第3話 手を繋ぐ徒競走の是非
お茶を出した後どこに控えるか声もなく迷った幸に、氷室は無言で皮張りの椅子を指差した。当の本人は先程の来客に合わせ、応接の椅子に深々と背を預けている。
どっちが客だ。
あまりの態度のでかさに心の中で突っ込みつつ、冷や汗をかきながらも極力物音をたてないよう幸はこそこそと下がった。
とりあえず座った所長椅子の感触は、これまた良かった。なんともいえない弾力で、背もたれは少し体重をかけるだけですんなりと傾く。ううむ、個人事業主ともなればやはりこのくらい良いものを選ぶのが当たり前なのか。
下らないことを考えつつ視線をやると、氷室は幸に背を向けて座っていた。
「どうぞお茶でも飲みながら」
おお。
あの歯に衣着せない氷室が、普通の切り出しをしている。そんな些細なことにも幸は驚きを隠せなかった。
「すみません、頂きます」
小奇麗な格好をした中年女性が、優しげな声で応えた。
「それで今日はどうされましたか」
「はい、あの……息子のことで、少しお話を」
女性は儚げに言い淀んだ。
年の頃は四十の手前だろう。化粧も相応にし、膝上に置いてあるバッグも名のあるブランド。言葉から察するに家族がいて、おそらく良いところに勤めている旦那様と、一人か二人、あるいは三人か、子供がいるのだ。
あまり押しが強そうには見えないが、傍目には決して不幸そうではない彼女を、幸は複雑な思いでそっと見つめた。
「息子さんというと、
「あ、いえ。下の
「ああ、大輝くん。この春で四年生になったんでしたね」
氷室の口からはすらすらと個人情報が出てくる。
「クラス替えもして、大輝くんなら新しい友達がまた増えたでしょう」
「ええ、友達はそうですね、去年より誘いに来る子も多くなって」
まんざらでもなさそうに母親が笑った。
ただ次の瞬間、伏し目がちになりその表情が曇る。
「ただ担任の先生が、ちょっと……」
「ほう」
矢継ぎ早に聞くのかと思いきや、そこで氷室は黙った。余裕たっぷりに自分のお茶をすする。
質問が来ないことを理解したか、相談者である母親が重くなりがちな口を開いた。
「不公平なんですの」
「といいますと?」
「春の運動会、徒競走は手を繋ぐのをやめるだなんて言うんです」
ずびっ!
こっそりすすっていたお茶をたまらず幸が噴き出した音だった。それは静かなオフィスに、それはそれは盛大に響いた。
「信じられませんわ。そうすることでどれだけ傷付く子が出ることか。うちの大輝だって、そんなことは嫌なはずなのに」
ちょ、ちょっと待っておかーさん。
幸は喉まで出かかった言葉を、もう一度お茶を口に含んでどうにか飲み込んだ。目が白黒するのが自分でも分かる。さっき、氷室が口に出した「手を繋ぐ徒競走」。この前振りだったとはまさか思いもよらなかった。
というか。
前振りだと分かってたとしても、まさかこんなことを言う親が現実にいるなど信じられるものか。今度こそ遠慮会釈なく幸はその母親を見たが、彼女は必死さのあまり涙ぐんでいて、幸の不躾な視線にはまったく気付いていなかった。
続けざまに彼女は語る。
「優劣をつけることに一体どれほどの意味がありますの? 皆仲良く一緒、それでいいではありませんか。氷室先生もそう思いませんか?」
「失礼ですが
「陸上をしていました。国体にも出場したことがあります」
おいおいおかーさん、それでこれか!
