第5話 生きていく為に必要なもの
翌日、雇われ三日目の朝七時半。
幸は事務所に到着してすぐ、正面のライオン付き扉を開け放った。所長の氷室は大体九時過ぎに出てくると言っていた。ということで、彼が来る前に一通りの掃除を終えるのが目標だ。
まずは事務所内の床をざっと掃き、その流れで入り口も綺麗にする。一段落ついたら太郎と二郎と三郎に水をやり、所長机と応接テーブルを拭き上げる。特に応接のテーブルは高いだけあって、少しでも指紋がついているとすぐに分かる為、念入りに。
給湯室で湯を沸かし、ポットに移し替え、「所長の机はあんまりいじらない方がいいかなー」などと考えつつ事務所に戻ると、氷室が既に来ていた。
「あ、おはようございます」
挨拶しつつ幸が時計を見ると、針は八時半を指している。幸が来てから丁度一時間が経っていた。
氷室は上着を脱ぎながらも、物珍しそうに事務所内を見回している。
「どうかしました?」
「ん?」
「なんできょろきょろしてるのかなって」
「涼しいなと思っただけだ」
「すいません、寒かったですか? 掃除するんで、ずっとドア開けっ放しだったんです」
慌てて幸は小一時間解放していたライオン付き扉を閉めた。
「もしかしてあんまり良くないですか?」
「何がだ」
「ドア、開けっ放しにするの。事務所の中、見られてまずいものあるんだったら明日から控えます」
本当は、埃が立つからできれば扉は開けておきたい。
幸としてはこの雇い主の仕事を今一まだ理解しきれていないが、個人情報やら何やらにうるさい昨今、何が駄目なのか想像の範囲を越える。
と、氷室が首を横に振った。
「開けてていいぞ」
「え、でも」
「寒いとかそういうのじゃない。気分が良かっただけだ」
言いそうにない言葉が氷室の口から滑り出たことに、幸は驚いた。
気分が良いとか。
食事のこともそうだが、軒並み壊れていた家電といい、あまり快不快に頓着しない人だと思っていた。掃除をしてもさして変化を感じ取ってはくれないだろうと踏んでいたので、これは幸としては嬉しい発見である。
内心ガッツポーズをしていると、氷室がまた幸の足周りに視線を投げてきた。
既に雇われており面接を受けるわけでもないので、今日は黒の就活パンプスではない。とはいっても働くわけで、無難なベージュ色のモカシン――つまりよくあるぺたんこ靴だ。飾りらしい飾りはほとんどついていない。
念の為、家を出る前に母の恵美子にも確認してきた。
判定は「場違いではなくバイトとして特に問題ない」となったので履いてきたのだが、暗黙のルールか何かにまさか引っ掛かったのだろうか。
氷室は何も言わずに幸を見ている。正確に言えば、幸の靴を見ている。何も言わない。何かに目を凝らしているようだが、多少眉間に力が入っているだけで特に感情は読み取れない。
何だ。
何がまずいんだ。
早くはないと自覚している頭であっても、十回くらいは自問自答した。だが分からない。当たり前だ、それができたらエスパーだ。相手の思考が読めるなんて特殊技能を持っていたら、そもそも事務員バイトなんぞやらずにもっと違う方法で金を稼ごうとしただろう。
そして視線が突き刺さっているのを理解していながら何事も無かったかのように振る舞うという芸当は、幸にはハードルが高すぎた。
「あの、駄目な理由を言ってもらえますか」
「は?」
「ええとですね、無言のプレッシャーは感じることはできるんですけど、自分の靴の何が駄目なのかまでは分からないので……」
「靴が駄目? 何の話だ?」
「え? だって今、しかめっ面でずっと見てましたよね? だからこの靴、駄目なんだと思ったんですけど」
「……ああ」
合点がいったように、氷室が目を瞬いた。
「俺が見てたのは、」
説明しかけて、言葉が不自然に途切れた。
「氷室さん?」
「あー、と」
幸が雇われてまだ一週間と経っていないが、歯切れの悪い氷室を初めて見た。
雇い主はそのまま幸の顔をしげしげと眺め、もう一度幸の足元を見遣ってから一旦応接テーブルに視線をずらし、最後に壁に掛けてある時計に目をやった。
「お前と遊んでる場合じゃない。今日の依頼者は十時に来る」
何故か不自然に切り上げた感満載で氷室は彼の牙城に向かった。椅子に座りがてら「別に靴も服装も自由だ、好きにしろ」と言われたことが、ますます幸には不可解だった。
