第16話 『魔術師』

 ●


 おそらく六日目が来た。


 ひどい悪夢が尾を引いて、脳幹の奥を締めあげている。

 いつか地面に砕かれた右肩の骨は、もうすっかり治っているはずなのに、にぶく感覚がなくなるときがある。

 ここに来てからというもの、正確な時刻は分からなかった。食事と、眠りについた回数で測っている。何時だろうと部屋は明るく照らされていて、しぜんと眠りは浅くなった。


 今日だ。アルヴィンは思った。兄たちは、一日にひとりずつ連れていかれている。


 ……次は自分だ。


 アルヴィンは二度寝する気も起きず、姉の背中を感じながら寝台で壁を睨んでいた。

 そのときだ。


『アルヴィン様』

「ミケ」

『声を出さずに、言葉を』


 ミケは、ことのありさまを語った。父は毒に斃れていくばくもないこと。ミケは誓約を破り、消え行くさだめにあること。それまでに、ダイアナとともに二人を逃がす算段をつけていること。


『申し訳ありません。あなたの継承権を、ミケの勝手で失うことに……』

(そんなこと、どうだっていい)


 そう。本心からどうだってよかった。王になりたくはないし、王になれるとも思ったことはない。

 アルヴィンは涙の味をする唾を飲んだ。そして、頭の中にあった計画を、実行するべきだという確信を持った。


(姉上だけは、確実に逃がさなくてはならない。……それこそが皇子である僕の使命だ)


 ドアが開くのは、一日にきっかり三度。朝食を運んでくる深い緑色のローブの何者かは、必ず食事が終わるまで扉の脇に直立で張り付いている。

 朝食が終われば、奴がアルヴィンを連れて行くことが分かっているので、ヴェロニカは小鳥が啄むようにスプーンを口に運ぶ。初日に食事を突っ返して反抗したヒューゴ兄が、引きずられるように連れて行かれたことはまだ記憶に新しい。

 一口ごとに毒を飲むような顔で食事を進める姉を前にして、アルヴィンは食器を置いて立ち上がった。


「……アル」

 ヴェロニカが、優しく垂れた眦を釣り上げて弟を見る。いつもの弟たちを叱りつけるときの表情だったが、ひどく青ざめて、頬骨のラインが頭蓋そのものの形を思わせるほどに強張っている。白く握りしめられた手の中で、握った銀食器がぐにゃりと曲がったことにアルヴィンは仄かに笑う。本来の姉は、肉体的にも精神的にも兄弟でいちばん強靭な人間だ。


「姉上。ぼくに任せて座っていて」


 姉が見上げてくる。噛み締めた唇から血が滲んでいる。ぶるぶると体を震わせて、彼女は冷たく燃え上がる怒りの衝動に耐えていた。

 王族は、しかるべき時に死ぬことも役目であると知っている。アルヴィンは扉の前に立つ給仕係に向かって、「ミケ」と声をかけた。あらわれた語り部に、ヴェロニカが目を丸くする。


「姉さんが寝ているあいだに、ダイアナとミケが一緒に帰ってきていたんです」

 アルヴィンは事の概要を説明する。とちゅうからミケが話をかわり、詳細な計画が明かされた。

 ヴェロニカは、きっと反発するだろう。だから、ミケの消失が近いことやアルヴィンの意図は隠して、ただ『二手に分かれて逃げる』と説明するよう打ち合わせていた。


 アルヴィンは給仕に連行されるふりをして、牢を抜け出す。時間差でヴェロニカもダイアナとともに脱出だ。後に引けなくなった段階でダイアナから説明があれば、ヴェロニカは涙を飲んで、城に戻る選択を捨てるだろう。


