第9話 言葉に滲む過去
西園寺 綾乃が事務所に到着したのは、午後二時丁度だった。
所長である氷室が直々に、ライオン扉を開ける為に応対に出る。入口に佇む綾乃はやはり消えてしまいそうに見える。が、心配しつつも幸は何もできないので、とりあえず一番上等な玉露を丁寧に丁寧に淹れた。
お茶を応接に出した後、やっぱり幸は氷室の椅子に座った。もう相談時の定番だ。
「急にお電話してしまってすみません」
「構わないよ。その為に渡した電話番号だ」
「……すみません。踏ん切りがつかなくて、中々電話できませんでした」
「何も問題ない。急ぐ話でもない」
意識的にそうしているのか、氷室の声は幾分柔らかい。
そこで一度区切り、氷室はお茶に手を伸ばす。コーヒーを出した時はほとんど手をつけないので、やっぱり好みは日本茶一辺倒らしい。
「本当は母の相談なのに、私まで見て頂くなんて」
申し訳なさそうに綾乃が言う。そこで幸はあれ、と思い至る。
確か氷室は、西園寺さんの相談を「切実だから予約が入った」と言っていたはずだ。実を言うと、幸の目には西園寺母の勢いがありすぎて、切実というにはどこか違和感を覚えていた。
どういう基準でこの相談所に新規顧客が紹介されるのかは疑問だが、氷室は最初からこうなることが分かっていたのではあるまいか。本当のお客さんは、娘の綾乃なのでは。
何となく、本当に何となく、幸はそう思った。
「言わなくてももうお分かりでしょうけど、進路のことで母と意見が食い違ってしまって」
「そのようですね」
「できないことを頑張り続けるのは辛いんです。才能がないことは自分が一番良く分かってます。そんなものに縛られたくない。私は音楽よりも、本を読む方がよほど楽しかった」
「ふむ」
「でもこれを言うと、多分母は傷付きます」
綾乃が寂しそうに笑った。
「君のお母さんが? 何故?」
「手塩にかけて育ててくれたので。折に触れ、私にはお金がかかっている、時間も、と言いますから」
喉まで出かかった言葉を幸は堪えて、目を瞑った。
それを言ったらお終いなんじゃないのか。
親になったことがないから分からない。どれだけ大変な思いをして子を育ててきたのかは、耳で聞くだけでは絶対に理解できないだろうと思う。色々なことがあったのだろうと思う。苦労してきたのだろうと思う。親子喧嘩をした友人が、「一人で大きくなったみたいな顔しやがって」と言われたと、泣いているのも見たことがある。そんな文句を言いたくなるくらい、本当に本当に、親というのは大変なのだろう。
でも。
でも、それを言ったらお終いでしょう、と。
幸なら多分、売り言葉に買い言葉になる。「金がかかっているから思い通りにしろ」なんて言われたら、「好きで生まれてきたわけじゃない」くらいは出る。やがてそれは「子は親を選べない」、「親だって子を選べない」、「産むかどうかは決められただろう」、そんな不毛な罵り合いに繋がっていく。
多分、綾乃はそれを知っているから飲み込むのだ。
生きていくことは難しい。
思い通りにならないことが沢山ある。人の気持ちを知れば知るほど、身動きがとれなくなる。
氷室は何と言うのだろう。それでもやりたいことをやるべきだ、と背中を押すのだろうか。それとも親への感謝を忘れずに振る舞った方が良い、と諫言するのだろうか。
間が空く。
およそ一分は経っただろうか。余りにも喋らない氷室を見て、綾乃が不安げに小首を傾げた時だった。
「許してあげて欲しいと思う」
低めの声は、今日で一番気遣わしげに柔らかかった。
綾乃が目を瞬く。
「え……?」
「心の強さは年齢には比例しない。相手に求めるものは食い違うのが当たり前で、だからこそ食い違ったとしてもどちらも悪くない。君は悪くないし、君のお母さんも悪くない」
「私も、母も、悪くない? こんなに分かり合えないのに?」
「むしろ分かり合えないのが普通だと思った方がいい」
残念そうな響きはまったくなく、むしろ天気の話でもするように氷室が言った。
「親子であっても分かり合えないものでしょうか」
綾乃の問いに、氷室が首を捻った。
「未来は分からない。だがその日が来なかったとしてもやはり君が悪いわけではないし、君のお母さんが悪いわけでもない」
「……悪く、ないんですか……?」
「悪くない。分かり合えないのはどちらの所為でもない。だから分かり合えない自分達を、互いに許し合うしかない」
そこで区切って、氷室は湯呑みに手を伸ばした。
綾乃の目から涙が一粒零れるのが見えた。その理由は幸には分からない。ただ願わくば、彼女の今日か明日かいつか未来のどこかで、彼女の母と分かり合えますようにと思った。
そして不意に氷室の過去が気になった。
どちらの所為でもない。だから許し合うしかない。
簡単には言えない気持ちだ。その優しい言葉を言えるようになるまで、この雇い主に一体何があったのだろう。
やがて三十分ほどが経ち、落ち着きを取り戻した綾乃が腰を上げた。
エスコートしようとした氷室を固辞し、彼女は自分の手で扉を開けた。そのまま彼女が頭を下げてお礼を言う間に、幸は見送る為に氷室に並んだ。
顔を上げた綾乃と目が合う。
ぎこちないが、綾乃は少しだけ笑ってくれた。
「ありがとうございました。それじゃあ、これで」
「……あの!」
幸の呼びかけに、綾乃が驚いた顔で振り返った。