靴を見ていたわけじゃなくて、じゃあ一体何を見てたんだろうこの人は。
釈然としないながらもとりあえずの懸念事項は払拭されたので、幸は深く突っ込まないことにした。
* * * *
予約の時間丁度に扉をノックし顔を出したのは、先日の綾小路さんより幾分年嵩の女性だった。四十の後半くらいだろうか。初めてこの事務所に訪れたという割には気後れした風もまるでなく、むしろ彼女自身が所長であるかのようにゆったりと落ち着いているのが印象的だ。
後ろから続けて入ってきたのは、彼女に良く似た娘だった。
こちらは落ち着き払った母親とは違って、どちらかと言えば俯きがちであまり笑顔も見えない。年の頃は大学生に、つまり幸と同年代に感じられた。親近感を覚えつつおはようございます、と幸が挨拶すると、娘が一瞬だけ顔を上げた。目が合って、幸はつい頬が緩んだ。真正面から見て、やっぱり同じ年頃だと確信したからだ。
が、挨拶は返されなかった。
目を逸らされてしまったのだ。目は合っていたのに。眼を飛ばしたつもりは毛頭なく、むしろ愛想良く対応した幸にとっては結構心に刺さる一瞬だった。
幸の案内に従って、二人は応接のソファに腰掛ける。
引っ込む幸の背中に「
目を逸らされたとか自分の名字をどうかと思ったりとかこれまたしょうもないことで悩みつつ、幸は音を立てないように氷室の牙城である所長椅子に座った。
背中に目でもついているのか、見事なタイミングで氷室が口を開く。
「初めまして。氷室悩み相談所へようこそ」
すらすらと出てきた台詞に、初っ端から幸は所長椅子からずっこけそうになった。
なんだその口上は。
どの面下げて悩み相談所か。
思い切り突っ込みそうになったのを気合で幸は飲み下す。採用初日からの遠慮会釈ない言葉の数々が、脳裏に走馬灯のごとく浮かんでは消えていく。あれだけオブラートもへったくれもない言い方されたら、普通の神経の人間は話をする気も失せると思うのだがどうだろう。いや待てよ、むしろ金を受け取る場合と支払う場合に、この雇い主はスイッチが切り替わるのか。ないとは言い難いぞ、この予想。
ぐだぐだと氷室に対する考察を重ねつつ、ちらりと幸がパソコンモニタの陰から窺うと、母親の方はとても鷹揚に「宜しくお願いしますわ」と応えていた。余裕のある喋りが、場馴れしているのだなあと否が応にも思わせる。それと同時、逆鱗に触れると怖そうな迫力を備えてもいる。
「こちらはどういった形式ですの?」
「形式と言いますと?」
「カウンセリングをして頂けるのか、それとも解決法を一緒に考えて下さるのか。ほら、紹介してもらった友人からは『満足できなかった場合は全額返金』と聞いたものですから、逆に気になってしまって。とても自信がおありなのねと興味津津で参りましたの」
あれ。
言葉に引っかかりを感じて、幸はもう一度応接の三人に視線を投げた。氷室は背を向けているから、どんな表情かは分からない。母親はにこやかにしながらも目が笑っていない。探るようだ。あまり気持ちの良い視線ではない。どうやら言葉に感じた棘は、幸の気のせいではなかったらしい。
最も気になったのは未だ無言の娘だった。
俯いたまま、会話に欠片も興味を示していない。何より目。母親の爛々とした――今にも食いかかりそうだという意味で、獰猛なそれとは異なり、いっそ「死んだ魚の目」と言えば早いか。
勤務三日目にして既に定位置になってしまった所長椅子の上で、幸は首を捻った。
「その点でしたらご心配なく。お代自体結構です」
「え?」
「全額返金というと語弊があります。当相談所は前払いをお願いすることもございませんし、お気に召さなければ代金は頂かずそのままお帰り頂いております」
「そーお? でも今一信じきれないわねえ」
「大丈夫ですよ。
クレジットカードの控えもなしに、むしり取りたくてもそれは無理な相談だろう。そう付け加えて、氷室が穏やかに笑った。
「……確かにそうね」
見事だ。
挑発に乗らなかった氷室に毒気を抜かれたか、西園寺母の態度が軟化した。
「空手形であることをご理解頂けたところで、本題に入りましょうか」
「そうね。今日はこの子のことで相談に参りましたの」
母に声を掛けられた娘は、それでも視線を上げようとはしなかった。
「お嬢様……
