第118話 (閑話)チェニス
丘の上の一軒家に住むおばあさんの家まで、チェニスはいつものように駈けていく。
一人で暮らす足の悪いおばあさんのために、水を運んだり、身の回りの世話をしたり。
それはお母さんから言いつけられた彼女の仕事だ。
チェニスは一日おきに必ずおばあさんの家に通っていた。
今日は弟のフィルが朝からごちゃごちゃと絡んできたので、相手をしていたら出るのが遅くなってしまった。
おばあさん、待ってるだろうな。
「おばあさん」
はあはあと息を切らしてドアを開けると、薄暗い家のなかにおばあさんの姿はなかった。
代わりに、男の子が一人。
年はチェニスと同じか、一つ下くらい。火の入った暖炉の前に居心地悪そうに座っている。
「あなた、誰?」
チェニスは尋ねた。
声に警戒心が滲むのも仕方がない。まるで見たことのない男の子だったからだ。
「おばあさんはどうしたの?」
男の子は、困ったように首を振る。
「おばあさんは、いないよ」
「どうして?」
「君は、誰?」
逆に質問してくる。
男の子はチェニスの顔をじっと見ている。気味が悪い。
「あなたこそ、誰よ」
チェニスはそう言いながら、一歩後ずさった。
「僕は」
男の子が言った瞬間、暖炉の薪が、ぱちり、と大きな音で爆ぜた。
限界だった。
チェニスは身を翻して一目散に走り出した。
おばあさんはどこに行ってしまったんだろう。あの男の子は一体誰だろう。
走っているうちに涙で視界が滲んできた。
怖い。
怖い。
お母さん。
家に着くと、お母さんはいつものように優しくチェニスを迎えてくれた。
「どうしたの、チェニス。そんなに慌てて」
「お母さん、丘の上のおばあさんの家に」
チェニスは息を整えて、お母さんを見上げて言った。
「おばあさんがいなくて、代わりに知らない男の子がいた」
「あら」
お母さんが目を見張る。
「誰かしら。あのおばあさんにお孫さんがいたなんて聞いたことないわね」
「でも、変な子だった。おばあさんがいないのに、勝手に暖炉にあたってた」
「最近寒いものね」
チェニスはお母さんの暢気な物言いがじれったくて、語気を強めた。
「おかしいよ、あの子。私が誰って聞いても答えなかった。逆に私に、君は誰って聞いてきたの」
「そう」
お母さんは困ったように眉根を寄せる。
「でも、どうしましょう。お母さんはあの家に行ってあげられないから、様子も見に行けないわ」
そうだった。お母さんはあの家に行くことはできないのだ。
「困ったわね……」
お母さんの言葉を遮るように、チェニスは言った。
「私が、もう一度行ってくる。行って、あの子におばあさんはどこにいるんだって聞いてくる」
「あんまり無茶しちゃダメよ」
お母さんはあくまで心配顔だ。
「大丈夫。相手は男の子一人だけだし、危なそうなら、またすぐに逃げてくるから」
そう言い残してチェニスはまた家を飛び出した。
丘の上のおばあさんの家まで息を切らして駈け上がる。
あの男の子はまだいるだろうか。
さっき開け放したまま飛び出した筈のドアが閉まっている。
ということは、まだあの男の子はきっと中にいる。
チェニスは思いきってドアを開けた。
暗い室内に、日の光が差し込む。
誰もいない。
「……おばあさん」
中に向かって呼び掛けてみる。
さして大きくもない家だ。人の気配がないことは確かめなくてもなんとなく分かる。
それでもチェニスは呼び掛けた。
「おばあさん、いないの? おばあさん、私だよ。チェニスだよ」
「おばあさんはいないよ」
後ろから急に声がかかって、チェニスは文字通り飛び上がった。
「ひっ」
さっきの男の子だった。
手に何本か薪を持っている。
おばあさんの薪を勝手に使っている。
驚かされたことと相まって、チェニスの心に怒りがわき上がる。
「あなた、誰よ!」
チェニスは叫んだ。
「おばあさんをどこへやったの。ここで何をしてるの」
男の子はさっきと同じように、少し困ったような顔でチェニスの脇をすり抜け、室内に入っていく。
「勝手に入らないで。ここはおばあさんの家よ」
チェニスは、まるで自分の家かのように勝手に振る舞う男の子に本気で腹を立てていた。
「出ていって。おばあさんをどこへやったの」
その言葉に構わず、薪を何本かくべたあと、男の子はゆっくりとチェニスに顔を向けた。
なんともいえない表情をしていた。
「おばあさんはいない」
男の子は言った。
「きっと、もう何日も前に亡くなったんだと思う。家の裏にまわってみて分かったよ。あの崩れ方から見て、魔物が出たんだろう。この辺りにはめったに出ないだろうに。運が悪かったんだ」
え?
