第19話 冥界浸食


 赤黒い空には、鳥一匹も飛んではいなかった。気温は湿気を含んでやや肌寒く、低い場所にうっすら霧がかかっている。


「二人とも、ほんとうに食べたくならないんですか? 」

 サリヴァンは、ポケットから携帯食料を取り出し、齧りながら歩いていた。二人にも勧めたが、兄弟は三人とも、遠慮して食べなかった。


「ああ。不思議とな。緊張しているからかもしれない」

「そうだな。こりゃ後で死ぬほど減るぞ」

 兄に向ってヒューゴはそう言ってカラカラと笑ったが、サリヴァンの顔は晴れなかった。ヒューゴも笑顔を収める。


「どうした? 」

「ちょっと嫌な予感がします。……いえ、対処法は分かってるんですが、少しまずいことになったかもしれません。確かめる時間を、三十分だけください」


 ダッチェスの金色の目が、値踏みするように、下からサリヴァンを見つめた。

 不安そうな二人を連れ、サリヴァンが城下町から山肌が触れる場所まで戻った。山沿いに歩けば、そのまま城壁のすそにつくという適当な場所だ。


「ここに何かあったか? 」

 あたりを見渡してグウィンが尋ねた。

 サリヴァンは、手頃な石で道の横に聳そびえる崖の土を掘り、湿った粘土質のそれを、石と一緒に袋へ入れていく。


「火山の土が必要なんです」

 サリヴァンは駆け足で戻ると、土に塗れた手を叩いて落とす。

 サリヴァンは土の上に腰を下ろし、その袋をかたわらに置いて準備を始めた。


 左耳に下がった黒い雫型のピアスを確かめるように片手で少し触れながら、銀杖を指先ほどの刃がついた剃刀にして握ると、ピアスをいじっていた手で自分の後ろ頭を探った。手慣れた仕草だったが、サリヴァンの表情は固い。

 後ろ頭で一本に縛って垂れ下がる髪の中から、特に長いところの束を小指ほどの太さだけ切り取り、右の指にぐるぐる巻く。その髪を切る様子を見て、アトラスの兄弟たちはサリヴァンの束ねた髪がざんばらの長さになっている理由を察した。


「これからやるのは交霊術です。占いみたいなもんですね。本当は失せもの探しあたりがおもな使い道なんですけど。先に言っておきます。おれ、こういう『魔術』は苦手なんです」

「魔術にも個人差があるのか? 」


 サリヴァンは頷いて、鼻に皺を寄せた。

「魔術は学問の一面がありますから、そりゃ個人で得意不得意の分野があります。おれは本当に、こうした深くて繊細な手間を求められる魔法は得意じゃあない。成功した試しが無いんです。でも今回の場合は、成功のきざしがある。ここが冥界に最も近いフェルヴィンで、しかも冥界の扉そのものが開いたこと、おれに曽爺さんの血が流れていること、一緒に陛下たちがいること。こうした条件が、適正よりも成功に傾くかもしれない」

「じゃあやってくれ。それで、何を確かめるつもりなんだ? 」


 円座になるように、ヒューゴとグウィンも土の上にあぐらをかいた。

 グウィンの後ろで見守る姿勢のダッチェスの視線を気にしながら、サリヴァンは苦い唾を飲んで口を開く。


「冥界神の真意を尋ねたいと思います」

「冥界神の真意……? それを急いで確かめる理由が何かあるのか」

「気づいたんです。殿下たちは、いつから食事をとっていないんですか? 最後に肉や、肉を加工したものを食べたのはいつですか? 」


 皇子たちはは顔を見合わせた。三人が口を開くより先に、語り部が答える。

「グウィン様は八日間、ヒューゴ様は六日以上、水も食事も口にしておりません」

「最後に食事をしたのもそれくらい前ですね。口にされたのは、穀物粥だったかと思います。肉類は十日以上口にされていません。たぶん、ケヴィン殿下もそうだと思います」

「そうです」

「陛下。皇子。おれは二人に会ってから、少なくとも三回は、この携帯食を勧めました。……この意味、わかりますよね? 」


 兄弟は、ぽかんと語り部たちを見た。

「……嘘だろ? おれたち、地下にいたのはせいぜい三日だぜ? 」

「冥界と地上の時間の流れは違うという話があります。体感よりも長いか、短い。……正直、おれも今地上でどれくらい時間が経っているのか見当がつかない」


 冷や汗を垂らして苦笑いする弟の右隣りで、兄の方はこぶしで口を押えて考え込んでいる。

 二人の不安を断ち切るように、サリヴァンは大きな声を出した。


「ああ、大丈夫ですから! 二人はちゃんと生きてますって。ただ……少し、食事の手間がいらない体になっているだけです。そこで、この儀式なんです」

 サリヴァンは身振りも交えて説明した。


「『最後の審判』とは、神々の試練です。選ばれしものが天上の神の庭まで辿り着くことが試練だといいますが、おれは、『試練』がそれだけだとは思いません。今は飛鯨船がありますしね。この国の状態がそれを表しています。今回の事態は、あれに似ている。人々が石になる『石の試練』。これは、第三の世代である『銅の人類』が滅びのときに起こった災いの一つです。そうですね」