直視に絶えず、幸は書類の山影にそっと沈んだ。
「大輝君も確か運動神経抜群だったと記憶してますが」
「ええ、それはお陰さまで」
「良いではないですか。彼ならきっと一位でゴールに飛び込んできますよ。綾小路さん、あなたの学生時代と同じようにね。喜ばしい事だ」
「……いいえ」
言い切った声は随分と冷えていた。
「一番を取ったら、周囲から妬まれます。嫌がらせもされるわ。友達も失くす。大輝にそんな苦労をさせたくありません」
机にとうとう突っ伏していた幸はそこでふと顔を上げた。揺るぎない言葉に幸の胸が不意に苦しくなった。
優秀だったであろう母。
そんな母が過去の栄光を否定してまで、主張する意見の危うさ。
しかしそれはきっと、我が子をどんな困難からも守り抜きたい、己の味わった苦労など決して繰り返させたくないという愛なのだろう。どれほどそれが、倒錯していたとしても。
今ここで容易く想像できる。彼女の青春時代はおそらく楽しいことばかりではなかった。人より優れたものを持って生まれ、結果彼女自身は辛い記憶の方が鮮やかに残って、今も尚それに縛られている。
「ふむ」
思案がちな声は氷室だ。
「なるほど」
誰も喋らないのに、氷室の相槌は重ねられる。
幸の目にそれは、まるで独り言を呟きながら氷室が氷室自身に対して応えているようにも見えた。きっと言い方を考えているのだろう。この女性を傷付けずに、それは違いますよという趣旨の柔らかな反論が出てくることは想像に難くない。
そして氷室は、こめかみに長い指をとん、と添えた。
「一理ある」
って、おい!
再び幸はがくりとうなだれた。
「ですよね? 先生もそう思いますでしょう?」
「そうですね。成功する者、優秀な者が凡庸な集団から爪弾きにされることはままあることだし、そんな妬みや嫉みが醜いことはよく分かります」
「やっぱり……! ああ、氷室先生じゃなければやっぱり駄目だわ」
感慨深げに綾小路さんがハンカチを目元に押し当てた。
上品な白。無造作に握りしめられているハンカチでさえ、幸の目には上流階級の顔をしているように見えた。
感涙にむせんでいる綾小路さんをしばらく無言で見つめた後、しかし氷室は驚くような発言をした。
「やっかみの視線は無造作に人を傷つけるということもよく分かる。成功しても良いことなんてない、集団から逸脱して明るい未来があるわけがないという思いこみを持たせる。それが何より残酷ですね」
え、それって。
幸は驚いて氷室を見たが、見えるのはその後頭部だけだった。
「お疲れでしょう。今日はもうお帰りになってゆっくり休んで、元気になったらその使えない担任に綾小路さんのお気持ちをぶつけると良いと思いますよ。ただ残念なことにそいつはどうやら話が通じないようなので、どこまで理解できるか甚だ疑問ですが。でもご安心を。私はここにいますからお困りの時はまたいつでもお越し下さい」
勤務初日。
ものすごく冷たい気がする雇い主の言葉に、しかし来客のご婦人はものすごく感謝をしながら帰っていったのだった。
色々なことが腑に落ちないまま、時刻は既に夕方の五時を回っていた。
* * * *
季節はまだ四月に入ったばかりで、夕方からあっという間に夜はやってくる。
既にとっぷりと日も暮れた午後六時半、幸はようやく自宅に辿りついた。こちらは至って普通、ライオンなどでは当然ない慣れ親しんだドアノブを開けて、玄関に入る。温かな空気が頬から首に沁み入るようだ。
ぽいぽいとパンプスを脱ぎ捨てて、向きを揃える為にしゃがみこむ。
そう言えば帰り際、「失礼します」と頭を下げた時にも氷室はこの靴をしげしげと眺めていた。結局、面接中とお茶汲み時、それにオフィス退出時と都合三回、注目を集めたことになる。が、どこからどう見ても単なる黒いパンプスなので、特徴を挙げることの方が至難の業だ。
良く分からん雇い主だなー、ほんと。
今日一日で何回呟いたか分からん感想をまた抱く。とりあえず明日は別の無難な靴を選ぶことを決心しつつ、幸はリビングに入った。
「ただいまー……」
「あらお帰り。遅かったのねぇ、寄り道してきたの?」
「ううん働いてた。ねえ、今日カレー?」
「そうよー。って、え? 働いてきたの? 今日は面接って言ってなかった?」
相変わらずのんびりとしている母――恵美子でも、さすがに引っかかったらしい。カレーの鍋をかき混ぜつつ顔が幸の方を向いている。
とりあえず上着やら靴下やらをぽんぽんと脱ぎ捨てつつ、幸は今朝方脱ぎ捨てた部屋着に袖を通す。
