仕事に行ったきり帰らない誠士さんと、ホステスの仕事を続けながら、雅久お兄ちゃんと私を育てるママ。


 休日は遠出して、写真をたくさん撮り、さまざまな思い出を作り、食卓を囲み、談笑する。


 理想とは程遠い現実と、手を伸ばせば、伸ばすほどに遠ざかる理想。


 ある日のことだ。


『ごめんね。遅くなって』


『おかえりなさい、ママ』


『ただいま』


 ママが両手に携えたスーパーのレジ袋を見ると、その中には、飲料、菓子パン、総菜や、冷凍食品などがぎっしり入っている。


 ママは玄関でハイヒールを脱ぎ、リビングルームへ移動する。誠士さんは午前0時を過ぎても家にいない。


 ママを見ると、目の下に隈ができている。彼女が疲れているのは一目瞭然だ。


『ママ』


『ん?』


『隈だけど……大丈夫?』


『ああ……隈、ね……。大丈夫よ。ごめんね、心配をかけて』


『ううん、大丈夫だよ。ねえ、聞いて。ママは、ママは1人じゃないよ。私はね、ずっと、ずっとママの傍にいるよ』


『ありがとう、あんたのその言葉が心強いよ。そうね。私にはあんたという娘がいる。そんなあんたに支えられている私は幸せ者ね』


『っ……ままぁ!……ままぁ!……』


『泣かないの、馬鹿。悪いけど、今日はもう寝るわね。ああ、化粧を落とさないと……。シャワーを浴びるのは明日よ』


 ママは、前髪を掻き揚げ、スーパーのレジ袋をダイニングテーブルにどさっと置き、洗面所に向かった。


 涙が頬を伝う、これがぽたぽたと零れ落ちて、フローリングに小さな水溜まりを作る。


『ううっ……』


 と、誰かの足音が聞こえる。足音のする方向へ顔を向けると、『詩子?』と、雅久お兄ちゃんが不思議そうに私を見ている。


『おにい、ちゃん?……』


『0時だぞ。寝ろよ』


『あっ……え、えっと……その……。お、おなかが空いて……』


 雅久お兄ちゃんは、誠士さんとママの寝室をちらりと見て、『……瑞己さんの帰りを待っていたのか?』と質問する。


 ああ、この人に――雅久お兄ちゃんに隠し事は通用しない。


 観念して、頷く。


『やっぱりな。優しいな、詩子は』


『っ!……』


 ねえ、雅久お兄ちゃん、あなたの温かさと優しさがもっと、もっと欲しいよ。


 駄目、これを望んではならない、これを望んだが最後、この欲望が暴走して、暴走したこの欲望を抑えきれない。


 そんな予感がして、目を伏せる。


『飯、食うか? 食うなら、何か作るけど』


『……ううん。食べない』


『……そっか。まあ、さっきのは、詩子の優しさということを俺は見抜いているよ。それよりも、ゆっくり休めよ』


『……うん。おやすみなさい、雅久お兄ちゃん』


『おやすみ』


 雅久お兄ちゃんの横を通り過ぎようとする矢先、彼は私の頭を撫でる。


『っ!』


 顔がたちまち赤らみ、心拍数が上がり、平常心を保てない。どうして、どうして――あなたの一挙手一投足は私をこんなにも狂わせるの?


 涙がまたもや流れる。


 雅久お兄ちゃんを想い、泣いているのだろうか? ママを想い、泣いているのだろうか?


『ううっ……』


 雅久お兄ちゃんに『今日だけ一緒に眠りたいの』と我儘を言えば、言えたらよかった。


 自室に入り、ドアを閉めて、布団で横になり、布団を頭から被る。


 直後、玄関ドアの鍵をがちゃりと開ける音が聞こえる。誠士さんが帰ってきた。


『おい!! 雅久!! 雅久!! どこなんだ!? 雅久!!』


 直後、誠士さんは、まるで暴漢のごとく声を荒らげる。


 いやあな汗が背中を伝い、心臓がばくばくする。


 怖い!! 怖い!!


