Ⅱ
今から私が語る物語は、私が幼少期の頃の哀しい記憶だ。
私は母子家庭で育った。ママは私が幼少の頃から高級クラブのホステスとして働いていた。四字熟語で彼女を形容すると、羞花閉月。
私は自分のパパを知らない。
小ぢんまりしたアパートで私たちは暮らしていた。彼女は家を空けがちで、私はしょっちゅう留守番した。
机に置かれた、とある英語が記された、魅惑的な香水瓶。
『ねえ、ママ。これ、なんて読むの?』
その文字を指差し、読み方を尋ねる私にママは、『――って読むんだよ。後、お腹が空いたら適当に何か食べな。あそこにあんたの好きなお菓子があるからさ』と返答して、テーブルの上にある、お菓子がたくさん入ったバスケットを指差す。
部屋に満ちる蠱惑的な香り、私が初めて覚えた英語はその香水のスペリングだった。
玄関ドアを閉める音と、鍵を閉める音が響く。
私を残し、ママは家を出て行った。
机に置かれた香水瓶をじっと見る。
振り返れば、彼女の顔よりも、それを見た回数の方が多い。
ずっとずっと淋しかった、私はママに愛されていない。
歯噛みする。
お菓子がたくさん入ったバスケットから、新商品のチョコレートドーナッツの袋を抜き出す。それを勢いよく破き、泣きたい気持ちを抑えて、それを口に運んだ。
アパートにママが帰宅するのは2日に一度。アパートに彼女は帰ってくると、2人分のご飯を作り、最低限の家事をした。
私に話しかけず、私と目を合わせない。私を避けている、もしくは、私を嫌っているとしか思えなかった。
ママの愛が欲しい、ママに愛されたい、ママは私をなぜ産んだの?
私という子供は、ママからすれば、好きでも何でもない男との間に授かった子供だから、どうでもいい子供。
それに気づかなければ、私は幸せだった、ママからすれば、私はゴミなんだ。
そんなある日、その現実を思い知らされる事件が起こる。
ある日の朝、アパートにくたびれた様子のママが帰ってきた。この瞬間、室内にぴりぴりした空気が漂う。
『あっ……』
私が口を開いた瞬間、ママは、私に憎悪に満ちた目を向ける。次の瞬間、『おまえみたいな……おまえみたいな蛆虫を産むんじゃなかった!!』と声を荒らげて、私を罵倒した。
“おまえみたいな蛆虫”
『ママ……ごめんなさい……ごめんなさい……』
弱々しい声で謝る私の下にやってきたママは、私の頭を殴った。
激痛が走り、頭を押さえる。ママは、私への憎悪がまるで堰を切ったように私の頬を平手打ちした。
頭と頬が疼く、薔薇の棘がまるで全身に突き刺さったかのような激痛に襲われ、顔が歪む。
『おまえみたいな蛆虫は死ねっ!!』
返す言葉もない、このままでは殺される。けれども、死んでもいい。最愛の人に蛆虫と言われ、死ねとまで言われた私には、生きる価値がない。
私の幸せは、ママの手に掛かって死ぬこと。
蛆虫は即刻、殺処分されるべきだ。
『っ!……詩子っ!……』
直後、ママは涙を零す。
ママの気持ちが分からず、動揺する。彼女は私を愛しているのだろうか? 私を憎んでいるのだろうか? もしかしたら、そのはざまで葛藤する彼女がいるのかもしれない。
『本当は……本当は……詩子を愛したいのに!!……私は……私は!!……人を愛することが一体何なのか分からないの!!』
本当は、私を愛したい、しかし、私を、人を愛する方法が分からないので、私という人を愛せない。好きでも何でもない男との間に授かった私という忌み子を愛する方法が分からない。
自分のパパを知らないこと、ママの顔よりも、香水瓶を見る回数が多いことが私の“普通”だった。
頽れ、冬の淡い陽光に照らされるママは、いつにも増して、濃艷だった。
『ごめんなさい……ごめんなさい……詩子……』
お願いだから、お願いだから、そんな目で私を見つめないで、そんな声で私に謝らないで。
『っ……ひっく……うたこ……ごめんね……』
謝れば、全てが許されるわけではない。それでも、ママを受け入れ、彼女を受け止めたい。
『大丈夫だよ。大丈夫だよ。ママ』
私は、小刻みに震えるママの拳を摩りながら、彼女に語りかける。
『うた、こ……』
ママを受け入れたい、彼女を受け止めたい。
しかし、人生経験が浅く、愛を知らない私がママの深い傷を、ママの深い闇を癒やせるのだろうか? ママを救えるのだろうか?
それでも、それでも――。
『大丈夫。私がいるよ。私はママから絶対に離れない』
蛆虫とののしられても、あなたの傍にいる。産むんじゃなかったと突き放されても、あなたの傍にいる。私の痛みは、あなたの痛みに比べれば、全く苦でない。
ママ、ママ――私の愛する人。
『ううっ……ううっ……ああっ……ああっ!!』
その場に倒れ込み、号泣して、過呼吸を起こすママに『ママ、ママ!!』と、私は耳元でそう連呼する。
『はぁっ……はぁっ……うた、こ……。ごめんね……ごめんね……。はぁっ……はぁっ……』
ソバージュが乱れ、顔が涙でぐしゃぐしゃになるママ。こんなにも取り乱した彼女を見るのは初めてで、狼狽する。
ママを、ママをどうすれば助けられる!? そうだ!! 深呼吸!!
