第14話 名は体を表すか
先代が客間を去った後、幸と氷室は実際に泊る部屋へと通された。若くて綺麗な仲居さんが、荷物を持ちながら案内をしてくれた。
客間からはそれなりに距離を歩き、奥まった部分に部屋はあった。
縁側のような廊下を通る間中、外の見事な庭園が目を楽しませてくれた。枯山水があるかと思えば、次の角を曲がると寝殿造りのような本物の池と橋があったりする。それぞれには邪魔にならないように幾種類もの木々がそっと寄り添うように佇んでいる。仲居さん曰く、親子代々この涼月に庭師として勤めている人が手塩にかけて手入れをしているらしい。
部屋に到着すると、そこでも幸は感嘆の声を上げた。
客間は立派だった。ここに来るまでの廊下も磨きあげられていたし、障子は全て白く破れの一つもなかった。庭も、素人の幸には何がどうと具体的には言えないが、素晴らしかった。
それが、この客間に入ると霞むなんて。
ここって特別室とか貴賓室なのではありませんか。思わず幸が恐る恐る尋ねると、仲居さんは上品に笑って首を横に振った。
へー、違うんだ。
これ、普通の部屋なんだ。
丁寧に説明された仲居さんの言葉に対して、幸は間抜けな感想しか出せなかった。庶民丸出しで思いっきり恥をかく幸の横で、氷室がやれやれと言いたげにため息をついた。
* * * *
襖の向こうで、扉がノックされる音が響いた。
幸が目を開けると、部屋の中は薄暗くなっていた。夕暮れだ。部屋に案内された後、少しだけと思って横になったのがまずかった。どうやらうたたねしていたらしい。
「……はーい……」
気だるさに返事がつい適当になった。身体が重い。そんなつもりはなかったのだが、中途半端に寝入ってしまった所為だろう。
足元が覚束ないながらもどうにか応対に出ると、そこにいたのは氷室だった。幸を見るなり、驚いたように形の良い眉を持ち上げる。
「寝ていたのか」
「みたいです……」
「遠出で疲れたか? 顔色が悪い」
「あー、いえ、大丈夫です」
全然そんなつもりはなかったのだ。本当はすぐにでも温泉に入るか、庭園散策に出ようと思っていたのに、荷物を解いて腰を落ち着けたらつい、だったのだ。
あの如何ともし難い眠気は久しぶりだった。
試験勉強で徹夜をした次の日、ふと気を緩めた時に意識が遠のく感覚に良く似ていた。
心配してくれるのは身に余る光栄なのだが、ただの昼寝で疲れもへったくれもない。当然顔色が悪い自覚も幸にはない。夕暮れの薄闇の中、そう見えるだけだろう。強いていうのならば寝起きで身体が重いだけだ。
「それで、何かありました?」
氷室のことだ、何の理由もなしに幸の部屋を訪れるような真似はしないだろう。この人はそんな軟派じゃない。絶対にそんなことはしない。むしろ硬派の最先鋒、そんな脇の甘いことなどするものか。
声に出すより心の中で多くを独白しつつ、幸は首を傾げた。すると、氷室が思い出したように続けた。
「食事の時間だが、……食べられそうか?」
「勿論です」
即答した幸に対し、氷室が微妙な顔になったのは多分気のせいじゃない。
だがこんな良いところに泊って晩御飯を食べないとか、それは罰当たりってものだろう。
さて、ここ涼月では夕食は部屋で摂る方式らしい。
つまり、二人きり。
泊る部屋は流石に別だが、食事は氷室の部屋でと相成った。和食のフルコースだ。和食をフルコースと呼んでいいものかどうか微妙だが、先付けから始まった晩御飯は大層豪華だった。
こんな立派なご飯が出る宿なんて、泊ったことがない。
感涙にむせびつつ幸が山海の幸を堪能していると、珍しく氷室が声をかけてきた。
「お前の名前、幸といったか」
氷室が会話のネタを提供してくることは滅多にない。この二カ月、食事時の会話は九割以上幸が他愛ない話を振るのがお決まりだったが、どうしたことか。
それとも山奥の温泉宿という非日常空間がそうさせるのか。
