終章 星よきいてくれ
第22話 奈落の王アポリュオン
尻もちをついた姿勢のサリヴァンは、立ち上がるのではなく、横に転がることでアポリュオンの砲弾のような拳を避けた。
しこたま打ち付けた右の脇腹がじくじくと痛む。
転がった勢いで立ち上がり、前のめりに駆けだす。
「――――ジジ! 」
黒霧がサリヴァンの体をさらい、大きく跳躍して、寄り合い小屋の屋根に手をかけた。そのまま屋根伝いに走る。煙の白蛇が、霧を晴らしながら先導する。連なる倉庫の屋根を三棟越えたところで、ジジが大きな声を出した。
「サリー! アポリュオンが追ってきてない……! 」
「なんだってぇ!? 」
はたして怪物は、地面で翼を広げているだけだった。
おぞましいほど逞しく大きな背中を向け、篝火にぴったりと張り付いて動こうとしていない。サリヴァンの脳裏に、黒い稲妻が閃いた。
「まさか……! 」
アポリュオンは翼を広げ、腕を広げて炎を囲むようにかざした。
「……来る、来る来る来る来る来る―――――!!! 」
青い篝火に、泡のように黒いシミが浮かんだ。
……ずるり。
――――それは、さながらサナギからの羽化のように。
理性なき空虚に濁った緑白の複眼が、主人にして父の顔を見て、くちばしを激しく鳴らす。
一匹が炎の中から押し出されると、あとはもうワラワラと、異形の蝗たちがあふれ出した。
埠頭は驚くべき速度で、黒光りする蝗の羽で埋め尽くされる。ガチガチとくちばしの合唱が響き渡り、その中心にいるアポリュオンは、満足げに腕と羽を広げていた。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。
くちばしの合唱の中に、やがて本当に意味のある言葉が広がっていく
――――奈落の王にして
――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。
―――――食らえ、食らえ、食らえ。
蝗たちは歯の無い灰色の咥内をさらして、幼児のような声で高らかに合唱している。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。
グウィンらにもその歌声は響いた。
この国に残ったわずかな耳ある者は、例外なく、ぞっと背筋を震わせる。
膝が震えて立ち止まりそうになるたび、互いの肩を強く叩いて先を急いだ。
「走れ、走れ、走れ――――! 」
サリヴァンは舌打ちをして、屋根から身を躍らせた。『銀蛇』を鞭のように伸ばし、埠頭に立つ街灯に巻き付けて地面すれすれを滑空する。
翅をくつろげ、今にも飛び立とうとしている蝗の背中を蹴り飛ばし、その固い背中を足場に再び飛び上がった。踏みつけられた蝗が、ガチガチとくちばしを鳴らす。
闘争に白く濁った複眼は、波のようにサリヴァンへとその邪心を向けた。
サリヴァンは寄り合い場の粗末な扉を蹴破るように中に入ると、余ったトランクをひっ掴む。
顔を上げて目にしたのは、ぞっとする光景だった。
窓に、開け放たれたままの入口に、蝗たちが群がって、その腐った卵のような濡れた複眼を向けている。
棘のついた
「――――くっそ! 」
海側と逆の窓に向かって『銀蛇』を向ける。噴き出した炎蛇が、あぎとを開いて窓枠ごと蝗たちの体を半分むしり取った。窓枠の痕に足をかけながら、トランクを開ける。組み立てにかかった十秒と少しの時間が、恐ろしいほどの緊張をもたらした。
ガチャン! と金具がはまる音がする。
「……よし! 」
頷き、振り返った瞬間、後頭部を蝗の肢先がかすめるところだった。
髪が長いままだったのなら捕まっていただろう。鼻先を硫黄と腐臭が混ざった吐息がかすめる。
くちばしの奥にあるノコギリのような歯列すら、数えられる距離だった。
『銀蛇』で薙ぎ払い、跳躍する。倉庫とのあいだの細い路地には、葦に似た腰ほどの芯が固い雑草が生い茂り、踏めば跳ね返って、サリヴァンの太腿を真っ赤になるほど何度も叩いた。
組み立てたばかりの持ち手がじわじわと熱を帯びていくのを感じながら、サリヴァンは祈るように、自分の組み立ての成功を信じた。
頭の上に影がさす。
視線を向けるまでもなく、サリヴァンは炎を放った。炎が通ったあとの乾ききった熱風が、サリヴァンの呼吸も苦しくする。
