第23話 黒の鴛、赤のカマエル
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霧の中での儀式のとき、呪文を唱えるサリヴァンのもとを訪ねた亡者がいた。
『……もし、あなた。時空蛇の化身の弟子のあなた……』
冥界の炎が宿る冷たい指が、剥き出しになった首元のあたりに控えめに触れる。
思わず体を跳ね上げたサリヴァンに、『しっ! 』と唇の前に指を立てたその人物は、サリヴァンを見下ろして霧の中で見失わない程度に距離を取った。
『呪文を続けなさい。そう、返事は不要です。伝言を伝えに参りました。よくお聞きなさい』
サリヴァンは二度頷いた。
『冥府の蔵から、要人の遺灰が盗まれていることが分かりました。それにより、魔術師の目的が分かったのです。その遺灰の持ち主は『黄金の人』と呼ばれている人物。人類の祖にして最初の人間。魔術師が蘇らせようとしているのは、『黄金の人』で間違いありません』
サリヴァンの顎を汗がつたう。
『もうひとつ。魔術師の身元が分かりました。彼のものは、『鉄の人類』最初の審判のときに蝗の王の手で滅ぼされたバビロンの女奴隷にして巫女。当時の名をイシス。星の女神の名をいただくもの。その血筋は、かつてのアトランティスの姫を祖母に持ち、父は後のフェルヴィン建国にも手を貸した、亡国の姫君です』
女の手からサリヴァンの目に流れ込んでくる光景がある。そこは薄暗い祭儀場だった。
●
「人類を審判するどころではない。このままでは、冥界にこの世界が呑まれるぞ」
アイリーンは暗闇を見上げて、そう口にした。
そこは、古代式の裁判所だった。
石造りの円形舞台である。円を描く、すり鉢状の階段は、裁判官と傍聴者の席だ。被告人は下に立ち、彼らを見上げながら罪を裁かれる。
その落ち窪んだ中心に立ち、アイリーンは、上から見下ろす無数の視線を受けながら腕を組んだ。
「冥界の神々よ。秩序の守護者たるあなた方が、いつまで手をこまねいている? 」
時空蛇め、と声が飛んだ。《これもすべて、貴様の手の上か? 》
神が威圧のために発した声である。アイリーンはよろめき、膝をついたが、なんとか持ち直して首を持ち上げた。白い肌を黒髪が縁取っている。真紅の瞳は、ほの青い暗闇に輝く。黒い瞳孔が切れ目のように鋭く尖る。
一歩。踏み出す。
二歩。大きく足を踏み鳴らす。
さざ波のような声が静寂に落ち、神々の視線が円形舞台に放射状に降り注ぐ。
「……何を言っている? 」
壇上の一角に向け、アイリーンは呟いた。
「何を言っている!? こんな時に、重要なのは責任の所在か! 高い矜持をさらすことか! 矮小な人間ふぜいに堕ちた時空蛇の言葉が、そんなに耳に痛かったか!? 今の言葉を口にしたのは誰か! 名乗りを上げろ! 」
すっ、と一つの影が、段上を降りた。
《そういきり立つでない。同僚の非礼を詫びよう……》
滑るように人影が降りてくる。華奢な人影は、アイリーンのもとへ近づくたびに色を取り、薄汚れた老人の姿が浮かび上がる。
まるで、毛玉だらけの灰色のローブを、枯れ木に引っかけたようにも錯覚するだろう。突き出た鼻と、六角のランタンを握る乾いた五指が、枯れ木をヒトたらしめている。
《……皆、焦っておるのじゃ》
「まさか打つ手がないとは言うまいな? 」
《その通りじゃ。面目申し訳ないことに、古代より秩序を守り抜いてきた神々が八百といながら、我々は手を打てないでおる。嘆かわしいことに! 》
老人はランタンごと大きく腕を広げた。
《我々は神であるからこそ、この事態に対処する術がないのだよ》
「なぜ、と訊いたら説明してくれるのだろうな? 」