紹介の時に聞いていたのだろう。氷室が娘に確認するように視線を投げかける。が、ここでもやはり娘は無反応で、当たり前のように母親が「ええ」と頷いた。
「この子ももう三回生に上がりました。冬からは就職活動も始まりますし、その前に乗り越えねばならない壁があるのです」
「壁、とは?」
「ヴァイオリンを弾けるようにならねばなりません」
氷室の後頭部が僅かに動いた。間違いなく目線が母親から娘に移っている。幸だってそれは同じだった。
ハードルが高すぎやしませんか、お母さん。
そんな疑問が幸の中で渦巻いた。世の中に楽器は数多くあれど、中でもヴァイオリンは難しい部類に入る筈だ。幸自身は小学校の時点でピアノを挫折したよくいる口だが、ピアノは極論、鍵盤を叩けば正確な音が出る。一方でヴァイオリンといえば何の印も付いていない弦を毎度正確に押さえねば、まともな音一つ出せない。
この西園寺母がどのレベルを所望しているのかは分からないが、それにしたって半年やそこらで曲が弾けるようになるとは素人目にも到底思えない。となると、逆にどんな切羽詰まった事情があるのかと気になりもする。
「イベントか何かが控えているのですか?」
なるほど上手い切り返しだ。
幸とは違い、「何言ってんだおめえ」などと汚い言葉を氷室は絶対に使わない。少なくとも客に対しては、だが。
「ええ。就職活動が」
落ち着き払って西園寺母が答えた。
「就活にヴァイオリンということは、企業の特別枠志願を考えておられる? 事前に窺ったお話ですと、お嬢様は東京大学に通われているものと記憶しておりましたが……失礼、音楽大学の方だったのですね」
「いえ、学府はその通りです。音大ではなく、ただの東大です」
幸はびっくりしすぎて鼻水が出た。
話題が高度すぎる。東大を「ただの」とあっさり言う方も言う方だが、まったく動じずに「やはりそうですよね」と頷いている氷室も氷室だ。
一応幸は幸で、名前を出せばそれなりに知名度のある大学に在籍してはいる。が、東大を「ただの」とは恐れ多くてとても言えないレベルだ。
大学の件はともかくとして、この話の着地点が全然見えてこない。
昨日の綾小路さんもそうだが、この相談所を訪れるのは一癖も二癖もある人物ばかりなのか。もっとこう、普通の悩みってないんだろうか。二分の二で特殊例に当たるってどういうことだ。
幸の心の叫びも空しく、応接側では話がとんとん進んでいく。
「音大ではありませんから、当然特別枠など考えてはおりませんわ」
「では、就活の為というのはどういう?」
「特技がないより、ある方が良いではありませんか」
「ということは、履歴書に特技として記載する為にヴァイオリンを弾けるようにならねばならないと」
「その通りです」
「特技とするには若干時間が足りない気もしますが、そこのところはどうお考えに」
「技術的にはまったく心配ありませんわ。三歳から弾いてますし、元は音大に進学させるつもりでしたから。問題なのは、折角身に付けさせた特技を宝の持ち腐れにしていることなんです」
その瞬間を確かに幸は見た。
話に熱が入っている母親は、絶対に気付いていない。横に小さく座る娘を見る暇もなく、氷室にいかに自分が娘の為を思っているか、今後の人生を決める上でどれほど就職活動が大切かを力説しているからだ。
氷室にも見えていただろうか。
娘の綾乃が、「宝の持ち腐れ」という言葉に唇を噛んだのを。
「私はね、人より秀でていることを武器になさいとずっと綾乃に言って聞かせてきましたの」
「正論ですね」
「そう思いますでしょう? 何もできない凡庸な子ならまだしも、充分にアピールできるヴァイオリンという武器がこの子にはある。それなのに弾きたくない、弾けないなんて駄々をこねて、違うことを履歴書に書こうとするものですから。どう説得したものかと思って今日はここに参りましたのよ」
「弾けない? 先程、音大に進学を考えてもいたとおっしゃっていましたが」
「言い出したのは最近なんです。確かに高校生の頃は弾けていました。先生にもお墨付きを貰っていたくらいです。今は気持ちが向かないから弾けない、指が動かないなんて我儘を言うんです」
「そうですか。一時的とはいえ特技として書くことが憚られるくらいであれば、お嬢様の書こうとする別の特技で良いのではありませんか」
ガシャン!
