ドラゴンテイル・外伝~竜なき国の陽光の姫

四號伊織

1

 物語りをいたしましょう。

 これはとある国の姫君のお話でございます。


 さて世の中にはいろんな姫君がおられるもの。

 その姫君は、幼い頃からとてもとても美しい姫君であらせられました。

 御名は〈陽光の花〉という意でございましたが、その名に偽りなき美しさ。輝き揺れる金の髪はまさに陽の光といわんばかりでしたし、両眼のきらめきは宝石のよう。その微笑はそれこそ雨天の後の太陽のように人の心を照らしました。王宮随一の花とうたわれるのも当然のことでございます。

 とはいえ、かの姫君は王女としては格下も格下。姫君の母君はこれまた美しい御方でございましたが、この国で尊ばれる名家の生まれではありません。姫君はかろうじて王女と呼ばれるていどの生まれでした。

 早くにその母も亡くし、後ろ盾らしい後ろ盾も持たない姫君は、〈尊貴の家〉出身の義母――王妃様方からにらまれぬよう、ひっそりと暮らしておりました。

 姫君の父たる御方は何もしなかったのか? ごもっともな問いでございます。

 国王は半ば姫君のことなど忘れておりました。

 というのもこの王は後に〈百花王〉と渾名されるほどに女性がお好きな御方。

 正妃は〈尊貴の家〉生まれの美女が五人。

 そんな妃たちの産んだ王子王女は成長したのみで二十六人。

 妃以外の〝おてつき〟の子はわかっているだけで五十人を超えていたといいます。王は正妃の子以外はろくに覚えてもおりませんでした。

 ……なんせかの王様ときたら、まだ若い姫君の手をとり、閨の誘いをしかけたほど。「御父様!」と叫んだ姫君の顔を見て、ようやく王は手を離したということがあったくらいです(このとき王に蹴りをいれなかったことを姫君は生涯後悔しておられました)。なんとも〝御立派〟な王様だったのです。


 さて、姫君は王宮で憂えておりました。

 これからの自分についてです。

 王侯に嫁すには己の母方の血は低く、女官として生きるには父方の血が高すぎる。神殿に奉仕する、といえばきこえはいいが、それは実質生涯を軟禁生活にしてしまうようなもの。

 自分の人生は詰んでいないかと。

 好きなことはというと物語を読むことでしたが、それを生業にはできないでしょう。この国は女には学問など不要という国でした。

 亡くなった母君は学者の家の生まれでしたから、姫君は他の姫君よりも書物に触れることが多いほうだったでしょう。貧しさゆえに「女に学問など」という乳母がつかなかったのも姫君に幸いしました。

 物語から、姫君は様々な知識を学んでおりました。わからないことを調べるやり方を身につけました。人の振る舞いを予想することを知りました。身につけた知識を隠すことを覚えました。

 何かをしたい、というほどの望みも姫君にはありません。ただ、今考えられるような道筋には進みたくなかったのです。そんなところに己の、古詩でいう〈幸福の実〉はないことだけは明らかでした。

 花園でため息をつく姫君を見て、侍女や王子たちが「なんと美しい」と囁きあいます。花の憂いなど思いもせずに。


 姫君は憂えているばかりではありませんでした。せめて自分のやれることをやろうと決め、舞楽や刺繍といった女性のたしなみに磨きをかけます。これらは王宮の中で王女や女官といった女性たちが集まって学べる、数少ないものでした。本当はもっと生きていくのに根付いた技術を会得したかったのですが、贅沢はいえません。

 その美貌とともに、ますます姫君の名は高まりました。妹ゆえ手が出せないと歯噛みする王子は十人ではきかなくなっています。

 姫君が王から呼ばれたのはそんなころでした。

 いぶかしみながら姫君は王の私室へむかいます。王の横にはお気に入りの王妃がはべっておりました。


「お前に褒美をやろうと思う」


 うやうやしく頭を垂れながら、姫君は王の言葉を考えます。

 褒美をもらえるようなことを姫君はしていません。ならばこれは口止め料のようなものだろうと姫君は判断しました。以前王が〝やらかした〟ことを黙っているようにと。

 望みのものはあるか、と問う王に姫君は答えます。


「わたくしに師を。歴史、経済、数理、天文、語学。どの分野でもかまいませぬ。どうか学問の師をお与えください」


 王は唖然としておりました。姫君があげたどれもが、女性が身につけるべきものから離れておりましたし、そんなものを欲する女がいるなどとは考えもしていなかったのです。

「よろしいのではありませんか」

 にこやかに答えたのは横にいた王妃です。王妃の中でも特に血筋よき生まれで、〈明星の君〉という意の名を持つ御方でした。

「何か変わった特技があるほうが嫁ぐのにもよいかもしれませんし、我が子が学ぶ折にそばで聞いているくらいなら、新たに人を招くこともありますまい」

 姫君は記憶をたどります。

 〈明星の君〉が産んだ王子は二人。上の王子は確か自分より二歳下でしたが、とても聡明だという噂でした。そのような王子の師なら、きっとそれなり以上の学者でしょう。姫君は「是非に」とさらに深く頭を下げました。


 その翌日。許可はあっさりおりました。姫君は侍女とともに王子の住む宮殿へむかいます。王子付きの従者に案内された先は、〈学問の間〉と呼ばれている部屋でした。

 部屋はそれほど広くはありません。中央に置かれた卓の両端に椅子が三脚。扉側の椅子は師のためのものでしょう。それに対する二脚の椅子にはぐるりと天幕のような覆いがついておりました。開いているのは前のみで、これならば隣に座る者の姿は見えません。

