第123話 存在感
アルマークたち四人が教室に駆け込むと、席に着くか着かないかのうちに三年三組担任のデミトルが入ってきた。
「ぎりぎりだね」
ウェンディが笑顔で囁く。
「トルクたちと一緒なんて珍しいね」
「うん。そうなんだ」
アルマークはそう囁き返したが、デミトルの授業が始まった手前、それ以上のことは話せなかった。
「さあ諸君、午後の授業を始めよう」
デミトルはのんびりとしたいつもの口調で言うと、黒板に向き直った。
「充実した魔力というものは、必ずしもよく練られた魔力を意味しない。その意味が分かるかね?」
デミトルが板書しながら話し始めた時、アルマークは自分の目の前の視界がやけに広いことに気づいた。
「……あれ?」
アルマークの前の席がぽっかりと空いている。
そこは、ピルマンの席だった。
ピルマンがいない。
だが、授業は通常通りに始まっていた。
ピルマンがいないことに、教室の誰も気づいていない。
それは、彼の隣の席のリルティでさえ同じようだった。
「……ウェンディ」
アルマークは顔を寄せてウェンディに囁く。
「なあに」
「ピルマンはいないのかい?」
「え?」
ウェンディも、そこで初めてピルマンの不在に気付いた。
「本当だ。気付かなかったわ」
そう言って、驚いたようにリルティの背中をつつく。
「リルティ。ピルマンはどうしたの」
「え?」
リルティはきょとんとしたように振り返り、それから自分の隣を見た。
「……いない」
「そうなのよ」
ウェンディはリルティと顔を見合わせる。
「気付かなかったの?」
「全然」
「ピルマン、寮に忘れ物を取りに行くって言ってたんだ」
アルマークは話し続けるデミトルの背中を注視しながら、二人に囁く。
幸い、デミトルは自分の話と板書に夢中で、背後の生徒の動きには気付いていない。
これがほかの先生なら、何を私語しているのかとすぐに咎められていただろう。
「まだ寮から戻ってきてないのかも」
「いつ出たの?」
「昼休みに入ってすぐだよ」
「それなら、帰ってくるのが遅すぎるんじゃないかしら」
ウェンディの言うとおりだった。
寮がいくら遠いとはいえ、食堂でみんなと昼食を食べる時間はなくとも、校舎まで戻ってくるくらいの時間は十分にあるはずだ。
「何かあったのかな」
アルマークは眉間にしわを寄せる。
「先生に話そうか」
「そうだね」
ウェンディは頷く。リルティも不安そうに同意した。
しかし、ウェンディが手を挙げようとしたとき、アルマークはそれに気付いた。
「デミトルせん――」
「待って。ウェンディ、待って」
アルマークは慌ててウェンディのローブの袖を引っ張る。
「え?」
ウェンディは急いで手を下ろしたが、さすがにもう遅かった。
「ん?」
デミトルがゆっくりと振り返る。
「今呼んだのは……」
そう言いながら、のんびりとウェンディに顔を向ける。
「君かな、ウェンディ君」
「はい、すみません」
ウェンディは立ち上がる。
「今さっきお話しになったアルセルナの功績についてですが、板書のほうにはアセルナの功績と書かれています」
「ん?」
デミトルは黒板を振り返り、それから、
「ああ」
と苦笑いをした。
「書き間違えてしまった。さすがよく見ているね、ありがとう」
「いえ」
ウェンディは、席に腰を下ろす。
デミトルはその部分を書き直すと、また板書を再開した。
「さて、この状態を何と呼ぶか分かるかな。そう、翠光だ」
「さすがだね、ウェンディ」
ほっと息をついたウェンディにアルマークが囁き、リルティもこくこくと頷く。
「あの一瞬で、あんな自然に振舞えるなんて。僕にはとても無理だ」
「デミトル先生の板書だから、探せば必ず一か所は誤字があるのよ」
ウェンディは微笑んでそう答えると、アルマークを見た。
「それで、どうしたの。何かあったの」
「……あれを」
アルマークは教室のドアを指さした。
ウェンディとリルティがそちらを見る。
わずかに開いたドアの隙間から、ピルマンが顔を覗かせていた。
「あっ」
リルティが思わず声を上げ、それから慌てて口を押さえる。
幸い、リルティのか細い声は先生には届かなかった。
「帰ってきたのが遅かったのね」
ウェンディが囁く。
「もう授業が始まっていたから、入ってこられなくなっちゃったのよ」
「なるほど、そういうことか」
アルマークはピルマンに小さく手招きをしてみるが、ピルマンは顔をしかめて首を振る。
「どうして入ってこないんだろう」
「叱られるのが嫌なのかしら」
「ピルマンは、きっと」
リルティが小さな声で言った。
「自分の影が薄いことを知ってるから。今から教室に入ったら遅刻扱いで減点されちゃうけど、このまま自分がいないことに最後まで気付かれなければ、減点されずに済むから。次の授業から合流すればいいと思ってるんじゃないかしら」
「そんなことを考えてるのかい」
アルマークは言葉を失う。
だが、ピルマンがいないことにアルマークたち三人以外の誰も気付いていないことも事実だった。
ピルマンの存在感の希薄さは、本物なのだ。
「うん、そうかもしれない」
ウェンディはリルティに同意した。
「だから、ピルマンの得意な魔法って姿消しの術なのよ」
……だから?
アルマークは、魔法で姿を消すことと、自分の存在を人に気付かれないこととを同一線上に並べてはいけない気がしたが、なんとなく納得のできる話ではあった。
「姿消しの魔法でこっそり入ってくるっていうのはだめなのかな」
「ドアがもう少し開けばね」
ウェンディが残念そうな顔をする。
「さすがにあの隙間じゃ、通れないわ」
「なるほど。分かったよ」
アルマークは頷くと、ぴんと手を挙げた。
「デミトル先生」
「何かね、アルマーク君」
デミトルが振り返る。
「また書き損じがあったかな」
「いえ。すみません」
立ち上がったアルマークは、申し訳なさそうに腹を押さえる。
「トイレに行ってきてもいいでしょうか」
「ああ。それはやむを得ないね」
デミトルは頷く。
「行ってきなさい」
「はい」
アルマークは一礼して、ドアへと歩み寄った。
ドアの隙間から、ピルマンが感謝の眼差しでアルマークを見る。
アルマークはわざと大きくドアを開けた。
ピルマンが音もなく姿を消す。さすがに、その姿消しの術は手慣れたものだった。
教室を出て、一拍置いてからアルマークはドアを閉めた。
廊下で耳を澄ますと、教室からは何事もなかったようにデミトルの講義の声が聞こえてくる。
アルマークは微笑むと、トイレに向かって歩き出した。
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