いずれにせよ、話題提供の事実もさることながら、むしろこの雇い主が幸の名前を覚えていたことの方が驚きだ。
「そうですけど」
「由来は?」
「え。えっと、藪から棒にまた何ですか?」
「いいから答えろ」
珍しいこともあるもんだと思っていたら、それ以外は完全に平常運航だった。
相変わらず高圧的というか、配慮遠慮がないときている。これはさっさと答えた方が身の為だ。勿体つける話でもない。
「そのまんまですけど怒らないで下さいね」
氷室の意図を今一量りかねる為、とりあえずのエクスキューズをつけて幸は語った。
そもそも幸の母は、恵美子という。教養深い彼女を見ていれば分かるが、これまた教養人だった祖父母は「満ち足りて恵まれて、美しく生きることができるように」との願いを込めてその名を付けたと幸は聞いたことがある。
おっとりした母は、幸自身が小学校の時の作文課題で、自分の名前の由来を尋ねた時にこの話を披露してくれた。あまりに真正面から真正直でかつ名は体をまさに表していたことで、当時の幸は自分のことより母、恵美子の由来の方をより鮮明に記憶した。
ちなみに、幸自身の名前は予想通り、「幸せの多い人生になるように。他の人も幸せにしてあげられるような人間になるように」とのこれまた直球勝負の恵美子の願いにより名付けられたらしい。
あまりに分かり易すぎて、小学生だった当時の幸自身から「ふーんやっぱそうか」くらいの感想しか出てこなかったのは致し方ない。
「てなわけで、捻りも何もないんですけども」
果たしてこんな凡庸すぎる回答で、この雇い主が満足してくれるのか。
説明を終えた幸が固唾を呑みつつ氷室を窺うと、予想に反して彼は至極満足そうに頷いた。
「分かり易くていい」
「はあ。それはその、良く言われます」
由来はこれ以上ないほど分かりやすく、読み方もほぼ百パーセント間違われない。
その意味で確かに幸は、自分の名前を嫌いではなかった。ちなみに名字が凡庸すぎるのはどうしようもないから、気にしないとしたもんだ。
「そういえば氷室さんの下のお名前、稜さんっていうんですね」
自分だけが披露するのではつまらない。それに、折角氷室から振ってくれた話題でもある。
「珍しくも何ともないだろう」
「響きはそうですけど。字は何て書くんですか?」
「のぎへんの、――そうだな。物の
「そ、それなら何とか」
すごく残念そうな顔を一瞬されたのが傷付きどころだ。
物の角とか、そのまま角って言うし。稜とか使わないし。
心の中で不貞腐れてみるも、自分の頭が残念だった事実は事実なので、幸は鯛の刺身と共に色々と飲み込んだ。寧ろ、幸の頭で理解できるように即座に例え直しをしてくれた氷室の頭が際立った。
「稜さん、なんですね。意味とか由来、教えてください」
「普通だぞ。字の持つ意味通りだ」
「字の……すいません、日本人なんですけど聞いてもいいですか」
今度は残念を通り越して呆れた視線が飛んできた。
二回目だ、慣れたといえば慣れたが心が痛いといえば痛い。これでも日本人なんです、と胸を張っていいのかどうか微妙になってくる。
いや、でも、いくら何でも表意文字である漢字の全ての意味を把握できてたら、だからやっぱりバイトの事務員とかじゃなくて、その特殊技能を活かせる別の何某かで稼いでいるはずなのだ、自分は。
これが、良いとか涼しいとかの「りょう」ならまだしも分かる。頻繁に使う漢字だ、しかも簡単だ、まあ当たり前か。いやそれはともかくとして、「稜」の字はこれを使った単語がちょっとすぐには思い浮かんではこないのが一般人のはずだ。
「稜威という単語は知っているか」
「すいません」
「神霊――つまり神のみたまのことだが、際立った神霊の威光のことを指す。
「完全に名は体を表してますね……」
威光があると言われれば、まさにその通りだと一も二もなく同意できる。
