第16話 優しさの源泉



 無言で氷室が幸の手を引く。そして幸は、用意されていた座布団に座らされた。

 座卓がある。向かい合わせに座るかと思っていたが、氷室は九十度隣――つまりL字型の位置取りで腰を落ち着けた。

「どうした」

 落ち着きのある低い声は殊更に柔らかかった。

 氷室の右手が幸に伸ばされる。長い人差し指が、そっと幸の目元を拭った。そんな仕草でさえ絵になっている。だがその相手が平平凡凡な幸自身であることに、現実感がまったく湧いてこない。

「また音がしたのか?」

「いえ、そういうわけじゃ……あの、すいません」

 どう説明したものか。この複雑な心中を的確に表すことはすぐにはできなさそうで、幸は曖昧に笑った。無理に笑顔を作った拍子に、また涙が零れた。

「もしかして、聞こえていたか」

 氷室の顔が曇った。しかめっ面とはまた違う、痛そうな顔をしている。

 幸は何も言えなかった。

 返事がないことを肯定と受け取ったか、暫時の沈黙の後に氷室が沈痛なため息を吐いた。

「……悪かった」

「な、なんで氷室さんが謝るんですか」

「一応自覚はある」

「な、なんの、ですか?」

「言葉がきついことと顔が物騒に見えやすいこと」

 思わず幸は氷室を二度見した。そして、涙は止まった。びっくりして出たものは、びっくりすると止まるらしい。

 不本意ながらの告白なのか、よくよく見れば、氷室は未だに若干痛そうな顔をしている。その一方で、今度は幸が焦る番だった。

「え……え? それ、私は言ってない……ですよね?」

 叩きつけるような声と、抑えてはいたのだろうが滲み出る不機嫌さ。幸本人に向けられたものではないことを差っ引いても、十二分に怖かった。

 いつもなら見なかった振りで流せただろうが、今日はタイミングが最悪だった。

 まさに色々と迷惑をかけ続けているところにあんな顔をされて、申し訳なさ不甲斐なさその他諸々が臨界点を突破したのだ。確かにきっかけそれ自体は氷室が出発点なのだが、そもそもの問題はそこじゃない。訳の分からん出所不明の音が諸悪の根源だ。

 だからつまり幸が何を言いたいのかというと、氷室が怖いとかなんとか、そういう類の台詞は口に出してないはず、ということだ。

 鼻をすすりつつ幸がようやく氷室を見ると、目が合った。

「昔、言われたことがある」

 この人相手にそれを言った人の方がむしろ凄い。勇者だ。というより蛮勇か。返り討ちには遭わなかったのか、見ず知らずの人ながらそれだけが心配になる。

「そんなこと言われて、氷室さんはなんて返したんですか?」

「余計な世話だとだけ」

「……氷室さんらしいですね」

「そいつも大概だったぞ。いつか被害者友の会が結成されることがないようわざわざ忠告してやってる、とも言われた」

 心配は杞憂だった。

 被害者友の会とは、重ね重ね凄い人だ。氷室に対して臆さずそこまで言える人は中々いないだろう。しかも完全に上から目線。ただし、その先見の明に拍手だ。

「お友達、ですよね」

 それだけ距離が近ければ疑うべくもなさそうだが、一応幸は確かめてみた。

「不本意ながら」

 受けた氷室が言葉通り、渋々肯定した。

「今でもお付き合いあります?」

「……不本意ながら」

「やっぱり」

 予想は的中した。そこまで遠慮のない応酬ができるのなら、相手に不足はないだろう。

 ところが氷室の眉間の皺は一層深くなっている。

「一年に一度会うか会わないかの付き合いだ。あいつはほとんど陸にいない」

 そこまで仲が良いわけではないと主張したいのだろうが、それは今更だ。

 むしろ幸は、別の部分に引っかかった。

「陸にいない? 何をしてる人なんですか?」

「肉体労働」

 答えは答えになっていなかった。

「そうじゃなくて」

 職業を答えるところだろう、ここは。

 ところが。

「聞かなくていい」

 ばっさり切って捨てた。

 氷室を言い負かせるほど口が達者なその人。どんな傑物なのか想像だけが先走る。喧嘩するほど仲が良いというやつなのだろうか、今一幸には分からなかった。ただ、会えるものなら会ってみたい相手だった。

