16話

 今日は風邪を引いて学校を休んでしまった。我ながら吃驚した。風邪という存在とは無縁の人生を送っていたのであぁ私でも風邪を引くのかと感動すらしたのだ。体温計が示す『三十七・六』という数字をみて恍惚としてしまった。なによりも合法的に学校に行かなくて良い。その事実がなによりも嬉しくて、私の心を弾ませた。本来ならば頭が痛くて、鼻水がだらだらで嬉々としている場合ではないのだろう。けれど、私の場合は学校を休めるという事実が風邪の辛さを忘れさせてくれるのだ。


 「解熱剤飲んで寝ておきなさい。今日一日安静にしておけば治るから」


 とママは優しくしてくれた。若干の申し訳なさと、学校をサボることができると喜んだことに対する罪悪感が芽生える。

 まぁ、家に居るからなにをするのかと問われれば特にすることはない。ゲームとかが趣味なわけでもないし。部屋に隔離され、放置される。やることは眠ることその他にない。

 安静にしておけ、というママの言いつけを守ることにした。

 意味もなく両親の言いつけを破りたくなるような思春期真っ只中というわけでもないし。私には反抗期なんてなかったから。



 あれこれあって翌日を迎える。

 改めて熱を測ると『三十六・六』を記録する。私の平熱ぴったりだ。

 元気だ。体温計がお前は健康体そのものであると教えてくれる。

 いつもならこの数字を見るたびに憂鬱な気持ちを抱くことになる。なぜなら学校に登校しなければならないから。単純明快な理由だ。

 でも今日は違った。憂鬱な気持ちは微塵もない。むしろどこかホッとしている。安堵の気持ちすら芽生えているのだ。流石に驚愕した。私って学校に行きたいと思うことがあるんだと。

 未知の世界を覗いたような、不思議な感覚が私を襲う。


 「なんでだろう」


 体温計を片付けながらぽつりと呟く。

 呟きながらも考えようとする隙もなく答えは見つかった。

 私は思わず苦笑する。

 窓ガラスには私の苦笑いが反射した。


 「そっか」


 そうなんだ。嬉しかったんだ。

 どうやら私は椿木と友達になれたことを心底喜んでいるらしい。学校という大っ嫌いな場所に行きたいと思ってしまうくらいに嬉しかったようだ。

 しっかりと言葉で「友達」と言ってくれた。私にとってそれはとても大きなことであり、かけがえのないものだったみたい。



 学校へ行くと、椿木はもう教室に居た。早いなぁと思って時間を確認する。私が遅いのかと結論付けて、自分の席へと歩く。教室内は喧騒とした空気が漂う。まぁ、クラス替えのシーズンでもないし、静寂な方がなにかあったのかなと心配になってしまう。これが普通で正常だ。

 ちらりと椿木の席へ目を向ける。椿木と目が合う。ひらひらと手を振られて、私は迷いに迷って小さく手を振り返す。私のなんとも言い難い態度を見てか……なのかはわからないけれど、彼女はにへらと表情を弛緩させた。

 その柔らかくて優しさが滲み出す表情に私の心もポカポカっと温かみが出てくる。

 座っていた彼女は友達との会話をそこそこに突然立ち上がると、つかつかと歩き始める。御手洗にでも行くのかなぁと考えていると、廊下へ向かうことなく私の方へと歩いてくる。え、あ、え……? と、困惑している間に、彼女は私の元へと到着する。思考が答えに到達するよりも先に、椿木は私の机に両手を置く。


 「おっはよ」

 「あ、はい。おはようございまひゅ」


 吃驚に動揺が混ざり、舌を噛んでしまう。血でも出ているんじゃないだろうかというヒリヒリした痛みを感じながらくすくすと笑う彼女をぎぎぎと睨む。


 「おはようございます」


 と、あたかもなにもなかったかのように。そして、椿木になにもなかった。良いね? と、訴えるように挨拶をし直した。

 私が目線を送る先にいる本人はなにを思って、考えているのかはわからない。超能力を使えるわけでもないし、エスパーを使えるわけでもないから、なにを考えているかなんてわかるはずもないんだけれど。

 ただ私に生暖かな眼差しが私に突き刺さる。まるで我が子の運動会を見守る親のような目線であった。


 「な、なんですか」


 子供を見るような目で見られたらこんな反応にもなる。私だってもう高校生だってのに。子供扱いしないで欲しい。そう思うこと自体が子供っぽいと言われてしまえば私は返す言葉もないのだけれど。


 「可愛いなぁって思っただけ」


 いつのまにかしゃがんで私と目線の高さを合わせながら、頬杖を突いてぼんやりと私のことを見つめる彼女。そっと伸びてきた手は私の頭上に消えて、つむじ周辺に温かな感覚が走る。


 「か、可愛いって……そういう冗談はやめてください」

 「私お世辞とかは言わないタイプだよ?」

 「……」

 「あはは、顔真っ赤」


 指摘され、私は両手で顔を覆う。

 初めてできた友達に「可愛い」と率直に褒められたら、嫌でも顔を赤らめてしまうものだろう。言われる経験なんてなかったから尚更である。恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしすぎて、自分のことが嫌になってしまうくらいにただただ恥ずかしい。


 「なんですか。急に私のところに来て」


 恥ずかしさを紛らわすように……というか目的はそれしかないのだけれど。恥ずかしさを紛らわすために私は話を進める。


 「うん? 挨拶しただけだよ」


 それ以外になにかあるの? とでも言いたげだ。

 陽キャ……というか、友達ってこういうものなのだろうか。

 恋愛経験ならぬ友達経験はゼロだからわからない。だから挨拶だけわざわざしに来るのは普通だよ、と言われてしまえばそうなのかと受け入れざるを得なくなる。それ以外を知らないから。無知だから詮無きことである。


