Ⅳ
転居届を役所に提出し、雅久君と誠士さんの暮らす12階建ての高層マンションにママと私は引っ越した。
また、婚姻届と養子縁組届を役所に提出し、私たち4人は親族関係となり、ママと私の苗字は花牟禮から月雪に変わった。誠士さんは私の養親となり、私は誠士さんの養女となった。
誠士さんとママは結婚式を挙げなかった。
また、雅久君と私は兄妹になった。彼が14歳の時、私が9歳の時だ。
マンションの名前は「アベニールセゾン」
気品のあるタイル張りの外観と、高級ホテルをほうふつとさせるエントランス。
エントランスには、クロード・モネの作品の「散歩、日傘をさす女」と「アルジャントゥイユのひなげし」が飾られている。
ここはオートロック付きマンションだ。こうした場所とは無縁だった私には、目に映るもの全てが新鮮だった。雅久お兄ちゃんと誠士さんが暮らす部屋は409号室。
“409”とは“死苦”不吉な部屋番号に背筋が凍る。
――。
エレベーターに私たちは乗る。
ママは私の手をぎゅっと握る。
対角線に立つ雅久お兄ちゃんと私、誠士さんの背後に立つ雅久お兄ちゃんをちらっと見ると、彼は壁を見ている。
掴みどころのない、ミステリアな彼に目を奪われる。
4階にエレベーターが停止する。扉が開き、エレベーターから降りた私たちは、コンクリートの細長い通路を進み、409号室にやってきた。
ステンレスの表札に表記された「409号室・月雪」
誠士さんが玄関の二重ロックを解除し、扉が開く。
『どうぞ』
『お、おじゃましまーす……』
玄関に私が怖々と足を踏み入れる一方、ここにママは平然と入る。
玄関に並べられた、雅久お兄ちゃんの運動靴と誠士さんの革靴。よく見ると、彼の運動靴はどれも新しい。だが、草臥れた運動靴を履く彼だ。
もしかすると、雅久お兄ちゃんは物を大切にする人なのかもしれない。
『あんた、突っ立ってないで、中に入りな』
『はあい』
以後、私たちはリビングルームに移動した。
リビングルームに向かう途中、白壁に飾られた、額装された写真が私の目に留まる。
写真に写るのは、広大な青い海をバックに砂浜の中央に立つ1人の少年――。
麦藁帽を被り、諸手を広げて、顔をくしゃくしゃにするこの少年は、雅久お兄ちゃんに違いない。
雅久お兄ちゃんの眩い笑顔――。
現在、笑顔を失った彼は、人形になった。
一度失ったものは二度と戻らない。
写真に写る広大な青い海を見る。これを見ると“海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり”という寺山修司の短歌を思い出す。
海へ行ったことがない当時の私は、この写真を見て、海という場所に不思議な印象を抱いた。
広大な海と広大な空、広大な海を自由に泳ぎ回る魚たちと、広大な空を自由に飛び回る鳥たち。魚、鳥とは違い、狭小な世界に囚われる人間。
人間は、魚のように海を自由に泳ぎ回ることもできなければ、鳥のように空を自由に飛び回ることもできない。
枷を嵌められ、自由を奪われた奴隷、人目を気にして、普通を装う、子供の頃の夢を諦め、就職して、普通という枠に収まる、個性を殺し、普通という枠に収まる、これが人間だ。
写真から目を逸らし、リビングルームに向かった。
リビングルームにやってきた。
『わあ!……』
解放感のある部屋に私は興奮する。
面積が20畳のリビング、カウンターキッチンに並んだワインボトル、革張りの大きなソファーや、ソファーの真正面に設置された大型テレビ。
『あんた、落ち着きな』
『はあい』
と、壁に飾られたタペストリーが私の視界に入る。かつて人気を博したヒーローアニメのタペストリーだ。
まるで壁を覆うように飾られたこれを凝視すると、これに覆われた、壁に空いた穴を見つけた――見つけてしまった。
体がぞわぞわして、むず痒い。まるで鱗粉のようだ。
揚羽蝶が翅を広げて、鱗粉を撒き散らし、これが全身に降り注いで、まるで皮膚炎を起こしたかのようなむず痒さだ。
誠士さんを見ると、彼は、ママと閑談に興じている。
2人の傍らに立つ雅久お兄ちゃんと目が合う。
直後、雅久お兄ちゃんは、頬をひくつかせ、歪んだ微笑を――ぞっとするほほ笑みを浮かべる。
そんな彼に身を震わす。
雅久お兄ちゃんが心を許すことは夢物語だ。
狐がまるで取り憑いたような雅久お兄ちゃんの微笑から私は視線を逸らす。
雅久お兄ちゃんの瞳をこれ以上、見ることが――彼の瞳をこれ以上、見ることが怖かった。
タペストリーに覆われた、壁に空いた穴を再び見る。
それにしても、壁に空いたこの穴は何なのだろうか? 誰かがここを殴り、ここに穴を空けたのだろうか?
