第17話 足元の謎、再び



「……おはようございます」

 布団の上で正座をして、幸は目を開けた氷室に挨拶をした。

「ん……ああ」

 おはよう、と続いた声が掠れていても、寝起きの氷室は滅法格好良かった。

 本当に顔の造形が整っている。が、いつもよりぼんやりしているのは気のせいじゃない。表情が無防備だ。目力もない。

「氷室さん、大丈夫ですか?」

「ん……何がだ?」

「平たく言うと、具合が悪そうです」

 布団の上に正座をしたまま、幸は見たままの感想を述べてみた。

 今しがた目覚めたばかりの氷室とは違い、幸はおよそ一時間前には目が覚めていた。早起きは得意な方なのである。そのまま音を立てずに着替えも済ませ、窓の障子越しに徐々に明けていく朝を堪能していた。尚、綺麗な寝顔も合わせて堪能したのは余談だ。

 昨夜は寝落ち同然だった為、眠りが随分と深かったらしい。

 氷室がいてくれたお陰か変な音も気にならず、朝の六時に幸の目は自然と覚めた。

 その一方で、ようやく薄らぼんやりと覚醒した氷室はと言うと、動きが非常に緩慢だ。とりあえず上半身は起こしたものの、右手で思いっきり頭を抱えている。目も、何かを堪えるように閉じられている。

「……心配ない」

「その体勢で言われても説得力皆無ですね」

「ただの低血圧だ」

「え」

「別に頭が痛いわけじゃない。血の気が引いているだけだ」

「いや、それもどうかと思うんですけど……」

 低血圧になったことがない幸には分からないが、まさか毎朝この状態になるのだろうか。もしもそうなら、ちょっと気の毒だ。

 少しして、氷室が腕を解いて目を開けた。そのまま掛け布団を無造作に除ける。一瞬幸は目を逸らしかけたが、その心配は無用だった。

 氷室の浴衣はまったくもって寝乱れていない。

 胸元はしっかり合わせられたままだし、足元も今から横になりますくらいの勢いで捲れてもいない。さすが、合気道をやっていたからだろうか。完全に肌蹴ていた幸とは大違いだ。ある意味、氷室が低血圧で良かったかもしれない。またしても醜態を晒すところだった。

「何時だ?」

「七時十五分です」

「……そうか……」

 言いながら、氷室が欠伸をする。その動きもゆっくりとしていて、本稼働はしばらく先になりそうだ。

 と、衣擦れの音が響く。

 つられて窓際を見た幸の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

「ちょ、ちょっと氷室さん!?」

「……あ?」

「せめて事前情報下さい!」

 叫びつつ、幸は正座のまま高速で回れ右をした。

 びっくりしたびっくりした本当にびっくりした。いきなり浴衣を脱ぎ始めるとかそれ何のサービスですかと。

 肩口から背中の半分くらいまで見てしまったのは不可抗力だ。筋肉が程良くついて均整のとれた身体が朝日を浴びて綺麗だったなんて、口が裂けても言えない。口に出したが最後、痴女確定だ。

