第7話 とある者から依頼を受けて


 その日、幸はこれまで手を付けていなかった本棚の存在が無性に気になった。

 めでたく雇われてから二週間と少しが経過し、事務所内で他に磨き上げる場所がなくなった為である。丁度氷室の背中側に並ぶ本棚を覗き込むと、それなりにハタキはかけていたつもりだが、良く見れば奥の方に薄く埃が積もっていた。

 お茶出しと掃除が雇い入れの条件である幸としては、これは綺麗にせねばなるまい。

 となれば、雇い主の許可が必要だ。

「氷室さん」

 早速幸が呼ばわると、所長椅子にかけた氷室が振り返りもせず言った。

「好きにしろ」

 さすが、色々なことに頓着しない氷室らしい返しだ。

 だがそれも想定の範囲内。既にこの二週間で、幸の神経も大分鍛えられている。この場合の正しい対応は機嫌が悪いのかと訝ってビビることではなく、何をするのか端的に通告すれば良いのだ。

「本の順番、入れ替えますね」

「捨てなければ好きにしていい」

 読みかけの本のページをめくりつつ、氷室の許可が降りた。横顔は今日もまた男前だった。



 この事務所には全部で五架の本棚が並んでおり、そのいずれもが本で満杯になっている。顔ぶれは多彩と言えば聞こえは良いが、どちらかというと節操がない部類だ。おまけに先の台詞の通り氷室は買った本はそのまま取っておく派らしく、のべつまくなし増え続けるという寸法だ。

 掃除をしながら背表紙の字面を追うと、懐かしさが幸にこみ上げてくる。

 良く似ている。

 大学在籍中にお世話になっていた恩師のそれと、目の前に並ぶ本棚達はそっくりだ。お堅く分厚い専門書に始まり、娯楽小説があるかと思えば童話も収められている。背の高さも厚さも表紙の素材も、全てがばらばら。でこぼこの賑やかな本棚は、あの優しい退官間近の教授をそのまま思い起こさせる。

 君の父上は待ってはくれないかもしれない。

 恩師がかけてくれたその一言に背中を押され、幸は休学を選んだ。この学府はいつでも君を待っている。恩師はそうも言ってくれた。

 戻れるだろうか。

 否、戻る気になれるだろうか。

 正直な話、今は先のことを何一つ考えられなかった。復学も、就職活動も、卒業も。何もかもが遠い世界というか、今の幸には二の次になってしまった。だって、それらは全て取り返しがつく。

 父の雄三は笑顔こそ変わらないものの、少しずつ確実に痩せてきている。

 かといって幸自身にできることは何もない。時間だけが誰しもに平等に、ただ進んでいく。見事に咲いていた桜は既に散ってしまい、今は道端のそこかしこに零れんばかりにつつじが咲き誇っている。やがてそれらは雨の季節に紫陽花あじさいへと移ろい、向日葵ひまわりを経て、燃える紅葉の後に、白く眠る冬が来る。

 季節の巡りが「時間は淡々と進む」その事実を表していて、美しい風景を目にする度に苦しくなる。

 流れる時間は早まることはない、けれど遅くなることも絶対にないのだ。



「……おい」

 不意に聞こえた呼びかけに、幸ははっとした。

「どうした」

「え?」

 声が降ってきた右上を見遣ると、本棚に寄りかかるように右手をかけて幸を見下ろしている氷室がいた。

 いつの間に。

 というか、近い。

 互いの距離は手を伸ばせば簡単に触れられる。至近距離で見れば見るほど、この雇い主の顔立ちは整っている。身長差がある以上この体勢は致し方ないが、伏し目がちの切れ長の目が、ただもう端正だとしか言いようがない。

 長身。幸より頭二つ分は高い。肩幅もしっかりしている。たまに背が高くても細くてナナフシみたいな人がいるが、氷室はそんなんじゃあない。多分絶対、腹筋はそれなりに割れていると軽く想像できた。