“家庭内暴力”
脳裏に浮かぶこの5文字を振り払う。だが、脂汗が滲み出し、不安が最高潮に達する。
『詩子さん』
『は、はい』
『今から部屋に案内するよ』
『わ、分かりました』
この空気から解放されると安堵した直後、『雅久、おまえも着いてこい』と、誠士さんは雅久お兄ちゃんに命令した。
その命令に口から心臓が飛び出でるほど驚く。
『こほん』
緊張を和らげるために咳払いした私を誠士さんは笑う。
『詩子さん。そんなにも緊張しないで』
その後、誠士さんはママに目交ぜする。
『こっちだよ』
私たち3人は誠士さんに続いた。
『はい』
案内された部屋は、リビングから少し離れた場所にある面積が6畳の和室だ。どうやらここが私に用意された部屋らしい。
『……ここは亡妻が使っていた部屋なんだよ。詩子さんにこの部屋をぜひ使ってほしい。そうすれば、彼女も喜ぶはずだから』
誠士さんの悲痛な声――亡妻を思い出したのだろう。彼の心情を察すると、胸が痛む。
私は、誠士さんの目を真っ直ぐに見て、『ありがとうございます。このお部屋、大切に使わせていただきますね』と彼に感謝の気持ちを伝える。
誠士さんは穏やかな笑みを浮かべた。
部屋を見回す。桐たんす、ドレッサーや、敷布団など、最低限のものだけがあり、入口から見て、右の壁に押し入れがある。
『母さん……』
悲しげにそう呟く雅久お兄ちゃんの声が鼓膜を震わせた。
『あんた、よかったわね。立派な部屋を与えてもらって』
『う、うん……』
『誠士さん、行きましょう』
ママは、誠士さんの腕に絡みつき、彼と2人きりの時間を満喫したいと言わんばかりに彼を急き立てる。
『そうだな、瑞己。詩子さん、雅久。後は2人の好きにしなさい』
誠士さんはそう言って、ママと一緒に部屋を出て行った。
ドアがばたんと閉まり、雅久お兄ちゃんと2人きりになった瞬間、彼は、押し入れの戸を開けて、中から煙草の箱、灰皿や、ライターなどを取り出し、それらを畳の上に置く。
『えっ?……』
目を疑う。
動揺し、足が震える私を無視して、雅久お兄ちゃんは、煙草の箱から煙草を抜き取り、それを銜えて、ライターでそれに火をつける。
慣れたその手つき――。
『あ、ああっ……』
雅久お兄ちゃんは私を流し目で見て、煙を吐き出し――口角を上げる。
『真面目だね、詩子は。未成年者の喫煙は法律で禁止されている。法律がこれを悪と定めれば、これは悪になる。だけれども、この法律が改正されたら、これは悪ではなくなる。詩子が真面目なのは法律を――規則を遵守している証拠だよ』
当時の私には、雅久お兄ちゃんの説諭の意味が理解できなかった。
『……』
紫煙を燻らせる雅久お兄ちゃん、その場に彼は屈み込み、煙草の灰を灰皿に落とす。
煙草の香りをまとう雅久お兄ちゃんの姿、それが香水の香りをまとうママの姿と重なる。
まるで柘榴のように赤黒い、雅久お兄ちゃんの唇が目を奪う。
『清く正しく生きる、か。世間は狡猾な大人ばかりなんだよ、詩子。法の網をかいくぐる、規律を遵守しない大人たちで溢れている。それなのに、大人たちは、子供たちに清く正しく生きることを――規律を遵守することを要求する。耳を貸す必要はない、そんな奴らの意見には』
『っ……』