 「えー、なにその目」


 彼女はムッと頬を膨らませる。頬杖のせいで変な感じに頬が潰れてしまっているのだけれど、本人はそこまで気にしていなさそうだし……まぁ、良いか。


 「それだけなのかなぁと思っただけです」

 「それだけ?」

 「挨拶だけってことですね」


 と、詳細に語っても彼女はピンと来てないようで、不思議そうに私のことを見つめるだけ。


 「わざわざ挨拶だけしに来るものなのかなぁと思っただけです」

 「あー、そういうことねぇ」


 ニヤニヤし始める。おかしなことでも言っただろうか。まぁ、彼女からしてみれば私という存在そのものがおかしいのかもしれないけれど。


 「よっ友って聞いたことある?」

 「よっ友……ですか?」


 ヨットの扱いが上手な友達とか? 陽気な友達とか? うーん、聞いたことすらないからわからない。

 うぐぐぐと唸っていると、彼女は指をくるくる回す。


 「すれ違ったり、顔を合わせた時に『よっ』って挨拶する。これがよっ友」


 彼女は軽く手を挙げて教えてくれる。


 「よっ」

 「よ、よっ?」


 なんとなく真似してみた。


 「これがよっ友ね」

 「なる……ほど」

 「本当にわかってるの?」


 机に頬を乗せて私の顔を覗く。

 私はこくりと頷く。


 「つ、つまり、私と椿木さんはよっ友ということですよね」


 どうだ、と口にはしないけれど、胸を張って、若干どや顔もしてみる。私に友達は居なかったけれど、決して馬鹿ではないのだ。だから説明されさえすれば理解はできる。

 けれど、椿木の表情は明るくない。どんどんと曇っていく。これから滂沱の雨が降ってきそうだなぁという感じ。


 「違う」

 「違うんですか」

 「違うよ~」


 どうやら違うらしい。


 「陰キャちゃんとはよっ友じゃないよ。じゃないつもりだよ」


 お前はよっ友になんかなれねぇよということらしい。驕り高ぶっていたのかもしれない。友達になれたからって調子に乗っていたのかも。考えれば考えるほど自覚があり過ぎて、言葉を失ってしまう。


 「すみません調子に乗りました」


 こういう時は迷わずに謝罪すべきだ。初動が大事。


 「なんで謝ってるの」

 「調子に乗ったからですかね」


 私の言葉に椿木は懐疑的な表情を浮かべる。悩むような、訝しむような、なにかを疑うような。これといった適切な言葉が見当たらない。すべてが絶妙に混ざり合ったような表情なのだ。私のボキャブラリーが少ないだけなのか、はたまたこの表情に適した日本語が存在していないのか。まぁわからないのだから詮無きことである。


 「よっ友を名乗るのはまだ早いということですよね」

 「なんでそうなるの」


 呆れと困惑が交錯したような笑いをした。


 「よっ友は『よっ』って挨拶するだけの友達のこと。別に誉め言葉でもなんでもないよ。むしろ馬鹿にするような言葉だからね」

 「そ、そうなんですか」


 友達なのに馬鹿にするような言葉……? ますますわけがわからなくなる。


 「私と陰キャちゃんはもうそれ以上でしょ」

 「そうなんですか」

 「少なくとも私はそう思ってたけど。もしかして私が一方的に思ってただけ?」

 「え、あ、い、いや。私もそう思っていました。そうだと嬉しいなって」

 「それなら良かった」


 安堵するように笑みを見せる。その笑顔を見て私もホッとする。


 「で、結局なにをしようとしたんですか。私のところまで来て」


 その問いに彼女はうーんと唸る。

 すぐに花が咲いたかのような眩しい表情に移り変わる。ころころと表情が変わって少しだけ羨ましいなぁと思う。私は表情筋が硬いからか、笑おうと思ってもぎこちない笑いしかできないし、怒りを表現しようにも常に不愛想で怒っているように見えるから意味をなさない。怒ってそうという感想が継続するだけらしい。喜怒哀楽を表情で上手いこと表現できないのだ。

 まぁ、八割は自己分析、二割はママパパからの言われたことだから実際他者から見た時どう思われているのかはわかったことじゃないのだけれど。


 「やっぱりやめた」

 「は、はい?」

 「やめた」

 「それは今聞きました」

 「なんか今じゃないなって思ったからやめた」


 なんでという理由が知りたいのではなくて、なにをというもっと根本的なことが知りたかったんだけれど。まぁ、ここまでして言わないということは言いたくないということなのだろう。

 私はできる女性だから。深く触るのはやめておく。


 「そのうちね。そのうち」

 「は、はぁ……」

 「じゃ」


 椿木はパッと手を挙げると私の前から立ち去る。

 ずっとこちらを見ていたのか、椿木の友達たちは戻って来た椿木をすぐに歓迎して、ワイワイとまた話始める。なんというか、眩しいなぁと思う。

 あんな人が私の友達なんだってちょっとだけ嬉しくなるし、優越感みたいなのも出てくる。こんな私の名前を記憶してくれて……って覚えてくれているのかな。陰キャちゃんってずっと呼んでくるけれど。

 まぁ、覚えてくれていると信じよう。

 とにかくあんな太陽みたいな人が私のこと友達と言ってくれた。これほど嬉しいことはない。彼女が太陽であるのならば、私は月だ。自ら輝きを持つことはできない。ただ太陽に照らされるだけ。ぴったりだなぁなんて思った。

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