 この椅子を用意したのは王妃だろう、そんなことを考えながら姫君は右側の椅子に座ります。

 しばらくすると別の扉から誰かが入ってくる音がしました。 

 足音は二つ。王子と従者のものでしょう。一人が椅子に座る音がしましたが、姫君の座る位置からは何も見えません。

 それからしばらくして、前の扉から品の良い老人が供の者を連れて入ってくるのが見えました。その手には分厚い書物が二冊。

 王妃から話を聞いていたのでしょう、老人はちらりと増えた椅子を見ただけで、特にあれこれ尋ねてきたりはしせん。老人が席につくと、「質問は最後にまとめて」と言うだけで、挨拶もなく講義は始まりました。最初の講義は王国の歴史です。


 その日は姫君にとって忘れられないものになりました。

 一日で五人の学者が王子のもとにやってきましたが、どの学者も姫君の知識に舌を巻きました。どの分野でも自ら考え答えを出す、答えを出せるだけの知識が十代半ばの女に備わっているなど、どの学者も思わなかったのです。けれど、教えたことをすぐに飲みこみ、さらに的確な質問を返してくる姫君に、どの学者も御満悦でした。

 唯一姫君が驚いたのは、横にいた王子です。

 〈光輝の君〉という名をもつ王子は、自分より二歳下とは思えぬほど賢く、どんな難問も投げません。彼が成長すればどれだけ国はよくなるでしょう。こんな王子と同席できたことに、姫君はこっそりと天に感謝しました。

 最後の学者が退出した後のことです。


「シャルグント州の水晶と人は」


 幕ごしの声は王子のものでした。姫君はわずかに首を傾けます。なるほど、と納得しながら姫君は答えました。


「零と一万」


 シャルグント州は王国の北にある州で、水晶を中心とした鉱石の産地です。良質で大きな結晶が採れるため国内でも屈指の活気に満ちた州でした。

 しかしもうその大半は採り尽くされ、かつての活気はありません。二年ほど前に鉱山は閉鎖され、人々も多くが余所へ移り住んだと聞いています。王子はこちらの知識を試してきたのでした。

 姫君は面白くなってきました。こちらの容姿にかまわず、中身を試してきた相手など初めてでしたから。

 声を落として姫君は返します。

「『マグジール王の三男は』」

 先に試したのはそちらですよ、とばかりに、姫君は問いの難度を上げました。

 王国の言葉ではない、エスリル語を使ったのです。

「『宰相グシュナール』」

 王子もまた、エスリル語で返してきました。百年前の隣国の王の庶子をすらりと迷いなく。

 それから王子は椅子からおり、従者とともに部屋から出て行きました。扉が閉まるのを聞いてから姫君も席を立ち、王宮の隅にある住居へと戻ります。


 自分の部屋に戻った姫君は、踊りだしたいくらいでした。

 知恵は人の世界を広くします。ああ、この一日で何度世界が開け輝いたことでしょう。心に消えぬ光が宿ります。食事とわずかな休憩以外はすべて勉学にあてられておりましたが、苦にもなりません。己の知恵を隠す必要がないのです。望むだけ人に尋ねてよいのです。夕刻になっても楽しくて嬉しくてまだまだ続けたいくらいでした。……慎み深い姫君は顔にも出しませんでしたけれど。

 

 それからほぼ毎日、姫君は〈学問の間〉に通い続けました。二人は他の家族よりずっと長い時間を共にすごしていたわけですが、どの学者も従者たちも、王子と姫君が顔を合わせたことはないと断言しました。学問のこと以外に言葉を交わすことはなく、顔を見るより大事なことが二人の前にはあったのです。


 〈学問の間〉に通うようになって三年がたったある日、王が姫君を呼びました。 

「お前の嫁ぎ先が決まった」

 王が告げた嫁ぎ先は、〈大熊伯〉と呼ばれる西の領主でした。     

 下の上だ、と姫君は頭を下げたまま考えます。四代ほど前に王女を娶っていたくらいの血筋で、王国の西を治める領主ですが、あまりいい評判を聞きません。姿は貴公子らしく整ってはおりますが、統治の才とは真逆だと評判です。ただ、王国きっての穀倉地帯であり、税をよく納めている地ではありました。

 否と言っても聞き入れられるものではないでしょう。どうせもう話は決まっていて準備も始まっているのです。姫君は静かにうなずきました。

 その日のうちに支度が始まりました。十八になった姫君の美しさはまさに輝く日のよう。そんな姫君が婚礼のための華やかな衣装を身にまとうのです。誰もが見惚れ、言葉をなくし、ため息をつきました。

 一月後、姫君は二人の侍女を連れただけで〈大熊伯〉のもとに嫁ぎます。十歳上の伯は噂以上の姫君の美しさに驚嘆し、満面の笑みで花嫁を迎えました。伯の城では三日三晩に渡って祝宴が続きます。初夜もつつがなく済みました。


 それから二人は幸せに暮らしました――とお話が続けばよかったのですが。

 

 姫君は慎ましやかな性格です。夫となる人物を押しのけてどうこうという人ではありません。衝突を避け、話をよく聞く姫君は、伯の目には「美しいだけのつまらぬ女」と映りました。

