18.人にあるべきもの

「人間味……」


 りゅうくんの声が後ろから聞こえて、引き返せないなと思った。しょうがないから全部正直に言っちゃうか。


「そう、人間味がないってよく言われてた。痛いこと言ってるように聞こえるかもしれないけど、僕はね、皆が言う愛とかマイナスな感情とか、そういうシリアスなものが全く分かんないんだよ」


「それって、どういうこと?」


「具体例は数えきれないほどあるんだけどね。例えば、僕が小六くらいの頃、ちょっといじめられてたんだよ。僕はそんな感覚しなかったけど、周りから見たらいじめになってたんだろうね。多分、僕が常時明るい人間でいて、でも特定の友達とつるんだりしてないから、ロボットみたいな感じに見えたんだろうね。なんてことないいじりが肥大化して、こいつなら何してもいいみたいなノリで上履き隠されるくらいまでいったかな」


「それが嫌で、傍観者になったの?」


 りゅうくんがそう訊いて、まあ、普通ならそう考えるよね、と思った。


「いや、傍観者になったのはもっと後」


 僕は目の前で歩いているお父さんの背中を追う。お父さんは横断歩道を渡り、僕が横断歩道の前に来ると、丁度信号が赤になってしまった。僕とりゅうくんは、並んで信号を待つ。


「いじめが発覚して、別に怒りも悲しみもなかった。感じる必要がなかったから。そのいじめのせいで、クラスで話し合いが開かれたんだ。そこで先生が『晴くんはとても辛い思いをしてます』みたいなこと言ってて、僕はそれに対して言ったんだよ。『いや別に、辛い思いはしてないですよ。なんで僕の事いじめようとしたのかなーって、その理由を具体的に知りたいだけです』って」


「それで、どうなったの?」


「なんかね、みんな気味悪そうに僕の事を見てきたんだよ」


「なんで?」


「僕が、いつもみたいに明るいテンションでその場にいたからかな、多分。だから、先生もいじめた側も関係ない人も、変な目で僕を見てた。とりあえずその場は、いじめた側が謝ることで収まったんだけど、僕はなんか、謝られることの方が違和感だった。いじめた理由を説明して、次はやらないようにするように気を付けてくれればそれでよかったんだけど、なんかみんな深刻そうにしてて、逆にそれが違和感だった。というか、そんなにクラス会議を開くほど、深刻な問題じゃない気がしたんだけどね」


「でもそれは、俺も、その場にいたらびっくりしちゃうかも」


 りゅうくんは、隣でそう言った。横断歩道の信号が青になって、僕達は歩き始める。


「やっぱり、りゅうくんもそう思う?」

「思う。いじめはそりゃ、されたら悲しいからね。いじめっこを恨んだり恐怖したりしても、おかしくないと思うよ。そういうのも、なかったの?」

「なかったかな。べつに」


 横断歩道を渡り切り、お父さんの背中がさらに小さくなっていく。少しずつ景色が住宅街へと変化していく。


「そっからかな。僕は何か、人にあるべきものが欠けている。そう自覚したのは」


「あるべきもの……」


 りゅうくんは、風に紙飛行機を乗せるみたいに、さらっと口に出した。


「家族のことに関してもそうだった。僕、親っていう存在は、子供の自立を援助するための存在だと思ってたんだ。社会で生きる力を身に着けさせて、未来のために成長させるものだって。だから、母親は僕にご飯をくれるし、父親は働いてお金を稼いでる」


「なんか、そりゃそうだけど、そうじゃない感が……」


「やっぱそう思うか……。僕はそういう認識で生きてたんだけど、僕はよく、母との認識が食い違ってることがよくあった。今思えば、僕に対する愛情だったんだろうけど、そこからくる行動が、僕からしたらよくわからなかった。友達に親のことを尊敬してるって言ってる人がいたけど、僕はそういう感情がなかった。ありがとうという気持ちも湧いてこなかった。がんばって言おうとしてた時期もあったけど、なんか、しっくりこなかった。そういうものは、大人になって親に物理的に返していくものだと思ってたから」

「ほんとに、なかったの? 人に感謝するとか」

「なかった。というより、助かった、って言った方がしっくり来たかな」


 後ろで歩くりゅうくんは、それ以降喋らなくなる。


「それで小学校の卒業式の日にね、お母さんは僕に手紙をくれたんだよ。そこには、大きく育ってくれてありがとう、って書かれてた。僕はそれを読んで、どういうことかわからなくて、その価値が分からなくて、勉強机を圧迫するから数日後に捨てちゃったんだよね。そしたらお母さんはそれを見つけて、泣きわめいてた」


「そりゃそうだと、思うよ」


 りゅうくんは、真っ当なことを言う。間違ってるのは僕の方なんだろう。


「僕は、親の愛情が全くと言っていいほどわからなかった」


 少し間を開けて、りゅうくんは言う。


「それ、多分親が聞いたら、傷つくんじゃないかな」


 真っ当だ。でもほんとに、分からないんだ。分かってもらえないんだ。


「でもね、ほんとに分からないんだよ。人に対するシリアスな感情とか感謝とか愛とか。僕は多分プラスで乾いた感情しか知らない。楽しいとか面白いとか。努力じゃどうしようもないんだよ。だったら、将来のために勉強とかしてた方が、楽しかった」


 りゅうくんが言葉に詰まっているのが、背中で分かる。


「でもその気持ちが誰かを傷つけるってわかって、僕は図書館で本を借りて、めちゃくちゃ人の心理について勉強した。勉強して勉強して、何だかもう、めんどくさくなっちゃったんだよね。学んだのは、人は変われないってことだけ。そして中一の頃に何もかもめんどくなって、近くの公園の神社のベンチで寝そべってたらさ、そこにカミサマが現れたんだよ。『人とうまくやれないのなら、俺の所で働かないか?』ってね。僕にはその仕事がピッタリすぎるほど合っていて、かれこれ三年くらい続けてる。多分これからも一生この仕事を続けるんだと思う。傍観者って、年老いたりしないから」


「それで、傍観者、やってるんだ」


「うん。誰からも他人でいたいし、そっちの方が、僕には適していたから。僕の、普通とは違う人間味がないところを、お前らしいって言ってくれたのは、お父さんくらいかな」


 +++


 晴の話を聞きながら歩いていると、俺達はいつの間にか、隅田川まで来てしまっていた。マンションに挟まれた川の上に、涼しい風が吹いている。まったくの他人の、俺が知らなかったはずの生活圏に来たような感じがする。


 隅田川の橋から河川敷を見下ろしながら、俺は言った。


「もしかしてさ、晴くん」


 晴は橋の欄干に肘を預け、俺の方を向いてバカみたいにアホ面で言った。


「うん、お父さん見失った!」


 いや何しとんねん!!!!!







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