血のようにどろりとした嫌な汗が、全身を包んでいた。
――――ポッ、
はっとして、手にしたものの先を見下ろす。
――――ポッ、ポポポ――――
先っぽの円柱についた無数の穴から、オレンジ色の火花が散っていた。握りの部分はもう、はっきりと温かい。魔力を吸い、無事に動き出している。
サリヴァンは安堵のため息の前に、それに跨った。ばねのように跳ね返る葦を蹴りあげ、勢いよく空へと飛びあがる。握りやすいようにくぼんだ持ち手には革のテーピングがされ、繋ぎ目はきちんとはまっているらしく、ぐらつきもない。先から吹き出す炎の勢いもまぁまぁだ。折り畳み式なので、サリヴァンが愛用しているものよりやや細身なのが難点であるが、じゅうぶん飛べている。サリヴァンは前屈姿勢になり、『箒』にさらに魔力を押し込んだ。
「サリー! 」
白蛇と並走して、黒霧をまとったジジが近づく。「よく無事だったね! 」
「もうごめんだ! 」
「ボクだってごめんだ! 相棒があの虫どもの群れに突っ込んでいったとき、ボクがどんなにゾッとしたか、キミにわかる!? 」
「そりゃ悪かったな! 結果オーライだ! 」
「分かってるよ! まったく、よりにもよって最初にこいつを呼び出すなんて引きが悪いんだか……らッ! 」
ジジのコートの裾に手をかけようとした蝗が、蹴り飛ばされてキリキリ舞いしながら吹き飛んでいく。
空をおびただしい蝗の群れが覆いつつあった。
埠頭から吹き出した蝗たちは、蚊柱のように黒いヴェールとなって、城下町の上空を飛んでいく。ふるえる翅の不協和音をバックに、耳障りなコーラスが重なった。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。
――――奈落の王にして
――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。
――――腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。
――――飽食せよ。飽食せよ。
――――食らえ、食らえ、食らえ……。
「……どうするの」
「……作戦は変えない。陛下たちと合流だ」
「それだけで大丈夫なの」
サリヴァンは下唇を噛んだ。
「サリー。……言って」
「…………ジジ」
「うん」
「……やってくれ」
「いいよ」
ジジは悪戯っぽく笑った。危なげに金色の瞳がきらめく。
「ボクのご主人様は、ひどくお困りのようだ。……お望みどおりに」
サリヴァンは肺一杯に息を吸う。
「”願いは
魔法使いの声が朗々と、風を背に響き渡る。
「”望みはなにかと母が問う”
”そこは楽園ではなく”
”暗闇だけが癒しを注いだ”」
叙事詩を吟じる古代の詩人のように、力強い言葉そのものが呪文となって風に編みこまれていく。
「 ”時さえも味方にならない”
”天は朔の夜”
”星だけが見ている塩の原”
”言葉すらなく”
”微睡みもなく”
”剣を振り下ろす力もなく”……」
蝗の群れが迫る。
黒煙のようにも見えたそれらの、ひとつひとつの白濁した複眼と、くちばしを持つ醜い顔、ぬるぬると黒光りする深緑の体からぶら下がった節だつ手足、棘のついた二又の尾。
奇怪で悪趣味な合唱は、高らかに絶望の花へと捧げられている。
ジジの羽織ったコートの裾が、風に暴れた。
ジジが指揮棒のようにサッと小枝を掲げると、蝗たちの視線がいっせいに注がれる。
ジジは背から聞こえてくる主とともに、自らの呪文を口にした。低く力強いサリヴァンの声に、ジジの、子守歌でも歌っているような囁きが重なる。
「 ”いかづちの槍が
輝くような白銀の小枝に、蝗たちの視線は釘付けになった。そこから放たれる目に見えない『何か』が、蝗たちの飢えを促す。
「”至るべきは
ふわりと軽やかな風が吹いた。
「”我が身こそが、終わりへと至る小さな鍵”」
ジジは杖を握る腕を天に伸ばし、体を黒霧へと変えていく。魔人がほどけた黒霧は、糸玉を巻くようにその身体を覆っていった。
「”望みはひとつ”—————」
サリヴァンもまた、杖を握る腕を伸ばして、小さくなったジジの背へと向けていた。片刃の三日月形のダガーの切っ先は、まばゆい白に輝いている。
