五章 決戦準備

第18話 『皇帝』グウィン

 ●


 《 警告 》

 《 警告 》《 警告 》


 『フレイヤの黄金船』が、大きく揺れた。

「ダッチェス! 戴冠の儀式は完遂されたのか!? 」

「ええ! 」

「儀式が終われば船が落ちるってことか!? 」

「それはありません! 原因は別の何かですわ! 」


 絨毯の上に寝かせたままのサリヴァンを前にグウィンは少し悩んで、その体を肩に担ぎ上げる。魔人ジジは、サリヴァンの昏倒と同じくして、彼の『影』に戻っている。

 グウィンは頭一つ小さい自らの語り部を見下ろし、短く言葉を交わした。


「ベルリオズ。私にできるか? 」

「はい陛下。あなた様はもう『皇帝』です」

「そうか。みんな! 船を出るぞ! 」


 先導しようとしたダッチェスをケヴィンが支えた。

 代わりにまっさきに外へと飛び出したのは、語り部トゥルーズである。

 一歩、船から出たトゥルーズは、胸元をかすめた火炎にあやうく焼かれるところだった。後ろに倒れ込んだトゥルーズを抱えながら、その襟首を掴んだままのヒューゴが冷や汗をかく。


「っぶねえ……」

 ごちたヒューゴは、次の瞬間には、視界を埋め尽くすほどのの巨体に目を見張ることになる。


「それが貴様の答えか! アポリュオン! 」

 鋭い女の声が飛んだ。


 船の遥か上空に、炎の大蛇の額に足を乗せ、すらりとした姿が立っている。炎を背負った黒い影は、髪をなびかせて真紅の瞳をマグマのように滾らせていた。

 怪物――――アポリュオンの黒い巨体は、その炎蛇に照らされ、油で濡れたように赤く光っていた。馬頭についたくちばし状の口が開き、煤の混じった息を吐く。


「貴様が人であるのなら……ここで死ね! 陰王! 」

 アポリュオンの翼が泥のような黒い光をまとう。羽ばたきと共に飛沫になって飛び散るそれは、アポリュオンが持つ深淵から汲みだした毒であった。


「小僧ども! 」陰王が叫ぶ。

「何をしている! グズグズするな! 早く城に戻れ! 」


「あなたは」

「我が名はアイリーン・クロックフォード! 時空蛇の担い手にして陰王、『女教皇』の選ばれしものなりて! 」


 アイリーンが中空へ伸ばした手が、炎をまとって銀の錫杖を握る。それを火炎を掻き回すようにくるりと回し、アポリュオンに突きつけた。

 アポリュオンがより強く羽ばたこうとする。毒の風を遮って、あらたに生まれた鎌首を持ち上げた炎蛇たちが立ち向かう。


「――――――『皇帝』よ行け! 我が弟子を頼んだぞ! 」


 頷いて、グウィンは見えない回廊を駆け抜けた。

 皇子たちが消えた縦穴で、アポリュオンはまた煤混じりの息を吐く。苛立たしげに火花を混ぜた溜息を吐いたアポリュオンは、ゆっくりと何度か首を振った。


「……陰王アイリーンよ。もう一度言う。人の身にはこのアポリュオンの相手は荷が重かろう。素直にこちらへくだれ。さすれば貴様は丁重なもてなしを受けよう」

「気が変わったのはどういう心境の変化だ? アポリュオンよ、貴様こそ、先ほどまでは確かに退しりぞくつもりであっただろう? 」

「――――ああ。確かに。確かに……先ほどまでは闘気が失せていた……しかし、こちらにも事情があることを思い出した。それだけさ」

「そのとやらは、つまりこういうことか? 時空蛇わたしよりも、『魔術師』とやらのほうが恐ろしいと思い直したというところか? 」


 アイリーンは失笑した。「あれこそ、の亡霊だろう? ……これ以上堕ちるか? 奈落の王、深淵の怪物アポリュオンよ」


 アポリュオンの瞳が目に見えて怒りを宿す。

「――――貴様にわかるか! 」

 毒の唾を吐いて叫ぶアポリュオンに、アイリーンは錫杖を構えた。


「御託はいらん! ならば貴様と矛を交えるのみ! 私は一度も対抗する術がないとは言っていないぞ、アポリュオン! 見下し続けた人間ヒトの手で焼かれる屈辱を、その臆病な性根に叩きこんでやろう! 」


