の秘密を知ったのだろう。

 問われた氷室はというと、軽く肩を竦めた。

「うっかり力を見られた」

「どういう状況ですかそれ」

 これだけ用心深い氷室がそんな失態を犯すなど、俄かには信じ難い。

「小学校の低学年だったから、不用心だっただけだ。あいつが学校帰りにコケて膝擦りむいて道端で途方にくれていたのを、たまたま通りがかったから治してやった」

 以来、今日に至るまで腐れ縁は続いているのだという。

 二人の出会いだけを聞いていると、友人の方が氷室に一生頭が上がらなさそうな始まり方だ。が、途中が端折られ過ぎてて、件の友人がどのタイミングで氷室に上から目線になったかは定かでない。まあいずれにせよ付き合いが続いているということは、それなりに良い関係を保っているのだろう。

「だからまあ、見られたというと若干語弊があるわけだが」

「でも通りすがりなのに、氷室さん優しいですね」

「今なら確実に見なかったことにして通り過ぎる。あの頃の俺は自分で言うのも何だが純粋だった」

 心底後悔しているように、氷室が目を瞑った。

 後悔しているのは、バイタリティ溢れるその友人に対して接触を持ってしまった自分のようだ。力をうっかり使ってしまったことそれ自体を後悔しているわけではない、そんな風に幸には感じられた。



 一呼吸置いて、氷室がまた口を開いた。

「特殊技能が何かは分かったか」

「えーと、はい。一応何となくは」

 とりあえず幸には逆立ちしてもできない芸当であることだけは良く分かった。

「これがまあ、気持ちというか精神にも同じ効能を発揮する」

「えーと、解説お願いします」

「俺の仕事がごみ箱になることだと言ったのを覚えているか」

「それはもう」

 忘れるはずがない。

 今では珍しくなくなった「何言ってんだろうこの人」の、栄えある一回目がその台詞に対してだったのだ。

「覚えてます。氷室さんが何言ってるのか理解できなかった最初の言葉でした」

「……そうか」

 氷室が微妙に残念な顔になった。

「だがまあ、そうだろうな」

「色々考えたんですよ。氷室さんって実は人間じゃないのかなーとか」

「おい」

 氷室の片眉が吊り上がった。怖い。

「大丈夫です今はちゃんと人間だって分かってます」

「そうか、安心したぞ。大体にして悩みというのは誰かに言えばある程度すっきりするものだ。それこそ溜まったごみを捨てるようにな」

「……そっか。だからごみ箱って言ったんですね」

「表向きはな。ただ相談所の態を取ってはいるが、以前お前が指摘した通り、俺は悩みを聞きはするがまともには答えない」

「ですね」

「にもかかわらず相談者は満足して帰っていく。これにお前は疑問を持った。間違いないか」

「はい」

「ここで最初に戻る。さっき俺はお前の手の痛みを取っただろう。同じことを相談者の精神にやっている、と言えば何となくわかるか。相談者自身は知らないことだが、相談のメインは話を聞くことじゃない、そっちだ」

 痛みを取る。ということはつまり、心を癒やしている、というような解釈なのだろうか。

 幸の目から鱗が落ちた。

 そうであれば、今までの色々なことが腑に落ちる。知らぬ間に抱えていた心の痛みが和らぐのなら、悩みを聞いてもらったという事実も相まって、相談者としては満足もするだろう。

 心が強く元気になれば、気の持ちようで悩みにも少しは立ち向かえるようになる。正攻法ではない――というか凡人には真似ができない芸当――だが、結果として相談所としては成り立つという寸法だ。

「もう一つ。特殊技能なだけあって、無尽蔵じゃない。力を使えば当然、俺は相応に疲れる」

「あ……だから、紹介制?」

 氷室が一つ頷いた。

「それと、こういった手合いの家業だ。相談所とは別に、相応の筋からの依頼も当然ある。相談所が志納であっても生活に困らないのはそういうことだ」

 幸の口は開きっぱなしだった。「相応の筋」も「そういうこと」も想像が追いつかないが、おそらく大事にされているのだろう。それは先程氷室が教えてくれた、代々の話からも推し量ることができる。

「氷室さんって、本当に凄かったんですね」

「本当に?」

「あ、いえ。外見だけでも役者さんみたいなのに、そんな特技まであるなんて、と思って。私なんて何の取り柄もないですから。どれか一つでもいいんで、私に分けて欲しいなあ」

「……いいぞ。この特殊技能を貰ってくれ」

「また一番貴重なものを惜しげもなく出しますねえ」

「どうせ好きではないからな。できるものなら、熨斗つけてやるところだ」

 氷室が苦笑した。

 それを見て、幸の胸が不意に締め付けられた。心臓が嫌な音を立てて脈打った。


 何て顔をするのだろう。

 貰ってくれ。

 それは多分本心だったのだ。思い至って後悔するも、もう遅い。


 沢山の不本意な思いをしてきたのかもしれない。もっと言葉を斟酌しなければ、不愉快だったり傷付いたり、そういうことが多かったのかもしれない。

 楽しい思い出ばかりならば、友達の一人しか知らないということもなかっただろうに。

 少し考えれば分かったはずなのに、多分、幸は土足で氷室の心に踏み込んだ。それを責めない氷室が、尚のこと辛かった。慣れていると言いたげに諦めて小さく笑う姿に、一線を越えてしまった罪悪感が募る。

 本当はきっと、言いたくなかったのだ。

 それを無理に聞きだした。

 その上で、無神経に羨ましがった。氷室本人がどう思っているのかを無視したままで。

「……ごめんなさい。でも私、本当に嬉しい力だなあって思って、」

 氷室が虚を突かれたような顔をして、固まった。

 幸の喉が詰まる。詰まるけれども、今言わねばならない。幸は氷室の目を真っ直ぐ見て言った。

「そんなつもりじゃなくて、全然違って。氷室さんのことを信じてないとか、変だとか、そういうことを言いたかったんじゃないんです。私と違って、氷室さんは何でもできて凄いなあって本当にそれだけで。それ以外の気持ちなんて、なんにも」

 声が震えて言葉がつかえる。

「ごめん、なさい」

 ただでさえ語彙が少ないところに動揺してしまい、幸は自分の気持ちを正確に謝罪の言葉に織り込むことができなかった。

 鼻の奥が痛くなる。

 多分今、みっともない顔になっている。けれどそれでも幸は、氷室から頑なに目を逸らさなかった。どれだけ不細工に見えていてもいい、視線を合わせられないようなやましい気持ちではないことだけが伝わればいい。



「……分かっている」

 どれくらいそうしていたかは分からない。その瞬間は不意に訪れた。昨夜と同じように、氷室がそっと幸の目元を拭った。

 違うのは左手だったことだ。

 けれどその手はやはり温かかった。

 

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