 やがて。

「落ち着いたか」

「え? ……あ、はい」

 気付けば、幸の涙はすっかり乾いていた。

「あの肉体派が役に立つ日が来るとはな」

「あ、さっきのお友達ですか?」

「素直に頷くのは癪だが、そうだ」

 一々律儀に引っ掛かるあたり、大概氷室も意地っ張りだ。

「今度その人、紹介して下さい」

「機会があればな」

 嫌そうな顔をしつつも、氷室は嫌だとは言わなかった。



 冷静になって考えてみると、氷室の物事に対する動じなさは折り紙付きで、それは彼が本当の意味で大人だからか。十一も下の、と氷室は言った。幸の年齢が二十一だから、足すと、計算上氷室は三十二歳ということになる。

 ちょっと想像もつかないほど大人だ。

 幸も成人式は終わっているが、まだ学生。休学中であることはさておき、一介の社会人経験など当然ない。氷室がいつからこの商売をやっているのか定かではないが、それでもあと十年と少しで氷室のようになれるかと聞かれると、幸の答えは「絶対無理」の一択だ。

 面倒見の良さも、そのあたりの余裕から出てくるのか。

 思いがけぬ出張で、新たな発見が幾つもあった。


*     *     *     *


 うっかり昼寝をしてしまったからだろうか。

 布団に潜りこんでからも幸は中々眠れずに、寝返りばかりを打っていた。そうして部屋の電気を消してから十分ほど経った頃合いだろうか、ふと隣から声がかかった。

「眠れないのか」

「すみません、うるさいですよね」

「別に問題ない」

「そうですか……」

 暗闇の中、会話が途切れた。




 およそ一分後。

「あのー」

「何だ」

「氷室さんて、柔道とか剣道みたいなの習ってたんですか?」

「……どちらも特にやったことはない」

「それであれって凄いですよねえ」

「……何がどれだ」

「正座が凄く綺麗でした」

「お前は早々に諦めていたな」

「す、すいません」

 有難い小言を頂戴した。完全に自分で墓穴を掘った態だ。

 まだ全然眠くない。




 更におよそ一分後。

「合気道をやっていた」

「え?」

「柔道も剣道もやってないが、合気道はやっていた」

「文武両道なんですね」

「……お前は?」

「え」

「武道は多分、得意ではなさそうだが」

「真正面から正確に分析されると心が痛いですね……その通りですけど」

「だろうな」

「勉強はともかく、本を読むのは好きです」

「そうか」

「だから氷室さんの事務所、好きです」

「……そうか」

 結構広いあの事務所にある書架は、幸にとってちょっとした癒やしになっている。暇な時には好きな本を読んでいいと氷室から許可も出ている。暇な時間が五割を越えるのはさておき、有難い話だ。

 氷室専用の小難しい本を借りてここで読めば、睡魔の足しになったかもしれない。

 そんなことを考えつつ、まだ眠くない。

 