 次第に伯は姫君への熱を失っていきます。もとより一方的な熱でしたが。

 慎ましやかな姫君は、夫の気を引こうと懸命になるような妻ではありませんでした。

 美貌の飾りと王女の妻という箔が欲しい者と、財をあてにする者、二人の男が決めた結婚です。もとよりこの結婚に愛も夢もありません。

 愛や恋を描く物語も多く読みましたが、姫君は男というものに夢を描けない性でした。誤認と忘却のためといえ閨に連れていこうとする父や、「黙っていればわかるまい」と言い寄ってくる王子や従者に囲まれて、どうしてそんな美しい夢を見られるでしょう。

 姫君は静かに怒っておりました。

 伯が己に目を向けないことではありません。伯が己の領地を顧みないことに対してです。

 領主というのにその統治は実にずさんなものでした。伯が一人没落するのは勝手ですが、それに巻き込まれた領民はたまったものではないでしょう。

 己の中で何かがきらりと光ったようでした。やれることをやろう、と姫君は決意します。

 それとなく、姫君は夫に領内の話をしてみました。ですが効果は残念なもの。〈大熊伯〉は自分は正統な領主であり、領主とは何もする必要がないものだと思い込んでいたのです。

 こちらは難しいと半ば見切りをつけた姫君は、夫以外の者に声をかけました。

 狩りに宴にと夫が出かけているあいだ、姫君にはあり余る時間があります。その時間を、姫君は領内を知ることにあてました。家宰を呼び帳簿を調べ、各地の兵や役人、街の長を招いては話を聞きます。最初はいぶかしんだ者たちも、すぐに穏やかで真摯な姫君の前に出ることを楽しみにするようになりました。

 〈大熊伯〉の治める地は確かに豊かです。王国の中でも上位といえました。

 けれども伯が後を継いでからは何もかもが人任せ。過去にならうだけの適当の極でした。

 肥沃な土地を頼りに麦を育てていますが、近年は隣国が味の良い品種を出したことで取引価格は下がっています。肉牛の生産もゆるやかに落ちておりました。何より遊興の費用を捻出するために先代まで行っていた治水事業をやめたのは、愚かとしか言いようがありません。

 どこから手をつければいいのか頭を抱えたくなるほどでしたが、伯はまったく気にもしていませんでした。自らの地は変わらず豊かで、己も変わらず豊かであるとしか考えず、手を入れなければならないことがあるなど知ろうとしないのです。

 もちろん家臣たちも伯に進言はしました。それが伯の耳の内に入ったことなど一度もありませんでしたが。伯は面倒なことが嫌いだったのです。

 自分の進言が聞き入れられねば、誰だって心は離れていくというもの。一人、二人、十人、二十人、と心ある者が匙を投げたときに、姫君は嫁いできたのです。伯とは正反対の姿勢をとる姫君が。

 不在がちな伯ではなく、まず姫君を頼る者が増えたとしても誰がそれを責められましょう。やがて姫君は城の中枢となりました。

 面白くないのは〈大熊伯〉です。閨で嫌味を言う夫を言葉と体で慰撫し、姫君は一つの結論を出しました。

 伯に代わる後継ぎを作ろう、と。

 とはいうものの、今から自分が子を産んだとしても、一人立ちできるまでには早くて十数年。それでは遅すぎました。このまま手を打たずにいれば、領内はもって十年というのが姫君の見込みです。自分がなるにしてもきっと手が足りなくなるのは目に見えていました。

 幸い、後継候補としてよい人物がいます。伯の庶兄の子が王宮に出仕しているのを姫君は知っていました。年は姫君より二歳上。伯に似ず堅実で実直な青年だという話です。

 姫君は優しく夫に語りかけました。

 伯の負担を減らすために、甥を呼び戻してはどうかと。

 己が楽になるのならと、伯は喜んでうなずきました。


 甥が城に戻ってきたのは、姫君と伯の一年目の結婚記念日のことです。

 彼は思いもかけないほどの品を持ち帰ってきました。

 王都で織られた布地が入った二つの木箱です。色鮮やかな生地の上にたっぷりと刺繍を施した最高級品の布は、伯を大いに喜ばせました。

 姫君は義理の甥に尋ねます。これほどの品をどうしたのかと。

 赤面しつつ彼は答えました。


「結婚祝いにと〈光輝の君〉より託されました」


 祝いの品が入った木箱を自室へと持ち帰り、姫君は人払いをします。

 箱にはやはり立派な布地。これだけで農民の数十年分の稼ぎに匹敵するでしょう。

 しかしおかしなものでした。

 〝あの〟王子から祝いの品を贈られるなどありえません。贈るにしても着飾ることに興味のない姫君相手に、かの王子が布など贈るでしょうか。

 姫君ははっと思いたち、積み重なった布を上から出していきました。

 数十枚の布をどけた底にあったのは、十冊ほどの本と革袋。天文、地学、農業、数理、それらの最新の書物でした。革袋の中身は金貨がずっしり。

 一番上に置かれた本を姫君は手に取ります。最初の頁に手紙が挟まっていました。


〈幸福の実は、耕せし者のもとに〉

 

 姫君も知っている古詩の一節です。詩を引用した祝いの言葉にとれなくもありません。

 これはかの王子の好んだ詩人の詩でした。

 暴虐の王に抗い、民をまとめて戦い続けたという詩人のものです。それをふまえて考えれば、単なる祝いの言葉とは思えません。

 思わず姫君は笑いだしました。

 これほどまでに姫君のことを考えた贈り物があったでしょうか。

 いえ、これほどまでに姫君そのものを理解した者がいたでしょうか。

 すなわち。


〈これを使って、幸福の実を得よ。己で耕せ。〉


 そう煽っているに違いありませんでした。

 彼ならいくらかの情報があればこの地の実情を推測することもできるでしょう。その上で〝祝いの品〟を届けさせたのです。

 早速、姫君は王子に御礼の手紙を書きました。書物と革袋については伏せておきましたが、相手には伝わるのでかまいません。伯は姫君が出すのならいいだろうと何もしませんでした。


