第15話 色々と予想外の展開についていけず
美味しすぎた晩御飯の後、幸は温泉を堪能した。
俗に美肌の湯と言われる泉質だそうで、風呂上がりの身体はしっとりつるつるになった。何これ凄い。披露する相手なんぞいないけれど、それでも幸のテンションは盛り上がった。
戻ってきた部屋で一人濡れた髪を拭きつつ、伸びたなあ、などと独り言が出る。
かれこれ一年は美容室に行っていない。最初はただ伸ばそうと思っていて、でも毛先を傷めないように定期的に揃えには行くつもりだった。蓋を開けてみればそんな暇もなく、そんな気持にもならず、伸びた髪はもう肩甲骨に届いている。
さっさと乾かしてしまおう。
そう思って鏡台に備え付けのドライヤーに手を伸ばすと、背中で小さな音が鳴った。
「……?」
思わず幸は振り返る。誰かがコップをテーブルに置くような、そんな音だった。
けれどだだっ広い部屋には誰もいない。
気のせいか。その割りには、結構はっきり聞こえたような気がしたけど。不思議に思いつつ耳をそばだててみるも、ぱたりと音は止んでしまった。
首を捻りつつ幸は鏡台に向き直り、とりあえず髪を乾かすことに専念した。
次の音は、ドライヤーを切った直後だった。
かたり。
さっきと似たような音がどこかで鳴った。部屋の外では絶対にない。明らかにこの部屋の中だ。そして今度こそ気のせいなんかじゃない。
幸はドライヤーを鏡台に置いて、立ち上がった。部屋の中に視線を走らせる。とりあえず、一番何かが隠れていそうな押入れを開けてみたが、中には上下段ともに布団が仕舞われていて、特に怪しい何かは無さそうだ。シロ判定を下し、幸はそっと押し入れを閉めた。
腕組みをして考えてみる。
古い家だ、柱か何かが軋んでいるのだろうか。
いやでもちょっと待てよ。何かが軋むなら「かたり、ことり」っていう音はちょっと違うような気がする。それなら普通は「ぎし」とか「みし」じゃないのか。
もう一度幸は、先程聞こえてきた音をよーく思い出してみる。
うん、やっぱり良くある家鳴りとかそんなんじゃなかった。不意にそこで、あ、と思い当たる。今日、氷室の車の中で聞こえていた音にそういえば良く似ている。
氷室が不可解な行動を取ったのはその後のことだ。
高い車に塩と酒を無造作にぶっかけるなんて、ちょっと普通の神経じゃできない。その観点からしてもやっぱり氷室は傑物なのか。やはり名は体を表すのか。
つらつらと考え事をしながら待ってみるも、音は鳴らなかった。
このままここで固まっていても仕方がない。犯人探しはひとまず棚上げとし、布団でも敷くかと幸が押し入れに一歩歩み寄った時だった。
がさっ。
「!?」
びくっ。
さすがに幸の肩が跳ねた。
ちょっと。ちょっと待って今のなに。明らかに「がさっ」っていったけど今のなに。目の前の押し入れの中で、絶対何かが動いたか何かして「がさっ」ていったけど今のなに。
急に心臓が早鐘を打ち始める。
鼠がいたりするとか。いや、それにしては結構大きい音だった。じゃあ何か、鼠より大きい別の動物か。狸か。そんな大きい動物が押し入れに入ってるのか。いや、そんなわけないだろ。さっき見た時は布団しかなかったんだってば。
頭の中でもう一人の自分がありとあらゆる現実的な予想を並べたてようとするのだが、そのどれもが微妙だ。
ここで勢い良くすぱーんと押し入れを開ける度胸は備わっていない。確実に得体の知れない何かがコンニチワしそうなのに、そんなことができるほど幸は剛毅じゃない。
かといって、背を向けて脱出を試みたとして、後ろから何も追ってはこないという保証がない。
ていうか単純に背中を向けるのが怖い。
どうしよう。どうしようどうしよう。どうするのが正解なの、この状況。冷や汗を滲ませつつ全力でどうするかを考えていると、追い討ちがかかった。
どんっ。
ナニソレ。
壁? 壁、叩いた?