 皇子たちは緩慢に、語り部たちはうんうんと何度も頷いた。


「おそらく神々は、今までの人類に与えた災厄を『試練』として与えるつもりなんでしょう。そこで、です。『石の試練』。これはどういった試練か? ってことですよ。最初から思い出してみてください。まず何が起こったか? 」

「それは……最初に『魔術師』が現れて城を蹂躙し、父上とアルヴィンも殺されて、ジーン・アトラスが……そうか。死者が蘇っていて」

「そうです。『石の試練』とは、生者が石に、死者が生者の世界に蘇る。そういう試練です。だとすれば、この試練は冥界神の采配なくば行えない。冥界の神々の別名は、『魂の裁判官』、『平等を敷く者』、『秩序の管理者』。冥界の法律に従い、一日に命を失う魂の総数は明確に決まっていて、例外はありません。冥界の神々にとって、死者たちはどうでもいい存在ではないはずです。何千、何万年と一日も欠かさず管理してきた魂たちが、現世へ出ることを見逃すはずが無い。冥界神はなんらかの処置をして、霊たちを現世へ送り出していると仮説します。その『処置』のせいで、殿下たちは食事が必要なくなっている。

 結論から言いましょう。おそらくこの最下層……第二十海層は、今、冥界に落ちています」


 ヒューゴとケヴィンが真っ青になった。

「それって……完全に落ちきったら、どうなるんだ? 」

「確かめてくれ」グウィンが言った。

「恐怖は未知からやってくるんだ。分からないうちは、何も動けない。きちんと準備してから、向き合おう」



 サリヴァンが占いや呪術のたぐいを苦手としているのは本当だ。本来なら、そういった術は基本中の基本でありながら、極めようと思っても極めきれない、奥の深い一道である。

 祈祷師、霊媒師、巫女、預言者、占師などがその筋を極めた専門家であるし、師であるアイリーンも、『時空蛇の化身』で『神の声を聴いて予言する』という立場上、巫女という扱いを受けることもある。そんな師を持っているのに、サリヴァンはそういった人たちから、「お前には神の声を聴く適性が無い」と言われ続けて来た。しかしその信心深さから「神に愛されてはいる」「声が聴こえないから、力を借りるというよりも、押し付けられている」というのだから、奇妙なものだった。

 だからサリヴァンは、『神の声が聴こえない』のに、シンプルに『火力がある魔法が得意』である。


 そんなサリヴァンという魔法使いに、ジジという魔人の性質は、欠点を補うという点でぴったりとはまっていた。ジジは、『意志ある魔法』である。陰に潜み、ときに不可視の微細の粒となり、この世界に潜む。

 サリヴァンは、例えるなら、蛇口から流れた水をまき散らすことでしか魔法を使えないが、ジジは、水を溜めたり、シャワーにして広くバラまいたり、湯気にしたり、凍らせたり、それを利用して室温を下げたり上げたりすることが出来る。


 グウィンとケヴィンは、山肌を背にするサリヴァンから少し離れたところで座った。サリヴァンに指名されたヒューゴだけが、近くでひかえている。

 時刻は昼を過ぎ、日暮れまであと一時間といったところだろうか。厚い黒い雲がねっとりと空を流れ、ときおり真紅の陽光が斜めに射し込んだ。


(黄昏時はいい時間だ)

 サリヴァンは小さく、呪文を呟いた。

 魔法使いが神に語り掛ける言葉は、自分で組み上げなければならない。借りものではない自分の言葉で、神々にお願いをするのである。しかしある程度の定型文はある。冥界の神ならば、『魂の裁判官』、『平等を敷く者』、『秩序の管理者』、『沈黙の吐息』などがそれだ。しかし、思春期が終わりかけた少年には、こうした呪文を堂々と口にするのはいささか恥ずかしい。