 ●


 ダッチェスは、皇子たちとともに薄暗い回廊を走り抜けながら、自らの短い手足を恨んだ。先導しているのは、同じ語り部のトゥルーズである。細身の青年の姿をした語り部は、かつて『無能王』と呼ばれた皇帝付きだった。この入り組んだ地下の迷路から地上へ出る道を知っているのは、この場では彼とダッチェスだけだった。


 語り部は、取る姿が主の心に依存する。だから純粋な力は、見た目には依存していない。しかし、この足の短さはそのまま足の遅さを意味している。ケヴィンの語り部マリアは、華奢な娘型の語り部である。ダッチェスは、そうそうに六世紀も若い彼女の腕に抱えられて回廊を運ばれている。女の細腕に見えても、語り部……いや、魔人ならば、疲れ知らずで子供一人抱えて走るなんて朝飯前なのだ。ダッチェスは手足を曲げて荷物に徹しながら、むう、と唇を尖らせた。


 ダッチェスと同じように、ベルリオズの腕の中にも運ばれている同行者がいる。第十八海層からやってきた少年魔法使い。コネリウス皇子の曾孫。その姿は、コネリウスに似ているところなどほとんど見受けられない。


(似てるのは声くらいかしら? )

 立ち上がった熊ほどもあったコネリウスの太い首から出ていた声と、この小柄な少年から出る声は、驚くほど似ている。人間と違い、永久に記憶が薄れることがない語り部のお墨付きなのだから、間違いない。


 不思議な気分だった。

 まるで、まだジーンとコネリウスがこの国にいたころに自分が戻ったかのようだ。彼らがまだ英雄では無かった時代、主レイバーンは、ようやく字が読めるようになったころで、レイバーンは双子を兄のように慕っていた。激動の時代が訪れる少し前、束の間の平穏であった。

 そのコネリウスの曾孫と、レイバーンの子供たちが、ここでこうして邂逅し戦っている。


 きっかけはアルヴィン皇子だ。あの、夭折が定められていた命をきっかけにして、ダッチェスが驚くことが立て続けに起こり続けている。

 人間には継承という機能がある。語り部の主への『愛』は、記録すること。物語として、永久に語り継がれるようにすることだ。語り部自身にも、かつての主の魔力とともに記録が残り、語り部ごと次の主へ継承される。


 ダッチェスの脳裏に、たったひとりの主に身を捧げたミケの姿が蘇る。

 語り部は、本体の銅板だけは、主にも見せないし触れさせない。それは心臓であり、脳であり、血肉であり、魂であるから。例外は、王を継承するときだけ。ミケはつまり、心臓も、脳も、血肉も、魂も、アルヴィン皇子ひとりの運命のために捧げたのである。


(ミケ。それは『愛』というものが成せることだったの? )

 ダッチェスなら、アルヴィンの命が潰えた時点で、その人生をどう描くかと考える。それが終われば次の主を待つことになるので、出会いに期待を持って眠りにつく。

 語り部の記憶は劣化することなく、過去の主の記憶は、記録として語り部の中に残る。愛すればこそ、語り部は主の死を恐れない。

 主の死は悲しいが、悲しみは、物語を紡ぐための良い材料でもあるのだから。

 そのとき、回廊を駆けるマリアの足が止まった。周囲を見れば、全員が足を止めている。


「どうしたの」

「ダッチェス様、道が……」

 マリアがおずおずと頼りない声で言い、前方を指した。暗闇のように見えたそこは、グウィンが灯りを向けると、その全容をさらけ出した。思えば、何度も大きな地揺れがあった。通路の一つやふたつ、崩れていてもおかしくなかったのだ。