『ちっ……ったく……。あいつは相も変わらずゴミ以下だな……』


“蛆虫”


 フラッシュバックするこの2文字がまるで呪いのごとく私につきまとう。私を愛する方法が分からず、私を愛せないママは、“蛆虫”と私を罵り、私を突き放すしかなかった。


 大丈夫、大丈夫、化けの皮が剝がれる瞬間が誰しもに必ず訪れることを初めから分かっていた。


 彼が、誠士さんが偽善者ということを初めから分かっていた。


『仕方がないな……。今日はもう寝るか……』


 そうして、誠士さんはリビングルームから出て行った。


 安堵の息を吐く。


 嵐が去った……。動悸が止まらない……。


 このような時、雅久お兄ちゃんが私の傍にいてくれたらどれほど心強いことか。自分1人では困難を乗り越えられず、雅久お兄ちゃんというお守りに縋ってしまう。


 強く、強くなりたい。


『っ……』


 寝返りを打った直後、ドアが開く。驚き、飛び起きると、雅久お兄ちゃんがいた。


『雅久お兄ちゃん?……どうしたの?……』


『ごめん、煙草が吸いたくてさ』


 煙草……。


 ママと私がこのマンションに引っ越す前から、雅久お兄ちゃんはここで喫煙しているのだろう。


『今までどこにいたの?』


『おやじがあまりに喧しいから、トイレにいた』


 雅久お兄ちゃんは、襖を開けて、中から煙草の箱、灰皿や、ライターなどを取り出し、それらを床に置いて、『煙草だけど、おやじにむかついたから吸いたくなった』と零した。


 雅久お兄ちゃんは畳の上に腰を下ろし、煙草を銜えて、ライターでそれに火をつける。途端、暗闇に包まれた部屋を橙色の火が柔らかに照らす。


 その橙色が雅久お兄ちゃんの奇麗な横顔を浮かび上がらせる。


 その美しい横顔から吐き出された煙――。


 紫煙を嗅ぐと、それに包まれると安心するのは、彼をより身近に感じられるからだ。


 雅久お兄ちゃんの漆黒の瞳がゆらりと動き、それが私の瞳と私の心を捉える。私を捕らえて、離さないその漆黒の瞳。


 ああ、その双瞳に広がる頻闇に吸い込まれそうになるから――その瞳から目を逸らした。


『こっちを向いて、詩子』


 指示されて、雅久お兄ちゃんをおずおずと見る。


『……純粋な人だよ、瑞己さんは』


 煙を吸い込み、それを吐き出して、そう漏らす。


『……うん』


 煙草の灰を灰皿に落とし、『で』と言葉を継ぐ。


『おやじは根っからの悪人だ。外面がよくて、狡猾。目的のためなら手段を選ばない。目的のためなら人を容赦なく欺く。つまるところ、自分の性格を偽り、相手に自分をよく見せる。そんなおやじに騙されたんだよ、瑞己さんは。純粋であるが故に、な』


『っ!』


『詩子』


 緩やかな曲線を描く、その赤黒い唇。


『俺がもしも根っからの悪人だったら、どうする?』


 違う! 違う! 雅久お兄ちゃんは悪人ではない!


 違う! 違う!――否、もしかしたら?


『俺は狡い人間――悪人だよ。おやじの子供だからな。人は、取り繕うことで相手を騙すことができる。詐欺師の手口と同じだよ。だからこそ、外面ではなく、内面を見て、その人を判断することが大切なんだよ』


 大切なのは、外面よりも内面……。


 私は、私は……心を閉ざす雅久お兄ちゃんの内面を知らない。


 灰皿にぽとんと落ちた煙草の灰と、ゆらりゆらりと揺れる紫煙は、まるで行き場のない私の思いを表しているかのようで。


 じゃあ、あなたの笑顔は何? じゃあ、あなたの優しさは何? 教えて、教えて、雅久お兄ちゃん、雅久お兄ちゃん――。あなたの本心が、あなたが分からないよ。全ては私を懐柔するための演技なの?


 雅久お兄ちゃんは、灰皿で煙草を揉み消し、吸殻、煙草の箱、灰皿や、ライターなどを押し入れの中に片づけて、襖を閉める。


 煙草の火が消えた瞬間、希望が絶たれた気がしたのはなぜ?