絶望を映す瞳、深い深い闇に沈んだ声と、煙草の火――雅久お兄ちゃんの双眸に捕らえられて、観念する。
それが枷となり、雅久お兄ちゃんから私は逃げられないと。
雅久お兄ちゃんは、灰皿で煙草を揉み消す。
『詩子』
『えっ……』
ゆっくりと、ゆっくりと、まるで吊り上げるように、雅久お兄ちゃんの口角が弧を描く。
即下、雅久お兄ちゃんは、私の両肩をいきなり掴み、私を敷布団の上に押し倒す。
『きゃあ! んん!』
そうして、私に覆い被さり、片手で私の口をすかさず塞いで、私の首筋に指先を這わせる。
首筋から鎖骨へと動くその指先が冷たくて、くすぐったくて、『ああっ……ああっ……』とふさがれた口から声が漏れる。
『かわいいよ、詩子』
雅久お兄ちゃん……狡いよ、狡いよ……。
喉をくつくつと鳴らして、手で顔を覆う私を笑う、雅久お兄ちゃんのその笑声が鼓膜を震わせる。
雅久お兄ちゃんが私の首筋に顔を埋めた瞬間、まるで鯉が跳ねるように心臓が跳ねた。
雅久お兄ちゃんは、私の項から鎖骨へと舌を這わせる。
『ひゃあっ!』
『しっ』
燃えるような刺激が私の背中を駆け上がる。強烈な体験に失神しそうだ。
あれ? これは何なのだろうか? 下半身がむずむずする。
この妙な感覚に疑問を抱く。
数十年後、これは、『濡れる』と呼ばれる、女性特有の生理現象であることを知った。
私の鎖骨から唇を離して、『詩子』と私の名前を呼ぶ。
『どう? 背徳感を覚える初体験は。気持ちいいでしょ?』
『っ!……』
タブーを――近親相姦というタブーを楽しむ雅久お兄ちゃんの、狂気を孕む表情にぞっとする。
雅久お兄ちゃんが醸す色気に酔う。何かにこれを例えると、アヘン、アルコール、ニコチン、ヘロインや、モルヒネなどで、依存作用がこれら以上に強い彼は、危険人物だ。
彼に関わると、彼に触れると、彼をさらに求めてしまう――。
唇の感触、瞳の色や、私に触れる指先、その全てが私を狂わせる。雅久お兄ちゃんの全てが、彼が狂おしいほど好きだ。
ふさがれた口が自由になる。
『……雅久お兄ちゃん』
『ん?』
『きもち、いいよ……。だから……止めないで……止めないでっ!』
これは哀願、あるいは、懇願なのだろうか? 分からない。
雅久お兄ちゃんの忍び笑いが私の耳に残り、離れない。
『そっか。かわいいね、詩子は。たくさんかわいがってあげるね』と、雅久お兄ちゃんは私の耳元でささやき、私の衣類を捲り上げて、私の下半身を弄る。
『あっ……ああっ……』
吹き飛ぶ理性、真っ白になる頭、敏感な部分を刺激されて、痙攣する体。
『がく、おにい、ちゃん……』
『いいんだよ。もっと乱れても』
雅久お兄ちゃんを求めるこの体、私が彼を必要とするのは、彼が私を必要とするからだ。
そうだ、ママも男性を求めて、男性も彼女を求めた、求められることは必要とされることなんだ。
あの日、私たちは禁忌を犯す。
“禁忌”
近親相姦という禁忌を犯す。
“家族”
雅久お兄ちゃん、誠士さん、ママと私。
4人で暮らした日々を振り返る。
“家族”と“愛”
これらについて、結局分からず終いだった。
あの生活に幸せはなかった。
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