『深呼吸!! ママっ!! ママっ!!』と大声で指示する。彼女は私の指示に従い深呼吸する。
失うかもしれない、ママという最愛の人を――。
『ママ……ママ……』
『だい、じょうぶ、よ……』
しばらくして、ママの過呼吸が治まる。ぐったりする彼女は、まるで糸の切れた操り人形のようだ。
『ううっ……ひっく……ままぁ……ままぁ!!』
ママは、上目遣いに私を見て、弱々しくほほ笑み、片腕をゆっくりゆっくり伸ばして、私を抱き寄せる。
ママに初めて抱きしめられて、驚く。
ママが私を初めて抱きしめてくれた。
人に、ママに抱きしめられる。
その腕に包まれて、涙が止まる。私の背中をぽんぽんとたたきながら、私の心を静めるママ。何も言わない彼女と、何も言わない私――。穏やかな時間が過ぎる。
あの日、その場で私たちは抱き合いながら、眠りに落ちた。
明くる日、私は起きると、布団の中にいた。視線を巡らすと、キッチンにママはいる。刹那、卵焼きの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
ママは、髪を整え、紅色の部屋着に着替えていた。小窓から差し込む朝日が夢と希望に満ち溢れる未来を予感させた。
『あんた、起きたの』
『うん』
『そう、朝ご飯がもう少しでできるわよ』
その温かな声に涙腺が緩む。
その後、私は布団から出て、リビングルームのテーブルに着く。
ママは、ガスコンロの火を消して、食パン、卵焼きや、ポテトサラダなどが乗った大皿をテーブルに乗せて、箸を箸置きに置く。
不格好な卵焼き、少しだけ焦げた食パンや、総菜のポテトサラダなど。普段、何気なく食べているママの料理の個性を発見した。
『ねえ』
冷蔵庫を覗き込みながら、ママが私に話しかける。
『ん?』
『あんたの好きな飲み物を教えて』
『り、りんごジュース……』
『りんごジュースね。常備しておくわ』
そうして、ママは、1000mlの紙パックのオレンジジュースを冷蔵庫から取り出し、それをテーブルの上に置き、食器棚からグラスを取り出した。
ママもテーブルに着く。
『ママは食べないの?』
『とっくに食べたわよ。私のことはいいから、さっさと食べな』
『わ、分かった』
それから、箸を手にして、卵焼きを口に運ぼうとする矢先、『あんた、箸の持ち方を正しなさい』と、ママが私に箸の持ち方を注意する。
『箸はこう持つんだよ』
私の手に触れながら、私に正しい箸の持ち方を教えた。
当時の光景をよく覚えている。私がママから初めて教わったのは、正しい箸の持ち方だった。
朝食を完食して、『ママの料理はいつも美味しいね』と彼女に料理の感想を伝える。そんな私にほほ笑んだきり、彼女は何も言わなかった。
ママは食器類を黙々と洗い、それらを洗い終えて、テーブルに着く。彼女と私は向かい合う。
『……ママ』
『何』
『……今日、ママと過ごせることがとても嬉しいの』
『あんたと過ごせることが私も凄く嬉しいよ』
と、ママの目を見た瞬間、気づいてしまった。あの時と同じ目で私を――『おまえみたいな蛆虫は死ねっ!!』と私を悪罵した時と同じ目で私を見る彼女に気づいてしまった。
目は口ほどに物を言う。笑顔でも、目が笑っていない。この優しさは一時的なものでうそなんだ。ママは私をやっぱり愛していない。本当は、私を蛆虫と思っている。
蛆虫は口を閉ざした。
蛆虫は消えるべきだ。
椅子からがたっと立ち上がった私に『あんた、どうしたの?』と、ママは疑問を投げかける。私は首を横に振り、寝具で横になる。
『っ……』
寝具の中で声を殺して、泣く。
ママとの距離が縮まったと思ったのは、私だけだった。
私は蛆虫だ。
あの日から、しばらくたち、私は幼稚園に入園した。日陰を好み、陰に籠る私には、幼稚園という場所がとても眩しかった。
アパートという場所は陰であり、幼稚園という場所は陽だった。
また、親から愛情をたくさん注いでもらい、心から笑える園児たちを教室の窓から遠目に見ている。
私はこのような子供だった。
降園時間。
送迎バスで帰宅するなり、私を嫌々ながら出迎えるママに溜め息が漏れる。
送迎バスを降りて、ママと共にアパートの通路を歩く。彼女がそこの玄関ドアの鍵を開けて、私たちは中に入る。部屋に入るなり、まるで私から逃げるようにして、彼女は別室へそそくさと移動し、着替えて、家を出る。
室内に充満する香水の香りに胃がむかむかし、不快感を催す。
“この香りは、ママが男から愛されるための香り”だ。
寝室に行き、そこの窓際に設置されたドレッサーを見ると、アイシャドウパレット、口紅、香水瓶や、マスカラなどが無造作に置かれている。
私よりも男を優先するママ。
“愛される”って何ですか? “愛する”って何ですか? “愛”って何ですか?
肩から通園バッグを降ろし、これを壁に勢いよく投げつける。
私は彼女を愛しているが、彼女は私を愛していない。
『ううっ……ううっ……うわああん!!!!』
蹲り、号泣した。
号泣しかできなかった。
絶望に打ちひしがれる私の前に現れた人物。
それが雅久お兄ちゃんだった。
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