何?
この男の子は何を言っているの?
チェニスには男の子が言っていることが理解できなかった。
「何言ってるの。私はおとといおばあさんに会ったばかりで」
それを聞いて、男の子がまた何とも言えない表情をする。
「そんなわけがないんだ。この家の荒れ方で分かるじゃないか」
男の子が両手を広げた。
そこでチェニスは初めて気が付いた。
家のあちこちが壊れている。
床には埃が積もっている。
男の子の前の暖炉は、火が入ってはいるがあちこちにひびが入っている。
「何、これ」
チェニスは後ずさりした。
意味が分からない。
何が起きているの。
だって、おとといには確かに私はおばあさんと。
訳がわからなくなって、チェニスは、身を翻して走り出した。
怖い。
あの男の子が怖い。
何を言っているのか分からない。
お母さん。
お母さん。
助けて、お母さん。
しかし、チェニスは途中で足を止めてしまう。
帰り道が分からない。
いつも通っている道なのに。
別に分かれ道だってそんなにないはずなのに。
どっちへ行けばいいのか、分からない。
途方に暮れたチェニスは、あてもなく歩き続け、気が付くとまたおばあさんの家の前にいた。
「戻ってきたね」
男の子は家の前で待っていた。
「……家に帰れなくなっちゃった」
チェニスの言葉に、男の子がまたあの表情をする。
「僕は、旅の途中でたまたま通りかかったんだ。この……」
男の子は少しためらった。
「廃屋に」
「廃屋……」
「野宿よりましだと思ったんだ。一晩過ごしたら、出ていくつもりだった」
男の子はチェニスを見た。
「そうしたら、君に会ったんだ」
そう言って、チェニスから目をそらす。
「君も……」
男の子は、また少しためらった。
「君も、ここで殺されてしまったのかい」
殺されてしまった。
その言葉を聞いた瞬間。
チェニスの脳裏に、その日の記憶がいっぺんに甦った。
ああ、そうだ。
私は、弟のフィルと少し揉めて、家を出るのが遅くなって。
走ってここまで来て、ドアを開けたら、おばあさんが。
おばあさんが。
「そうだ、私」
チェニスは呟いた。
「ここで殺されたんだ。毛むくじゃらの魔物に。おばあさんと」
自然と涙がこぼれた。
「私、死んだんだ。ここで」
男の子がチェニスをじっと見ている。
チェニスにも、やっとその表情の意味が分かった。
あれは、死者を悼む人の表情だ。
「明日には、もう出るつもりだった」
チェニスの涙を見ながら、男の子は言った。
「でも、君に出会った」
男の子の目には、暗い光が宿っていた。
「この辺の地形で、魔物の棲みそうなところは、だいたい目星が付く」
いつの間にか、男の子の手に、鞘に納められた剣が握られていた。
男の子の背丈とはひどく不釣り合いな、大人が使うような、とても長い剣。
「君とおばあさんを殺した魔物は僕が倒す」
男の子は努めて感情を出さないように、淡々と喋っているようだった。
「ごめん。僕には、そんなことしかできない」
男の子はチェニスに頭を下げた。
「ごめん」
チェニスは黙ったまま、男の子の前に立ち尽くしていた。涙が止めどなくあふれた。
不意に、誰かに呼ばれた気がした。
優しい声。
お母さんの声だ。
ああ、そうか。
チェニスは理解した。
私は、自分が死んだことに気付いちゃったから、もうここにはいられないんだ。
行くべき場所へ、行かなきゃいけないんだ。
男の子がチェニスを見ている。辛そうな表情で。
「ねえ」
チェニスは、男の子に言った。涙はもう流れていなかった。
「あなたの名前を教えて。それと……」
チェニスは、自分の身体が光に包まれているのを感じた。とても、暖かい光。
「あなたの笑顔が、見たい」
そんな悲しそうな、辛そうな表情じゃなくて。
きっと、笑ったらとても素敵な、かっこいい男の子だと思うから。
「……アルマーク」
男の子は言った。
「僕の名前は、アルマークだ」
男の子は、笑ってくれた。無理に作った、泣き笑いのような表情だったけれど。
「私はチェニス」
チェニスは言った。
「ありがとう、アルマーク。私を悼んでくれて、ありがとう」
そして、チェニスは光の中に消えた。
アルマークは暖炉の燠を掻き崩すと、マントを羽織った。
あと何回、こんな思いをすれば。
あと何回、歯を食いしばれば。
僕はたどり着けるんだろうか。
ノルク魔法学院に。
遠い。
南は、あまりにも遠い。
けれど、長剣を背負って廃屋を出たアルマークは、もう既に一人の戦士の貌をしていた。
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