 造形の完璧さはもはや彫刻の域に達している。

 あまりにも整い過ぎているが故、幸はひたすら見惚れていた。動悸も何も起こらない。どうせ平凡な自分と並べたら月とすっぽん、どきどきする方が失礼である。

「その口何とかならんのか」

「へ?」

「開きっぱなしだ」

「……すいません。氷室さんがあまりにも格好良過ぎて、つい」

 少しばかり考え事をしていたら、いつの間にか隣に美形がいたのだ。それも超至近距離、いわゆるパーソナルスペースの内側に。

 人生でそう何度もなさそうな機会、そりゃ呆けて口も開くわと声を大にして主張したい。むしろよだれが垂れなかっただけ褒められて然るべきだと思うのだがどうだろう。

「お前……恥ずかしくないのか」

「何がですか?」

「真正面から褒める奴がいるか」

 微妙に苦い口調で、氷室が目を眇めている。

「でも氷室さん、言われ慣れてるんじゃ」

「それは否定しないが、正面切って言う奴は初めてだ」

「なんだろ、自分で言っといてなんですけど真っ向言われると腹立ちますねー自分がそういう褒め言葉に縁がないだけに三割増しくらいで腹立つー」

「やかましい」

 と、氷室が拳で幸のデコを小突いた。

「いたっ」

「それで、何をぼーっとしていたんだ」

 聞かれたことをすぐに飲み込めず、幸は目を瞬いた。

 これは話しかけられているのだろうか。これまで氷室の方から積極的に話しかけてきたことは皆無だったのに、急にどうした。何か変なものでも食べたのか。変なものって、幸が作った昼ご飯か。いや自分で作っておきながらその予想もどうだ。

 常にはない珍しい状況に幸が固まっていると、氷室が続けた。

「考え事か?」

「あ、いえ、考え事っていうか、考えてはいたんですけどぼーっとしてたっていうか」

「悩みがあるなら聞くが」

「は!?」

 唐突すぎるにも程がある。あまりのことにびっくりしすぎて、幸の顎は外れかけた。

 ところがビビらせた当の本人はいっそ涼しい顔をして、二の句を継がずにただ幸をそっと見下ろしてくる。無駄に柔らかい視線が逆に怖い。

 普通なら多分、ときめく。

 感情は薄いが真剣な眼差しと言っていい。ここにいるのは二人だけ、おまけに悩みがあるのならば聞いてくれるなんて。

 だが幸としてはこの罠にかかればどんな対価を求められるのか、気が気でない。ときめく前に「そんな旨い話があるか」と一蹴できる程度には、恋愛というものに縁がなかった次第だ。

「ど、どういう風の吹きまわしですか? ていうか私貧乏なんで無理です、一年間ただ働きとか勘弁して下さい」

「お前俺をどんな悪徳業者だと思ってるんだ」 

「違うんですか?」

「……」

 ぐ、と氷室が目を瞑り、左手の長い指でこめかみを押さえる。

「どこで勘違いしたのか知らんが、これだけは覚えておけ。俺はぼったくったことなど一度もない」

「そうなんですか? 氷室さん迫力あるからつい」

「お前……」

 迫力だけで決めつけるんじゃねえ、と地獄の底から響くような声で氷室が言い放った。

 幸としてはだからその迫力が物凄く荒稼ぎをしているように見えるのだと主張したいのだが、これ以上口を開くと目で射殺されそうなのでどうにか飲み込んだ。

「ついでだから教えてやる。そもそもこの相談所は志納だ」

「しのー?」

「完全に分かってない発音だな。本当に日本人かお前」

「一足飛びにその疑いはさすがに酷いと思うんですけどどうですかね?」

 もうちょっと他に言い様があんだろ直球にしても程があるっつの。

 最近、心の中での言葉が汚くなって宜しくない。あまりにもオブラートというものがなさすぎる関係上致し方ない部分もあるが、突っ込みの瞬発力ばかり鍛えられてどうするというのだろう。この特技が何かの役に立つとは到底思えない。

 色々なことをひっくるめて、とりあえず幸は片眉を上げて抗議の視線を投げてみた。しかし氷室はまったく動じていない。むしろより一層哀れそうな目で見つめ返されて、幸の戦闘意欲は根こそぎ削がれた。

 そんな残念そうな顔しなくても。

「一応これでも生粋の日本人ですよ……」

「そうか」

「ええ、はい」

「まあいい。こころざしを納めると書いて志納。相談に対して例えば一時間に幾らとか料金を決めているわけじゃない。先方の気持ち次第であって、貰わないことも多い」

「……それで商売って成り立つんですね」

 あっさり流された屈辱もそっちのけでため息が出た。

 対価を貰わないことが多くても、こんな都会の一等地に事務所を抱えることができるとは。それはつまり、貰う時は大きく貰うということなのだろうか。そうは言っても氷室自身が寄越せというわけではないらしいから、他にも副収入的な何かがあるのだろうか。