それにしても、こんなに名前がしっくりくる人、初めてだ。思わず食べる手を止めて幸が見入っていると、淡々と食べていた氷室が口を開いた。
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
「……ど、どういう意味ですか?」
「そのままだ」
「……?」
氷室が何を言いたいのかが分からなくて、幸は首を捻るしかなかった。
自分のことは横に置いておくとして、母の恵美子が願った「人を幸せにしてあげられるように」という部分はまったく自信がない。だって幸には取柄が何もない。
人が振り返るような容姿であれば、その見目麗しさに一定数の気分を良くさせることができただろう。頭の出来が良ければ例えば医者や弁護士のような、世の為人の為の仕事に就けたかもしれない。喋りが上手ければ周囲を楽しませることも、それを仕事にすることも朝飯前だろう。
ていうかこれ、全部氷室が持ってるものだ。
名前の通りこの人は本当に何もかもが際立っている。次元があまりに違い過ぎて、本当に何を罷り間違ってこの縁に巡り合ったのか、摩訶不思議だ。
その後、焼き物やら煮物やら揚げ物やら続いたフルコースの和夕食は、食べ終わるまで悠に二時間かかった。それでも名前のこと含め他愛ない話をしていたのであっという間だった。
今は食後のデザートに出されたグレープフルーツのゼリーを楽しんでいるところだ。
「それで、今回の仕事って何をするんですか? やっぱり誰かの悩みを聞くんですか?」
頭の中では何となく、先代かな、と予想しつつ。
しかし幸の予想は次の瞬間完全に外れた。
「終わった」
「は?」
「仕事はもう終わった」
何言ってんだろうこの人。
むしろ、自分は年間何回この台詞を思い浮かべなきゃならないんだろう。一週間に最低一回は心の中で呟いてるような気がするがそれは気のせいか。
「……一体いつ終わったのか教えて頂けますかね」
ここに到着してからやったことといえば、客間に通されて先代と茶飲み話、夕飯前に幸は昼寝をして、現在進行形で大層美味しい夕飯を頂いている。
どう考えても仕事の「し」の字もない。
ひょっとして幸が昼寝中に終わったのかもしれないが、それにしても一時間あるかないかだったはずだ。こういうのを世間一般ではお遊び出張と言うんじゃなかろうか。分からない。本当に分からない。
「ていうか既に仕事が終わったっていうなら、私をわざわざ連れてきてくれなくても良かった、ですよね」
幸の出る幕はどこにもなかった。ていうか幕がどこにあるのかさえ気付かなかった。仮に昼寝中に全てが恙無く片付けられたのだとして、だからやっぱりそれもどうかという域だ。
実を言うと、その事実に凹んでいる。
取柄らしい取柄のない幸は、事務所にいるのならばまだ掃除やお茶汲みで貢献できる。だが今回のように出張として事務所から一歩でも出てしまえば、できることが何もない。
破格の条件で雇ってくれているのは有難い話ながら、こういう場面で苦しくなる。
どうしてここまでしてくれるんですか、とは聞けずに。
「すみません。何もお手伝いできなくて」
謝罪の声は小さくなった。
「何を謝るんだ」
その台詞をくれるのは二回目だ。この人は幸が謝る理由がないと本気で思っている。多分、絶対に。
そうやって何も気にしてない風なのが余計に心苦しいのだと、どう言えば正しくこの人に伝わるだろう。
単なる会話の言葉は辛辣なのに、肝心な部分で無駄に優しい。優しさの無駄遣い、バーゲンセールだ。エスパーかと思うほど、雰囲気を良く読む。
優しさに戸惑う。
どんな顔をすれば良いかが分からなくなる。
「……えっと、出張忘れてたり、昼寝しちゃったり、本当に役立たずだなあって」
頭が残念な振りで、幸はおどけてみせた。
本当は結構な度合いで胸が痛むのだが、我慢した。
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