《もちろんだとも。そのために集まっていたのだからな。なあ、みんな? 》
ざわめきが戻る。困惑と焦燥、憤り、そして期待の匂いをアイリーンは感じ取った。
傍聴席の中から、もう一柱、影が降りてくる。ここまで案内してきた旅装の神である。
彼は、当たり前のようにアイリーンの横に立つと、灰色の老人に向かい合った。
空に向かって老人が掲げたランタンから、白い火花が漏れる。
《……まずは……そう。昔話をせねばなるまい……》
老爺語るに、それは遥かな神話の時代、その栄華が散りゆくころのこと。
アトランティスが海に沈む少し前、大陸の砂漠に、豊かな国があった。
大河のほとりにあるその国に、ひとりの娘が生まれる。そこでは名を与えられるのは男児のみ。女児は名無しのまま、嫁ぐまでは父の名を、嫁いでからは夫の名を、自らの所有者として刻まれた。
娘は
かの国の王が、娘の美貌に目を止め、宮殿へと迎え入れるほどに。
顔に刺青を刻まれ、王の所有物として宮殿へと召し抱えられた娘は、あまりの美しさに国王の目を眩ませた。
娘は美しかったが、まだ幼かった。
国王は嫉妬深くなり、残虐となる。
母恋しさに贅沢を欲しがらぬ娘に業を煮やした国王は、まず娘の父に娘の母を差し出させ、いわれなき姦淫の罪で処刑する。同じく恋しいと漏らした兄も、母親との近親相姦があったとして、その
残る父は葬儀代を受け取ると砂漠へ追放され、幼い弟だけが、娘に仕える奴隷として養育されることを許された。
娘はひとり、舌を抜かれたわずかな召使いとともに尖塔へと監禁される。
人々は噂した。
【王の城には星の姫がいる】と。
時ほどなくして、国王乱心の噂を聞きつけた隣国が、大河のほとりに目を付けた。大陸を横断し、海へと続く大河を手に入れれば、臣民の繁栄は約束される。
戦争になった。
統率の取れぬ大河の国は、みるみる領土を切り取られ、国王も討取られる。
すぐさま王弟が即位したことで、大河の国はようやく持ち直し、からくも終戦と相成った。
若き王弟は、非常に聡明な人物であった。そしてその賢さと同じだけ、臆病な男でもあった。
新しき国王は、塔を開き、娘をはじめて目にしたとたん、胸が疼いた。
娘は十五になっていた。
長年の幽閉の中でも美貌に磨きがかかることは止められず、四年の間に憑りついた闇が、よりいっそう娘の魅力に拍車をかけた。
若い王は、胸に覚えたその疼きに怯えた。娘の魅力に怯えた。兄がこの娘に、指一本も触れないまま閉じ込めていたということに褥で気づき、また戦慄した。
そう、娘は次なる王の妃となった。王は怯えたまま、娘の魅力に屈したのだ。
娘はほどなくして、姫を孕む。
姫君は、いまや誰もが忘れた言葉で『星』をあらわす名を与えられた。
そうして――――――生まれてすぐに、あの尖塔に入れられたのである。
大河の王国はもはや姿が無かった。虎視眈々と好機を待ち、英気を養っていた隣国により、あっさりと都は陥落し、星の姫君は喉を突いて自死した。もちろん、国王も後を追った。
大河に住まう臣民は虜囚となり、奴隷となった。隣国は大河を得て増長し、宮殿は異国の王によって娼館へとなり果てる。
星の名を持つ娘は、美貌を約束されているとして、尖塔へと閉じ込められた。
温情という名の、ていのいい飼い殺しの見世物であった。
御付きは去勢された男奴隷が一人。星の娘の弟、伯父である。
苛烈な環境であった。
少年ひとり、赤子ひとり。
まず、全身に刺青を入れられた娘が三月寝込んだ。僅かな食事を注ぎこみながら、なんとか生き永らえる。
時に食事すら届けられないこともあった。空腹に窓から鳥を釣り、爪で腹を割ると血を啜ってはらわたを呑む。
