第4話 直球の打ち返し方



 次の日、朝の空気の中何となく彼らのことが気になって幸は氷室に声をかけた。

 彼らと言うのは、鉢に植わっている植物達だ。ものが少ないこの事務所の中で、彼らの存在感はけっこう大きい。

「水あげてもいいですか」

 すると氷室が小首を傾げたので、とりあえず玄関横の太郎を指さしてやる。

「太郎と、……次郎と三郎に」

「うん?」

「どうしました?」

 たかが水やり、何でそんな不思議そうな顔になるんですか。

 喉まで出掛かった幸の疑問は、次の言葉で解消した。

「後で俺がやろうと思ってた」

 なるほど、だから一瞬考え込んだのか。

「私がやると問題あるなら手は出しませんけど」

「いや、問題はないんだが」

「ていうかこういう雑用の為に私って雇われたんじゃなかったんでしたっけ?」

 幸が指摘すると、氷室は目から鱗が落ちたような顔をした。

「そんな使える発言が僅か二日目にして出るとはな。見直したぞ」

「あんまり誉められてる気がしないのは何でですかね」

 文句を垂れつつ許可が出たことを確信し、とりあえず幸は水を汲みに給湯室へと向かった。

「はーいお待たせー」

 独り言を呟きつつ水を注いでやると、太郎、次郎、三郎がにわかに瑞々しくなった。

 ……ような気がした。

 それだけで少しばかり幸の気分が良くなって、掃除機をかける手も自然軽くなる。掃除は小さな頃から恵美子に散々仕込まれたから、ものぐさな幸でも一通りはきっちりとこなせる。こなせるのだが、三十分もしない内に幸は辟易することとなった。

 トイレ、給湯室、玄関、窓。

 どうやら前の雇われ者はあまり掃除が得意ではなかったらしい。これは本腰を入れて磨き上げる必要がある。認めたくはないがあまりの汚れっぷりに、雇用二日目にして幸は雑用係としての全力を出すこととなった。



「所長」

「氷室でいい。何だ」

 会話が簡潔なのは仕様だ。それを幸は初日で十二分に理解したのでもう驚かない。この人がこう言うのなら理由など確かめなくても良くて、言う通りに呼び捨てにしたとしても多分恐縮するようなことではないはずだ。

 とか考えつつ、この迫力ある相手を呼び捨てなんて勇猛果敢な真似は小市民の幸にできるわけがないことにも同時に気付く。

 てなわけで、幸は今後は「氷室さん」と呼ぶことを内心で決心しつつ、切り出した。

「お昼ってどうしたらいいですか」

 そう、本気出して事務所をぎっちり磨いていたら、あっという間に昼になっていたのだ。

 すると本日二回目、またしても氷室が頭の上にすぽんと疑問符を浮かべた。

「昼?」

「ご飯です」

「……ああ」

 時計を見て目を瞬く。

「簡単なもので良ければ作りますけど。それか、お弁当持ってくるとか食べに行くとか決まってるんですか?」

「お前料理できるのか」

「万漢全席とかは勘弁して下さい。あくまでも普通のご飯なら、です」

 慌てて幸は言い添える。この雇い主なら、「できる」ということを「レベル九十九で」と勝手に変換しそうだ。

「ここで飯という発想がなかった」

「あ、そうなんですか。じゃあ外食?」

 毎食は懐が正直イタイ。明日から弁当持参しようと幸はこれまた内心で決意するが、今日くらいは所長に付き合うのも良いだろう。

 そう思った矢先、ところが、である。

「お前一人で好きにしていい。弁当持ち込むでもここで作るでも外行くでも自由だ」

 あっさりと氷室が言い放った。

 今度は幸が怪訝な顔になる番だ。

「しょ……氷室さんは?」

「俺はいらん。子供じゃあるまいし、大人が昼飯食わなくてもそう大事じゃない」

「ダイエットじゃないですよね?」

 確実に必要ないとぱっと見で分かる程均整の取れた身体の相手に聞くことじゃない、と思いつつ突っ込んでみると、

「お前ならあるいは必要かもしれんがな」

「うっ」

 あっさり返り討ちに遭った。

 確かに最近運動をしてないせいで、多少太ったなーとか薄々自覚していたものの、ずばり言われると非常にイタイ。イタイのだが、まあそれとこれとは話が別である。ここではぐらかされるわけにはいかない。

「私のことは置いておいて、で、結局氷室さんはお昼食べないんですか?」

「気にしなくていいぞ。前のバイトは俺の飯なんぞ気にしなかったし、お前もそれでいい」

 予想通りの模範解答がきた。

 前のバイトはともかくとして、この雇い主は自分のことにあまり頓着しない性質らしい。どうやら独身らしいので、この分だと朝や夜も適当に済ませているのだろう。

 これはまずい。非常にまずい傾向である。こういう人間が行き着く先を、不本意ながらも幸は知っている。

「ええと、駄目です」

 自分でも驚くくらいはっきりとした声だった。察したのか氷室が顔を上げる。

「……何だと?」

 端正な顔と言葉の鋭さで、迫力満点、マウンテンだ。

 たっぷりの溜めと共に吐かれるその台詞、脅し文句としては超一流です。

 とは言えずに、内心ビビリながらも幸は退かなかった。

「駄目です。いつからそんな生活しているのか知りませんけど、身体壊します。今日の午後ってお客さんいなかったですよね? 私今から買い出し行ってきますんで、昼ご飯ここで一緒に食べましょう。いえ、食べてください。えーと、簡単なものしか作れませんけど!」