「私は、綾乃さん素敵だと思います!」
「え?」
「急にすいません、私なんて大学休学中なんですけど、綾乃さんは頭良いし、優しいし、可愛いし、弾こうと思えばヴァイオリン弾けるし、何か色々大丈夫だと、お、思います。ほんとすいません急に。あ、あと語彙が少なくて何言ってるんだか分かんないですけど、でも、きっと大丈夫ですよ」
「……ありがとう」
綾乃が笑った。
はにかみながらも、今度は正真正銘の笑顔だ。
「元気、出ました」
小さく言って、綾乃は何度か振り返りつつ帰っていった。
彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで、幸と氷室はその場に立って見送った。
* * * *
藪から棒に氷室がそれを尋ねてきたのは、綾乃が帰ってしばらくしてからのことだった。
「お前、休学中なのか」
「へ?」
「さっき言ってただろう」
「それは、……そ、そうなんですけど」
というか休学中であることは一応履歴書に書いていた。それを碌に目も通さず横に放り投げたのは他でもない氷室自身だったりするのだが、どうやら本人は完全に忘れている態だ。
これはまさか、クビになる前振りか。
大学も出られない奴はこの事務所で働く資格はないとか言われるのだろうか。うん、言いそうだ。この雇い主なら言ってもおかしくなさそうな正論だ。漢字というか言葉を知らずに国籍を疑われたのは、つい先刻のことだ。
雇い主から何を宣告されるのかと内心幸がびくびくしていると、氷室が呆れたようにため息を一つついた。
「心配するな。別にクビにするつもりはない」
エスパーかこの人。
びっくりして幸は目を丸くするばかりだ。
「よ、良かったです。クビにされたらどうしようかと」
「大丈夫だ。やるなら使えないと分かった時点でクビにする」
いや、その件に関して「大丈夫だ」という言葉の選択は間違ってると思う。思うが、幸が言えた義理ではないのでそこは敢えて黙殺する。下手に突いて藪から蛇が出てきたら目も当てられない。
いずれにせよ、先程はお客様に対して出過ぎた真似をしてしまったなあと反省していた所だ。
それを咎められたのではないと理解して、幸はこっそり胸を撫で下ろした。が、一安心したのも束の間、そうなると何故氷室が休学のことを持ち出してきたのかが俄かに気になる。
理由を聞かれたら困る。
あまりこう、人様に胸を張って言えるような理由でないことは、幸が一番良く分かっている。頼むから聞かないでくれと念仏のように心の中で唱えてみるも、それは次の瞬間無駄な努力に終わった。
「いつからだ」
話題は完全に休学についてロックオンされている。
「……ええーっと、こないだの四月から、です」
「いつまでだ」
「え?」
「休学の期間。ずっとというわけにはいかんだろうが」
「それはおっしゃる通りなんですけども」
歯切れが悪くなるのは致し方ない。
氷室が指摘した通り、休学できる期間は有限だ。通常であれば一年。期限が来れば、復学するか退学するかを決めなければならない。だがそれをどうしても今は決められない事情がある。
「実はいつまで休むかは決めてなくて」
氷室の眉間に深い皺が刻まれた。
怖い。
迫力が凄い。ついでに威圧感も半端ない。かといって幸は何の地雷を踏んだのかが分からない故、曖昧に笑って誤魔化すくらいしか手段がない。
「あのー、氷室さん?」
「フルタイムで働いて大丈夫なのか」
「何でですか?」
「勤務時間、短くしてもいいが」
「え、何でですか!?」
急な提案に幸は思いっきり動揺した。
ようやく見つけた働き口なのに、できるだけお金を稼がねばならんというのに、時短勤務など冗談じゃない。
「何でって……」
眉間の皺を刻んだまま氷室が言い淀んだ。
このままではどんな死刑宣告を受けるか気が気ではない。幸は思わず氷室に詰め寄り、その右手を取った。
「すいません後生ですからクビとか時短とか言わないで毎日八時間使ってやって下さい何でもやりますから!」
「いやでもお前、」
「大丈夫です大丈夫全然大丈夫!」
「……そうか?」
「頭はちょっと残念かもしれないですけど、身体も心も超健康優良児です必死に働きますから!」
「……分かった」
何故か氷室はため息つきの了承だった。
とりあえず勢いだけで押し切った感は否めないが、何にせよ良かった。
「……」
「……」
「手」
「手?」
「クビにはしない。これまで通り八時間で雇う。だからもういいだろう」
氷室の視線が斜め下に注がれる。つられて幸も追う。
幸の両手が、氷室の右手をあらん限りの力で握りしめていた。
「す、すいませ……!」
頬が熱くなった。
必死すぎて全っ然気付いていなかった。そして気付いた今この瞬間に、幸は凄い勢いでしかしできる限り丁重にその大きな手をぶん投げた。
意識した所為か妙に感触が残っている。
顔立ちの端正さからは想像できない程、無骨だった。両手で握っても余る大きな手。そして何より温かい手だった。
「初回だから
「そっ……そんな、そうほいほいと触るなんて、触りませんよ!」
「それは残念だ」
どこまで本気で言ってるのこの人。
叫びたかったが、あまりの恥ずかしさにとうとう幸は黙り込んだ。
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