それでも食事ができないと、少年は自らの血を吸わせ、どうにか生かした。
そんな日々にも、十年で終わりが訪れる。
『混沌の夜』の訪れである。
大河が洪水となって国を襲った。尖塔にいた彼らは無事であったが、こんどは疫病の影が落ちる。さらに、恵みをもたらす大河が干乾び、蝗害が雲となって訪れた。
ひもじさの中、娘だけは生き延びた。伯父の死肉すら食んで、娘はようやく、尖塔から外へとまろび出る。
呪いあれ、と娘は言った。
この世よ滅びたまえ、と娘は祈った。
荒野に立つその小さな体を、蝗の雲が襲った――――。
《……死後、娘の魂は、父親の信仰にもとずいて冥府の慈悲深きネベトフトゥに引き取られた。名を呼ぶものを失った彼女は、
老人はそのまま、本当に枯れ木になったように、杖にもたれてしばらく動かなくなった。
旅装の神が言う。
《……きっかけならば、あの黒い泉であろう》
「黒い泉? 」
《地上の見たい場所が見える泉だ。未練ある霊を慰めるため、魔術に長けた女神が作って隠したのだ。欲する者のみに泉への道は拓かれる》
「その名は」
《……イシス。青き星の化身にして、星を頂く玉座の守り手という意味だ》
アイリーンはドンッとまた石畳を踏みしめた。
「力ある名だ! ありすぎる! そんな魂が地上へみすみす逃げ出したのか! 何をしていた! 」
《……それだけ憐れみに足る娘であった。そして娘もまた、誰かを憐れんだのだ……そう『黄金の子』を。彼の遺灰は、三つに分けられた。ひとつは『銀の人類』を生み出すために使われ、もうひとつは鍛冶神のもとに。そしれ最後の一つが、この冥府にあった。娘は泉で、かつての『黄金の人』を見た。そして、恋をしたのだ。自分と同じ、すべてを奪われたもの。世界で最初に生まれ、最初に怒りという感情を知ったその人に――――》
●
『黄金の人』。
それは、神の王の命により、『鍛冶』の神が新しい生き物の創造を任され生まれた人類の祖だ。
鍛冶神は混沌の泥と黄金をあわせて焼き固め、最初の人『金の人』を創り出した。
無垢なるその『人』は、神々によって養育され、愛された。
しかし、それをよく思わなかった『叡智の神』が、罠にはめる。
燃えやすい布と木でつくった箱に火を閉じ込め、『黄金の人』の目に触れるところに置いておいたのである。
火を知らぬ金の人は、その綺麗な箱を手に取り、もっとよく見ようと蓋を開けてしまった。たちまち『黄金の人』は火にまかれてしまうが、神々と同じように永遠の命を持っていたその人は、死ぬこともできずに三日三晩を苦しんだ。
ついには自ら死を賜ることを哀願した『黄金の人』は、神の手により灰となる。
その後、鍛冶神は再度人類を作り出すことを依頼される。
そこで『黄金の人』の灰と、銀を素材に、あらたな人類をつくった。そうすれば『金の人』が学んだ知恵や注がれた愛情を知ったままに、新しい人が生まれてくると思ったのだ。
しかし無垢だった『黄金の人』は、最期に裏切りと、怒りと、恐怖を学んでいた。
――――そんな銀の人類の生末は、語るまでもない。
「アルヴィンの体を使って『黄金の人』を蘇らせる? 頭湧いてんのか」
ヒューゴが吐き捨てた。
サリヴァンは難しい顔で見解を述べる。
「けれど、筋は通ります。最初の人類は、混沌の泥と黄金、そして神の血を注いだものを、鍛冶神が炉で焼き固めて生まれたと。それに置き換えて、語り部の銅板と神の血を引くアトラスの一族。なかでも、『先祖返り』と呼ばれるアルヴィン皇子を選んだ。おそらくこれから黄金の人を蘇らせるために、遺灰を使った儀式があるはずです」
グウィンの視線がサリヴァンの目を射抜いた。
