第6話 「働く」って何だ



 色々と疑問が湧きあがる相談だった。

 西園寺親子を見送った後、片付けようと応接テーブルに残されたコーヒーカップに手を伸ばすと、幸は何ともいえない気持ちになった。

 母親が座っていた方のテーブルに、茶色い染みが二つ。

 彼女が激昂してカップを叩きつけた時に飛び散ったものだろう。結局、最後まで一言も声を出さなかった娘の気持ちを考えると言葉が見つからない。

 図らずも幸と同い年だった娘の綾乃。何一つ反論しなかった彼女。真一文字に引き結んだ唇には、それでも隠しきれない意志が滲みでていた。けれど彼女はとうとう最後まで呑みこみ続けた。

 強いていうのならば、ただ切ない。

 不意に鼻の奥が痛くなったので、幸は考え事の目先を変えることにした。

「なんか、あんまり感じ良くなかったですね」

 お盆にカップを乗せながら呟いてみる。

 すると、椅子にかけてキーボードを叩いていた氷室が顔を上げた。

「そうか?」

「最初から足元見られたみたいです。料金のこととか。文句があるなら来なきゃいいのに」

 かく言う幸は、文句を口にすることでどうにか堪えている有様だ。

 綾乃を思い出すだけで喉の奥が軽く締まる。自分でも変だと思う。初対面、それも一言も喋っていない相手のことがどうしてこれほど気になるのか分からない。単純に年が近いから、自分に言われたように感じているのだろうか。

 濡れた布巾でテーブルを拭く。

 零れたコーヒーを綺麗に拭き取り、次いで乾いた布巾で乾拭きしてやると、応接テーブルは元通り鏡のようになった。覗き込むと、天井の蛍光灯がばっちり映り込んでいる。

 と、そう言えば雇い主から合いの手がこない。

 幸が振り返ると、氷室は休憩の態で椅子の背もたれに身体を預けていた。切れ長の目は天井に向けられている。

「切実だから予約が入ったんだ」

 何言ってんだろうこの人。

 雇われてまだ三日しか経ってないのに、この疑問は二回目だ。それもどうかと思いつつ、幸は小首を傾げた。

「切実だからって……予約くらい普通に入るでしょ?」

「お前の普通とは何だ」

「え、ネットとか電話とか」

「うちはホームページもなければタウンページにも載ってない」

 何言ってんだろうこの人。

 心の中で呟いた後、更に幸は心の中で追加で呟く。何で一分と経たずに同じ疑問文を違う事柄に対して使ってるんだろう。会話が成り立っていないにも程がある。

「……それでどうやって商売するんですか? 一般庶民の私にも分かるように説明して下さいますか」

 首を思いっきり九十度捻り、幸は尋ねた。

 それを見た氷室が目を眇める。ああ、これは確実に頭悪いと思われてる。同時に残念な奴だとも思われているのが一目瞭然だった。

「基本的に紹介制」

「はあ」

「依頼は受けても四、五日に一人」

「少ないような気がするのは気のせいでしょうか」

「毎日は疲れる」

「色々と突っ込みたい部分はあるんですけど、一番大きい疑問だけ。そう言う割には一昨日と今日、立て続けじゃないですか」

「だから切実だと言っただろう」

 本当に何言ってんだろうこの人は。

 接続詞である「だから」が機能していない。少なくとも幸は、この一回の「だから」では飲み込めなかった。同じ日本語を話しているはずなのに、相手の言っていることが理解できないとかシュールすぎるだろ。

「すいません、バイト三日目にも分かるようにもうちょっと噛み砕いてもらえませんか」

「大したことのない悩みだと、ここに辿りつくまでに至らないだけだ。紹介者に出会えなかったり、紹介者と知り合えたとしてもタイミングが合わずになかなか俺に繋がらなかったりする」

 それ、場所が場所なら不思議体験になるんじゃなかろうか。会いたいだけじゃ会えない、余程切羽詰まった理由が要るなんて、某アニメのネタにもあった気がする。

 ただ、バイト初日に「手を繋ぐ徒競走」をばっさり切って捨てたことを考えると、本来の氷室は現実主義者というかそういう類を信じない側に見えるのだが。

「はあ……そういうものなんですか?」

 今一この氷室という名の雇い主が、どういう人物なのか掴みづらい。より平たく言うと、何を考えているのか読み取るのが難しい。よって、幸の相槌は非常にぼんやりしたものとなった。