 副収入。

 何だろう、この顔の良さを活かして夜の仕事か? いやでも、わざわざそんなことするくらいなら普通にこの相談所で相応の料金を頂戴すれば良いだけのように思う。

 それとももう少し現実的に考えて、どこぞのお坊ちゃんで不動産を転がしてるとか、株をやってたりとか。この雇い主、頭が良いのであながち的外れでもないような気がする。

 雇い主の謎がまた一つ増えた。

 かといって大手を振って聞くこともできずにいると、何故か沈痛なため息が氷室の口から盛大に漏れた。

「つまりお前からビタ一文貰わずとも俺は何ら支障をきたさないことをその足りない頭で理解しろ」

 幸は今この瞬間に力一杯思い知らされた。

 そもそも口答えをしたのが間違いだった。幸が一つ言えば、氷室からは十返ってくる。こんなの相手に敵うわけがない。

「悪徳業者とか勘違いしてすいませんでした」

 敵わないのならばさっさと白旗を上げるに限る。幸が頭を下げると、頭上から天の声が降りてきた。

「分かればいい」

 存外にあっさりとお許しが出た。

 声を合図に幸が顔を上げると、氷室は同じ姿勢でそこに留まっている。また目が合った。

「……」

「……」

「氷室さん?」

「なんだ」

「ええと、目を逸らしづらいんですけど」

「……」

「……」

 えー、何で何も言わないのこの人ー。

「……氷室さん」

「なんだ」

「何か言って下さい」

「あ?」

「あのですね、無言で見据えられてると緊張すると言いますか何と言いますか」

「俺は待っているだけだ」

 えー、何言ってんのこの人ー。

「な、何をですか?」

「お前が話すのを」

「な、何でですか?」

「悩みがあるなら聞くと言っただろう。対価も要らんと説明したつもりだが、やはり分かってなかったのかお前」

 なるほど、あの台詞の行間を読めばこういう解釈になるのか。改めて幸の目から鱗が落ちた。

 辛辣な言い方はともかくとして、氷室がこんな心遣いを見せてくれるとは思いもしなかった。予想にまったく織り込まれていない行動を取られたものだから、幸の反応が鈍くなったのは半分氷室の所為と言っても過言ではない。

 しかし、気にしてくれていたのか。

 普通ならこんな男前にそうされて嬉しくないわけがない。ないのだが、今の幸には手放しでそれを喜ぶことはできなかった。むしろどう取り繕うかで頭が一杯すぎて、嬉しいもへったくれもない。

「ありがとうございます。何でもないんです。本当に、ちょっとぼーっとしてただけなので」

「……そうか」

「はい。すいません、真面目に働きます」

 腕まくりをし直し、幸は雑巾を掲げて見せた。

 とりあえず、ぼんやりしていたことはそこまで珍しい光景ではないはずだ。人間だもの、そんなこともある。だからあれやこれやと言い繕うよりは、何も考えていなかった風を装うのが最も無難だろう。口を開くほどに墓穴を掘らされそうなので、ここは口を閉ざす一択しかない。

「……ふうん」

 氷室は何かを考えていそうな風情だったが、やがて一つ頷くと、彼の居城に何事も無かったかのように戻っていった。読みかけていた本を手に取るのを見届けて、幸は幸で本棚に向き直った。

 多分ごまかしきった。

 でももんのすごく焦った。

 どこでぼろが出るか息詰まる一戦だった。今日はもう余計なことを考えず、目の前のことに集中した方が良さそうだ。幸は一度頭を振って、掃除モードへと意識を切り替えた。

 最上段の本の手前から、まずは埃を払い落としていく。そのついでに本の高さを揃えたりある程度種類をまとめてみると、最初の一段目だけでも見目が良くなった。

 よしよし、このまま掃除に集中しよう。

 満足して幸が二段目に取りかかった時、不意に背中から呟きが聞こえてきた。

「お前のご主人は意外と強情らしい」

 え。

 思わず幸は振り返る。目に入ったのは本の続きを読む氷室の横顔と、組まれた長い足だけだった。視線を投げる幸に気付いているのかいないのかは定かでないが、氷室は字面を追ったままだ。

 声は確かに氷室だった。

 もしも話しかけたのだとしたら、こちらを見ている筈だ。しかし目も合わず二の句も続かない様子を見るに、本に書かれている台詞を声に出しただけか。

 不思議に思いながらも氷室は何も言わず本を読み続けているので、幸もまた本棚掃除に戻った。

 深入りすると今度こそ完全に自爆させられる。多分、きっと。


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