「阻止できるか? 」
「ジジの索敵能力で魔術師を探し、おれが叩くことができれば、あるいは……。でもそうなると、グウィン陛下を狙う他のやつらの対処が……」
「わたしはここから、予定通りスート兵を飛ばして迎撃するさ。十三体もいるんだ。たった数人、なんとかなる。魔術師を叩けば、他のやつらは冥界に戻るしかないのだろう? 」
「わかりました」
サリヴァンは箒を取り、ハッチに足をかけた。
「お互い生き残りましょう」
グウィンが操縦席で、背中越しに腕を振り上げた。
「ああ! 」
サリヴァンは、大小二枚の銅板をひそませた上着に手を当てた。息を吸い、飛鯨船から滑り出す。すでに黒い卵はなく、蝗の雨は止んでいた。
「ジジ! どこだ! 」
城下に降り立ち、体に魔力を巡らせる。影を通して送りこんで、そのつながりを追って目でも見慣れた姿を探した。空に渦を巻く赤い光で、霧に浸かった街は濁り、血の色に沈んでいる。視界の悪さに、サリヴァンは舌打ちした。
(ここに降りたのは失敗だったか。どこか別の場所でジジのほうから来るのを待つべきだったかも)
霧がわずかに流れた。サリヴァンは転がるように姿勢を低くして、剣先を交わした。
長い黒髪がひるがえる。着物も、鎧もまた黒い。顔には半身の火傷の跡を隠すように、陶器の仮面がかかっていた。アポリュオンが化けていたのとは別の、アルヴィンの記憶の中で見た黒髪の男。
「……『黒い騎士』」
「おまえが、蝗の王をやったという妖術使い。……まだ子供なのだな」
赤黒い世界に立ち、サリヴァンはその人物をじっくりと観察した。
秀麗な男だ。すらりとした立ち姿は隙が無い。思っていたより大柄ではなく、腰に小刀を、手には細身の槍を携えていた。半分だけ見える白い貌は、細く整えた髭こそ蓄えているものの、女性的な印象もある。
相手の抜け目のない黒い瞳もまた、サリヴァンの全身を眺めていた。
「お前だけ、心構えが違うようだな。楽しめそうだ」
言いながらも、男はにこりともしなかった。鋭い突きが正面からやってくる。雷のような速さだ。サリヴァンもまた長く伸ばした『杖』の側面で受け流し、半円を描いてステップを踏んだ。
「避けるか。生きる時代が違えば……」
槍先がジグザグに跳ね上がり、サリヴァンの杖を絡み取ろうとする。サリヴァンはいつもの短い剣に切り替えると、懐に飛び込む隙を狙う。
「……やがては優秀な将として、重用される腕前だろうに」
「今の時代にいるから価値がある」サリヴァンは答えた。「この時代に生まれたから、あんたと剣を交えてる。違うか? 」
男ははじめて笑った。「それもそうだ」
サリヴァンは踏み込んだ。男の下を向いた穂先が、ほとんど反射的といっていい速度でグルリと進行方向を両断する動きをする。しかしサリヴァンは直前で軌道を変え、大きく横に跳んだ。伸ばした腕が、伸ばした剣先を槍の軌道の通らない空間を突く。男はそれを、難なく首を傾けることで避け――――そして背中から黒い霞にからめとられた。ぎょろりと男の目が見開かれる。
「これか! 妖術! 」
「違うよ。ただの助太刀さ」
ジジは絡み取った男を、跳ね返すようにしてサリヴァンの前へ押し出した。そこに、鍛冶神の炎を宿した剣が通る。
「――――はぁ、はぁ……なるほど」
首と肩の間に刻まれた傷を押さえ、男は、理知的に呟いた。
「これは……その熱い剣は、死者の魂も焼き斬るのか」
男の傷口から噴き出すのは血ではない。黒く、腐臭のする何かだった。治るきざしのない傷に、男は興味深そうにサリヴァンを見つめる。
「……そうか。おまえが我々の天敵だったんだな」
――――ドプリ。