「引き返しましょう。別の道を行くのよ」

 マリアの腕から降り、ダッチェスは短い腕を大きく振って、もと来た道を指し示した。

「だいじょうぶ! まだまだこれから。道はいくらでもあるんだから! 」


 指先から、ぽろぽろと黄金の光の粒がこぼれている。ダッチェスは慌てて、腕を袖の中に納めた。

(危ない、危ない。思っていたより時間が無いわね……)


 戻り、進み、また戻り。一行は、ようやく地上に顔を出した。

 空にはどす黒い雲が厚く垂れこめ、まるで岩を切り出したようだ。全員が、知らずのうちに細かい土埃を被っていた。

 王城地下は、やがて岩の洞窟に変わり、その出口は、鉱山跡とみられる山の中腹にあった。

 グウィンをはじめとしたアトラス兄弟たちは、サリヴァンの合図で外へ出た。低い裸木がまばらに繁っているだけで、見通しのいい急こう配の坂が、ずっと下のほうまで続いている。

 思っていたより小さく西の方向に王城が見えた。その下、南に城下町が広がり、さらにその先に墨を流したような黒い海が見える。

 ヒューゴがぺろりと唇を舐めた。


「こりゃあ二手に分かれるべきだな」

「そうだな。ケヴィンが限界だ」

「ちょっと待ってください! 」

 兄と弟の言葉に、洞窟の壁で休憩していたケヴィンは、慌てて立ち上がった。


「兄さん、僕はまだ大丈夫です! 」

「これ以上はおまえの体力がもたない。二手に分かれて、おまえはヒューゴと先に船を待つんだ」

「兄さん、僕は」

「兄貴。あんたは足手まといになるって、兄さんは言ってるんだぜ」


 ケヴィンが鋭くヒューゴを睨んだ。ヒューゴは伸びた顎の髭を触り、逞しい肩をすくめる。


「体力の問題だけじゃない。兄貴は精神的にも追い詰められてるだろ。自覚無いのか? 」

「そんなことはない! 」

「じゃあ自覚させてやる。国を出てばっかりの俺たちと違って、父さんの一番近くにいたのはケヴィン兄さんだった。父さんのこと、アルヴィンのこと。一番責任を感じてるのはアンタのはずだ。分断する意味もあるんだぜ。アンタの頭の中には、父さんとの仕事の一切が入ってるだろう。グウィン兄さんが皇帝となった今、仕事を引き継ぐにはアンタが死んじゃあいけないんだ。ケヴィン・アトラスほどの人が、そんなことも分からなくなってンのがヤバイって言ってるんだよ! ここまで言ったら分かるだろ! 」


 ケヴィンは青ざめた顔で苦し気に呻いた。その息は浅く、肌に血の気は無い。青い光彩の瞳は充血し、疲労に暗く濁っている。


「……わかった。でもヒューゴ、おまえは兄さんたちと行け。体力馬鹿なんだから」

 ヒューゴは片方の眉を上げていたずらっぽく笑った。

「いいのかよ? 」

「一人じゃない。マリアがいる」

「駄目だ! ヒューゴもケヴィンと行け! 」

 声を荒げたグウィンを、弟たちの四つの青い目が射貫く。


「いいや。おれは決めたぜ、兄さん。ケヴィンも港くらい行けるだろ。いい大人なんだから」

「陛下……いいえ、グウィン兄さん。これから父上に会いに行くのでしょう? なら、ヒューゴがいたほうがいい。こいつは逃げ足が速くて決断力にも優れている。成人男性一人の力は侮れません。親戚といえど、外国人の少年一人をあなたの伴にするのは、あまりに道理が違うでしょう。こいつなら、迷いなく迅速に、あなたの盾になるはずだ。そうだな? 」