 アルヴィンの足は、しぜんと駆け足になった。語り部しか見つけられない古代の隠し扉をくぐり、物陰に身を隠しながら、時機を見る。

 アルヴィンは陽動である。つまり囮だ。


 目指すのは、海に面した端の城壁にある鐘楼だった。大きな黒い鐘があり、その音は首都の端まで届く。それが鳴れば、けして無視できるものではない。


「つ、ついた……」

「アルヴィン様。ここは見通しが良すぎます。早く塔の中に」

「わ、わかったよ」


 フェルヴィン人の仕様の階段は、小柄なアルヴィンには一段一段が高い。上りきったときには、汗みずくになっていた。

 久しぶりの海風が、濡れた顔を撫でる。

 息を整えながら、アルヴィンは海と、街の明かりに魅入った。


「……よし」


 鐘を鳴らすための杖が、塔の端に立てかけられている。これを鐘の留め具に引っ掛け、引くことで、鐘の音が鳴るのだ。

 アルヴィンはミケに杖を引っ掛けてもらい、手を伸ばして天井からぶら下がる先祖伝来の鐘に触れた。


「……頼んだよ」


 警鐘は三回と決められている。肌がびりびりと揺れるほど高い音に、アルヴィンはひるみそうになった。揺れて戻る鐘を、三回目で止めなくてはならない。それにも杖をぐっと引き、ゆっくりと元の位置に戻すのだ。


 踏ん張るアルヴィンの両手の間を縫うように、ミケの手が添えられた。振り子になっていた鐘がぴたりと停止し、ゆっくりと戻される。

 耳の奥でまだ鐘の音がしていた。肩で息をして垂れてきた汗をぬぐい、はっと我に返る。塔から見えるかぎり、まだ人影はなかった。


(どうしよう。すぐに逃げる? でも、もし鐘の音が地下の奴らに聞こえていなかったら)


「もう一度だ。時間をあけて、もう一度鳴らすぞ」

「アルヴィン様! でももう逃げなくては」

「ここは見晴らしがいいから、誰か来たらすぐ逃げるか隠れるかすればいい」


 アルヴィンは塔の外壁に目を向けた。靴底三枚ぶんほどの段差があり、そこなら足場になるだろう。アルヴィンの体躯なら、海側の壁を選んで身をかがめるだけで十分隠れられる。


「僕はやるぞ、ミケ」

「……はい。お供いたします」


 次は半刻後にすると決めた。塔は音が響く。上ってくる足音があれば気づくだろう。ミケは警戒のため、隠形して塔の屋根の影からあたりを見張る。


「……城門のほうに民が集まってきています」

「そうか。あたりに敵の影は? 」

「ありません。まだ」

「そうか」

「……アルヴィン様。勝手をしてすみませんでした」

「そうだな。たしかにそうだよ。……お前は勝手に死にかけてる」


 アルヴィンは膝を抱えて、視界にあるものすべてを睨みつけた。


「 語り部の『舌の誓約 第二条』には、『語り部はあらゆる虚偽とごまかし、曖昧で誤解を招くような文言を禁ず』とある。知ってのとおり、僕は誓約をぜんぶ覚えてるんだ」


 ミケはくすくすと笑った。

「我々は意志ある魔法……生命あるものではありません。魔法は解ければ、宇宙の法則に戻るだけ。それは死ではないのですよ」

「今さらぼくが……兄さんや姉さんが、お前たちをそんなふうに見ているわけがないだろう? ……意思があるなら、それは命というんだ」

「貴方様なら、そのように仰ると思っておりました」

「主人を泣かせておいて、何がおかしいんだ。ぼくはもう十四歳だ。こんなところで泣いてる場合じゃあないのに……くそ」

「……アルヴィン様」

「……ききたくないなぁ」

「お願いです。きいて。これがきっと最後なのです」


 アルヴィンは黙った。声に聞き入るために瞼を閉じた。


「アルヴィン・アトラス様。わがあるじ。運命とはつかみ取るものではございません。向こうからやってくるものです。歴史上数々の英傑が、英傑たる者になったきっかけとは、運命という暴走車に正面衝突されたようなものでございます。そして、危機となれば救けの手がどこぞより降ってくる。……ですから貴方は、この身勝手なミケに、勝手の『手』に救われて生き続ける運命なのです。いいですか、私は今から、とても残酷なことをします。貴方は傷つくことでしょう。傷が癒えた後も、ふとした時にミケがいなくなって、困ることもあるでしょう。貴方から見える現実は、物語のように脚色されません。数々の心無いものたちが、貴方の心を挫くじかんと待ち伏せています。しかしどんな困難も、これを乗り越えた先にいる貴方なら、何一つとして恐れることは無い」


 ミケの手がアルヴィンの手を取った。痛いほど握り締めてくる手を同じだけの力で握り返し、アルヴィンはそっと瞼を開けた。

(おまえのそんな顔は見たくなかったよ)