 心臓が跳ねている。口から飛び出そうだ。

 昨日から今日からこんなのばっかりである。

「悪かった。もういいぞ」

 声をかけられて、恐る恐る幸は背中を振り返った。

 そこにはいつも通りの服装の氷室が立っている。動いたお陰か、先程の起き抜けよりは多少顔色が良くなっていた。

「本当に低血圧なんですね……」

 これほど不用意な氷室を初めて見た。

「……まあな。すまん」

 素直な台詞を吐くバツの悪そうな顔も、新鮮だった。

「いえ、いいんですけど」

 言いつつ幸の口元は緩んだ。

 ちょっとだけ得した気分だ。言うと勿体ない気がするので、黙っておくが。



 氷室の部屋に運ばれた朝食をゆっくりと食べ、氷室と幸が涼月を出たのは十時だった。

 先代と、仲居さん他何名かがわざわざ見送りに外まで出てきてくれた。幸は何度も何度もお礼を言いながら、氷室の車に乗り込んだ。

 ミラーを覗くと、皆がその場に立ったままでずっと見送ってくれている。

 思わず幸は窓を開けて、遠ざかる彼らに大きく手を振った。

 完全に覚醒した氷室の運転で、滑るように車は走る。最初の角を曲がって涼月が見えなくなると、ようやく幸は窓から出していた手と顔を引っ込めた。

「律儀な奴だな」

 喉で笑う氷室は、もういつもの氷室だった。

 口を尖らせつつ、幸は昨夜のことを考えた。最後の方は聞いていなかったかもしれないが、今一度この雇い主には言っておいた方が良さそうだ。

「あのう」

「どうした」

 大きな手でハンドルを流麗に捌きつつ、氷室が応えてくれる。

「昨日の続きなんですけど、私モリモリ働きますんで、何でも言って下さいね」

 結局この出張も、幸は完全に役立たずだった。むしろ足手纏いだったといっても過言ではない。

 すると氷室が考え込む素振りを見せた。少しの間、会話が途切れる。幸が窺うと、氷室の横顔は存外に真剣だった。運転をしているからだけとは思えない。

「氷室さん?」

「……今のままでいい、と俺が言ったら?」

「駄目です」

「即答か」

「こればっかりは譲れません」

「何故だ」

「だってあんなにお給料もらってるんですよ。このままなんて穀潰しもいいところです」

「お前は真面目だな」

 氷室がため息を吐いた。

「分かった」

「じゃあ、」

「だが条件がある」

 氷室の言わんとするところが読み取れず、幸は首を捻った。

 真面目に働く、というか氷室の仕事の手伝いをするのに、一体何の条件がいるというのだろうか。何らかの資格が必要とか、頭脳的な条件だとちょっと時間がかかるかもしれない。

 頑張る所存だが、もしもそうならそれはそれで申し訳なくもある。

「えっと、資格を取れとかなら申し訳ないんですが多少の猶予を下さい勉強するんで!」

「いや、そうじゃない」

「土日も働くとかですか?」

「それは労働基準法に抵触する」

「え、じゃあ条件って」

「仕事の実態を知って、お前がどうしたいか……」

 氷室が言い淀んだ。

「……説明が難しいな。少し寄り道をするがいいか」

「あ、はい。それは全然大丈夫です」

 答えた幸に、氷室が僅か視線を寄越してきた。

 それが躊躇いがちに見えたのは、幸の気のせいだっただろうか。


*     *     *     *


 涼月を出てから小一時間ほど走った頃合いだった。

 氷室が車を停めたのは、涼月ほどの大きさはないものの古くて立派な日本家屋の建つ敷地の中だった。ただし、涼月とは違い個人邸宅らしい。商売をやっていそうな看板や行燈、暖簾といった類は見えないからだ。

 寄り道をする、と氷室は言っていた。つまりここがそうなのだろう。だが何の為に寄ったのかが皆目見当もつかない。

「ここは?」

「実家」

「は? 誰のですか?」

「俺の」

「は!?」

 幸の声は力一杯裏返った。

 前情報なしにご実家詣でとか、どんな罰ゲームだ。

 突然のカミングアウトに幸は完全にテンパる。こんなことならもう少し真面目で綺麗目なワンピースとかを着替えに持ってくるべきだった。どうしよう、だらしがないとは思われないだろうが、がっかりされる可能性は多分にある。一応スカートにカットソーという普通の格好ではあるが、普通の格好であるが故にこんな普通の従業員を使っているのか、なんて言われたらどうしよう。

 うろたえつつも少しでも情報を得るべく辺りを見回してみる。

 うん、車回しがある個人邸宅なんて初めて見た。しかもただの石組みではなく、内側は花壇になっている。手入れの行き届いた色とりどりの花が咲く様は、目に綾だ。

 母屋に目を向けると日本邸宅に相応しい重厚な瓦屋根で、立派な鬼瓦まである。説明されなくても分かる。おそらく昔からの大地主とか、そういった類の旧家であることはそれと知れた。

