君が行きまさかも愛し袖濡らす契りし月を待ちにか待たむ

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君が行きまさかも愛し袖濡らす契りし月を待ちにか待たむ

 土曜の日が西に傾き始めた頃、俺は掃除機の音で目が覚める。

「おはよ」

「起きるの遅すぎ。この前片付けて帰ったのにもう散らかってるし」

「ごめんて」

 ぐちぐち言いながらも勝手に世話を焼く結月に俺は惹かれていた。しかしどんなに身体を重ねたとしてもその感情は隠し通さなければならない。

「歯磨いて来る」

「りょうかい」

 一つの共用のコップに二つの歯ブラシ、無造作に置かれた髪留め。二人の関係を知らない人が見れば同棲カップルのように見えるだろう。出会い方が違えばそんな風になれたのだろうか。

 湿ったシーツの上でアルコールを流し込む二人。週末の泡沫は夜の帷が下りてからというのが暗黙のルール。新品だった結月のTシャツはいつの間にか伸びきっている。

「そろそろしとく?」

 雰囲気もくそもないこの一言もいつも通りだ。そう、俺達に雰囲気なんて無用だ。恋人ではないのだから。

 カーテンから漏れ出た満月の光に映し出され、結月の艶やかな肢体の輪郭が浮かび上がる。

「ああ、今日は満月か」

「そうなんだ」

 ふと口から零れ落ちた言葉に、彼女は気にも留めない様子で空返事をする。

「おっぱい好きだね」

「別にいいだろ……てか男なんてみんな好きだろ」

「言えてるかも」

「私たちって変だよね」

「なにが変なんだ?別にセフレなだけでそれ以上でもそれ以下でもないだろ?」

「そうだけどさ、セフレに普通合鍵なんて渡さないでしょ?」

「信頼はしてるからな……一応」

「一応って何?まぁ信用されて嬉しくないわけじゃないけど」

「そういうくせに合鍵であんま入ってこないじゃん。いつも呼び鈴律儀に鳴らすし」

「私なりの線引きってやつだよ」

 結月に向けて飛び出した白く濁り切った情熱は彼女には届かずに、虚しく縛られて捨てられる。それが少し悔しくて、寂しくてまた結月を求める。

「ねえ、もう一回」

 月明かりに照らされた結月のなで肩に身体を預ける。

「今日どうしたの?元気だね」

 そう言って結月は俺の唇に人差し指を添える。添えられた指は焦らす様にゆっくりと下腹部まで撫でおろす。いつまで経っても乾かない彼女の髪に指を通し、月明かりで陰影はっきりとした鎖骨に口付けをする。

「くすぐったいよ」

「今度は合鍵使ってくれよ」

「ちゃんと部屋が片付くようになったらね」

「なんだそれ」

「何でもないよ。ほんと、今のは忘れて」

「はいはい」

 こうして覚めぬ解像度の悪い夢が始まるのだ。

 二週間後いつも通りの週末、結月はキャリーケースを持って来た。

「やっほー。久しぶり」

「合鍵持ってんだからわざわざ呼び鈴鳴らさなくても」

「どうせ部屋片付いてないでしょ?」

 少しけだるげに家を訪ねる柚月を迎える。

「なんだそれ?なんでキャリーケースなんて持ってんの?家出でもした?」

「朝陽の部屋に自分のモノ置き過ぎたから少し整理しようと思って」

「そんなねえと思うけど」

「あ、そうそう。朝陽が好きなやつ買ってきた。冷蔵庫入れとくよ」

「ありがと。あとで食べるわ」

「相変わらず散らかってるね」

 結月は散らかっていると片付けないと気が済まない質で部屋に入るとすぐに片付け始める。俺は親鳥を追うひな鳥のように彼女に続いて部屋のモノを片付ける。日も傾き、近くのコンビニに夕食を調達しに行く。ゴムが切れていたのを思い出し、いつものゴムを買い物かごに入れる。

「今日は大丈夫」

「え?」

「ゴムいらないから」

「分かった」

 月の光も届かぬこの部屋で今日も夜の遊戯が始まる。君は月の裏に心を隠して俺の首に腕を回す。さっき服は簡単に脱ぎ捨てたくせに。俺もそうか、変化を恐れて結月に気持ちを悟られまいと隠しているのだから。身体は一つに重なり合っても、どんなに結月と過ごしたとしても、心に薄い膜を張ってしまって、結月の中に情けなく飛び出す、澄み切ったこの情熱は彼女の心までは届かない。抱いた後、ベットの上で結月は背中を向ける。月明かりは窓から射さない。代わりに射すのは彼女の開いたスマホの明かり。彼女の顔を照らし切っても俺の心には届かない。

「あははっこれ面白いよ」

「ふーん」

 結月は背を向けたまま。いつから愛してると言わなくなっただろう。いつから彼女の瞳を見れなくなったのだろう。俺は考えるのを放棄して今日という日に帳を下ろした。

「おはよ……」

 いつものように夜が明ける。しかし、彼女の第一声はおはようではなく大切な人が出来ただった。結月は歯を磨きながら鏡に向かって言葉を紡ぐ。

「すごくいい人なんだよ。あ、約束してほしいことがあるんだけどさ」

 気が付けばタンスに入っていた筈の結月の服が小さなキャリーバックに迎えられていた。寝癖を溶かし、ヘアアイロンを当てる。俺と結月はセックスフレンド。恋人でも何でもない乾いた関係。分かり切っていた筈なのに実感が湧くのは今日が初めてだった。俺は無言のまま彼女の足跡を辿る。結月とあと数センチのところに来ても彼女に触れられない。

「たまにはちゃんと自炊もすること」

「お金は無駄遣いしないこと」

「そして私みたいな関係の人を私で最後にすること」

 返事のない俺を他所に結月は淡々と着替えていく。

「結月がいなくなると部屋が散らかるだろうな」

「名前呼ぶのホントに久しぶりだね。いつぶりだろ……」

「さあな?気が付かないだけで呼んでたと思うけど」

「とりあえず、これは私なりのケジメの付け方だから」

 いつから名前を呼ばなくなったのだろう。いつの間にか開いていたキャリーケースは玄関に立っていた。

「最後にキスでもしとく?」

 結月は普段通りの口調で言ってきた。

「じゃあ……」

 最後に交わした接吻はこれまでの関係を洗い流すような歯磨き粉の味がした。

「キスが上手いのちょっとムカつくー」

「お陰様でな」

「あははっそりゃどーも。じゃあね。そろそろ帰るよ」

 結月からの別れの言葉で彼女がいなくなるとやっと気づく。

「今までありがとう。またね」

「あのさ!」

 朝露が頬を伝う。

「彼氏ってどんな奴」

 聞くべきでないと分かっていたのに気が付いたらそう聞いていた。 

「彼氏じゃないけどずっと大切な人、あなたには理解できない人だよ」

 震えた彼女の言葉とともに蝶番の軋む音が部屋に響いた。

               了

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