第11話 隠し事



 綾小路さんと、西園寺の娘である綾乃。

 連続で二人を迎え入れた後の今日は、事務所はいつも通り閑古鳥が鳴いていた。

 今は昼時。今日も今日とて幸が作った簡単なご飯を二人向かい合わせで食べているところだ。今日は鯖が安かったのでメインは塩焼きと相成っている。横にきんぴらごぼうとほうれん草のお浸し、後はご飯とみそ汁という本当に何の捻りもない昼食だ。

 氷室は意外にも文句一つ言わず、黙々と食べる。

 旨いとは言わないが、好き嫌いや味の濃い薄いなどの注文をつけてもこない。それだけなら不味いものを我慢して食べているのかと心配にもなるが、たまに氷室はお代わりをすることがある。それはつまり食べられないとは少なくとも思っていないことの証左のはずで、つくづく不思議な人だ。

 ちなみに色々と無頓着な雇い主だが、食べ方は非常に綺麗である。

 これまでにも何度か魚を出してみたが、煮ても焼いても骨を見事に外し決して散らかさない。箸使いも洗練されていて美しい。本人は一ミリも気にしていない風情だが、思わず見入るほど食事姿が様になるというのも凄い話だ。

「氷室さん」

「……ん?」

 味噌汁をすすっていた氷室が目線を寄越してくる。

「氷室さんって、好き嫌いはないんですか」

「好き嫌い? 何のだ?」

「食べ物の」

 氷室の箸が止まった。

 ややあって、

「別に食べられないものはない」

 想定の範囲内の回答がきた。

 およそ一ヶ月と少し、何を出しても嫌な顔一つせず食べる姿を見ているので、これはおそらくそうだろうと思っていた。強いて苦手なものを挙げるとすればコーヒーなのだろうが、それも氷室本人から言わせれば「飲めないわけじゃない(息を止めれば)」というレベルであるが故、食べられないもののカウントには入らないのだろう。

「でしょうね。そう来ると思ってました。じゃあ好きなものは?」

 どちらかと言えばこちらの方がメインの質問だったりする。

 重ねて幸が問うと、氷室は若干眉間に皺を寄せて考え込んだ。そして嫌いなものを答えるより長い時間を掛け、

「これといってない」

 多少考え込んだ挙句の答えがそれかと。盛大に突っ込みたくなる気持ちを気合で押さえつつ、今度は幸がどうしたもんかと考え込む番だ。

 本っ当に頓着しない人だ。これはもう、例えば食材を一つずつ挙げていって甲乙丙くらいの三択で好きな度合いを選ばせた方が余程早いかもしれない。

 幸が真剣に考えつつ同時に呆れていると、意外にも氷室から二の句が継いだ。

「藪から棒にどうした」

「あのですね。文句言わずに食べて頂けるのは有難いんですけど、好きな食材とかがあれば参考にしようかなーと思いまして」

「……ああ」

 氷室がようやく、合点がいった、という顔になる。

「そういう意味であれば、魚」

 なるほどこの人は、最初からアンケートの目的を明確に説明さえしておけば、正しい回答が得られる仕様らしい。

 他愛ない話が苦手なタイプ、とも言えるのだろうがそれはさておくこととして、幸は氷室の回答に大変納得した。

「食べ方綺麗ですもんねー」

 勿論、親からの躾による部分が大きいことは百も承知ながら、やはり好きであればこそ丁寧に食べるのだろう。

 ところが幸の相槌に、氷室が怪訝な顔をしてみせた。

「これくらい普通だろう。初めて言われたぞ」

「ちょっと見ないレベルで綺麗だと思いますよ」

「……そうか」

「まあ魚に限った話じゃなくて、氷室さんは全般綺麗にご飯食べてくれますけど」

「妙なところを見るもんだな。変な奴だ」

「妙とか変とか失礼な。人間として大事な部分じゃないですか」

 幸としては聞き捨てならない台詞だ。

 どんなに煌びやかな装いをしたところで、お作法がなっていなければその人間の魅力は半減するだろう。顔が良くても行儀が悪ければ駄目だ。幸は幸で小さい頃から母の恵美子にそのあたりをしっかり叩きこまれたので、あまり恥ずかしい振る舞いはしていないと思う、多分。

 ちなみに数少ない取柄の一つとして、昔から魚を食べるのが上手だと褒められてはきた。ということでこの点だけはそれなりに自信を持っているのだが、その幸が見ても氷室には負けそうだ。

 どうも何一つこの雇い主には敵わないらしい。

 自分で引っ張り出した話題ながら多少心が折れつつ、幸は残りのご飯を頬張った。当初の目的である好物を聞きだすことができたので、戦果は挙げた。無意味に討ち死にしたわけじゃあない。