 サリヴァンは、自らの内側に流れる血を意識した。

 『深く』、『繊細に』、ふだん意識しない自分を構成するものたちを手繰り、その先に通ずる道を探す。ジジの鋭敏な感覚を借りながら。

 本来なら、牛一頭でも二頭でも生贄を捧げるべきだが、そんな用意があるはずもないので、サリヴァン自身の髪と血で代用する。恐れ多くも、冥界の神そのものを呼ぼうとは思っていない。真意を探りたいのだから、それを知っている死者の魂を呼び出すつもりだった。血筋で土地との縁は結ばれているはずだから、声を掛けて手を貸してくれる霊がいる可能性に賭けた。

 内側に潜ると、不思議と周囲のことが分かってくる。


 やがて、右斜め後ろで座っているグウィンとケヴィンが、何かに反応して身じろぎしたのが分かった。

 冥界神の使者がやってきたのだ。サリヴァンは、呪文が途絶えないようにする。

 最初から、サリヴァン自身には質問はできないと想定していた。質問するのは、ヒューゴに頼んである。神々は芸術家を好むからだ。


「貴女は……いや、あなた様は……」

 ヒューゴの驚愕する声が聴こえてくる。膝の上で丸くなっていたジジが、パチッと目を開けて身を起こした。ジジの金色の瞳を通じて、その姿が、サリヴァンにも見える。


『おや』

 呪文がもつれそうになった。

『元気そうだな。サリヴァン』


 ヒューゴがサリヴァンの殺気迫る顔を見て焦っている。なにせ亡霊を呼び出したつもりが、なぜか自分の師匠が出てきたのだ。


 アイリーン・クロックフォードは、青白い輪郭をまとってふわふわとサリヴァンの顔の前で手を振っている。サリヴァンが呪文を唱え続けなければならないことが分かっていて、わざとやっているのだ。

 ヒューゴはなんとか、サリヴァンがほしい質問をひねり出した。


「あー……あの、いまどこにいるんですか? 」

『冥界だ。見ての通り。ただな、死んだわけじゃあないぞ。心配するな。こっちでの用事が終わったら合流する』

「その用事とは……? 」

『身辺調査だ。冥府から脱走して悪さをしている輩がいるんだろ? 死者を蘇らせているふらちものだ。そいつらがどこの誰かを突き止めてくる。なあに心配するな。冥界は初めてじゃない。そういえば、そっちはどうやら色々大変だったようだな。死にかけたちもしたようだ。しかし死んでいない。よくやった』


 サリヴァンの額に青筋が浮かんでいる。心配はしていないようだ。

『ふむ。質問が無いなら、必要だと思われる情報を勝手に喋るが』

 黒髪の麗人は、我が子そっくりに顎に手を当てた。


『そうだな。まずは警告から。皇帝と教皇、そしてわたし、女教皇。あとはまだ出現していない女帝。この四つには、特別な機能がある。他人に『継承』することができるんだ。王位だからな。方法は二つ』

 アイリーンは、指を二本立てた。


『それは『譲位』か『簒奪』だ。『譲位』はようするに、後継者と定めたものに、王の側から与えること。『簒奪』は、言葉のとおり王から力づくで位を奪うことだ。王を暴力で下し、『簒奪』を宣言することで王位が移動する。皇帝よ。ではここから導き出される、敵側の戦略は? 』


「……『簒奪』のルールを使い、『皇帝』を奪うことでしょうか。でもそれなら、父を下したときにできたのに」


『いいや、できなかった。なぜなら『審判』はまだ始まっていなかったからだ。そしてレイバーン皇帝が亡霊となった時点で、選ばれしものとしての『皇帝』の力は万全といえなくなる。やつらは生きた人間を操ることはできないから、レイバーンを殺し、皇太子が継承するのを待ち、そして改めて『簒奪』に動くしかない』

「たしかに。『審判』を利用してことを成そうというのなら、敵一派はより多くの選ばれしものを集めたい。それなら選ばれるのを待つのではなく、奪えるところから奪う、と」


『うむ。そういうことだ。ちなみに皇帝は武力を。女帝は財力を。教皇は知性を。女教皇は信仰を司る。王たちはその化身である十三体の兵を呼び出して使う。スート兵という、金属の戦士たちだ』


「父上が使っていたという」


『皇帝は鉄。教皇は銅。女帝は金。女教皇は銀の私兵を呼び出す。まあ、うまく使え』


「使い方は? 」


『そのときになればわかる。そういう機能だ。次は冥界での情勢を』

 アイリーンは『えーと』と、首をひねった。


『冥界は、死者の管理という点で、ひとつにまとまっている。この寄り合いを冥府という。それぞれの信仰ごとに分かれて活動しているが、死者の裁定という仕事はだいたい同じだから、ギルドみたいな感じだな。ここの神々は、程度はあれど真面目でルールに厳しい。よって、今回の事態にカンカンだ。積極的に、そっちに逃げ出した死者どもの情報を集めて犯人捜しをしている』