 元手があるのならば、じっとしていることなどありません。 

 姫君は革袋の金貨を使い、まずは西の隣国から鉄を買い、工具に加工し東の鉱山国に売ります。生地の大半も金貨に変えました。

 手にした利益で領内の麦を相場の二割増しで買い上げます。伯はどうして高くとむっとした顔をしましたが、加工して売れば元はとれるものだと姫君が言えば、あっさり彼は信じこみました。確かに一部は加工して売りましたが、ほとんどは備蓄にあてたのですけれども。

 姫君に商才があったのは確かでした。どこに何を持っていけばいいのか、領内の誰よりもわかっていたのです。そうやって増やした財を、姫君は惜しみなく領内につぎこみました。そのやり方を姫君は甥にも教えていきます。故郷を思う彼は真面目なよい弟子となりました。その熱心さにいくらかの恋慕があったのは確かですが。

 城内のことは彼にまかせても大丈夫だろうと一安心すると、姫君は外へととびだします。


 痩せた地を嘆く者に、肥料を入手する算段を立てさせました。

 麦をより高く売るために、品種の改良を進めました。

 牛に病が流行ったと聞けば、隣国からでも薬を取り寄せました。

 農閑期にできる仕事として織物を勧め、先達を招きました。

 水路のために揉める村があれば、井戸を掘って仲裁しました。

 親を失った子供が一人立ちできるよう、寝泊りのできる学校を作りました。

 仕事のない者を雇い、河川を整えていきました。


 判断に迷うとき、姫君が頼りとした一人は腹違いの弟――〈光輝の君〉です。

 結婚祝いとその返礼から、二人は手紙を送りあうようになりました。今でもその手紙は残っていますが、近況が初めに少しある他は、まるで報告書のような文面なのがかの二人らしいことでありました。

 曰く、どこそこの収量はしかじか。天候はしかじか。嫡子との代替わりあり。

 曰く、こちらの収穫は別記の通り。農法を変えた地域との差は一割五分。

 こんなやりとりが姫君の知恵を支えていたのは間違いありません。

 律儀な性なのか、王子は毎年結婚記念日に祝いの品を贈ってきました。布のほとんどは領内をよくするための元手になるか、家臣への褒美にするかで姫君の手元を離れます。家臣たちが喜んだのは言うまでもありません。

  

 次第に姫君の名は広まり高まります。結婚から二年もたつ頃には、伯より先に姫君へと話が来るのも珍しくないほどになりました。

 〈大熊伯〉は不満を隠そうとしません。苛立ち、毎回違う女性を連れてひきこもることが増えていきました。そんなことをすればますます人々は姫君に頼らざるを得ないのですが。

 とうに冷え切った結婚が五年目を迎えた年のことです。

 その年は前年から天候が優れず、夏を前にしても肌寒い日があるほどでした。

 大冷害です。

 収穫は例年の半分を切り、できた物もろくな質ではありません。

 にも関わらず、伯は例年通りの税をとろうとしました。

 家宰が慌てて止めます。それでは餓死者が出るばかりか、来年の収穫すら怪しくなりますぞと。甥も帳簿を手に「慈悲を」と跪きます。

 しかし伯はうなずきません。

 伯以外の皆が姫君へと目を向けました。頼れるのは一人だけだと。

 ため息をつきたいのをこらえ、姫君は前へ進み出ます。

 この伯に何を言っても無駄だと思いつつも、姫君は夫の前で軽く膝を首をかしげて見上げました。――できるだけ艶めいて見えるよう。

「伯が気になさることなどありませぬ」

 この場で夫に正論を説くのは時間の無駄。ならば次の策を考えるべきだ。

 姫君は優しく夫の手をとります。

「珍しい酒が手に入りましたゆえ、久しぶりにいかがです?」

 あっけにとられる皆をおいて、二人は寝室へと向かいました。


 翌朝、姫君は一枚の書状を手に皆の前に現れます。

 その書状は伯の署名が入った正式な命令書でした。書かれていたのは二行。

 一つ、今年度の税は免除すること。

 二つ、半年間のみ伯夫人が統治を代行すること。

 そして姫君は領内各所の備蓄を開けるよう指示しました。その声に歓声が続きます。これで民は生きのびられると多くが安堵しました。すぐにと城を発つ者もいます。

 その中で呆然としている者が二人おりました。家宰と甥です。

 あの伯が任せるというのはよほどのこと。いえ、それ以上に不安でもありました。領主たる者がその任を擲ったようなものです。その重みを知るような伯ではありませんでした。

 重みは知らずとも価値はわかっている、そんな伯です。代わりに姫君は何か重い犠牲を払ったのではないかと、二人は考えたのです。

 慌てて問う二人に姫君は答えました。

「領民の代わりにわたくしが税を納めます」

 二人が固まったのは言うまでもありません。姫君が自ら財産を作っていたのは知っていても、その総額までは知りませんでした。それにしても一国の収入分とは!