「あ、おい」

「いいから留守番しててください!」

 びしっと人差し指を突き付けると、氷室が珍しく二の句を継がなかった。

 雇い主が怯んだその隙に財布をひっつかみ、幸はオフィスを後にした。


*     *     *     *



 ちなみにオチはつけようと思ってつけたわけでは決してない。

「あー、まあ、そんなところだろうとは予想してたが、しかし見事に期待を裏切らないな」

 涼しい顔でカップヌードルをすする氷室は少しばかり楽しげだ。

 一方幸は、シーフードヌードルを勢い良くすすりつつ口を尖らせた。

「そう思ってたんなら最初に指摘して下さいよ! まな板も包丁も鍋もフライパンもないのにどうするつもりなんだとか、冷蔵庫はあっても壊れてるけどいいのかとか!」

「いや、鈍くさいと思ってたお前が珍しく雄弁だったからつい感心した」

「感心してたからって肝心なこと言わないのは人としてどうかと思いますよ!」

「まあそう言うな、これはこれでたまには有りだろう」

 言いつつ、氷室はさっさと食べ終わって箸を置いた。

 先の幸が吠えた通り、勢い勇んで買い出しに行ってあれやこれや持ち帰ってきたというのに、この事務所にはそれを加工する為の道具が何一つ無かった。

 加えて言えば、電源入れても冷えない冷蔵庫、見た目からして既に壊れている電子レンジ、炊飯器はまあなくても驚かないにしても、この事務所で現役なのは壊れる要素がほぼ皆無のやかんと常時使用している電気ポットだけだった。

 結局、完全に手詰まりになったあげく、非常用としてついでに買ってきたカップ麺の世話になったのが事の顛末である。

「ここってそんなに経営苦しいんですか」

「二日目にしてその台詞か。良い度胸だ」

「だ、だってちっさい冷蔵庫も買えないとか!」

「欲しけりゃ買ってこい。ほら」

 藪から棒に、ぽいと小さな何かが放られる。さながら鼻噛んだ後のティッシュをごみ箱に投げ捨てるような動作だ。

 慌てて幸がキャッチすると、それは白いティッシュではなく真っ黒なカードだった。

「経営不振だったらお前ごときをこんな破格の条件で雇えるわけがないことに気付け」

「一言も言い返せない清々しいまでの正論をありがとうございます」

 受け取ったカードを恭しく両手で頂き頭を垂れる。垂れつつも何故だろう、この雇い主を前にするとつい遠慮会釈なく言葉がでてきてしまうのが摩訶不思議だ。

 ほぼ初対面に等しいが、ここまで気後れせずに幸が会話できることは珍しい。

 幸自身は小中高と新学期ではいつも友達作りに出遅れるタイプだった。色々気にして話しかけられずにいる内に、バイタリティ溢れる女の子達はさっさとグループを作っていて、大概幸はそこには属さない大人しい少数とのんびり過ごすのが常だった。

 当然、これまで付き合ってきた人間の中に、この度の雇い主である氷室のような性格はいなかった。

 目立つ容姿や利発で瞬発力あるタイプとは敢えて幸から関わろうとしなかったのもあるが、それでも革命的にこれまではあり得なかったことが今現実になっている。

 これはあれか、いっそ仕事だと割り切ってしまえば意外とどんな相手でもそれなりにやれるのか。そんな新発見に少しばかり自分で驚きながら、幸はもののついでに押すだけ押してみることにした。

「一緒に行って下さい」

「小学生じゃあるまいし一人で行け」

「冷蔵庫やレンジは配達してもらうにしても、調理道具一式買ったらさすがに厳しいです」

「その程度で泣きが入るようなことなら最初からやめてしまえ」

「身も蓋もないこと言わないで下さい。てかそもそもこのカード氷室さんのでしょ? 暗証番号知らないし、署名は性別が違うんで確実に怪しまれると思うんですけど」

「俺とお前の労働単価がどれだけ違うと思ってるんだ」

「小難しいことは経営者じゃないんで良く分かりませんけど、経営に困ってないならたった半日くらい付き合ってくれてもいいじゃないですか」

「忙しい」

「嘘。今日の午後はお客さんいないってさっき思いっきり頷いたもん」

 と、氷室の額にそれと分かる青筋が浮かんだ。顔が良いとそんな表情さえ様になることを、幸は人生で今この瞬間に初めて学んだ。確実に物騒な顔立ちになっているものの、しかし氷室は言い返してこない。