 え、なんで、どうして。幸の頭は混乱した。そもそも仕事をもう少しまともに手伝いたいという一心が、どうしてこうなった。幸の仕事と氷室の実家、両者にどんな相関関係があるというのか。

 まったく心の準備もできていないところに、追い討ちをかけるように玄関の扉が開かれる音がした。からからと、大きな横引き扉がゆっくりと動く。その向こう、家の中からひょこりと顔を出したのは、壮年の小柄な女性だった。

 四十歳くらいだろうか。見ようによってはもう少し若いかもしれない。

 こちらの存在を認めるなり、和服のその人は花が咲くように笑顔を見せた。

「まあ、稜さん? 珍しいこともあるのねーあらあらまあまあ」

 その人は、本当に嬉しそうな笑顔を見せつつ玄関を出て、ぱたぱたと小走りで駆け寄ってきた。

 と思ったら、幸たちの手前二メートルで盛大にコケた。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 慌てて幸は駆け寄り、手を差し伸べる。

「いたた……ごめんなさいね」

 困ったように笑いながら、その人は幸の手を借りて立ち上がる。そして砂に汚れてしまった裾やらを手で払った。

 危なっかしさと可憐さが同居する様は、まるで少女のようだ。

 これだけ大きい家だ、お手伝いさんだろうか。氷室のことも、「稜さん」と親しげに呼んでいた。気を取り直して、といった風情で彼女が小首を傾げた。

「お帰りなさい、稜さん。それに、いらっしゃい、お嬢さん」

「あ、えっと、初めまして。佐藤 幸といいます。氷室さんの事務所で働かせてもらってます」

 慌てて幸は頭を下げた。

 と、その女性は右手を頬に当て、これまた嬉しそうに破顔した。ころころと良く笑う人だ。

「あらあらまあまあ、いつも稜がお世話になってます」

 幸の頭に疑問符が浮かんだ。

 思わず答えを求めて氷室を見上げる。氷室は何かを含むような顔で、幸を見下ろしてきた。

「お袋だ」

「え!?」

 嘘つけ。

 咄嗟の突っ込みは声にならなかった。だって氷室は三十二歳で、目の前のこの女性は十歳も離れていないように見える。姉、と言ってもさしたる問題はなさそうだ。

「今年で五十二だ」

「ええ!?」

 若すぎるだろどう見ても!

 度肝を抜かれた幸が不躾ながら二度見しても、氷室のお母さんはにこにこと屈託ない。本当に血が繋がっているのだとしたら、氷室は笑顔というものをこの人のお腹の中に忘れてきたとみえる。

 俄かには信じ難いが、特に訂正が入る様子もないので、目の前の女性は間違いなく氷室のお母さんなのだろう。

 そのつもりで改めて比べると、通った鼻筋や薄めの形良い唇など、随所に良く似た雰囲気を持っている。ただ、氷室の身長はおそらくお父さん譲りだろう。お母さんは幸よりも小さく、氷室とは頭三つ分は違う。

「それにしても稜さんが急に寄るなんて珍しいのね。……あら?」

 お母さんが小首を傾げて幸の足元を見た。

 デジャヴを感じる視線だ。

 そのまま何かを言いかけてお母さんが口を開こうとしたが、氷室が機先を制した。

「お袋、その話は後だ」

「……まあ」

 不思議そうにお母さんが首を傾げて、目を瞬く。氷室はそれに構わず、玄関に向けて歩き出した。

 一瞬、幸はお母さんと顔を見合わせたが、すぐに氷室の後を追った。

「親父は?」

 歩きながら氷室が問う。

 車を停めてから玄関までの距離が長い。雑談をする暇があるのが凄い。幸の実家は、門柱から五歩で玄関扉に辿りついてしまう。

「少し出ているわ。お昼までには戻ると思うけど」

「ふうん」

「顔ぐらいお見せなさいな」

「まあ……そうする」

 ちらりと氷室が振り返り、幸を見る。

 氷室といいお母さんといい、さっきから意味深な視線が多すぎる。しかし小心者の幸は結局聞けず仕舞いで、促されるまま氷室邸へと通されたのだった。


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