 姫君の命を受け、各所に兵が散りました。人々は知らせを聞き、強張った顔を見合わせます。死なずにすむ。だがこれからどうするか。

 それも姫君は考えていました。当面は備蓄から食料を配しながら、街道など領内の整備に人を雇い、すぐにまとまった収入が手に入れられるようにします。備蓄が尽きる前に遠国から麦を買い、次に備えました。

 〈大熊公〉の土地なら飢えずにすむ。その噂はすぐに広まります。よそからやってきた者たちも姫君は追い返したりなどしませんでした。同じように仕事を与え、職を与え、この地に根付くよう配慮します。

 領内で餓死者を出さなかったのはここの他、とある王子の領地くらいのものという大冷害でしたが、〈大熊伯〉の地はなんとか耐え凌ぎました。      

 太陽が隠れても、ここには太陽のような姫君がおられる。そう人々は姫君を崇めます。収穫祭でもっとも多く呼ばれたのは姫君の名でした。


 半年後、約束通り姫君は統治の権利を〈大熊伯〉に返します。

 伯は何ら変わりませんでした。変わらず遊興に時と金を費やします。姫君は家臣たち同様に伯に見切りをつけました。狩りに行くと言えば丁寧に見送ります。妾を連れ込んでも気にもなりません。

 そんなことより姫君にはやるべきことがありました。

 領内で織った生地をさらに花の色で染め、王都の商人に売り始めたのはこのころです。繊細な紋様は王都で高値がつきました。

 人が増えたのを好機とばかりに、姫君は領内一の大河、クイホ河の治水に手をつけます。十年がかりになるという大工事ですが、両岸は屈指の耕作地とあっては放っておけるはずがありません。

 その他にも西へ東へ南へ北へ。領地のあちらこちらを姫君は巡ります。そんな姫君を家宰と甥、城の者たちが支えました。

 少しずつ領内は豊かになっていきます。それを誰より実感していたのは城の者たちでした。領内からあがってくる報告が、数字が、皆の動きの結果となって現れていたからです。先月より今月、昨年より今年と、改善の結果が出ていることを誰もが喜びました。

 相変わらず姫君と王子とのやりとりは続いています。いえ、もうこのときは王子ではなく王太子となっていました。兄たちをとばしての立太子はその英明さゆえでしょう。

 立太子の知らせからしばらくして、姫君のもとに王太子が結婚するという知らせが届きました。相手が〈尊貴の家〉の生まれでないのが王子らしいと、姫君は、王太子に自ら刺繍した襟飾りを、花嫁には袖飾りを贈りました。どちらも王太子の好みに合わせた揃いの吉祥紋様です。


 姫君が結婚して十年めに王は王太子に位を譲りました。

 その二年後には姫君は三十になっていましたが、美貌は翳るどころか艶を増し、円熟した果実のような豊かささえ醸しだしています。それも姫君が積み上げてきた実績ゆえでした。

 国のどこを探しても、姫君ほど辣腕を振るった女性はいないでしょう。これほどよく領地を治めた者も。

 それを伯は見ませんでした。このころの伯はお気に入りの女を連れて別荘に移っていたからです。城から離れ、宴を開いて酔い続けるのが彼の仕事のようなありさま。家臣たちは呆れ顔です。姫君は妻として別荘を訪れ、領地のことを伝えますが、伯は耳を貸そうともしません。


 その年は不穏な雨が続きました。各地から大雨の報せが届きます。

 家臣たちが青い顔をする中、最悪な報せがきました。クイホ河の氾濫です。

 報せは別荘の伯のもとへも届きます。伯はお気に入りの妾と楽団とともに宴を続けました。

 そのとき姫君は城でも別荘でもなく、クイホ河そばの街に来ておりました。

 普段そこに住む者が「今年の雨はおかしい」と城まで知らせてきたのです。姫君はその言葉を容れました。

 姫君の目から見ても危険な雨であることは確かです。

 雨が降り始めて三日目の朝、姫君は両岸の民に避難を呼びかけました。姫君が言うのならと、民がわずかな荷を背負って他の高台の街や村に移った翌日、河は氾濫したのです。氾濫の一報を城と別荘に送ったのも姫君でした。

 降りやまぬ雨の中、姫君は唇を噛みしめます。目の前では収穫間近の麦畑が泥水に沈んでいました。

 もうじきこの河の治水工事が終わる。その目途がたったところでした。

 あと三年、いや一年工事が早く始まっていれば、このような惨事にはならなかったかもしれない。少なくとも今より被害は少なかったはず。民のほとんどは助かったといえ、防げたものを防げなかった口惜しさが姫君の内で渦巻いておりました。 