「おーおー。ケヴィン兄上ったら言ってくれんじゃねーの」

「僕と違って、こいつは血の気も体力も残ってます。兄さん、僕は逃げるだけだ。でもあなたたちは戦いに行くんだ。ここでヒューゴを介助に借りて兄さんが死んだら、僕はヴェロニカ姉さんに顔向けできない」

「ケヴィン兄さんがこう言うんだから、おれは陛下のほうへ着いてくぜ」

「兄さん」

「王よ」

「……ああ、もう! わかった! 悪かったよ! 」


 グウィンは顔を拭うように手の平で覆って深いため息を吐いた。

「私にとってはね、お前たちはいくつになっても守るべき可愛い弟なんだってことを忘れないでくれ! 」


 ヒューゴとケヴィンは顔を合わせて肩をすくめた。

「兄さん、おれたちもう三十路男なんだけど? 」

「いくつになってもって言っただろ! 」

「爺さんになっても、『可愛い弟』なのか? 」

「当たり前だ! いいか、忘れるなよ。ぼくはまだまだモニカと結婚して我が子を抱くつもりだし、姪や、甥や、その子供や孫たちに囲まれて誕生日を祝ったり祝われたりするつもりでいるんだからな! いいか、お前たちの子孫もそこにいる予定だ! もちろんサリヴァンくん! キミもだぞ! おまえたち自身もだ! 一人残らず欠けるのは許さんからな! 」

「そこにアルヴィンはいるのか? 」


 ケヴィンが、はっと息を飲んだ。

「当たり前だろ! それがぼくの夢だ! 」

 グウィンは胸を張った。

「アルヴィンも連れて戻る! この国で、みんなで……! それがぼくの夢だ! 」


 無理だわ、とダッチェスは冷めた目で皇子たちを見つめる。皇子たちはまだ、アルヴィン皇子がどういう状況下にあるのかを知らない。どこかに死体でも転がっていると思っている。

 アルヴィン皇子を蝕むのは、よりにもよって神の作り出したもの。そこに宿るのは、皇子自身から生まれる感情だ。無限の燃料をもとに動き続ける永久機関。それが今のアルヴィンだった。


「……救えるよ」

 そのとき、心の中を覗いたように声がした。


「アルヴィン皇子を救いましょう。必ず生きて、兄弟全員がヴェロニカ皇女と再会できます」


 サリヴァンだった。

 眼鏡越しの目が、ちらりとこちらを見る。喋るつもりか。いまのアルヴィン皇子の現状を。

 皇子たちは絶望するだろう。無謀にも立ち向かい、『皇帝』を喪うかもしれない。


「待っ――――」

「うちのご主人様が、できるって言ってんだけど? 」

 ジジが子猫のようにダッチェスの襟をつかみ、口を覆った。目を細め、ニイ、と耳まで裂けるような笑顔を浮かべて、ひどく上機嫌だ。

「よかったね。このお話の結末は、ハッピーエンドになるんだよ」

(ああ……)



黄昏の国フェルヴィン。

赤い空に沈む国を一望しながら、ダッチェスは、自分の胸の内に問いかける。

 主の命を救おうとしたミケ。

 何もしないで見届けた自分ダッチェス


(……ねえ、レイ。あたし、これで良かったのかしら)

 ダッチェスには分かっていた。

(あたし、どうしたら良かったのかしら……)


 あのときレイバーンは、『気にするな』という意味で、「大儀であった」と口にした。


(嗚呼……! あたし、認めるわ! ミケがうらやましいと思ってる! このあたしが、うらやましいと! そう思ってるのよ! レイ! あなたがそうしたの! )


 ダッチェスはインクに汚れた指先をさすった。西の空の下にある灰色の王城。そこにいる主を想って祈っていた。

(あたし、いま会いに行くわ……待っていてね。レイ)

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