「……ひ、氷室さん!」
さすがにそれ以上冷静ではいられなかった。幸は、脱兎の如く部屋から飛び出した。
* * * *
隣の部屋の扉を連打すると、すぐに氷室が出てきてくれた。
肩で息をしている幸を見るなり驚いた顔をするが、有難いことに迷惑そうではない。廊下に声が響くことを懸念したのか、とりあえず何も聞かずに氷室は幸を部屋へ入れてくれた。
上がり框は素通りし、襖を開けてそのまま中へ。幸の部屋とは対称の造りになっていた。奥までは行かず、入り口の程近くで立ち止まり、氷室が振り返る。
「どうした」
悠長に茶を飲みながらする話ではないと踏んだか、立ったままで氷室が切り出した。
「助けて下さい何か部屋で変な音するんです誰もいないのに」
幸はあったことをありのまま捲し立てた。
氷室の眉間に皺が寄る。
「音?」
「はい」
「どんな音だ」
「最初は遠慮がちに『かたんことん』だったくせに、最後の方は『がさっ』て、『どんっ』って言いました何あれ信じられないんですけど」
「どこからだ」
「押し入れの中ですね」
「確認したか?」
「一回だけ見ました。その時は布団しか見えなくって閉めたんですよね。でもその後にがさって」
「鼠か」
「絶対違うと思います」
この時ばかりは断言できた。
「だって、鼠が壁ドンするとは思えません」
「……そうか」
若干呆れられたような気もするが、実際幸の予想は的外れではないと思う。
氷室が口元に手をやって、考え込む素振りを見せた。
「とりあえず見てみるか」
凄い、怖くないんだ。
まったく表情を変えずに言った氷室を、幸は尊敬した。
氷室と幸の部屋は隣同士なので、幸の部屋には数歩で辿りつく。
中に入ると、慌てふためいて飛び出したせいで開けっ放しの襖が出迎えてくれた。さすがにちょっと恥ずかしいが、四の五の言ってられるほどの余裕が幸にはなかったので、致し方ない。
框を上がり、躊躇う素振りも見せずに氷室がさっさと進んでいく。
幸はさっきの今でかなり腰が引けているのだが、まったくびびっていない氷室の様子に鼓舞されて、おっかなびっくり後を追って部屋に入った。
入ってすぐに氷室が立ち止まり、天井から床の畳に至るまで部屋を見回す。
その背中に隠れるように幸も部屋の中を窺うが、先程とは違い部屋はうんともすんとも言わない。十秒ほど経った頃に、氷室が振り返った。
「音がしたっていうのはどこだ」
「えーと、あの押し入れです」
幸が指し示すと、氷室は一つ頷いてすたすたとその押し入れに近寄った。
そして次の瞬間、無造作に押し入れの扉は全開にされた。溜めとかそういうのは無かった。この人凄い。面倒見てもらっておいてあれだが、怖いとかそういう感情の配線がどっか切れてるんじゃなかろうか。いずれにせよ凄い。
氷室はそのまま布団を次から次へと引きずり出し、押し入れの中を検めた。
この人がいてくれたら色々大丈夫そうだという妙な安心感から、幸も押し入れを覗き込んでみた。しかし、鼠が使ってそうな穴は開いていないし、狸が侵入できそうな穴はもっと無かった。
「……気のせいだったのかな」
思わず幸は呟いたが、氷室からは特に相槌は出なかった。
穴の存在が認められなかったので、とりあえず引っ張り出した布団を二人で元に戻した。元は四人部屋なのだろう、人数分の掛け、敷き布団を全て仕舞いこむのはちょっとした労働だった。
押し入れを閉めて、氷室が部屋の中にもう一度視線を走らせる。
不思議なことに耳が痛いほど今は静かだった。
気のせいだったのなら、あまり気乗りがしないが大人しくここで寝るしかない。何でもないのに、いつまでもここに氷室を引き留めておくのも悪い。
申し訳なさに身を縮めつつ幸が礼を言おうとすると、氷室が幸に向き直った。
「今夜は俺の部屋に来い」
「!?」
人間は驚きすぎると声が出なくなるらしい。
これまで何度も「何言ってるんだろうこの人」と思ってはきたが、今この瞬間ほど強く思ったことはない。部屋に来いとか、何言ってるんだろう、この人は、本当に。
正気を疑うレベルだ。
それだけの恵まれた容姿を持ちながら、むしろ持っていればこそ、そんな簡単に安売りしていい台詞じゃない。爆弾発言にも程がある。
「あの、それ、どういう意味」