 街の長や警備の兵に当座の指示を出すと、姫君は警護の兵を置き去りにしかねない勢いで馬を走らせます。

 城に駆けこんだ姫君はずぶ濡れでした。やってきた甥と家宰に現地の様子を伝え、救援の指示を出してから、姫君はようやく濡れた髪を拭きました。

 姫君は伯の所在を尋ねます。二人は黙って首を横に振りました。伯に意気らしきもの誇りらしきものがあるのなら、せめて城にいたでしょう。

 叔母上、と甥が語りかけます。

「もう充分ではないでしょうか」

 彼は軽々しい男ではありません。それゆえに慎重に、言葉と声を選んでようやく発せられたような声でした。

 姫君は家宰のほうを見ます。家宰もしっかりとうなずきました。

 甥の後ろに武装した兵士がやってきます。彼らの顔もまた、意を決したというもの。溢れる河同様に、もはや止められるものではないと姫君は悟ります。


「せめて直接話をしようかと」


 再び姫君は外套を手にとります。王宮以来の侍女がそばに立ちました。

 侍女とともに、姫君は別荘へと馬を駆ります。その少し後を甥たちがついてきました。

 姫君は濡れた髪もそのままに、堂々と別荘に入ります。宴の中央を進む姫君の凄絶な美しさに、楽団は奏でる手を止め、踊り子たちは四肢の力を抜き立ち尽くすばかり。

 不機嫌そのものという伯の前まで来ると、姫君はゆっくりと片膝をつき頭を下げました。 


「どうか城にお戻りを」


 宴の間は静まりかえります。

 わざとらしい、とても大きなため息が静けさを破りました。伯のものです。

「自分の方がうまくやれると思っているくせに、見せかけだけはいつもうやうやしいな!」

 それくらいで怒り返すような姫君ではありません。

「お前に任せる。その方がうまくいくのだろう?」

 赤ら顔の伯が投げた酒杯は、姫君の顔をかすめて床に落ち転がりました。怒った侍女が立ちかけるのを姫君は手で制します。

「これが最後の機会とお考えくださいませ」

 姫君は嘘を好みません。これが本当に最後の機会のはずでした。でなければどうしてあの甥たちが武装しているのでしょう。

 最後、と伯はくり返しました。

「よくも言えたな、身寄りも後ろ盾もない、姿だけの女が!」

 伯の怒声に踊り子たちがへたりこみます。

 そのまま伯は席を立ち、ずかずかと姫君の前までやってきました。

「――聖堂に申し立てようか」

 後ろの侍女が息を飲む音がしました。

 聖堂への申し立ては、婚姻の解消と同義です。 

「できるか? お前はもう王宮に戻れるような身でもない。こんな〝お古〟で誰が引き取るか見物だ」

 姫君は顔を上げます。


「聖堂に向かえば、伯らしくふるまい、この地を治めていただけますか」


 淡々と答えた姫君が聞いたのは、伯の歯ぎしりの音でした。

 伯にはわからなかったのでしょう。姫君の望みは〝自分のいる地がより豊かになること〟であって、伯夫人という立場などではないことが。

 伯が姫君の胸ぐらをつかみます。

 そこに「叔父上!」と叫ぶ声がかかりました。

 帯剣した甥と兵たちがなだれ込んできます。兵たちの甲冑がたてる音で、宴の間は一気に騒がしくなりました。

「この地をずっと支えてきた御方にする振る舞いですか、それが!」

 甥に手を払われ、伯は甥をにらみつけます。

 にらまれた側は一歩もひるむことなく、一枚の書状を突きつけました。

「王より許しは得ております。暮らしに不足はさせませぬ。どうか退位を。後は私が引き継ぎますゆえ」

 甥が手にした書状にはまぎれもなく、王の署名が入っておりました。長らく手紙をやりとりしていた姫君が見誤るわけがありません。

 ぐ、と息を飲んだ伯でしたが、彼はただ屈しはしませんでした。

「……いいだろう。お前がやれ」

 そこまで言って、伯はにたりと笑いました。彼にとってのいいことを思いついたときによくする顔です。

「ただし離別はせん」

 甥の顔が一瞬赤らみました。甥のほのかな恋慕を伯は見逃してはいなかったのです。

 実にわかりやすい嫌がらせでした。「お前の欲しいものはくれてやらないぞ」という、あまりに子供じみた嫌がらせです。もっとそれより考えるべきことがあるでしょうに。

 姫君は再度膝をつき、頭を垂れました。


「貴方様がわたくしに何も価値を見出しておられぬように、わたくしも貴方様に何も期待してはおりませぬ」


 嫌がらせにしても、もっとましなものが、頭を使ったものはできなかったのかと言いたいくらいですが、姫君は言いませんでした。

「こちらからお別れ申し上げます。異義がおありならば、どうぞ陛下までお申し出を」

 ようやく伯は姫君が王の異母姉であり、王と親しい者だということを思い出したようでした。

 それ以上何も言えないまま、伯は妾を連れて宴の間を出て行きます。

 立ちあがる姫君に甥――ともう呼べなくなった相手が手を差しだしました。

 同志ともいうべき男の手を取り、姫君は問います。

「いつのまに陛下にお許しを?」

「つい先日」

 残す兵に指示を出し、二人で歩きだしてから、新たな伯は少し気まずそうな顔で答えました。

「実は陛下より、この地のことをお伝えするよう命じられておりました」

 いつから、とは姫君は尋ねたりはしませんでした。

 新しい伯がかつて仕えていたのは〈光輝の君〉の弟王子です。  

「その、これからどうなさるおつもりですか」

 いつものように「叔母上」と呼べないせいか、彼の声には珍しいぎこちなさがありました。

「こちらの身辺が片付いたら、王都に戻るつもりですが」

 いっそ旅でもするのもいいかもしれないと思うくらいに、姫君の心は軽くなっておりました。大半を領地につぎこんでいるといえ、当面暮らしていけるぐらいの資金はありますし、王宮に戻らずとも、侍女とひっそり暮らしていくくらいはできるでしょう。

「もしよろしければ、ですが」

 別荘を出たところで、新しい伯が言いました。

「貴女を雇うことはできませんか」

 姫君は足を止め、目を丸くします。

「……とはいえ、こちらから差しだせるのは住居と食事くらいのものですが」

 この伯は真剣でした。もとより軽々しい冗談を言うような人物でないことは姫君もよく知っています。

「貴女ほどこの地を知る方はいらっしゃいません。せめて一年。私と、何より民を助けると思って、どうか」

 姫君は新たな伯を見上げます。

 雇う。雇用。

 まず王の娘として嫁いできた女性に使うような言葉ではありませんでしたが。

 どういうわけか、ひどく心がときめきました。やることは今までと代わらないはずで、意を仰ぐ相手が変わっただけのはずなのに。

 姫君は微笑みながら答えます。

「ではまず、クイホ河沿岸一帯の復興からですね」

 はい、と彼は満面の笑みでうなずきました。

 