「アルヴィン様は類まれなるイケメンで、勇敢で優しく、頭がいい! アルヴィン様の語り部であることは、ミケの最大の誇りなのです」


 瞳から溢れてくるものがある。

「……ミケ。僕はおまえの声が好きだよ」

「自慢じゃありませんが、わたしはアルヴィン様が生まれたときから全部が好きですよ」

「……ああ。僕はなんて弱いんだろう」


 顔をぬぐい、顔を上げて早くも見慣れた鐘を見上げる。その向こうに、城があり、山があり、空が見えた。


(死ねなくなってしまった)

 どしんと重いものが、喉を通って胸に落ち、腹に収まる。語り部ルナに救われた英雄コネリウスも、こんな気持ちだったに違いない。

 アルヴィンは何があっても生きなくてはならなくなった。ミケが誇るような人生を送るよ、と誓うこと。それは今のアルヴィンにとってどんなに難しいことか。


 けれど、ここで逃げるという選択は、留学先から逃げ出したあのときよりも悪くない。苦しくても、その先にあるものを踏み越えていけば、必ず目の前の魔人は喜ぶと分かっているからだ。


 アルヴィンは鐘を見上げた。

「……時間だ」

「はい」

「何のだい? 」

 頭の後ろで、低い男の声がした。


(ばかな、いつから)

 振り返った先、塔の外。空中に、赤い蓬髪の男が犬歯を見せて笑っていた。体を青い炎が取り巻き、男はそれを踏みつけて飛んでいる。アルヴィンが鐘に飛びつき、杖をつかんで引くのと、男が具足に包まれた腕を伸ばしてアルヴィンの襟首をつかむのは、ほんの一瞬の差でしかなかった。

 息が詰まり、アルヴィンがくるしげに呻く。

 一回目の鐘の音が響くなか、男は獰猛に口を開けて笑いながら塔の外壁を乗り越えた。


「アルヴィン様! 」


 屋根から影色をした大蝙蝠が羽を広げて男に襲い掛かる。男が煩わしそうに軽く右手を振って蝙蝠の被膜を破くと、ミケはこんどは鋭い爪を持つ猛獣へと身を転じ、太い脚を持ち上げて男に覆いかぶさった。男は、掴んだままのアルヴィンをぐい、と引いてミケに向ける。ミケは主人の体を盾にされて、とっさに猛獣から無数の蝶に変じた。

 二回目の鐘。


「小賢しいなぁ! 」


 男は鐘に負けない声で叫んだ。「小賢しいガキは、だいっきらいだ! 異教徒の、小賢しいガキは、もぉおおっと嫌いだ! 」


 異教徒。

 もはや物語の中でしか聞かない言葉だ。ではこの男は、僧兵なのかとアルヴィンは思う。


 赤毛の虎のような男は、アルヴィンをつかんだままの左腕を、ぐん、と持ち上げた。丸太のような腕にぶら下がったアルヴィンの足が、慣性でなびくほどの力。それを、揺り戻しで戻ってくる鐘に向けて突き出すようにした。


「アルヴィン様ッ! 」

 ――――ああ、死ぬ。

 三回目はひしゃげたような、いびつな音がした。


「……ミケ」

「小賢しい……」


 男が獣の威嚇に似た唸り声を、喉の奥で響かせる。

 鐘を背負うようにアルヴィンをかばう、大きな質量を持った影。ミケはその瞬間、自分の中に確かに広がりつつあった崩壊の罅が、稲光のように根を張っていくのを感じた。


「小ォオオ賢しイッ! 」

 激高した男が、癇癪のように腕を上から下へ叩きつける。そこにあったのは、アルヴィンの頭だった。


 ●


 目を覚ましたアルヴィンの視界は、黒く滲み、色が無かった。

 体が揺れている。どこかに運ばれているのだとわかった。


(まだ生きている)

 けれどきっと、もうすぐ……。


 アルヴィンは思考を振り払い、明滅する視界をあたりに向けた。また地下に戻ってきたらしいことだけが分かる。


(ミケ……)

『……アルヴィン様』

 か細いミケの声がする。

(逃げなくちゃ)


 ぐわん、と音がして、あたりがわずかに明るくなった。閉じた覚えのない瞼を開けると、そこにはがらんどうの広間が広がっているのが見えた。淡く輝くような白い壁と、奥にある祭壇には、アーチを描く高い天井までつらぬくような、祖神アトラスの像がある。