「言葉通りだ。俺の部屋に泊まれ」
何でそこで命令形になるんですか、とも言えない。幸の口はぽかんと開きっぱなしだ。
「ひ、氷室さんは?」
「あ?」
「氷室さんはどこに」
「自分の部屋で寝るに決まってるだろう」
何を言ってるんだお前、と続けて言われたが、それは幸の台詞だ。
だが言えない。あまりにもびっくりしすぎて何も言えない。
「……別にこの部屋にお前一人で寝てもいいが、多分また鳴るぞ」
「え!?」
「それでもいいなら止めはしないが」
「そ、それは困ります、でも、緊張するといいますかご迷惑をおかけして申し訳ないと言いますか……!」
幸がうろたえていると、氷室がため息を一つついた。
「年が十一も離れているのに手など出さん。それに同じ部屋で寝るくらい、迷惑の内に入らない」
と、そこで氷室のスマホが鳴った。
氷室が画面を見る。一瞬、眉間に皺が寄った。出る前に、氷室は幸にもう一度視線を寄越してきた。
「とりあえず、荷物を纏めたら俺の部屋に来い。もし話し中でもそのまま入ってきて構わない」
言うだけ言って、氷室は「はい」と電話に出ながらさっさと戻っていった。
取り残された幸は、色々と考えたいことや言いたいことがあった。が、この部屋に一人でいるのも気が引けたので、電光石火で荷物を纏め、氷室の部屋に走った。
* * * *
氷室の部屋の玄関扉は開けられたままになっていた。そのまま入ってきていいという意志表示なのだろう。言葉で言い置くだけではなく、こういう辺りが配慮の人だなあと改めて幸は恐縮した。
一方で部屋に繋がる襖は閉まっている。
多分、氷室が電話を受けたからだろう。この襖まで開け放ってしまうと、夜の静かな廊下に声が響いてしまう。やっぱりここも配慮の人だ。
「……氷室さん?」
外からそっと窺い耳をそばだてると、部屋の中から話し声が聞こえた。まだ電話は終わっていないらしい。
幸は迷った。
氷室は話し中であっても構わず部屋に入ってこいと言ってくれた。多分それは、幸が怯えていることを知っての気遣いだ。優しい人なのだ、言葉は辛辣だが。
けれどその優しさに丸々甘えてしまってよいものなのだろうか。
相手が誰かは知らないが、普通、電話をしている時に横に他人がいれば気になるだろう。まして、電話に出る前に氷室は一瞬顔を顰めた。理由は分からない、だがあまり立ち入らない方が良いのではないかなどと思う。
ただでさえ、部屋を検めてもらった上に部屋に転がり込むという面倒をかけている。
色々と考えた挙句、幸は襖を開けずに上がり框に腰を落ち着けた。電話くらいゆっくりかけて欲しい。不明瞭ではあるが断続的に届く氷室の声を背中で聞きながら、幸は旅行鞄を抱きしめた。
その体勢で待つことおよそ五分。
「いい加減にしろ!」
襖の奥から怒声がはっきりと聞こえてきた。
思わず幸は背中を振り返る。初めて聞く氷室の声だった。本気の怒鳴り声。自分に対して言われたわけではないのに、何故か胸が苦しくなった。
やがて氷室の声はしなくなった。用件が終わったのだろう。だが幸はその場に座り込んだまま動けなかった。
まだ心臓が嫌な感じで脈打っている。
今部屋に入ったとしても、何も聞かなかったように平然とした顔はできなさそうだった。鞄を握りしめる手に力が籠る。もう少し。せめてあと五分。
しかしそうはならなかった。背中で襖の開く音が聞こえた。
「来てたのか」
いつもの氷室の声だった。
「入っていいと言ったのに」
「いえ、あの、今来たばっかりなので」
曖昧に笑って幸は誤魔化した。
真正面から氷室の顔を見ることができない。面倒をかけて、この上怖いなんて言えるわけがなかった。
「そうか。ほら」
手が差し出される。座り込んでいる幸を起き上がらせる為だろう。やっぱりこの人は優しい。目を合わせられないまま、「すいません」と謝りつつ幸は氷室の手を借りた。
ぐ、と大きな手に力が籠る。
そしてそれは、幸の身体が引き上げられると同時だった。ぱたぱた、と音が響いてしまった。
水を床に零した音。
幸の涙が二粒、零れ落ちた音だ。
慌てて幸は頬を拭うが遅かった。氷室が驚いた顔で幸を見ていた。
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