 伯の代替わりはあっけないほど円滑に進みました。事前に準備ができていたからです。簒奪に等しい代替わりでしたが、誰からも異論がなかったことがすべてといえました。それだけ先の伯は疎まれていたのです。

 疎まれているといえ、新たな伯は先代をないがしろにはしませんでした。毎晩宴会とまではいかずとも、別荘で不自由なく生活できるよう手配しています。いくらかの見張りはついているといえ、おおむね自由といえましょう。

 姫君は相変わらずでした。伯の代理として城の内外の声を聞き、手を打ち、伯と相談を重ねます。

 変わったことといえば、姫君の離婚が成立したくらいでしょう。もう姫君を「奥方様」とは呼べませんから、伯も民も「殿下」と呼ぶようになりました。別に姫君はどう呼ばれようとかまわなかったのですが。

 氾濫から一年を経て、クイホ河の沿岸は氾濫の痕跡もわからなくなるほどに復興しました。

 元通り、いえ元以上に立派な家と畑が出来上がり、麦を商う者たちがうめくほどに良質な麦が山積みです。初夏の収穫祭に姫君と伯も加わり、喜びを分かち合いました。 

 その翌日。「相談したいことが」と伯は姫君を呼びました。

 良い晴天の日です。伯は人払いをすると姫君とともに城の庭へと出ました。青々とした芝生に混じったラグデルの花は、まるで薄紅の絨毯のようです。散策にはとてもよい場所といえましょう。

 城で一番古い木の下まできて、伯は口を開きました。


「私と結婚してくれませんか」 


 どんな難題も答える〈陽光の花〉たる姫君が、すぐには言葉を返しませんでした。

 予想外、というほどのものではありません。彼がこちらに好意を抱いていたのは姫君も知っています。それこそ初めて会ったときから。

 とはいえ彼はそれを抑えていける人物でした。彼と会ってから完全に二人きりになったことはありません。ええ、今このときまでは。  

 先の夫と彼とを比べれば、千人中千人が彼を推すでしょう。年も近く、器量に優れ誠実です。外見も女性を惹きつけるに充分なもの。姫君が今までに出会った男性の中では最上位といえます。

 再婚するとしても、先の夫の甥ならばこの国の法には触れませんし、民も歓迎こそすれ反対はしないのは明白でした。 

 では何故答えが返せないのか。

 好意はあります。でもそれを押しとどめる〝何か〟が己の中にあるのです。小さく瞬く光のような、もうずいぶん昔から知っているような〝何か〟が。

 ありのままを伝えよう。そう決めた姫君が口を開きかけたときでした。


「恐れ入ります! さ、先触れが!」

 庭を走ってくる従者が叫んでいます。

 二人は顔を見合わせました。賓客が来るような予定は当分ないはずですし、従者の後ろに人影が見えます。

「待つのは性でないのでな、失礼するぞ」

 その声に、転ぶような勢いで従者が平伏しました。伯も膝をつきます。

 やってきたのは凛々しい貴人でした。年は姫君たちと同年代。頭には冠こそありませんでしたが、その代わりにぐるりと何重にも刺繍入りの絹が巻かれています。頭布は羽飾りで留められていて、その中央には鶏卵ほどの大きさの緑玉がついていました。服も明らかに豪奢な、最上のものです。