 乱雑に落とされても、もはや痛みは遠かった。


「それがアルヴィン皇子? 死んでいるのですか」

 自分の名前を呼ばれて、アルヴィンはその声の主を探して顔を上げた。

 纏うのは広間に同化している白灰色のローブ。それは銀と黒の糸で縁取りと意匠を施された布を引きずって、持ち上げた指の先まで、同色の手袋に覆われている。


「おや、生きている」

 鼻の下まで垂れ下がったフードの下で、『それ』が笑う気配がする。


「お会いできて光栄です。アトランティス末裔の子。アルヴィン・アトラス皇子殿下」


 アルヴィンは首だけを持ち上げたまま、プッと床に唾を吐いた。その唾が真っ赤で、少し笑える。


「……小賢しいなアこのガキ。なあ、殺しちまいたいんですがね、これ」

「……お前はやりすぎだ」


 赤い僧兵でも、灰色の魔術師でもない声がする。アルヴィンが探すまでもなく、その長く艶やかな黒髪の、顔の右半分を仮面で覆った男は、死角からあらわれてアルヴィンを覗き込むようにしゃがみこんだ。籠手をはずした冷たい手が頭をまさぐり、傷の具合を見る。


「ほとんど死にかけではないか……かわいそうに。わたしのほうが先に見つけていれば、穏便に連れてこられたものを。運が悪い小僧だ」

「ふふ……でも生きているなら、素材として問題はありません。その月の化身のごとき髪……瞳…………。『これ』ならば間違いない」

 黒髪の男が、場所を譲るように立ち上がった。その横顔と仮面の隙間から、肌が大きく爛れているのが見える。こんどは魔術師が覗き込んでくる。醜いされこうべの頭がそこにはあった。


「ねえ、ここは王城のどこだと思います? 」とうとつに、それはアルヴィンに問い、自分で解答した。


「墓場なんですよ」ローブの下の影が笑う。


「この講堂の正体は、王城の地下にある、アトラス王家のいにしえの墳墓。……とはいっても、アトランティス王国では火葬したあとの散骨が慣習だとか? なんでも、人は水から生まれて火に還るとか?ああ、そういえば今は、フェルヴィン皇国というのでしたか。まあいいでしょう。時代は変わる。しかし、すべての枝を辿れば根に集束するように、ここに遺骸が無い事実が、君の不運です。大切なのは、ここがアトラス王家の墓場だということです。ここはアトランティスの皇帝のためにある斎場。儀式上の『墓』。肉体は火にくべられ、材料たる土に還り、魂はこの『場』にあるとして、人は祈る。祈るための……そういう名目の『墓場』。魂がここへと至るとされるのならば、わたしはここに立たねばならなかった。君という、材料を据えて」


「いったい、何を……」


「今回の催しの目的ですか? 魔女との誓約を果たすための準備です。この世を創造した神々の試練を果たすがため、約束された世界改変を賭けた大戦! その戦の準備です! 」

 『魔術師それ』はうたう。


「神の怒りに触れたアトラスの国アトランティス。地の底、タルタロスに沈んだ魔女の墳墓より、雲海を抜けた天空の神殿へ――――鉄の世代の今こそ、魔女と神々が交わした約定が果たされる! 」

 広大な広間に反響したそれが、アルヴィンの肌に凍みて粟立たせていく。

「それこそが!王道への筋書き! 魔女の預言をくじき、天上の神々を地に落すのです! 」


 そのときだった。

 言葉をさえぎるように、広間にいやな匂いのする大風が渦巻いた。

 灰色のローブがはためき、上がっていた腕が『興が覚めた』というようにパタリと落ちる。硫黄の臭気をまき散らし、床に積もった埃を舞い上げながら、新たな姿が渦巻く風の中から編まれる。

 その醜悪な巨体に、アルヴィンは畏れ慄いた。


「いつまで道化を続けるつもりだ? 神官ピューティアよ」


 ――――頭は馬に似ている。

 しかし、アルヴィンの知る馬とはかけ離れていた。


 巨躯に、ねっとりとまとわりつく硫黄の臭気のする黒い靄。脂光りするような黒い馬頭に、昆虫のような黒いだけの瞳と口を持ち、胴も、腕脚も、三股に分かたれた大木のような蛇身である。醜悪な赤黒いまだらのある鱗は、毒のある茸のようだ。腹は倦んだような黄色みを帯びていて、そこから鋭い棘のついた甲虫の肢が、無数に生えている。背中から床へ黒い皮膜が垂れ下がっているが、それはおそらく、翼のようだった。


