第17話 意志ある魔法

 ●


 両断された銅板がアルヴィンの膝を打ち、カラカラと音を立てて床に転がる。

 霞を掻き集めるように虚空に両腕を伸ばしかけ、それがもうどこにも無いことに気が付いたとき、アルヴィンは膝を折って、語り部の亡骸に――――魔法が解けた銅板に覆いかぶさって慟哭した。

 魔術師が手を掲げる。


「っ! 返せぇッ! 」

 銅板の片割れが、見えない糸に引かれるようにして、魔術師の手に収まった。


「返しませんよ。あなたの魔力に染まった銅板。これも大切な材料ですもの」


 魔術師の足の裏が、地を離れた。巨神の像を背にして、魔術師はミケの生れの果てを掲げる。


「この国は魔女の墓。魔女の亡骸はここにある。墓守の血もここに五人……あとは魔女の末裔だけ。……ははっ、ははははははっ! 」


 魔術師は膝をつくフェルヴィンの王族たちを眼下に望み、高々と哂った。


「はははははははは……! 」

 笑い声にあわせ、躍るように青い炎が燃え上がる。

 アルヴィンは、目蓋を掻きむしりながら床に額をつけた。視線が勝手に犠牲者たちを数えてしまうことが恐ろしかった。


「さあ……選定が始まる。審判が始まる」

 「逃げろ」と亡霊となった父の声が言う。アルヴィンの身体は氷像のように固まって動かない。


 今度は下から風が吹いた。

 いいや、それは風というよりも波だ。押し寄せ砕ける冬の海の大波に似ていた。氷のように冷たい冷気を乗せた衝撃。屈強なフェルヴィンの男たちの呼吸が止まる。

 アルヴィンは、自身の軽すぎる身体が渦に巻かれながらもがいた。顔をかばって突き出した自分の指越しに、激しく揺らめく青い炎を見る。

 その炎の中に見上げるほどの巨大な髑髏が浮かび上がり、揺らめきながら、屍の手足が溺れて漂っている。

 アルヴィンはつい、その小枝のような指先へ手を差し伸べ――――髑髏の眼孔と視線を交してはじめて、はしった本能からくる悪寒に、それが間違いだったと知った。


 その髑髏の腕は、いつしか立派な剣を握りしめている。剣先が上がり、ぬらぬらと煌めく鋼が、アルヴィンの顎の下へとなめらかに添えられた。音のない世界で、炎の向こうで叫ぶ父や兄の姿。


 魔術師の声が響く。

「冥界より来たれ! わが手駒! ……!肉体は滅びても魂はこの墳墓にある! 今こそ新たな物語を刻む時だよ!


おいで! この手を取るのだ! ジーン・アトラスッ! 」


 視線を交かわしている髑髏に、肉を持った肌が重なっていく。がらんどうの眼孔に、輝くような青い瞳が収まり、青い血の透ける白い瞼がその上に降りた。瑞々しい白い頬から続く首から下は、老人のままに乾いている。


「老いて病に屈した貴様に、再びの美貌と栄光を与えよう! 蘇るのだ! 虚無と絶望の生者、アルヴィン・アトラスの頭蓋骨を糧として! 」


 アルヴィンは炎の中に見た。

 かの皇帝が、微睡みから覚めるように再び瞼を開き、アルヴィンに向かって悲しげに青い瞳を揺らめかせて遠ざかる。

 交差し、結ばれた視線は、アルヴィンの意識が闇に閉ざされていくことで離れ、アルヴィンの意識は無音の暗黒を切り裂くように、どこまでも果てしないところへと落下していく。

 魂が剥がれ落ち、冥府へと流れて行こうとするところを、ミケは手を伸ばして押しとどめた。


「わたしは『宇宙』の選ばれしもの。……わかりますか? 」

 ひとかたまりの青い炎は、ミケの手の中で激しく揺らめく。

「そう……まだわたしが分かるのですね。嬉しい」

 ミケは微笑んで、炎に問う。


「私は『宇宙』のさだめもつもの。神の審判を見届けるもの。貴方を導くもの。貴方の旅路を記すもの。これはもう、わたしには必要ない。あなたが生きたいと望むのなら、今、私は貴方と一つとなり、果てるまで添い遂げましょう」

 ミケは、手にあるものをアルヴィンに差し出した。


「これは鍛冶神が創りたもうた銅板。もっとも古い魔法が宿るもの。あなたが望めば、あなたのままに失った体を補い、現世へ戻ることができるでしょう」

 ミケは青い炎に頭を寄せ、その声なき声へ耳を傾けた。


「……行ってください。アルヴィン様。どうか、どうか、ミケをすべて連れてお帰りください」


 ミケの手が、ぽん、と炎を空に押し出した。

 闇の中でそれをひとり、見上げていたミケは、銅板を含んだ炎が、どんどんあかあかと大きくなっていくことに気が付いた。

「なぜ……どうして。……そんな! 」


 真紅の炎はアルヴィンを包み、青い炎の膜を突き破りながら浸食していく。頭蓋骨を失った肉体を拾い、再構築を開始する。顔に、頭に、焼け付くような熱を感じていた。首の皮膚が焦げる臭いがする。ちっぽけな体のちっぽけな拳を、溶けた金属が肉を焼き焦がしながら飲み込んでいく。