「犯人捜し? 」


『うん。神の協力が無いと人間の魂なんて、冥界からそう逃げ出せるものじゃあないからな。今回のことで、真面目に捜査に協力しないやつはその協力者かもしれないとまで言われれば、そりゃあ、必死に捜査するだろうさ。中でも伝令の神なんて一番忙しいのに第一容疑者なんだから、可哀そうだよな。やつは泥棒の神でもあるから、仕方ないことだがね』

 アイリーンは、知り合いのような口調で軽く話題にする。


『で、あとは、なんだったかな。……あ、そうだそうだ。今回の『審判』は、神々の予定より数十年早かったらしい。魔術師が皇帝に無理やり開始宣言させたせいだ。予定がズレて、冥府はそれにも怒ってる。やつら、百年単位でスケジュールを組んでいるからな。対応に追われるほど怒りが募っているんだ。だからな、喜べよ。冥府の神々は、魔術師一派というイレギュラーを認めていない。こいつらの捕縛に協力すれば、交渉の余地があるぞ。サリヴァン、おまえの腕の見せ所だ』


 アイリーンは耳まで裂けるような笑顔を浮かべた。それこそ蛇のような笑顔だった。


『おっと、呼ばれてる。そろそろ時間だ。また何かあれば呼べよ。じゃあな』

 アイリーンが手を振って背中を向けて歩き出すと、青い輪郭が風に流れる煙のように解けていく。サリヴァンは詠唱を止め、深く長いため息を吐いた。


「じゃあなって……」

「よ、よかったな! お師匠さん、元気そうで」


 ヒューゴが引きつった笑顔でサリヴァンの肩を叩こうとして、「あちっ」と飛び上がった。

 サリヴァンの体の周りの景色が揺らめいている。風も無いのに髪が揺れ、逆立たんばかりだ。

「サリー、漏れてるよ」


 ジジが呆れたように言うと、サリヴァンはおもむろに立ち上がり、山のほうへと歩いていく。


「悪いね。ちょっとだけ時間あげてよ。そのあいだ、こっちは情報を纏めとこ」

 皇子たちは心配そうに、サリヴァンが消えた方角を見た。




 サリヴァンは森に分け入り、きょろきょろとあたりを見渡した。木々と山肌の隆起が、うまく皇子たちからサリヴァンの姿を隠している。


「こっちだ」

 かけられた声に、サリヴァンは振り返った。青い燐光をまとい、少年が立っている。


「ジーン・アトラス……」

「きみか。冥界の気配が吹いたから、魔術師かと思って来たんだが。しかし、逆に都合がいい」

「魔力が流れる気配があったので……それで何か? 」

 ジーンは、アルヴィンの顔を悲痛に歪めた。


「たずねたかった。わたしの復活に使われた頭蓋骨を、あの子に返すことはできるかのか、と」


 サリヴァンは首を振った。

「わかりません。生贄を使って死者を蘇らせる魔術は、現代では失われています。おれにはその知識がない。戻したところで、もとのようになるとも言えない」

「……では、急いでくれ。アルヴィン皇子はレイバーンが抑えているが、それも限界が近い。加勢してあげてほしい。あの子を解放してやってくれ」

 ジーンは祈るようにサリヴァンへ頭を下げた。

「頼む」


「……そのためにここに来たんです」

「感謝する。わたしは引き続き、魔術師を探すよ。やつを叩けば、すくなくともやつが操る亡霊は消えて、この事態は好転するだろう」

 そう言って、ジーンの姿がふっと掻き消えた。気配の残滓も、霧の中に融けていく。


 たしかに、急がなくてはならない。この海層を冥界に沈めば、生者である人間は、本人がそうと分からぬうちに引きずり込まれるだろう。そのとき、最も早く影響が出るのは一度たしかに死んでいるアルヴィン皇子だ。あの体は、冥界にも適応するだろうが、一度変質したものをもとに戻すことは、きっと不可能だ。そういう意味では、頭蓋骨を取り戻したところで無理だろう、とサリヴァンは思っている。


(でも、師匠なら)


 神の奇跡があったなら。だからサリヴァンは、『わからない』と言った。

 ポケットに入れたままの銅板の存在を確かめる。サリヴァンには、奇跡は起こせない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る