「……まあ。出番はまだ先ですよ。アポリュオン様」

「不遜にも我が名を口にするか? 神官ふぜいが」『アポリュオン』は吐き捨てた。

「いつまで待たせる? わが軍は腹ぺこだ! いつまで我が子たちにひもじい思いをさせねばならない? 」


 それはねっとりとした卑屈な声色で、アポリュオンに投げかけた。

「三千年待たれたのでしょう? あと二日ほどお待ちいただけませんか」

「不遜な! 」

「しかしあなた様は、もはや奈落の王は返上なさったでしょう? あなたも、あなたの軍団も、わたしの手駒のひとつにすぎないのですよ」

「貴様――――」


 床に垂れ下がっていた黒い皮膜がバサリと広がった。

 息が止まるほどの硫黄の臭気がたちこめる。馬頭にある濁った黒い瞳が見開かれ、臼のような切れ目のある口が、がりがりと恐ろしい音を立てて鳴った。


「そしてわたしは、『神官ふぜい』などでもない」


 相対する『神官』は、何かを持ち上げるように差し出した腕をアポリュオンに向ける。


「よりにもよって、神官などと! どちらが不遜なのか! おしおきです!」


 ローブの腕が、持った何かを叩き落すように振り下ろされた。アポリュオンの白目のない瞳が、青紫に濁って『ぐしゃり』と皺が寄る。臼のような歯が、奇妙に歪んで、バグパイプを滅茶苦茶に吹き鳴らしたような断末魔が響いた。

 アルヴィンが目を逸らす暇もなく、見開かれた目に映ったのは、アポリュオンが捻じられながら、『圧縮』される姿だった。


 空間にまき散らされる水分に乗って、いままでにない硫黄の臭気と、はっきりと腐臭と取れる悪臭が混じり合い満たされる。

 『神官』が苛立つ様に肩を上下させ、袖をひるがえすと、あたりに立ち込めていたアポリュオンの名残りともいえる霞と臭気は、なにごともなかったように消え去った。


「わたしのことは、ぜひとも『ドゥ』とお呼びください」


 おそらくそれは、アルヴィンに向かって言われたのだろう。しかしアルヴィンには、頷くほどの余裕もなかった。膨れ上がる恐怖の殻に穴をあけたのは、やはり、ミケの存在である。


「……時を待つのです」

 アルヴィンは項垂れるふりをして頷いた。

(……大丈夫。ぼくは必ず生き延びる――――)


 しかし、そのミケが言った。

『現実は物語のように脚色されない』と。


 両手を広げた『魔術師ドゥ』を中心にして、溶けだした氷像の姿を逆再生したように、何もない床から『それら』は現れた。

 その場に現れた四人の男は、まるで息を吹き返したように、背中を丸めて咳き込んでいる。懐かしいほどに見慣れた姿。

 息をしている。


 ――――生きている!


「兄さん! 父上……! 」


 腕を鎖で拘束され、血の気が引いた顔は憔悴してはいたが、傷らしい傷は見当たらない。そのことに、まずアルヴィンは安堵した。

 しかしそのアルヴィンの姿にこそ、兄たちは絶句する。


「アルヴィン……! 」

「アル……! 」

「……どういうことだ」


 その、斬首刑を待つ囚人のように、首を垂れたままの皇帝が、おもむろに獣が唸るような声を発した。


「この身一つで、貴様らの目的は達せられたはず! 息子らに何をさせようというのだ……! 何を考えている! 」


 常は凪いだ泉のように静かな父の激昂する姿を、アルヴィンは初めて目にした。

 囚われの皇帝は、足枷の鎖を引き摺りながら立ち上がる。

 『魔術師』はじっと、人形のように立っていた。


「……立て。グウィン。この魔術師の前で膝を折ってはならない。ケヴィン、ヒューゴ、アルヴィン――――兄を守れ。グウィンが倒れたら、必ずや、次に引き継ぐのだ。絶やしてはならぬ! 」


 次兄ケヴィンが、いまだ整わない調子を押して顔を上げた。

「ゲホッ……陛下……!? 何を仰っているのです……! まるで、そんな……! 」

「ケヴィン、頭のいいお前なら分かるはず。時が来たのだ。始まってしまうのだ。我が一族は役割を果たさねばならん。我が国の名誉とお役目を、あの不埒者から守り抜くのだ! この国は堕ちた! あの者は必ず選ばれる! 」