 銅板は意思のままに、魂と肉体の両方を犯しながら、作り替えていく。


 どうしてこうなったんだろう。

 もうアルヴィンには分からない。

 アルヴィンの中で、取り戻せと木霊するものだけがある。

 彼はとにかく怒っている。怒っていた。怒るしかなかった。


 ――――この世界すべてに怒っていたからこそ、蘇ったのだ。


「……ああ、どうして」


 ――――ねえ、これ見て!

 青い瞳に、わたしの影が映っている。

 幼い指先に導かれた先は、少年の狭い膝の上だった。そこに、危うい均衡で広げられた本の中にある【青い空】というありふれた形容詞。

 我々『語り部』には、当たり前に情景とともに登録されている言葉の一つでしかないそれ。

 ――――空が青いって不思議だね。

 この国にいる限り【青い空】を知ることは無いのだと、わたしはその時、ようやく察した。

 雲は白いものなのですよ、と教えると、主あるじは青い瞳を、いっそう煌めかせる。

 その瞳の澄んだ『青』こそ、わたしにとっては、ありふれた空より尊いものだった。


 ―――大人になったら、見に行けるかなあ。青い空とか、星……だとか。

 見られますとも。


 ――――ほんとう?

 語り部は嘘をつかないのですよ。

 主は唇を尖らせる。


 ――――それは嘘だ。ミケはぼくに、『夜はおばけが来る前に寝なさい』って言うじゃない。

 おや。それはノーカンというもの。嘘は方便というものがあるのです。まだ小さなアルヴィン様に早寝をおすすめするのは、語り部の特別処置なのです。


 ――――ミケはむつかしい言葉を使う。ずるいぞ。

 ずるくありません。ミケは語り部ですもの。


 ――――ミケはいつまで語り部なの?

 それはどういう質問ですか?


 ――――その……ミケはいっしょに、空、見れる?

 見られますとも! だってミケは、ずうっと語り部です。ず~っと、アルヴィン様が死んでしまうまで、ミケはあなたの語り部です。


 ――――……ほんとう?

 しろい肌が、頬だけべに色に染まっている。

 こんな美しいものをずっと瞳に映していることが、わたしにとって何よりの幸福であった。

 だからわたしは、約束したのだ。


 ――――――一緒に、この本の中にあるようなところ、連れて行ってくれる?

 アルヴィン様。語り部はアルヴィン様を連れて行くことはできません。アルヴィン様が、わたしをそこへ連れて行くのです。


 ――――――わかった。ぼく、ぜったいミケを連れて行く!

 ……ええ。ええ! お待ちしています!

 あなたと夢を見た。

 語り部であるわたしにとって、何より美しい『未来』という夢を見た。

 あの約束が忘れられない。

 ……あぁ。だからわたしは。

 人は死ぬ

 語り部は傍観者にして記録者である。

 人は死ぬ。

 いつか忘れ去られる。

 どんなにその人を愛していても。

 そうして消える。

 抱いた夢も、願った未来も、不確定のまま忘れられ、そして消える。

 消えるのは、魂というものかもしれないし、別の何かなのかもしれない。それを観測する術は、我々であっても存在しない。

 けれど、消えるのだ。消えてしまう。

 わたしたちは、それを何よりも恐れている。

 我々の伝記とは、人を永遠にするすべ。

 功績も悪徳も、ありふれた日常ですら、物語として編み上げれば、それは永遠になる。

 ある語り部は、主の人生を長い一曲の音楽にした。

 人々はその曲を聴くたびに、とある国の愚かな王のことを思い出す。血にまみれた歴史と、その歴史の登場人物たちを思い出す。

 永遠になるとは、そういうことだ。

 語り部は、どうあっても主に置いて逝かれる。遺ってしまったものが、故人を忘れないでほしいと願うのは、人間も語り部も同じこと。だからわたしたちは、主を物語にするのである。