 と、氷室が立ち上がる。

「あ、お代わりなら私が」

「いい。ゆっくり食べろ」

 まだ終わっていないだろう、と続けて、氷室はさっさと茶碗を持って立ち上がった。

「……?」

 もぐもぐやりつつ幸は首を捻る。

 いつもなら「頼む」の一言でこっちに茶碗を寄越すのに、今日に限ってなんでまた自分で行ったんだろう。幸としては男女の役割差とかを意識しているわけではなく、単純に仕事の一つだと思っているのだが。

 たまたま咀嚼している最中だったから、気を遣ってくれただけか。

 優しいのだろうが今一分かりづらい。冷静になってよくよく考えると「多分優しさだった」と気付くようなことが多いので、お礼を言いそびれることが多い。

 仕事内容と同じく、掴みづらい雇い主なのだ。


*     *     *     *

 

 洗いもの含む昼ご飯の片付けをして、時計を見ると一時を少し回ったところだった。

 聞けば、今日の午後もいつも通り来客はないらしい。いつも通りというのも商売としてどうかと思いつつ、幸はこの一ヶ月で疑問に思ったことを聞いてみることにした。

「あのー、ずっと不思議に思ってたんですけど、聞いてもいいですか」

 食後のお茶に手を伸ばしかけた氷室の動きが止まった。

 そして瞬きを二回。

「……構わんが」

 氷室は完全に怪訝な顔になっている。改めて何を聞かれるのかを訝っている風だ。

 とりあえず幸は「どうぞお茶でも飲みながら」と勧めつつ、自分も湯呑みを握った。つられたか氷室も湯呑みに手を伸ばし、ず、と茶を啜る。

「ここって相談所ですよね?」

「そういう看板を掲げてはいる」

「良く分かんないんですけど、私個人はすごく釈然としないことがあってですね」

「何がだ」

「ええと、じゃあ簡単な方から。氷室さんが真正面からアドバイスをしないのって、理由があるんですか?」

「真正面? どういう意味だ」

「白黒はっきりつけない感じだなあ、なんて。その、……何かしらの方向性を示すのが相談所なのかと思ってたので、想像と違うと言うか」

「……なるほど」

 どうやら幸の言いたいことは無事に伝わったようだ。

 氷室が湯呑みを置いた。 

「正論は人を傷付ける」

 良いか悪いかではない。氷室はそうも言った。

「誤解のないよう最初に断っておくが、俺がお前に対して投げつける会話の流れの中での正論と、悩む人間に対して道筋をつけようとして述べる正論は性質が違う。分かるか」

「……えーと、多分三割くらいは理解できているような、いないような」

「それだけ分かれば上出来だ。べき論とも言い換えられる正論は最も労力を必要としない。誰から見ても正しいが為に、議論の余地を差し挟まないからだ。だが往々にして解決策にはなり得ない。何故なら、それができる人間は端からここに来ない」

 道理だ。

 確かに相談所という看板を掲げている以上、相談者が現時点でできないことを気合と根性で頑張れとは言えない。

「世の中白と黒に分けられることばかりじゃない」

「だから、どっちが悪いわけでもない?」

「そう。互いに譲れない言い分を抱えているのなら尚更だ」

 そしてその言い分は理屈ではないのだ、と続いた。

 それぞれが主張するところはすなわち、それぞれの人生を映し出している。誰が己の生き様を否定したいだろう。そういうことだ、と氷室は言った。

「全力で戦ってもいい。だがそれは不毛だ」

「……経験談ですか?」

「さあな」

 濁しはしたものの、氷室は否定しなかった。

「何をどうしようと、行き着くところは相手と関係性を持ち続けるか否か、二つに一つだ。あとは度合いや深さが変わるだけでしかない。伝わらないなら伝わらないなりの付き合いをすればいい。自分の全てを相手に理解してもらえるわけじゃない。そして理解してもらえないことを不満に思ったところでどうしようもない。何故分かってくれないのかと言い募ってみても、疲れるだけだ」