 釈然としない幸を見つつ、しかし氷室は真面目な顔をして次の瞬間言い切った。

「そういうもんだ」

「そ、そうですか」

 一言の下に言い切られて、「そうですか」以外にどんな返しができただろう。少なくとも幸には他の言葉は浮かばなかった。

「巡り合わせという言葉くらい知っているだろう」

「一応……」

「つまりそういうことだ」

「それらしく言ってますけど大雑把ですよね。今一理解できてないですけど、てことは綾小路さんから一日しか開いてないのに相談しにきた西園寺さんは、ものすごく重大な悩みがあるってことですか?」

「そう」

 それきり氷室は、何かを考え込むように黙り込んでしまった。

 話しかけてはいけないような雰囲気だ。幸は戸惑いながらもそれ以上続けず、黙って応接テーブルの湯呑みを片付けた。極力、音を立てないように。

 その日はほとんど言葉を交わすことなく夕方の五時を迎え、一日が終わったのだった。


*     *     *     *


「おとーさん」

 幸が声を掛けると、父の雄三は読んでいた本から顔を上げた。

「幸。来てくれたのか」

「当たり前でしょー。昨日も一昨日も来れなかったじゃない」

 言いながら、同室の既に見知った入院患者達に幸は小さく会釈をした。彼らも幸のことは承知しているが故、笑いかけてくれたり軽く手を上げて応えてくれる。

 雄三は本にしおりを挟み、枕元に置いた。

 ここは四人が入院している大部屋だ。父の雄三が入院して、もう三ヶ月になる。これまでは見舞いは開けても一日だったが、二日間も来れなかったのは初めてだった。

「そう言えばそうだけどな+。嬉しいが、勉強を優先してくれよ」

 父親らしい小言を、困ったように笑いながら雄三が漏らす。

「ご心配なく。真面目にやってます」

 幸は片目を瞑って笑って見せた。

 だがそれは嘘だった。

 本当は大学にはこの四月から行っていない。休学することを母の恵美子には相談したが、雄三には一言も言っていなかった。言えば絶対に反対されただろうことは想像に難くない。今でさえそれと知れば、雄三は病院から抜け出してでも復学の手続きを取ろうとするだろう。

 初めてついた嘘は、最後までつき通さねばならない。

 だから幸は何事も無かったように、こうして夕方にだけ顔を見せに来る。

「そうか? あまり無理しなくていいぞ」

「大丈夫だよ。それより聞いて、バイト始めたの」

「んー? また本屋か?」

「ううん。氷室悩み相談所ってところ」

「面白そうな名前の職場だなあ」

 実に雄三らしい反応だった。

 このあたりの大らかさは、恵美子と良く似ている。似たもの同士だから夫婦になったのか、それとも長年一緒にいる内に似てきたのかは定かでない。ただ幸にとっては居心地の良い優しさだ。

「どんな所なんだ?」

「今週から始めたからまだ何とも言えないんだけど、結構特殊。名前の通り悩んでる人が相談に来る事務所なんだけど、所長が一人いるだけなの。で、お客さんは一週間に一人取るか取らないかみたい」

「ほー」

「私はお茶出しとか掃除が仕事」

「個人事務所なんだな。どうしてそこを選んだんだ?」

「求人広告がたまたま目に入ったの。だから何となく。でも面接とかもあっさり終わっちゃって、即日で採用決まり。びっくりだよねー」

「ご縁があったんだろう。良かったな」

 雄三が優しく笑った。うん、と答えながら幸の胸が詰まった。

 また痩せた。目蓋が、頬が、首が。逞しかった父が、削られるように薄くなっていく。たった二日会わなかっただけなのに。笑顔だけが変わらず優しくあって、その鮮やかな対比を目の当たりにしながら気付かない振りをするのは辛い。

 辛いが、幸は知らないことになっている。

 だから何も知らない娘であり続けなければならない。幸が恵美子を問い詰めた挙句に真実を知っていることを、雄三は知らないのだ。

 恵美子は言った。黙っているのは父の愛なのだと。だからどうかその気持ちを汲み取って欲しいとも言った。

「バイトもいいが、本業はあくまでも勉強だぞ」

「分かってますよー」

「今年は就職活動もあるだろう」

「あー……そんなのもあるねー……」

 忘れたい現実を他でもない雄三から突き付けられて、幸の応答は鈍くなる。

「悔いのないように頑張りなさい」

「……うん」

「まあ、さすがにまだ働く実感なんて湧かないだろうけど」

 苦笑しながら言う雄三に、同意を示すように幸は肩を竦めてみせた。

 働くって何なの、とは言えなかった。会社や家族の為に長年働き続けて、結果として身体を壊すのなら、そんな働き方はして欲しくなかった。

 悔いのないように。

 その一言が幸の胸に深く突き刺さった。


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