『ごめんな。睡眠の邪魔をして』


 そうして、雅久お兄ちゃんは部屋を出て行った。


 ドアの閉まる音が虚しく響く。


 雅久お兄ちゃんの本心が分からない、彼の本心を知りたい、私が占い師ならば、彼の本心が分かるのに。


 ただし、1つ分かることは、雅久お兄ちゃんが私に心を開こうとしていることだ。


 心を開くことは簡単なことではない。


 勇気を奮い起こして、心を開き、自分を否定されたら……。体を切り刻まれるよりも痛い、痛いに決まっている。否定どころか、馬鹿にされることもある。


 それなのに、雅久お兄ちゃんは、私に心を開こうとしている。


 心を開くのは、その人は、自分を否定しないと確信したからだ。自分を否定する人に心を開く人はいない。


『雅久お兄ちゃん……』


 涙がはらはらと落ちる。私ってこんなにも泣き虫だったかしらん? 雅久お兄ちゃんのことになると、涙がどうして止まらないのだろうか? 涙が止まらないのは、彼を――雅久お兄ちゃんを――愛してしまったから?


 部屋を満たす、癖のないほろ苦いこの香りは、まるで雅久お兄ちゃんのようだ。


 パジャマの袖で涙を拭う。


『……眠ろう』


 布団で横になり、目を瞑る。


『俺は狡い人間――悪人だよ』


 雅久お兄ちゃんの言葉がリフレインする。


 まるで私の覚悟を試すかのような発言――。


 構わない。


 狡くても、悪人でも、雅久お兄ちゃんだから、構わない。


 私は、私だけは、彼を受け入れる。


『雅久お兄ちゃん!』


 流れ星が落ちるように零れ落ちる涙。


 私たちが兄弟でなかったらよかった。私たちが兄弟でなかったら禁忌という日本語の意味も、禁断という日本語の意味も、意識せずに済んだ。


 不協和音が響くこの家で、私たちの生活と人生は、まるでパズルをばらばらにするようにばらばらになった。


 帰宅が相も変わらず遅い誠士さん。


 家族に相談もなく、仕事を辞めたママ。


 その後、ママは、不貞行為に及び、不倫相手が暮らすタワーマンションに入り浸るようになる。挙句の果てにそこの最上階から身投げして、息を引き取った。


 聞くところによると、アスファルトに直撃したママの遺体は、損壊が激しく、四肢がありえない形に変形して、加えて、脳漿が辺り一面に飛び散り、あの端麗な顔面は、まるでトマトを握り潰したかのような見るも無惨な有り様だったそうだ。


 誠士さんは、雅久お兄ちゃんと私に配慮して、私たちがママの葬儀に参列することを許さなかった。また、彼は、ママの不倫相手を訴えなかった。


 ママ亡き後、私たちは、遺産分割協議を行い、遺産協議書を作成した。それを銀行と税務署に提出して、雅久お兄ちゃん、誠士さんと私は、ママの多額の遺産を相続した。


 私は、己のふがいなさを呪い、彼女の跡を追うことばかり考えた。


『詩子さんに責任はないし、瑞己にも責任はない。遺書が残されていないだけに瑞己が何に悩み、苦しんでいたのか僕には分からない。僕たちは、瑞己の生きざま、瑞己の選択や、瑞己を尊重して、前進するしかないんだよ』と、誠士さんは私を慰めた。


 一方、雅久お兄ちゃんと誠士さんはささいなことで揉めに揉めて、結果、誠士さんは私たちを残し、この家を去った。


『雅久……。おまえは何年たっても救いようがない男だな……。大学を中退して、安定を捨てる。そうして、選んだ職業はホスト。もういい、詩子さんと好きなように生きろ』


 去り際、『瑞己の遺産とこれがあれば、2人でやってゆけるだろう』と言い放ち、封筒に入った500万円を放り投げるようにして、机に置いた。


 そうして、雅久お兄ちゃんと私は残された。


 ママが亡くなり、誠士さんがこの家を出て行くまでの間、雅久お兄ちゃんは、私のために料理を作ったり、私に勉強を教えてくれた。


 難関校に合格して、指定校推薦で名門大学に入学できたのは、雅久お兄ちゃんの力あってこそだ。


 私の親代わりでもあった雅久お兄ちゃん。


 禁忌を犯す。


 近親相姦という禁忌を犯す。


『あっ……がく、おにい、ちゃん……』


『詩子』


 雅久お兄ちゃんに触れる回数が増えるにつれて、気持ちが溢れて、どうしようもなくなる。


 それなのに、私は知らない、愛を知らない。


 誰か、誰か教えてください、誠士さんからもママからも見放された私に愛を教えてください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る