生温くドロリとした汗が全身を伝う。
「―――——”やがて、この足が止まること”」
その始まりに、音は無かった。
―――――黒い卵が浮かんでいる。
その一瞬、蝗たちは紅い花のことを忘れた。
ぽつんと、目の前に浮かんでいる黒い卵は、言いようのない
なぜなのかは分からない。食欲に満たされた彼らの頭では、理由を見つける術をもたない。
表面はつるりと丸かった。しかし、空も、地も、何も映り込むことのない深い闇の色をしていた。
その表面に、おもむろに白い線が、つう、と伝う。溜息が亀裂から零れる。
眠りから目覚めるときに零れる、あの吐息である。あるいは、夢に落ちるときに胸から押し出される、あの吐息だった。
蝗たちの無機質な複眼に、真っ赤な恐怖が広がっていく。
二度目の溜息は、腹が満たされたときの満足げな吐息だ。
サリヴァンは猛然と空を駆け出していた。
その背後では、土砂降りの雨のように、地面へ落ちていく蝗たちの姿がある。
振り返って確認することなどしない。息をするのも忘れ、サリヴァンは箒を進めることだけに集中した。
そうでもしないと、頭の中に入り込もうとする声に侵入を許すことになる。
(□□□□□□、□□□! □□□□□、□□、□□□□□□□□! □! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! )
(……ああ、もう! うるっせえ! )
(□□□! □□□! □□□□□□□□……? )
「ジジ! やること終わったんなら帰ってこい! 」
(□□□□□□……□□□□□□□□……『つえ』)
サリヴァンは、空を東へ走りながら、銀蛇を握った手を掲げた。切っ先から白い光の粒が帯になって流れ出す。
『卵』は、蝗の死骸の雨の中で静止している。
遠ざかる主の背中。ジジは、ゆっくりと上昇を始めた。
その天中には、すでに空を覆うほど『開花』をはじめた紅い花がある。
(□□、だ、□□□□□□……□□□いだ□□□……ぐるし□、べ□□□□……ああ□□□ず……□サリヴァ□、ボク、□□…… )
「一掃したら帰ってこい」
(□□□□……りょうかい)
ニイ、と裂けるように笑う口元が見えるようだった。
サリヴァンは、前方に浮かぶ飛鯨船を目指して飛ぶ。
●
開け放したハッチから飛び込んできたサリヴァンを受け止めたのは、ベルリオズだった。
「どうした! 大丈夫か! 」
ケヴィンが走り寄り、床に這いつくばるサリヴァンに肩を貸す。脈の速さはすぐに分かった。汗にぬれた冷え切った体のことも。
小柄だが、しっかりと重い少年の体を座席に座らせる。マリアが拾い上げた箒を、慎重に座席の下に置く。尾から出ていたオレンジ色の炎は、サリヴァンが柄から手を離すと、勝手に消えてしまっていた。前の座席に座ったヒューゴが、首をまわしてサリヴァンに問う。
「あの蝗たちは消えたのか? 」
「決定的な被害が出る前に、ジジが駆除をしました」
「まさか、あれを全部? 」
「はい」
「大丈夫か? 作戦は」
不安が滲んだ質問に、サリヴァンはきっぱりと言った。
「このまま。何も不都合はありません」
飛鯨船の通路はやっと人一人が動けるほどにしかスペースが無く、二列目の座席に挟まれたヒューゴなどは、立つのがやっとという感じで、おとなしく小さくなって一列を占領している。
操縦席には、グウィンが座っていた。
大戦以後、とくに下層の国家では、ある程度の地位に昇格する条件に『飛鯨船の操縦資格の有無』をつけることが多い。要人であればなおさらだ。それは海層全体に適応される法で、飛鯨船操縦資格保持者は守られているからだった。フェルヴィン皇国でも例に漏れず、アトラス兄弟の中では軍属経験のあるグウィンのみが、小型の輸送用飛鯨船の資格を持っていた。
埠頭よりほど近く、商業地区にある着陸場に、グウィンたちは昨夜からこの小型飛鯨船を準備していたのだ。
「……事態が少し変わりました。でも、作戦は変更しません」
念を押すようにサリヴァンは言った。
「……でも、それまでに一つ、話しておくことが」
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