男の輪郭が崩れた。あとには、腐臭のただよう黒い泥だまりだけが残っていた。
●
その男が、亡者から蘇り、最初に求めたものは鏡と紅で、最初にしたことは、まず化粧だった。
歩き出す前から、美貌を褒められて育った。
すくすくと、天女のごとくと
妻がいた。
特別美しいわけでもない、小太りな女だったが、甘く透き通る声をした女だった。
それぞれ十四と十で、家のために引き合わされた縁だった。
「比翼の鳥となりましょう」と、口先だけで言葉を交わし、形ばかり夫婦となった。
男は十七のころ
妻は、美しい声で笑った。
「これでずいぶん扱いやすい
まことに比翼の鳥になった。
二十八のとき戦が起こった。
二十九の夏、息子を二人、立て続けに亡くした。
三十二の冬、戦場で五番目の娘が、嫁ぎ先で自害したとの報が入る。娘は婚礼から二月と経っていなかった。葬儀には出られなかった。
三十五の春。
敵軍の将の捕虜に落ちる。
あばたが醜いと、左の顔に火をかけられる。
翌夏、仲間の手のものにより、這う這うの体で故郷へと戻る。
療養をし、季節を一巡りしても、家に帰る許しが出ない。
妻からの文に、想いがつのる。
最後の文には、束ねた七人分の髪と、妻の紅が入っていた。
「疫と魔と避けましょう」と、妻の柔らかな手が、おのれの目元に紅を差す夢を毎夜見る。
閉じた目蓋の裏、忘れられぬことが多すぎる。
帰りついた屋敷の焼け跡には、家なき者たちが居付いていた。
乾いて晴れた青い空。
その下にただよう腐臭。
河原に並んだおびただしい磔の中から、妻の襦袢の色を探してさまよう、幽鬼のような我が身の足。土の色。
乾き、縮んで痩せた妻の尖った爪の形。目蓋から溶け出した目玉。空洞の暗さ。
そこに群がる卑しい虫や鳥獣どもの血の色。
その美貌は天女のごとくと謡われた。
あばたのうえに火傷を負い、左の視界と妻子供を失ってから、戦場を駆ける姿は鬼神のごとくと謡われた。
八十二まで生きた。
(忘れるものか。忘れるものか)
―――――人生の大半を費やし、憤怒と復讐を、誰より親しい朋とした。
この男は、そういう男だった。
●
「えッ! うっそだろォ! 黒いのが死にやがった! 」
『赤い戦士』は口を丸く開けて驚いた。赤い髪が風にまくれあがる。
「私もあっちに行きたくなってきたなア」
小指で耳の穴をほじり、ため息を吐く。
『黒い騎士』とは対照的に、この戦士は粗野で、体のどの部位も太くて大きい。腰には剣があるが腕にたずさえているのは棍棒で、これで殴り殺すのが生前から染み付いた戦い方だった。
「なあ、アポなんとかよ。私はあっちに行きたいんだが」
「呆れた輩だ。さきほどまで、こいつは自分がやるだの手を出すなだのと喚いておいて」
アポリュオンはそう言うとむくりと起き上がり、貌の無数の目で戦士と、その足元に這いつくばる男を見下ろした。
ジーン・アトラスは、もはや動くこともできない。ぎらぎらとした視線だけが勇ましい。
「だってこいつ、骨が無いんだよな。あーあ。黒いのみたいに、ちっこくて細くても戦える男だと期待してたんだが」
「こいつはただ『王』だった男だぞ。王が身一つで戦うことはない。王は武勇を誇る必要が無かったのだ。こいつは軍を率いた経験も無い」
「ふん。じゃあただ玉座にいただけの男か。そんなやつを、どうしてあの女は蘇らせたのかね」
「考えがあるのさ。……さて、もう十分だろう」
アポリュオンは、かたわらに置いていた鎖をじゃらりと拾い上げた。
「カマエル。気が済んだのなら、これでそいつを縛って仕事を終わらせろ。それからだ」
「はぁい」