突如響いた音に、幸の肩が震えた。
「……無責任なことを」
低く抑えられた声は、激昂を示すように微かに震えていた。
ソーサーに叩きつけたカップを握りしめたまま、母親が氷室を睨みつけている。上気した顔、頬が赤く染まっている。一方で隣に置物のように座る娘は蒼白な顔をしていた。
「甘やかすようなことは言わないで下さい。この子の人生に責任を持つのは私なんです。私が産んで、私が育てた。愛情もお金も時間もかけてここまで育てたんです。やりたいことをしたらいいとか、できないことは個性だなんて言う風潮が最近はあるみたいですが、そんなもの甘えです。生きていく為に必要なのは理想なんかじゃない。何よりもまず今日という日を食い繋げるだけの力がいる。私がいつ死んだとしても、この子を路頭に迷わせるわけにはいかないんです。だからこそ、私は」
「失礼しました」
簡潔な言葉に、場が水を打ったように静まり返った。
え、謝るの? そこで? なんで?
思わず幸は目を瞠った。この歯に衣着せぬ雇い主から、どんな悪口雑言が飛び出すかと構えていたからだ。百歩譲ったとしても一ミリも隙のない正論を叩きつけるくらいはするだろうと思っていた。それが予想の斜め上をいく謝罪ときて、驚かない訳がない。
「それ以上は結構です。お母様のお気持ちも考えず、出過ぎたことを申し上げました」
正々堂々、真正面からの詫びに母親が息を呑む。併せて言い募ろうとした言葉もどうやら飲み込んだらしく、少しばかり肩で息をしつつも、吊りあがったまなじりは緩んだ。
「……こちらこそ取り乱しましたわ。ごめんなさいね」
「いえ。つい母と話しているように思ってしまいまして。不躾でした」
「あら」
西園寺母がまんざらでもなさそうに笑った。
「三十を越えても息子気分が抜けないもので、お恥ずかしいことです」
「まあ、氷室さんはこんなに立派に働いてらっしゃるのに?」
「お褒めに預かり光栄ですが、母からはまだまだだと折に触れ言われまして。親から見る子は何歳になっても頼りないようで、多分私が医者や大企業の社長になったところでそれは変わらないのでしょう」
穏やかに苦笑する気配が氷室の背中から伝わってくる。
すぐに返事を寄越すかに思われた母親は、一瞬何かを考え込むように視線を落とした。ほんの数秒固まった彼女は、やがて視線を上げ、「外せない会議があるので」と言って立ち上がった。
合わせて氷室も腰を上げる。
相談の終わりは唐突だった。
西園寺親子が簡単な身支度を整える間、氷室はゆっくりとした足取りで玄関の扉に歩み寄った。そのまま、扉脇で今日も元気に生い茂っている太郎――観葉植物のベンジャミン――の葉をそっと撫でる。顔が良いと些細な仕草も絵になるもので、つい幸は見惚れてしまった。
ぎい。
木の軋む音にはっとして、幸は椅子から飛び上がった。
氷室が扉を開けて、親子をさながらエスコートするように見送る。去り際に頭を下げてきた母親に、幸の方も腰を九十度に折って挨拶した。まさに滑り込みセーフのタイミングだった。
扉の外で二言三言、言葉が交わされているのが聞こえる。
ふと呼ばれたような気がして、幸は後ろを振り返った。
そこには今の今まで座っていた氷室の椅子と、机の上で「俺が主人だ」と言わんばかりに葉を伸ばす次郎がいた。話し声はまだ途切れない。幸はそっと次郎の傍に寄った。
握手をするように、葉に触れてみる。
瑞々しく冷たい葉は心地よく、幸は緊張を解すように深く息を吐いた。
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