第105話 霧

 アルマークは、魔術実践場の重い扉を開いた。

 相変わらず薄暗い場内に、イルミスの姿があった。

「先生、来ました!」

 アルマークが声をかけると、イルミスは微かに頷く。

「張り切っているね」

「はい!」

 アルマークは元気に返事をする。

 いよいよ待ちに待った魔法の練習が始まるのだ。もちろん不安もあるが、嬉しくないわけがない。

「そこまで期待に沿えるものになるかどうかはわからんがね……」

 そう言ってイルミスは、アルマークに自分の前に立つように促す。

 さて、とイルミスが口を開いた。

「初等部の一年生はまず霧の魔法から習い始める。なぜか分かるかね」

 その問いに、アルマークは少し考える。

 そういえば以前、一年生のエルドたちも霧の魔法を習い始めたと言っていた。

 エルドが命を懸けて使ったのも習いたての霧の魔法だった。

「……危なくないから、ですか」

「そうだ」

 イルミスは頷く。

「炎や風を扱うものよりも、制御に失敗しても危険が少ないからだ。君自身にも経験があるとおり」

「……はい」

 この魔術実践場に入ると、いつも昨日のことのようにあの失敗を思い出す。

 天井近くまで立ち上った炎の柱を。

「そういうわけだ。今日は霧の魔法をやってみよう」

「……はい!」

 アルマークは忌まわしい記憶を振りきるように頷いた。


 イルミスはまずアルマークに瞑想をさせ、体内の魔力を練らせる。

「よし」

 頃合いを見てアルマークの肩を叩く。

「瞑想はもう堂に入ったものだな」

 誉められても、アルマークは無邪気には喜べない。

 この後のことへの不安と緊張の方が大きい。

 イルミスは、アルマークを励ますように、声を張った。

「いいか、思い描け。自分の魔力が小さな水の粒になる様を。それがもっと小さな粒に。もっともっと小さな粒になる様を。そしてそれがこの場全体をあまねく覆い尽くす様を」

 アルマークはイルミスの言葉を聞きながら、その通りにイメージを膨らませてゆく。

 体の中で魔力がうねっているのが分かる。

 早く、形を。

 早く、世界に力を及ぼせる形を。

 そう叫んでいる気がする。

「……思い描きました」

「よし、右手のひらを上に向けて」

「はい」

「霧に変えた魔力を、その手のひらからゆっくりと外に出す」

「……はい」

 自分の魔力を外に出すのは、あの失敗の日の竜の炎以来だ。

 頷いたはいいが、なかなか手のひらから霧は出てこない。

 ちらちらとあの日の炎の残影が脳裏をよぎる。

「畏れるな」

 アルマークの気持ちを読んだかのように、イルミスが優しく肩を叩いた。

「慎重に、丁寧に。だが、決して畏れるな。自分のしてきた瞑想を、練り上げた魔力を信じろ」

 アルマークは無言で頷く。

 その額に汗が滲んだ。

 まだ何もしていないのに、ひどく消耗する。

 イルミスはアルマークの肩を抱いて、穏やかな声で告げる。

「信じろ。君はもう、あの日の君ではない」

 その言葉が心に響く。

「……はい」

 頷く。

 信じろ。

 一瞬、悲しみの中でも前を向いたウェンディの姿が浮かんで消えた。

 行こう。

 僕も、前へ。

 アルマークは体の中の魔力を押さえつけていた、心の中の最後の鍵のようなものをそっと外した。

 しゅっ、と小さな音がした。

 その瞬間、アルマークの右手から、みるまに白い煙のようなものが立ち上る。

 魔法の霧だ。

 煙はアルマークの手から止めどなく流れ出し、たちまち魔術実践場を覆っていく。

 ……できた。

「油断するな!」

 イルミスの厳しい叱責が飛んだ。

「集中を切らすな。魔力を垂れ流すな。制御しろ」

 いつの間にか、アルマークの右手からぽたぽたと水が滴り落ちていた。

 できた、と思った瞬間、魔力が制御を離れて霧ではなくただの水と化したのだ。

 アルマークは魔力の制御に全神経を集中した。

 身体から離れるときに、魔力の水を極限まで細分化するようなイメージ。

 そのイメージを決して絶やさないこと。

 少しでも集中力が揺らぐと、魔力は冷たい水滴と化してアルマークの手を濡らした。

「集中しろ。君の魔力は人よりも巨大だ。集中せねばすぐに暴走するぞ」

「はい!」


 どのくらいの間、霧を出し続けただろう。

 気づけば、目の前にいるはずのイルミスの姿さえ見えなくなっていた。

「よし。ゆっくりと魔力を止めよう。手のひらに開いた魔力の門をゆっくりと閉じていくイメージだ」

 霧の向こうからイルミスの声がする。

「……はい」

 アルマークは慎重に魔力を絞っていく。

 体内の魔力がまだ外に出たがって暴れようとしているのが分かる。

「抑えろ」

 イルミスが言う。

「暴走を許すな。好きにやらせるな。君の魔力の主は君だ。それを分からせてやれ」

「はい」

 そこからさらに長い時間をかけ、魔力の放出を終わらせたとき、アルマークの全身はずぶ濡れになっていた。ローブの外は、霧で。中は、汗で。

「よし。いいだろう」

 イルミスの声がして、その瞬間、場内を覆っていた霧が弾けるように全て消し飛んだ。

 視界が開け、思った以上に近くにイルミスがいたことに驚く。

 その前髪から、ぽたぽたと水滴が落ちている。

「初日にしては上出来だ」

 イルミスは言った。

「だが、君のクラスメイトたちはもう、この魔法で誰も手を濡らしたりはしない」

 アルマークは自分の右手を見た。

 水で濡れすぎて、五指が白くふやけてしまっていた。

「まだまだ修練が必要だ」

「はい」

「しかし、君の魔力は暴走すれば危険だ。瞑想以外の自主練習は禁ずる。魔法の練習は私の前以外では行ってはいけない。いいね?」

「はい」

 アルマークは頷いた。

 ひどく身体がだるい。剣を振るうのとは全く違う疲労感。

 そんなアルマークの姿を見て、イルミスはかすかに微笑んだ。

「今日が、君が初めて魔術を行使した日だ」

 えっ、と声をあげてアルマークがイルミスを見る。

「おめでとう、アルマーク」

 意外な言葉にアルマークは戸惑った。どう答えてよいのかわからない。

「無論、まだまだ人前で名乗れる水準ではないが、これで君も魔術師の一人になったというわけだ」

 イルミスの言葉にアルマークは頷いた。

 はい、と言おうとして言葉に詰まった。

 魔術師。

 僕が、魔術師に。

 学院長や先生たち、クラスの友人たちの顔。ウォードや冬の屋敷で出会った人の顔。

 そして、ウェンディの顔。

 ここに来てから今までお世話になってきたいろんな人の顔が一度に思い浮かんで、胸が詰まった。

 最後に、父の武骨な顔が思い浮かんだ。

「……先生、ありがとうございます」

 やっとそれだけ言った。

 イルミスは頷く。

「君の今の気持ちを忘れるな」

 イルミスの声は優しかった。

「世界と繋がりがあってこその魔術師だ。……君は正しい」




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