赤毛のカマエルは、飛ぶのが好きだ。冥界の炎を踏みつけに高いところに立つと、世界を踏みつけにするようで心地がよかったから、この男はこの体で蘇ってからというもの、空を飛ぶのが楽しくて仕方がない。
生前、孤児だったこの男は売られるように、母国が運営する『奪還軍』と呼ばれる遠征軍の数合わせとして聖騎士見習いとなった。
『奪還軍』の目的は、先祖が奪われたとされる聖地の奪還。しかしその記述上の『先祖』は、侵略してきた民族が滅ぼして久しく、ようするに『聖地奪還』は略奪のための大義名分でしかなかった。
そんな軍に育まれ、まともな信仰心が宿るわけはない。
農奴の生まれの子供は過酷な行軍と略奪を繰り返す生活に水が合った。洗礼を受け、正式に僧となるも、それは名前だけのもの。旅の道すがらに宿った信仰心は、剣ではなく棍棒で殴り殺すための大義名分となった。
カマエルは、純粋に戦うことが好きだった。いたぶることも好きだった。
間違った正義を、間違っていると割り切って、欲望のために利用する悪辣さも備えていた。
「この世界にあふれる今の人類は、全部異教徒ってことでいいんだよな? 」
「おまえから見れば、そうだ」
と、アポリュオンが言う。
「じゃあ、どれだけ殺しても、私の神は私をお赦しくださるな? 」
「おまえがそう思うのなら、そうなのではないか」
と、アポリュオンは頷く。
「いい世界だなア! 」
大きな口を開いて、カマエルは少年のように破顔した。
魔術師と、魔術師が徴集した過去のつわものたちの共通点。
この三人の亡者、そしてアポリュオンは、無垢なる衝動によって集い、繋がっている。
その核を人類でいちばん最初に『怒り』を知った人物に託すというのは、非常におもしろみを感じる試みであった。生前でもこんなに楽しいことは無いほどに。
『魔術師』が……いや、星の娘が、冥王の宝物庫から盗み出した『黄金の人の遺灰』は、豪奢なつくりの陶器の小瓶に収められていた。卵のような純白に、入れられた墨は瑠璃。柄を縁取る金銀と金剛石。宝石をあしらった蓋は、冥界の炎で溶かした金泥で、厳重に封印されている。
懐にしまいこみながら、黒い男が思ったのは、「こんなものか」という感想だった。
神の宝物庫にこめられた小瓶は、たしかに美しかったが、生前いくらでも見たものとそん色なかったからだ。
星の娘は「そんなものですよ。見た目に騙されてはいけません」と言って笑った。
若い娘のくせに、やけに枯れた声をした娘である。低い声色は、酒焼けした老婆のようだった。
仕込みは完璧といえた。
材料となるのは、『混沌の泥』を含む語り部の『銅板』。その主人である人間の持つ『怒り』。
『混沌の泥』によって、炎になって吹き出した怒り。そこに、『遺灰』を注いで、『黄金の人』を復活させる。そうして顕れる『黄金の人』が、優れた指導者であっても、腰抜けの原始人であっても、どちらでも良かった。
ただ期待しているのは、『黄金の人』の持つであろう『怒り』である。
その『怒り』が、この世界全てを焼き尽くすことを、、亡者たちは心から期待していた。
カマエルは飛び去り、アポリュオンは鎖を引いてどこかへと歩き出す。
そして魔術師は、それを城の塔――――そう、あの鐘楼で、水盆を手に見ていた。
そこからは、城の上に浮かぶあの紅の花もよく見える。ままごとに夢中の童女のように、ぺたんと尻をつけ、にこにこと降り注ぐ火の粉の雨を眺めている。
「もうすぐお会いになれますね」
少女は頬を紅色に染め、誰が聞くこともない言葉をうっとりと呟く。
かたわらに、瀟洒な小瓶が割れて転がっていた。
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