 それが定められた役目だとしても、それすら言い訳にして、紙にペンを走らせる。

 大義名分。まさにそう。だからわたしたちは、自分の仕事に誇りを持っている。

 だからわたしは。

 語り部は置いて逝かれるものだ。

 だからわたしは。


 ――――ああ。まだ幼いあなたを、まさかわたしの方が、置いて逝くことになるだなんて。

 だからわたしは。

 わたしは……。

 憶えている。

 まだ憶えている。

 そのことに安堵する。

 わたしは知っている。

 あなたの好みも。

 あなたの嫌いなものも。

 あなたの夢も。

 あなたの願いも。

 あなたの痛みも。

 あなたの恐怖も。

 あなたの闇も。

 あなたの希望だったものも。

 あなたの心を切り裂いた、あの夜の記憶ことだって。

 あなたがあなたであるための全てを、わたしがまだ憶えている。

 あなたが忘れてしまっても。

 誰もが、あなたを忘れてしまっても。

 だからわたしは。


 ●


 ミケは嗚咽して崩れ落ちた。

「どうして……」

 吠えて何度も水を叩き、全身を震わせる。

「どうして……! 」

「思い出したのか」


 うずくまるミケを見下ろして、サリヴァンは額を押さえた。

「大丈夫? サリー」

「……けっこう堪えるな。どっと疲れた」

「戻ったら何か食べなきゃね」


 しかし、ミケは動けるようすではない。ジジは「仕方ないなぁ」とばかりのため息を吐いた。


「おい、小娘」

「またお前……」

「いや、十四歳だし! こいつは純然たる小娘でしょ。なあ、おい。聞こえてる? 」


 ジジはミケの肩をつかんで引っ張り上げた。そのまま襟首をつかみ、ぐい、と引く。

「聞こえてんの? おい小娘。ボクの言ったこと忘れてんじゃないだろうな。その小汚い恰好は何? さっさとしろよ」

「おい。カツアゲみたいになってるぞ」

 ついにはペシン、と頬を張る。サリヴァンは「おいおいおい」と顔を歪めた。

 ミケの目が、ジジをぼんやりと見つめる。


「その恰好、どうにかしろって言ってんの。わかる? 思い出したんならできるよね」

 ミケはぐす、と鼻を鳴らして自分で立った。ジジがいつもそうしているように、ミケの姿が表面だけ霞んで服が変わる。地面につくほど長い髪も、ひとりでに三つ編みに結われていった。


「……できました」

「それ、語り部の制服? 」

「はい」

 語り部でそろいの服は、金ボタンで彩られた詰襟の黒衣だ。ミケのものは上着の丈がやや長く、すとんとしていて、その裾から膝が見える程度のズボンに、黒革のブーツをあわせている。


「ふーん。ま、いいんじゃない。それがいちばん着慣れてるもんね」

「うう……」

 主のことを思い出したのか、ミケの目がまた潤む。ぐすぐすと泣き出したミケの頭をぺし、と叩き、ジジは「馬鹿だね」と言った。


「あんた、人間に近づきすぎたんだよ。ボクらは人間のように扱われても人間じゃない。人間みたいに擬態してたって、人間にはなれないんだよ。気づくのが遅れたね」

「その差が分からない。どうしてみんなは、この別離に耐えられるの? 」

「経験だよ。この世界にいるのはひとりじゃない。千でも万でも足らない。人間というものは、うじゃうじゃと常に増え続け、無限に思えるほどの数がいる。それを実感すると、おのずと目の前のひとりも儚くちっぽけなものだと気づく。そいつに永遠はない。生と死、出会いと別れ。人生に生まれ変わりなんて連続性はない。始まったら終わるものだと割り切るんだ」

「でも、そんなの……」

「残酷だって? 違うね。始まりと終わりという制限があるからいい。ルールの範囲内で楽しむほうが燃えるもんなんだよ、こういうのはね。いいかい。ボクは世の中に、三種の人間がいると思っている。①資源ごみ ②腐った肉 ③その他だ。③の例外だけが、ボクにとっては憂いを持つに足る。別れまでの期間、ボクの時間を費やす価値がある人間を少しの数持つだけで、ボクらの長い長い悠久の時は少しだけ充実するんだ。語り部の『主人』って、つまりそういうことなのさ。つかの間、隣に侍るなら、好みを選んだほうがいい。愛してもいい。別離のあとは、新しい出会いを選べばいい。孤独の傷は癒えるし、新しい主人をまた愛す。愛をひとつだと思っているなら、それはあんたの経験不足だ。過去の愛の現在の愛は同時に持つことができる。そういうシステムになっている」

「アルヴィン様を、わたしは救うべきではなかったと……? 」

「さてね。それを断じるほど、ボクは無責任じゃない。アンタやアルヴィンサマ自身が、自分で結論づけることさ」


 ミケは、グッと唇を噛んだ。眼球に残った涙を落としきるように瞬いて、一度、ぎゅっと目をつむる。胸の前で握り込んだ両手は、こぶしのまま体の横におさまった。


「で? サリー。さっきから何か言いたげにしてるけど」

「……終わったか? じゃあジジ、交代だ。ミケ、聞いてくれ」

 サリヴァンはコートの裏地に縫い込まれた隠しポケットから、あの銅板の欠片を取り出した。


「アルヴィン皇子を取り戻そう」

 ミケの目が丸くなる。

「ああ……っ」

 ふるい落とした涙が、また流れ出す。サリヴァンはしっかりと頷いて、眼鏡のレンズの奥からミケの瞳を射抜いた。



「大丈夫。やれるよ。皇子の心を取り戻そう」

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