第13話 口ほどにものを言う、優しいその手



 目的地に着いて車を降りると、目の前には純日本家屋の立派な門構えがあった。

 周囲は山に囲まれており、空気が澄んでいて清々しい。気温は体感でおよそ三度くらいは低そうだ。季節も相まって、吹き抜ける風が爽やかである。

 門構えから横にはこれまた立派な塀が続いており、その上からは良く手入れされているらしい庭木の頭がそこかしこから覗いている。松やら紅葉やらの顔ぶれを見るに、おそらくきちんとした庭師が入っているような日本庭園が広がっているらしい。

 敷地は広い。

 明らかに俗世間とは切り離された、上流階級の住まう場所だ。

「ここは一体どんな偉人が住んでるんでしょう」

 早くも腰が引けている幸に対し、

「ただの裏口に何をびびってる。表で温泉宿をやっているから立派なだけだ」

 氷室がまったく臆せず言い放つ。

 これを「ただの」と評するあたり、この雇い主の感覚はやっぱり庶民の幸とはかけ離れている。

「氷室さんは来たことあるんですか?」

「何度か。親の付き合いだ」

「はぁ。やっぱりセレブはセレブとお付き合いがあるものなんですね」

「小市民はいちいち反応が新鮮だな」

「当たってるけど酷い!」

 トランクから荷物を出しながら騒いでいると、軽い砂利の擦れ合う音がした。

 幸が顔を上げるとそこには、穏和さが顔に滲み出ている小柄な老人が立っていた。つられて振り返った氷室が、珍しく頬を緩めて向き直る。

「先代」

 呼びかけの声は柔らかく、先程「ただの」と言い捨てた大雑把さは鳴りを潜めている。

りょう君。遠いところを足労かけたね」

「滅相もない。ここで羽伸ばしをさせてもらえると聞いて、飛んできました」

 それは衝撃の光景だった。

 笑った。

 氷室が。

 頬を緩めるとか苦笑とか、そういうのじゃない。本当に屈託なく笑った。初めて見た。いつも大概無表情なのに、笑うとどうしてそんなに幼くなるのだろう。

 そしてもう一つ。

 名前を初めて聞いた。雇われてからおよそ二カ月、そういえば一度も尋ねるタイミングがなかった。強いてあげるのなら、初日に名字を聞いた時ついでに聞けば良かったのだろうが、色々なことにテンパっていてそんな気も回らなかった。

 ひむろ りょう。

 名前の響きが澄んでいる。氷室本人の端正さ、物静かさを表しているようで、幸は妙に納得した。

「そちらのお嬢さんは?」

 と、老人が目線を幸に投げかけてくる。幸は慌てて腰からお辞儀をした。

「は、初めまして、佐藤と申します!」

「どうも、五所川原ごしょがわらと申します」

 耳に届いた名乗りに、またしても幸は度肝を抜かれた。

 綾小路、西園寺ときて今度は五所川原。すごい。相談者たちの名前がこれでもかというほど煌びやかすぎる。佐藤の姓が普通過ぎて気後れするとかどんだけだ。

 折り曲げた腰を幸が元に戻すと、含み笑いの老人が氷室を見上げていた。

「こんな遠いところまでようこそ。しかし稜君も隅に置けないね」

 言葉を受けた氷室が、今度は困ったように笑った。

 これまたすごい。視線が物凄い優しい。物騒な視線は散々目にしてきたが、春の日差しと言っても良さそうなその温かい眼差しは初めて見た。

「そんなんじゃありませんよ」

 氷室が柔らかく否定する。

「彼女はただの事務員です」

「ただの? ……ふーむ、そうかね」

「そうですよ」

「そうかね」

「大体、私にそういうのは向いていないんです。先代もご存じでしょう」

「はてさて、それはどうかな」

 何の話をしているのだろう。

 内容が良く掴めず、幸は小首を傾げるばかりだった。


*     *     *     *


 この宿の名前は「涼月すずつき」というのだそうだ。

 由来はありがちだ。

 初代が京から江戸へと旅をしていた道中、一晩を休もうとこの辺りに辿りついたところ、偶然温泉が湧き出ていた。初代は喜び勇んで温泉に入り旅の疲れを癒やした。その時ふと見上げると、晩夏に涼しくなり始めた空に美しい月が輝いていた。その光景に感動して、初代は旅の後、この地に温泉旅籠を建てたのだという。

 創業は江戸時代で、歴史としては悠に百五十年以上を数える老舗らしい。温泉も湧いており、知る人ぞ知る昔からの逗留先として世代を越えて愛されてきた宿だという。

 敷地は広大で、見事な日本庭園は一回りしようと思うと小一時間はかかる。

 しかし温泉宿としては特に大規模化などは目指しておらず、一度に入る客はせいぜいが十組。当時のままの家屋を丁寧に補修しながら、いつも変わらぬ佇まいで常連を大切にしてくれる。