 見知らぬ、立派な男でした。その中に一つだけ、姫君にも見覚えのあるものがあります。

 吉祥紋様の入った襟飾り。やってきたのは、〈光輝の君〉――この国の王です。

 二人のそばまで来ると、王はにこりと笑いました。見る者を味方にできる、屈託のない笑顔です。

「ああ、どうか楽にしてくれ。余も今は〝おしのび〟というようなものだ」

 陛下、と伯が顔を上げました。  

「いったいどうしてこちらに」

 それより立たぬか、という苦笑混じりの声に、伯はゆっくり立ちあがります。

「準備が整ったので――姉上に話が」

 伯が口元を強張らせました。

 姫君の離別は王も知っています。結婚の話かと考えたのでしょう。姫君からすれば、この王がそんなことで足を運ぶはずがないのですが。

「わたくしに、何を」

 王は笑みをおさめ、「王都に来てほしい」とゆっくり手をさしだします。


「宰相の座を空けてある」


 横の伯が絶句します。姫君にとっても予想の外の提案でした。

 宰相は王に次ぐ者として、高位の貴族から選ぶのが常。王族の宰相という前例がないわけではありませんが、今までの宰相二十八人すべては男性でした。

「王宮そばに邸と人は用意した。学者にも好きなだけ会える」

 悪くない、どころか破格の条件でした。

「余は生まれや性別で左右されるものを壊したい。それを示す礎、先鋒として姉上に」

 確かに王は人の生まれを気にしない人でした。王の妃は〈尊貴の家〉の生まれではない低位の貴族でしたし、主だった家臣は家柄を問わず自ら吟味し引き立てています。

 自分の中の光が強く瞬くのを姫君は感じました。

 ようやく、その光が何か、姫君にもわかったのです。

 女が持っているだろうとは思われていないもの。でも自分の中でずっとあったもの。

 物語を読んだとき。学者の講義を受けていたとき。民と畑を巡るとき。商人の訴えを聞いていたとき。そのすべてにこの光はありました。

 〝野心〟という名の光が。

 ただ他の人々のそれとは光が指し示す方向が少し変わっていたために、姫君もなかなかそうだとわからなかったのです。

 自分が欲しているのは領地でも位でもありません。「豊かになる人々」です。

 自分以外の誰かをより豊かに。そのために動ける場を。

 そんな姫君に対して、この王は最上ともいえるものを差しだしてきました。それも絶対の自信をもってです。

 前例を重んじる臣下たちとの衝突が予想されましたが、二人の〝野心〟の前には敵ではないでしょう。立ちはだかるのなら崩すまでです。

 姫君はこの上ない微笑みを浮かべました。


「ならば一つ、条件がございます」


 さらなる〈幸福の実〉を得るためならば、この王は必ずうなずくはずでした。

 

 


 ……ここまでくれば、この姫君がどなたのことか、もうお分かりでしょう。

 偉大なる〈光輝王〉ジャライル・ルルカ・エルデカが、生涯にわたって無二の信頼をおき、その子〈冷月王〉イシュバール・エルデカが師と仰ぎ「我が鏡」と崇めた人物。


 クレイグ王国の歴史に残る〈宰相姫〉――アルカグラ・エルデカ=シュファン。


 かの王がどれだけこの宰相を信頼していたかの証は星の数ほどありますが、その一番は〈竜人戦争〉出征時の書状でしょう。

 王は出征にあたり、宰相に「必要と考えた事項のみ知らせよ。以外は任せる」と記した書状を託していきました。事実上の全権委任でしたが、家臣たちの誰もがそれをおかしなものと考えはしませんでした。

 そのころには、王とともに行った大改革の結果が明らかになっていたからです。

 王と宰相は多すぎた諸侯の勢力を減じ、あわや戦争かという他国との緊張をときました。税制をより公正なものに変え、多くの者の懐を豊かにし、学びの場を増やしました。

 王太子の後見となったのもこの宰相です。王太子イシュバールは宰相を父同様に尊敬していました。父以上に頼りにしていたし懐いていたというのが、王妃の言葉にあります。

 

 ――〈光輝の王〉は笑顔で人をうなずかせ、〈陽光の宰相〉はその美貌で人を蕩かせる。

 これはクレイグの王都から広まった言葉ですが、この言葉には〝うちの王様たちはそれだけじゃないぞ〟という誇りがのぞいています。


 さて今度こそめでたしめでたし――という前に。

 一つ、大事なことを忘れておりました。

 宰相となるにあたって、姫君は一つだけ条件を出しました。

 

 〝誰からであろうと、こちらに結婚の話を持ちこませないこと〟


 後に王妃から「どうしてこんな条件を出したのか」と問われ、宰相はこう答えています。

「自分とともに進む相手くらい、自分で選びたいものでしょう」

 宰相は正式な結婚はしませんでした。結婚には飽きた、という言葉も伝わっています。結婚とは家同士のつきあいが入るもの。そんなわずらわしいものに嫌気がさしていたのです。

 結婚はしませんでしたが、彼女は宰相となってから三人の子を授かりました。

 長男バルドゥは父親の後を継ぎ、次男オルドゥスは王の腹心となりました。長女のメリュディハーシャだけは成人後のことが伝わっていませんが、長く王宮にいたとも諸国を旅していたともいいます。

 〈清廉伯〉セイガル・シュファン――先の夫の甥とのあいだに生まれた子供たちについて、宰相はなんら口を出しませんでした。才があれば取り立て、そうでなければ自身に見合った仕事ができればよいという考えでしたが、家族の仲は大変よいものだったといいます。

 王が代替わりしても、宰相は変わりませんでした。〈冷月王〉は彼女の弟子であり、また最も優れた弟子でした。

 彼女が宰相の座を降りたのは七十才のとき。後継をきちんと育てきり、準備万端整えてのものでした。とはいえ、無位無官ながら、王の相談役というべき重鎮であることに変わりはありません。

 その三年後、彼女は王宮で倒れます。床について一月、家族と息子同然にみていた王に見守られて彼女は穏やかに息を引き取りました。

 最後の言葉は「もっと芽を」。


 葬儀は宰相としてこれ以上ない盛大なものでした。旅立った者に多くの歌と花を献じるのがクレイグの葬儀です。葬儀のあいだ、両目を赤くした王はずっと棺の傍らに立ち続け、それから三年、喪服を脱ぐことはありませんでした。

 半月の時をかけて王都から墓まで棺が運ばれるあいだも、花を捧げる人が後を絶たなかったといいます。

 彼女は最も名高き宰相であり、同時に最も民に愛された宰相でもありました。


 この道行きには不思議なことがありました。

 雨季にも関わらず、棺を運ぶ一行が雨に降られることはなかったのです。花を献じた者もみな不思議がりました。それ以外のところでは雨が降っているのに、と。

 それを耳にした〈冷月王〉は言いました。


「〈陽光の花〉の道行きだぞ。雨など降るわけがなかろう」


 遺言により、彼女の墓は〈清廉伯〉の墓の隣に作られました。

 今なおそこは数々の花で色どられ、どこよりも明るい陽光に照らされているといいます。      

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ドラゴンテイル・外伝~竜なき国の陽光の姫 四號伊織 @shigou_iori

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