第10話 沈黙の効能は


 珍しいことは立て続けに起こるのだろうか。

 昨日の今日で、綾小路さんが事務所に来た。丁度下の子――大輝君の参観日だったそうで、保護者会の帰りに寄りたいと急に連絡が入った形だ。

 およそ二週間と少しの間、完全に客足が途絶えていたにもかかわらず、本当に良く分からない事務所だ。氷室の言葉を借りればこれをして「巡り合わせ」というらしいが、どうにも掴めない。

幸の事務員としての仕事自体はさして珍しくもない――むしろ本当にこれだけでいいのかと不安になるくらい簡単で、申し訳なくなることもある。それなのに破格と呼んで差し支えない条件で雇ってもらえていることも、やっぱり良く分からない部分だ。



 到着した綾小路さんは今日も品の良い服装で、清楚で落ち着きのある淡いグリーンのスーツを身に付けていた。春の終わり、初夏に似合いの爽やかな色が良く似合っている。Aラインのスカートは裾が緩やかに広がり、彼女の淑やかさを際立たせている。上着の襟も花開くように優しく波打ち、街中で良く見る就職活動やサラリーマンが来ているようなシャープさはない。やはり名のあるブランドなのだろうが、彼女の雰囲気に良く似合っていて少しも嫌味がなかった。

 いつ見てもやっぱり上流階級だ。綾小路という名前は伊達ではない。

 それにしても急に寄りたいなんて、今日はどうしたのだろうか。保護者会の後というのが引っ掛かる。何事か気にかかることでもあったのか。

 最初に見た時から綾小路さんは繊細そうだった。儚げな印象もそうだし、感情の起伏もマイナス側にぶれやすいように感じる。加えて言えば氷室や彼女の言葉から察するに、定期的にこの相談所に通ってきているらしいことも窺える。

 西園寺親子とはまた違った意味で気にかかる人なのだ。

 何かに傷付いていなければいいのだけれど。そんなことを頭の片隅で願いながら、幸は笑顔で紅茶を出した。

「ありがとう」

 落ち着いた声で綾小路さんが微笑む。前回とは違って、今日は落ち着いているらしい。

 そのことに少しだけ安堵して、幸は頭を下げた。

「いいえ、ごゆっくりどうぞ」

 本当は悩みなんて無い方が良いに決まっている。これを言い出すとそもそも幸は別の働き口を探さねばならないのだが、多分「誰もが悩まない世界」はそれこそ土台無理な相談なので、せめてここに来ることで心が軽くなれば良いと思う。

 まあ幸ができることは無いに等しいのだけれども、そこはそれ、だ。

 幸が下がったのを見て、氷室が切り出した。

「その後いかがですか」

 担任にはお会いしたのでしょう、と氷室が続ける。綾小路さんが頷いた。

「運動会の件は?」

「もう一度直接お願いしてみましたけど、駄目でした」

「それは残念でしたね」

 二人が特段の前置きなしに始めたのは、手を繋ぐ徒競走の件である。

 あの日、あまりの衝撃に幸は茶を噴いた。人生初だった。同時に、人がどんなことで悩みを抱くのか予想できないということにも気付かされた日だ。

 思えばあれがバイト初日。刺激的とまでは言わないものの、規格外の職場であることは明白だった。

 淡々と相槌を打つ氷室が実際に何を考えているかは分からない。手を繋いで競争すること自体は、くだらないと切り捨てていた人だ。しかし、悩んでいる本人を否定することは絶対にしない人でもある。

 昨日もそうだ。

 思い詰めた様子の綾乃に対し、模範的なアドバイスなり助言なりをするかと思いきや、直接的な回答は最後まで為されなかった。

 違和感を覚えたのは事実である。

 相談所という看板を掲げている割に、診療内科のようなことをするわけでもなければ、占い師のように「こうだからこうすべき」と方向性を指し示すようなこともしない。当然、「あなたの過去が見えます」とか「このままいけば未来に大きな災いが」なんてセンセーショナルな台詞を吐くこともない。

 氷室はただひたすら話を聞く。

 そして最後に、相談者を慮りながら柔らかい言葉をそっと差し出す。ただしそれは第三者的なというか、幸が感じたままに言うとすれば、相談者に十割偏った言葉ではないのだ。

 だから、今こうして相談者に対峙する氷室の思考が気になる。心の奥で本当は何を思っているのだろうかと。

「分かっていたことですから。若い先生ですし、きっと聞き入れてはもらえないだろうって」

 寂しそうに綾小路さんが薄く笑った。

 それは幸の耳に、細い悲鳴のように聞こえた。そう、そうだった。自分の抱く気持ちが理解されないものであることを、誰より彼女自身が知っているのだ。

 表面的な悩みは実際のところ、馬鹿馬鹿しいの一言に限る。

 大多数の人間は、徒競走で手を繋ぐなど馬鹿も休み休み言えと思うだろう。けれど、問題の本質はそこではないのだ。彼女はもっと深い部分で悩んでいる。

「あまり気落ちせずに。学校などそんなものだ」

「……そうでしょうか」

「学校のみならず、世の中全体が往々にしてそんなものです。短絡的なのもいれば自分が正しいと信じて疑わない奴もいる。ありふれた光景だ、残念ながら珍しくもなんともありません」

 綾小路さんの細い手が、白いハンカチをぎゅ、と握りしめた。同じく口も引き結ばれている。つぶさに見れば、その顔は若干蒼褪めているようだった。

 心配なのだろう。

 すぐに声も出せないほど。

 どんな慰めをかければ、その心が晴れるのだろう。綾乃の時もそうだったが、やはり幸にはかけるべき言葉が見つからない。その一方で、あまりにも痛々しいその姿から幸は目を逸らすことができなかった。