 また一つ発見、意外と男に二言はないタイプだ。



「すみません、ありがとうございました」

 事務所に帰ってきて開口一番幸は頭を下げた。

「細身に見えるのに力持ちですねぇ」

「お前がどう思っているかは知らんが、一般的な成人男性だからな」

 涼しい顔で氷室が両手に持っていた袋を応接のテーブル上に無造作に置いた。

「大体にしてそれなりの年齢の男女の組み合わせで歩いていて荷物を女側に持たせたら、俺の人格が世間様から疑われる」

「え」

「何だその顔は」

「氷室さんそんなこと考える人だったんですか」

「あのな」

 ため息混じり、氷室が袋の中から鍋を取り出した。

「こういう類を買い出すのは新婚とかそういう類の人間なわけだ」

 端正な手で次から次、お玉やフライパンを取り出して幸に渡す。

 両手で受け取りつつ、幸は首を傾げた。俄かに始まった雇い主の主張が一体どこに着地するのか、皆目見当がつかない。

「実態として単なる雇い主様と雇われ者だとしてもだ。周りはそんな内実知らんわけで、単純に勘違いする。そして後ろ指を指されるのが俺だ。あの人格好いいのに優しくないのねなんて余計な世話以外の何者でもない」

「……実感籠もってますね」

 とりあえず氷室の口から「新婚」とか「格好良い」とかいう俗世間的な単語が出てきたのがすごい。そんな小さなことに感嘆を覚えつつ、幸は少し頭の中で考えてみた。

 ひょっとすると優れているということは同時に、感じなくていいはずの面倒くささを伴うのかもしれない。

 昨日の涙声が耳に浮かんだ。

 彼女も優秀であったが故に傷ついていた。

 余すところなく凡人な幸にはそういった経験はないが、しかし彼らの心情を思うと少しばかり考えなしだったかと反省の念がこみ上げてくる。

「ごめんなさい」

 荷物を持って給湯室に向かおうとする背中に。

「あ?」

「ごめんなさい。全然考えてなかったです」

 打てば響くような会話が楽しかった。口は悪い、けれど悪い人じゃない、言葉の端々からそれが窺えた。そうはいってもそれが踏み込みすぎて良い理由にはならないはずだ。

「昨日の綾小路さん、でしたっけ。あのお母さんもきっと似たようなことでずっと悩んでるんですよね。すいません、ちょっと自分が小市民すぎて、っていうかそれが免罪符になるとは当然思ってないんですけど、でも想像ついてませんでした。だから、ごめんなさい」

「……お前はどっちの方向に走っても嘘がつけない人間だな」

 精一杯の誠意はたっぷりのため息をもって返答とされた。

「馬鹿正直というか何というか」

「ええと、それってどういう」

「腹芸とかできるか」

「持ちかけられたこともありません」

「つまり周囲の人間もしっかりと見る目を持っていて、お前という人間を見極めた上でそういったはかりごとから外すわけだ」

 まるで学生時代を見てきたかのように言う氷室だが、誠に遺憾ながらも幸が言い返す余地はない。

 当たっている。

 良い悪いはともかくとして、何かを誰かに目的を持って隠し、その誰かを何かから遠ざけようとする時、常に幸は事後に全てを明かされる人間だった。サプライズ誕生日パーティー然り、肝試しの幽霊役然り。数え上げればそれこそ枚挙に暇がない。

「まあいい。たかが買い物の荷物持ちごとき、大したことじゃない。暇な時は付き合ってやる」

 と、ものすごくこの雇い主にしては優しい言葉がかけられた。

「ええと、ありがとうございます? で、いいんですか?」

「額面通りに受け取っておけ。どうせ裏を読むことは苦手なんだろう」

「うっ、まあそれはその通りなんですけども」

 優しいと思ったのも束の間、要所にオブラート無しの言葉が混ざってぶん投げられてくる。

 裏を読むのが苦手な幸と、剥き身の言葉が得意な氷室。ある意味で、最も誤解は招かない組み合わせであると言えばそうなのだが、それにしてもどうだろう。

 多分これが、ものすごく空気や行間や裏などが読めるような聡い人なら、この雇い主の遠慮会釈ない言葉を聞いたとしておそらく数日中に辞めるような気がするのだ。幸が普通より多少要領が悪いということを差し引いても、これだけざくざく切り捨てられて、悪意が無いと信じ切れる人間はそうはいないだろう。

 幸としては先刻氷室に指摘された通り、腹芸の一つもできず、人の言葉のそもそもどこをどう疑えば良いか分からないという単純構造の頭をしているお陰で、指摘されることが事実である限り特段気にしない性質だ。

 とりとめもなくそんなことを考えつつ、幸が本日の戦利品をがさごそと漁っていると、給湯室にひょいと氷室が顔を出した。

「それ片付けたら今日はもう上がっていいぞ」

「でも時間」

 言いかけて、壁にかけてある時計を見る。

「うわあもう五時!?」

「お前があれやこれや拘ってたせいでな」

 自業自得だろうと言いたげな雇い主だったが、それにしてもわざわざ時間を気にして声を掛けてくれたので、やはり悪い人ではないのだ。単純に、本当に口が悪くて言葉が無遠慮なだけで。

 こりゃ今日もお見舞いに行けないな。

 胸の内でぼやいて、とりあえず幸は明日には使える程度に給湯室を片づけ、その日は事務所を後にした。



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