 感情薄く、しかし氷室はいつになく饒舌になっていた。

 この人の過去に一体何があったのだろう。

 気になったのは二回目だ。思わず流れで口に出しそうになったが、幸はぎりぎりで踏みとどまった。そこに触れられるほど、まだ近くはないような気がした。



「ついでにもう一ついいですか」

 おまけと見せかけてごまかしつつ、実はこちらの問いが本命である。

 特に氷室は返事をしない。

 駄目だと断られたわけではないので多分許可は出ている。幸は勝手に脳内変換して、口を開いた。

「相談に来る人って、皆あんな感じなんですか」

 氷室の眉間に皺が寄った。

「あんなとはどんなだ」

「氷室さんに話を聞いてもらうだけで、満足して帰りますよね。悩みは解決してないのに」

 下手をすればそれこそ看板に偽りありで、文句や苦情の一つも言われそうだ。

 なのに、彼女達はそうしない。むしろ帰り際の笑顔は正真正銘の笑顔だ。不満を抱えながら社交辞令で作った顔だったとしたら、二回目の相談には来ないだろう。

 相談の時間中は確かに不思議と空間が心地よいと感じる。

 けれどそれだけでまた来ようと思うものだろうか。何度も言うが、彼女達の主張がそのまま丸呑みで通ったわけでもなく、また手放しで喜べる解決策も見つかってはいないというのに。平たく言えばほぼ聞いてもらっているだけの状態で、わざわざ紹介を受けてまでこの事務所に来ずとも、友達でも何でも良さそうなものなのである。

 厳密にこうだと指摘はできないのだが、ちぐはぐな印象を受けるのだ。

 先と同じように、多分氷室なりの理由があるのだろう。初手の回答を待って幸が窺うと、予想外に氷室が黙り込んだ。

 難しい顔をしている。不機嫌そうな、と評しても間違いではなさそうな雰囲気だ。

 もしかして、幸の言わんとしている部分が正しく伝わっていないのか。もしかして、仕事をしてないのではと揶揄しているように聞こえてしまったか。

 言いたいのはそういうことではない。焦って幸は付け加えた。

「氷室さんの経営手腕がどうとかを言いたいわけじゃなくてですね、不思議に思っただけなんです」

「何故だ」

「え?」

「何故そう思った」

「なんでって……」

 思いがけず氷室の口調は強い。

 それに対して今度は幸が戸惑う番だった。

「これといってこうだっていう何かがあるわけじゃないんですけど……何となく、です」

 むしろここで幸が説明できたなら、理由にもある程度予想を立てられているだろう。それができないからこうやって聞いているというのに、この人はどうしてまたここで質問返しをしてくるのか。

 と、氷室の眉間の皺が一層深く刻まれた。

「何となくだと?」

「すいません挑戦するつもりは全然ないんですだから睨まないで下さい!」

 視線の鋭さに音が聞こえてきそうだ。空気の切り裂かれる音が。

 目を眇めて真正面に見据えられると背筋が凍る。整った顔は整っているが故、さながら般若にしか見えない。

 何だ、一体何が地雷だったんだ。全然分からない。予想だにできない。皆目見当もつかない。当たり前だ、地雷と分かって踏み抜くほど日常に退屈はしていない。刺激なんて欲していない。むしろ毎日が平穏無事であれと願う口だ。

 どうしよう、どう収拾つけたらいいんだろうコレ。

 ビビりながらも幸が必死に頭をフル回転させていると、氷室がため息をついた。

 気を静める為か、お茶を一口含む。

「別に機嫌が悪いわけじゃない。少し驚いただけだ」

 その驚いた顔にこっちが驚いたわ、とは言えない。

 しかし怒っていないというので、幸はほっと胸を撫で下ろす。と同時に、俄かに新たな疑問が浮かぶ。そんな物騒な顔つきになるほど、一体何をそんなに驚くことがあったんですか、なんて。

「はあ、そうですか」

 それで? と幸は控え目に続きを促してみる。

 ところが話は続かなかった。先ほどの正論と同じようにすらすらと回答が出てくるかと思いきや、何故か氷室が言い淀んだ。



 そのまましばらくを待ってみたが、氷室は二の句を継がない。

 これは触れてはいけない部分だったかもしれない。しまったと今更ながらに後悔するが、今更後の祭り。覆水盆に返らず。自分で話題を振った手前、何事も無かったかのように全然違うネタにシフトするのも憚られた。

「あのー……」

 恐る恐る。

 覗き込むように幸が窺うと、一度目が合った。だがそれはすぐに逸らされた。そのまま氷室は、机の上にいる次郎を見ながら口を開いた。

「ごみ箱だと言っただろう」

「え? ……え?」

「俺の仕事。覚えてないのか」

 そう言われてみれば、初日にそんなことを言っていたような気もする。

 今一何を言っているのかが理解できないままに、手を繋ぐ徒競走に話題を掻っ攫われたのは四月の始めのことだった。残念なことに五月を迎えた今になってもやっぱり何を言っているのかは分からないままなので、幸は降参した。

「覚えてはいるんですけど、やっぱり仕事がごみ箱っていうのが私の頭では理解できなくてですね」

「言葉のままだ。要らん感情をここで捨てていけば、多少は心も軽くなるだろう」

 それが答えだと言わんばかりに、氷室は読みかけていた本に手を伸ばした。

 珍しく歯切れが悪かったのは気のせいか。

 どうも釈然としない。

 無理矢理に畳まれた感満載だったがそれ以上幸は何も言えず、お茶のお代わりを淹れる為に立ちあがった。


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