29話

 帰宅する。

 洗面所の鏡を見つめてから蛇口を捻る。ジャーっと水を流す。節水なんて言葉は知らない。

 パシャっと顔に冷たい水をかける。ブルっと身体は震えて、ぽたぽたと顔から水が垂れる。

 喪失感が私の心を蝕む。

 あれからかれこれ一週間。ずっと琴葉ちゃんは私に声をかけてくれない。返事もしてくれない。目すらまともに合わせてくれない。

 否が応でも嫌われてしまったのだと自覚できてしまう。それが辛いし苦しい。

 ぶるぶると洗面台に置いていったスマホは震える。

 メッセージでも受信したのかなと思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。

 スマホは今も尚震え続ける。電話だ。

 私は洗面所の棚からフェイスタオルを取り出して、ポンポンと顔についた水滴を拭う。擦ると肌を傷付けて肌荒れの原因になってしまうから優しく、でも少しだけ焦りながら。

 顔の水滴を拭ってから、スマホを手に取る。もう震えていなかった。急いだとはいえ何コールもあったししょうがない。

 「ん?」

 着信履歴を確認する。表示されてるのは雪乃の文字。

 琴葉ちゃんからの電話じゃない? って微かな期待をしてたから、上げて落とされるような気分になった。

 雪乃には悪いと思うから口にはしないけど。思ってしまったのは紛うことなき事実だからしょうがないよね。

 それはそれとして、突然電話をかけてきてなんなんだろう。

 今は夜の八時。雪乃だから今から遊ぼうみたいな非常識なことは言ってこないと思うけど。じゃあそれ以外になにか思い当たる節があるのかと問われれば頷くことはできない。

 思い当たる節があれば良かった。怒られるとか、罵られるとかってわかってるのなら、覚悟できるから。思い当たる節がないと覚悟することすらできない。恐怖を背負い、勇気を振り絞ることだけしかできないのだ。

 震える指。なにを言われるのだろうという恐怖。

 折り返ししなきゃ良いのかな。

 ダメだ。問題を先延ばしにするだけで、根本的にはなにも解決してない。

 明日になって、学校に行きたくないとか思い始めるのがオチである。直接あったらなにか言われるのだろうし。なんで折り返ししてくれなかったのって言われる。いや、彼女はそこまでねちっこい性格じゃないけど。

 やっぱり不安なのは不安。顔についた水滴は簡単に拭えるのに、不安は拭いたくても拭えない。払拭できない。

 だから、折り返す。

 耳にスマホを当てて、呼出音をじっと聴く。

 指を動かしたり、ため息を吐いたり、鏡を見つめたり、天井を見上げたりと、さして意味のないことをずっとする。

 呼出音の中に突如「ぷつっ」という音がした。

 それと同時に呼出音は波が引くように消えていく。

 『もしもし』

 私の耳に雪乃の声が届く。

 「もしもし」

 『なにしてた? 忙しい?』

 「ううん。忙しくないよ。顔洗ってただけだし」

 『そっか。なら良かった。あ、保湿した? 途中だったらできてないよね』

 「大丈夫。このあとお風呂入るから」

 『お風呂入る前に顔だけ洗ってたの?』

 「そうだけど」

 『そ、そっか……へー』

 私はとことことベッドまで歩いて、ぼふっと座る。そしてスピーカーモードにして、机の上に置く。

 『この後お風呂入るんだよね』

 「うん」

 『凄い不思議な順番なんだね』

 頭のおかしい子だも思われてる。

 「メイクを落とさな――」

 『りんちゃんメイクしてないじゃん』

 「なっ……」

 これじゃあいつも美意識が足りてないみたいじゃん。解せない。

 「それよりもさっき電話かけてきたでしょ。用件は?」

 『そうそう。やっぱり今日学校でさ、なんか思い詰めてるような顔してたのどうしても気になっちゃって』

 「別になにもないって」

 『なにもないならあんな顔しないでしょ』

 正論だ。あまりにも正しい言葉に私は黙ってしまう。

 沈黙は肯定。

 そうわかってても、なにかそれらしい反論はでてこない。

 「誰にだって人に言えないような悩みくらいあるよ」

 『パパ活?』

 「してないから! 私のことなんだと思ってんの」

 『そんな元気な声出せるなら大丈夫だね。私が心配するほどじゃないってことか』

 少しだけ寂しさを感じるような声色。私の心はずきんと痛む。

 『じゃ、切るね』

 「うん」

 私の淡白な返事で電話は切れた。

 あぁ……なんだかなぁ。味のしないガムみたいな無な感情を抱いた。

 机に置いたスマホはぶるりと震える。

 手に取るとメッセージが届いてた。

 『私には言えないようなことなんだね。もっと仲の良い友達でも良いから辛くなったら相談してね』

 と、来てた。

 私の心はさらに痛む。

 友達。そういう括りだったら雪乃が一番仲が良いと思う。琴葉ちゃんは友達という括りを超えてしまってるからノーカン。

 『私にとっては雪乃が一番仲の良い友達だと思ってるよ。ずっと友達』

 と、一度入力してからバックスペースボタンを長押しする。入力した文字はみるみるうちに消えて、キャレットだけが虚しくちかちかする。

 『そのうち相談するね』

 短な文章。痛々しさもない。

 私はポッとメッセージを送信する。

 ふぅ、と魂が抜けるようなため息をしつつ、私はお風呂場へと向かったのだった。

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