 そして更におよそ一分後。

「氷室さんって、三十二歳ですか」

「……ああ」

「大人ですよね」

「そうか?」

「はい」

「……そうか」

 見なくても分かる。多分雇い主は今、怪訝な顔をしている。けれど部屋は暗いので、幸のこの微妙な表情は読み取られていないはずだ。

 もう少し眠くない。




 それを切り出すには、そこから追加で五分を要した。

 既に多少眠くなってきた状態ながら、今日という日が終わる前に伝えておきたいことがある。

「今日はすみませんでした」

「何を謝る」

「氷室さんて、絶対にそう言ってくれますよね」

「……何の話だ」

「基本属性が優しいってことです。最初は凄く怖い人なんだと思ってたんですけど、間違ってました」

「今この時点で盛大に間違えてるぞ」

「え、なんでですか」

「俺は顔を褒められるのはそれこそ枚挙に暇がないが、優しいと言われたことなど生まれてこの方一度もない」

「前半も後半もどっちもどうかと思うようなこと言わないで下さいよ……」

「残念だが事実だ」

「そうですか……でも、他の人はどうでもいいんです。私はそう思います」

「……そうか」

「氷室さん、それも多いですよね」

「何がだ」

「そうか、って」

「そうか? ……確かにそうらしいな」

「自覚してなかったんですね」

「悪いか」

「いいえ。それも好きです」

 そこで一瞬、氷室の声が途切れた。

 幸の頭は徐々に霞がかってきた。暗闇に目を閉じているので、身体が眠りに落ちていく途中だと分かる。だが、まだ話したいことがある。

「何でも受け止めてくれる感じがするから、好きです。私はすぐに『そんなことない』って言っちゃうので、そんな風に……氷室さんみたいに言えるようになりたいなあって、いつも思います」

「……そうか」

「ふふ、また言ってくれましたね」

「いい加減寝ろ」

「嫌です」

「おい」

「だってまだ言ってないことがあります」

「明日聞く」

「今日じゃなきゃ駄目なんです」

「そんな寝惚けた声でも、か?」

「はい」

「分かった。聞いてやるから手短に話せ」

 暗闇の中、ため息混じりの声はやはり柔らかく届く。

 これでどうして、この人が優しくないことがあるだろう。この人の周りにいた人は、この人の何を見ていたのだろう。口には決して出せないそんな問いに、幸の鼻の奥が痛くなった。

「……氷室さん」

「ああ」

「雇ってくれて、ありがとうございました」

「改まって礼を言うようなことでもないだろう」

「違うんです。拾ってもらえなければ、路頭に迷うところでした」

「……どんな状況だ」

「父が入院してるんです。母は学生結婚で職業経験なしの専業主婦で。あ、今はパートやり始めましたけど、いきなり正社員っていうのも難しくて」

「休学の理由は、それか?」

「はい」

「……そうか」

「すいません。本当は最初に言わなきゃいけなかった事情なのに、ずっと言えずにいました」

 氷室に雇われてから、そろそろ二カ月になる。

 事情も何も説明していないのに、祝祭日も働かせてもらっている。バイト代もそれなりで、正直バイトというには失礼な金額を頂戴している。

 返すべき恩は沢山あるのに、自分ときたら何一つ満足にできていない。

 今日だってそうだった。どこで仕事が始まって、どこで終わったのかが分からなかった。もう少し自分が注意深かったら、小さい事でもいい、氷室の手伝いができたかもしれなかったのに。

 けれど氷室は幸を咎めない。それが苦しい。

「私、まだ全然何もできないですけど……このご恩は必ず返しますから」

「鶴だったのかお前は」

「茶化さないでくださいよ、もう……」

 そろそろ意識の境目が怪しくなってきた。ついでに言うと、呂律も怪しい。

 幸が伝えたかったことは一通り伝えた。部屋の中は相変わらず暗闇のままなので、氷室がどんな顔をしているのかは分からない。

「氷室さん」

 返事がない。

「寝ちゃいました……?」

 やはり返事がない。

 話に付き合わせすぎてしまったようだ。

「……寝ちゃったんですね。すいません、私も寝ます……もう、限界です。でもこれだけは……ありがとうございます、本当に……本当、ですよ……」

 既に寝てしまっていると分かってはいても、不思議と夜が怖くなかった。

 別の布団とはいえ隣に氷室がいるというだけで、何も怖くはなかった。


 そして幸の意識はすぐに眠りに沈んでいった。


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