「綾小路さん」

 氷室が呼びかける。

 しかし思い詰めた表情の彼女は、返事をせずに手元のハンカチをずっと見ている。

「もう一つ申し上げますと、ありふれているのは残念な奴だけ、というわけでもありません」

「……え?」

「より厳密に言えば『残念であること』の定義をどこに持ってくるかで切り分けが変わりますが、集団の中での順位付けに興味がない、勝ち負けに頓着しないという性格の人間も一定数いることは事実です」

「勝ち負けにこだわらない? そんな人、本当にいるでしょうか。私の周りには……」

 言い淀んだ先は聞かずとも知れた。

 彼女の周りは間違いなくそういう性質の人間がいたのだろう。全員がそうだったのかは分からない。しかし彼女が大人になっても苦手意識を拭えない程度に、それなりの人数がそうだったと考えて妥当だ。

 好きで「手を繋ぐべき」と言うのではない。

 競走の何たるかを、国体にまで出場した輝かしい経歴を持つ彼女が理解していないはずがない。ただその経験を割り引いても尚、爪弾きにされた辛さの方が記憶に鮮やか過ぎるのだ。

 暫時、沈黙が訪れる。

 そして幸はまた一つ気付く。

 氷室は言葉を捲し立てない。必ずどこかで、相談者の呼吸を量るようにそっと待つ。その時間は無言になるが、不思議と居心地は悪くない。

 背中が温かく見えるとでも言おうか。

 纏う空気が穏やかで、さざなみ立つ心が少しずつ凪いでいくような感覚になる。

 

 

「綾小路さん」

 沈みかけた船を引き留めるかのように、氷室が呼びかけた。

 彼女が今度ははっとしたように顔を上げた。

「証明できると思いますか?」

 語りかける氷室の声はやはり優しかった。

 内容云々より、低く柔らかいその声がただ耳に沁み入るようだ。乾いた大地に降る雨さながら、命を吹き込むように。

「あなたがもし『そんな人間はいない』と思うのならば、それはこの世界に生きる何十億という人間全てがそうであるということを確認して初めて出せる結論のはずです」

「いて、くれるでしょうか。そんな優しい人」

「間違いなくいますよ。知り合いになるかどうかは同時に確率の問題ですが」

「確率……」

「宝くじと一緒と考えて頂ければ分かりやすいかと」

「宝くじ、ですか?」

「ええ。一生縁の無い人間もいれば、二回三回と当たる人間もいる。例えば私が一等を引き当てたからといって、その流れで私の父が同じことになるかというと、それは誰にも分からない」

 そこに何らの因果関係など見出せない。そう氷室は言った。

「まして本人の行いが悪いからくじが外れたなんて言い掛かりも甚だしい。そんなもの、単に運がなかっただけの話だ。品行方正に真面目に生きればくじが当たる、それを疑いなく信じられるならカルト教団の立派な創始者になれるでしょう」

 淡々とした口調の割りに、随分と刺激的な単語が飛び出した。

 ただし過激な例が諭しているのは、人間関係なんぞ運だ、というその一点のみだ。やはり当事者が悪いわけではないと氷室は言っている。

 昨日と同じだ。

 あなたは悪くない。

 ずっとそう呼びかけているように聞こえる。

 疲れた心にその肯定は、どれだけ安らぎを与えるだろうか。本当は人間関係を考慮するにあたってもう少し機微は必要だろう。しかし、あまりにも自尊心が擦り切れた人に真っ向から正論を言っても、それはきっと届かない。もっと擦り切れて終わりだ。

 開き直ることを推奨しているのとは違う。

 それほどまでに自分を責めなくていい、そんな風に幸の耳には聞こえた。

 

*     *     *     *


 背中を見つめながら、幸は確信した。

 氷室はやはり手放しで相談者の味方をするわけではない。一定の含みを持たせて話をしている。一貫しているのは、「こうあるべき」と綺麗事や前向きに過ぎる励ましは言わないその姿勢だ。

 今回の件は、大雑把に纏めると「心配したってどうしようもないから鷹揚に構えろ」と結論付けて終わる話だ。

 だが氷室はそういう物言いはしない。丁寧に丁寧に相手の言い分に耳を傾ける。雇われ始めの頃には想像もつかなかった光景に、何故か気持ちが温かくなる。日頃の会話は遠慮会釈もないが、オブラートがないだけであって傷付けようとする悪意はない。相談者相手となればむしろ逆で、極力配慮しているのが見て取れる。それは最近になって確信に変わった。

 ふと幸は考える。

 もしも幸が心に抱えている気掛かりを口にしたなら、この人は何と言うだろうか。

 どうにもならないと分かっていること。どれだけ考えようと変わらないこと。けれどどうしても諦められず心のほとんどを占めるこの気持ちを吐き出したとしたら。

 違う角度からの世界の見方を教えてくれるだろうか。

 折り合いの付け方、と言ってもいい。

 氷室は「魔法の言葉などない、無難な言葉はあっても」と断言していた。ともすればそれは、氷室自身が本当に真摯にこの相談所を訪れる人間の悩みを聞き続けてきたからこその結論ではないのか。極端な話、どんな悩みであっても「何とかなる」と言ってぶん投げてしまえば無難に終わりだからだ。

 ただ、想像してみたところで、その日は来ないだろうとも同時に思う自分がいる。

 臆病な自分はきっと最後まで口に出せはしない。声に出したが最後、取り返しがつかないような気がするのだ。言葉にしたところで、多分未来は変わらないというのに。


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