だらしがないというか、幸としてはどうせ夜も着るんだからいいやという気持ちで放り投げていくのだが、几帳面な恵美子は抜け殻のそれを毎日きちんと畳んでくれている。ありがたいことだ。
「もう、お父さんがいないからってまたこんなところで着替えて」
ついでにも一つありがたいお小言が飛んでくる。
次に来るのは、
「そんなことじゃお嫁にいけないでしょ」
予想通りだ。
幸がだらしないことを差し引いても、今時こんな台詞を吐く母親も珍しいだろう。
「どーせ結婚してくれそうな人なんていないもん」
「もう、いっつも同じ口答えするんだから」
恵美子のその返しも実はいつも通りだったりする。
「面接に行ったんだけど、その場でいきなり採用になっちゃったの。で、今日から働いてくれって言われて」
カレーを口に運びつつ、幸は今日の出来事を振り返った。
「ちゃんと週五日雇ってくれるって」
「幸は何をするの?」
「うーん、まだよく分かんないけど事務とか雑用がメインかなぁ。お茶入れたり掃除したり植木の面倒見たり。一応事務員って扱い。お客さんは来るけど、基本的に相手するのは所長だし」
「所長ってどんな方?」
「うーーん……」
いきなり難しい質問が来た。聞かれてつい食べる手が止まる。
普通ならここで良い人そうだとか、優しそうだとかの常套句が出るのだろうが、どうも釈然としないのだ。
顔良し、身長体型良し、起業していて頭も間違いなく良い。
でも実際のところは仕事の内容が今一よく分からなくて、口も悪い上に何考えてんだか分からないときている。
ただこれを直球で言うと、心配性の恵美子のことだからきっとすぐに辞めるよう言うだろう。口調さえもが目に見える。それは避けねばならないので、とりあえず幸はソフトランディングを狙ってみる。
「若い人。そこそこ……や、結構かっこいい人だったよ」
「あらーうらやましい」
「目の保養にはなるねー。仕事も難しくないし、良いとこに雇ってもらえたと思うよ」
「良かったわね。ごめんね、幸にまで大変な思いさせて。お母さんもパート頑張るわ」
おどけたように言う母が、実は結構な無理をしていることを幸は知っている。
箱入り娘だった母が、やむにやまれぬ事情とはいえ生まれて初めて働いているのだ。大事に育てられて花嫁修業も抜かりなく、料理から裁縫、掃除洗濯の全てを完璧にこなし、果てはお茶にお花、着付けもできるし字も達筆ときている。
色々と免許は持っているはずで、その気になれば家が色々なものの稽古場に早変わりもするのだろうが、いかんせんおっとりな恵美子は二十歳の時に父の雄三と出会ってあっさり結婚し、職業経験のないまま今に至る。
「大好きだからちょっとでも一緒にいたくて」と今でも公言してはばからない恵美子に、幸の膝は何度崩れかけたことか。
それはともかくとしても、高校生の頃からそれなりにバイトをしていた幸にしてみれば働くことはそう苦でもないが、世間一般でいうところの善良だが世間知らずである恵美子には辛いことも多かろう。
「ねえお母さん」
横に置いてあるサラダをつつきながら幸は切り出した。
「お父さんの具合どうだったの?」
今日は父――雄三の検査結果が出ているはずだった。
芳しくない結果は聞きたくない。かといって、完治への一縷の望みを捨てきれない。けれどやはり聞くのが怖くて、携帯という便利な道具がありながらこうして今になった。
「元気だったわよー」
天真爛漫な笑顔を向けられ、幸はカレー皿に顔を突っ込みそうになった。
本当にいつもこの母は大概ずれている。
「そうじゃなくて検査のね」
「ああ、そっち」
ころころと恵美子が笑った。
「大丈夫よ、あと一年は余裕でいけそうだって高橋先生が言ってたわー。安心しちゃった」
「安心ってまたそんなこと言って」
「私は逆に一ヶ月か三ヶ月かと思ってドキドキしてたからー」
気構えの違いに幸はぎくりとした。
知っている。おっとりしていて優しくておよそ争いなどとは程遠い恵美子の芯は、実は強い。滅多に見せない恵美子の強さが、むしろ佐藤家における事態の深刻さのバロメータだったりもする。
今回はすごい。
気を逸らすために幸はサラダを馬のようにもしゃもしゃと頬張りつつ、顎に皺を寄せた。
「幸は心配しすぎなのよ。でも明日あたり顔出してあげて」
「あ、うん。それは考えてたから大丈夫」
明日の何時に行こうかなどと思案しつつ、幸は残りのカレーを平らげた。
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