 ところが近年の隠れ屋ブームに乗って、若干の情勢変化はあったらしい。

 涼月は、今でも予約は電話だけの受け付けだ。

 これまでとは違う客層が予約を取ろうと試みて、ひっきりなしに電話が鳴るようになったという。

 しかしそこは百五十年余りの歴史を誇る老舗、常連だけで多くの日程は満室になっている。そもそも湯治逗留が目的の客が常に半数を占めている関係上、中々受け入れられない嬉しい悲鳴らしい。

 このご時世にホームページも何もないあたり、氷室の相談所と一緒だ。本当のセレブというものは、やはり俗世間とは一線を画しているものなのか。 

 今日日それもどうかと思いつつ、つまり涼月は泊りたくてもなかなか泊れないらしく、そういった温泉や旅館ファンの間では「幻の館」として大変に有名でもあるらしい。

 仕事とはいえ、棚からぼた餅。

 ここで雇ってもらえて本当に良かった。

 窓から見える池と優雅に泳ぐ錦鯉を眺めつつ、幸はその幸運を噛み締めていた。仕事でなければこんな所、一生縁がなかったに違いない。

 客間に通されてしばらくの間はそんな茶飲み話をしていたが、一区切りした段で先代が客間に顔を出した。



「それで、一体どうされたのですか」

 父からは詳しく聞いていないので、と申し訳なさそうに氷室が切り出した。いつも以上に丁寧な口調は、氷室がこの老人を心から尊敬している気持ちが滲み出ている。

 氷室の言葉から察するに、今回の出張は氷室が直接受けた話ではないらしい。どういう付き合いかは図りかねるが、氷室の父親とこの先代が懇意にしているのかもしれない。

 この宿には何度か来たことがあると氷室は言っていた。

 幼少の頃からの繋がりであれば、先程見せたあの無防備な笑顔にも頷ける。

 そんな氷室の言葉を受けた先代は、困ったように眉を下げた。

「すまないね、呼び立てるだけ呼び立てて」

「いえ、構いません。お世話になった先代のお力になれるのなら、いつでも喜んで参りますよ。温泉にも入れて役得です」

「ありがとう」

 嬉しそうに目を細めた先代は、しかし浮かない顔のままだ。

 こんなに穏やかな人が思い悩むのは、どんなことだろう。

 氷室は背筋を伸ばして正座のまま待っている。存外に和の雰囲気が似合っている。調度品の中に違和感なく溶け込んでいるというか、所作がしっくりと馴染んでいる。

 もしかして武道の心得でもあるのだろうか。

 高級外車をさながら俳優のように乗りこなす一方、武士のように和の精神もしっかり持っているとか、本当に天は何物も与えるのだ。大盤振る舞いしすぎだ。ていうか不公平だろどう見ても。贔屓が過ぎる。

 文句を垂れたところで、どうせ天に向かって吐いた唾は自分に返ってくるだけ、自分の平凡さが変わるわけでもないのは分かってるけど。

 またしても脳内小劇場を幸が繰り広げていると、重苦しいため息が一つ落とされた。先代だ。

「孫の名前のことでね」

 マゴ?

 口を差し挟みはしないが、幸の頭に疑問符が浮かぶ。

「薫子さんが里帰りされているのでしたね」

「うん。来月生まれる予定なんだが、名前のことで揉めていてね」

 そこで先代は口を噤んだ。

 薫子さんというのは、先代の娘さんなのだろう。氷室が知っている風だ、間違いない。

「先代」

 氷室が呼びかける。

 きっとまた、優しくも偏らない言葉を優しくかけて、それで、

「腰の具合は最近どうですか」

 いや、それ、孫と全然関係ないような気がするんですけど。

 予想の遥か斜め上の話題だった。

 唐突に方向転換した話題ながら、先代は気分を害した素振りも見せずに相好を崩した。

「みてくれるかね」

「当たり前です。その為に今日はこちらに来たのですから」

 続いたやり取りは、もっと意味が分からなかった。

 雇い主は、整体かマッサージ師か鍼灸士か、そういった類の資格やら免許なんかをお持ちなのか。本っ当に何でもできるんだなこの人は。ここまで来るともはや嫌味を越えて神の子レベルだ。

 微妙な気持ちで幸が成り行きを見守っていると、氷室が立ち上がり、先代の背中に回った。先代は座布団の上に正座のままだ。

 氷室が両手を先代の肩に置く。

 揉むのかと思ったら違った。

 体格に比例して大きい氷室の手は、そのまま先代の背中をゆっくりと確かめるように下っていく。医者が聴診器をあてる仕草に似ている。さして力を込めているようには見えないが、先代は気持ち良さそうに瞳を閉じた。

 氷室は無言のまま、先代の背中に手を当てる。何かを語りかけるかのように。

 首筋。肩。肩甲骨。腰。

 何度も何度も小さな背を往復する無骨なその手は、綺麗だった。


 幸はずっと見惚れていた。

 その光景が目に温かい。瞳の奥で涙が滲むように、映した世界がぼやける。

 このまま見続けていたい、そう思っていた。


 不意に先代が目を開けて、「ありがとう」と言った。

 氷室がほっとしたようにまた笑った。

 部屋の壁掛け時計が鳴った。先代が部屋に来てから悠に一時間は経っていた。ものの十分程度かと思っていたのに、時間の流れの早さに幸は瞠目した。


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