「今なのですか! 」ケヴィンは悲鳴のように叫んだ。「三千五百年! そのあいだに何も起こらなかったのに! よりにもよって今……私たちの世代なのですか! 」


 長兄グウィンが小さく唸った。顔は厳ついが、無口で優しい兄だ。しかし今の兄は、鞘から解き放たれた刃のように恐ろしい。そしてそれ以上に、憔悴しきっているはずの父の、尋常ではない眼孔の強さが恐ろしい。


「父上」

 長兄と父の、白刃のような視線が交差する。そこではアルヴィンには分からない『何か』が交わされた。

 声色から、フードの下で『魔術師』が満面に笑みを浮かべたのがわかった。


「今夜、予言は果たされる……人類の選定が今、この夜、始まるのです。『皇帝』に座るのは、息子のほうではない。貴方だ。もう手遅れなのですよ、レイバーン。あなたは『最悪』で『最後』の『悲劇的な』皇帝として人類史に刻まれる……」


 魔術師が父にむかって、招くように腕を持ち上げた。

 魔術師は天に掲げた屍の腕を大きく広げ、声高に歯を鳴らしてみせた。


「開戦だ! 鬨の声を上げろ! そう、お前だ! 、レイバーン・アトラス! 」


 青い燐火がレイバーンに灯る。

 ひと塊の青白い火玉となったレイバーンは、咆哮を上げながら舞い上がり、再び人の形を取った。腰を曲げ、虚ろな眼孔を晒し、髭に埋もれた唇が震えながら開く。質量を伴わない滂沱の涙が、老木に突き出た瘤のような頬を伝い、燐火の欠片のひとつとなった。

 皇帝は、操られるがままに、とつとつと言葉を紡ぐ。


『――――我は先祖より継承されし選ばれし者。『皇帝エ』のさだめ持つ魔女の墓守……』


「父上……! 」


『……時は来たれり……知恵の果実はここに熟した……。魔女が交わした神との誓約により、我が名と宿世を以もて、ここに、『神の審判』の開、し、をぉお……グゥウ……』


 魔術師の指が向けられると、ためらうレイバーンの手が溺れるように泳ぎ、身を捩らせ、顎骨を軋ませながら、皇帝の口が開く。



『……宣言、する、ァ………ァァァアアァァアああああ――――ッ』



 しじまのように平らだった墳墓の床が、水面に石を投げ込んだように罅割れ、崩れていく。身を切り裂かれたような父の悲鳴が響くなか、息子たちは、揺れる地面と崩れゆく大地に縋りつくように蹲うずくまった。


『逃げろ! お前たち! 逃げるのだ! 父の二の舞になってはならん――――』


 魔術師が狂声を上げる。

「啓示を得たり! 我が名を得たり! 我が名は今この時より選ばれしもの! 世界を変える資格あるもの! 宣誓する! 我が名は真に選ばれしもの『魔術師』となった!」


 アハハハ……――――。


 魔術師はローブを脱ぎ捨てる。取り巻く青い炎が、いままさに出来上がっていく瑞々しい体を照らしていた。キャラメル色の肌に巻き付くように、まぶたの淵にまで刺青がほどこされている、若木のような少女の体。


 アルヴィンの喉の奥から何かがせり上がる。唇を引き結んで飲み込み、アルヴィンは爪が食い込むほど拳を握った。

 少年の胸には決意がある。

 ついさきほど、死ぬ気で牢を出た。あのときとは違う決意が、あの浮島のような灯りのなかで、ミケと交わした決意がある。


 魔術師は興奮して、こちらを見ていない。よろよろと立ち上がり、

 魔術師に向かって足を踏み出そうとした、そのとき。当の魔術師の顔が、アルヴィンを向いた。

 魔術師はくるりと振り返って笑んだ。


「そう……次はあなたの番だ」


 魔術師がさっと手を上げる。その指先から何かが出て、隣を通り抜けたように感じた。風切り音に導かれるように首を回したアルヴィンの瞳に遅れて、右の二の腕に痛みが奔る。

 見開いた瞳に、起きたすべてのことが、詳つまびらかに晒される。


「アアアアア……―――――」

 電池の切れかけた玩具のようにアルヴィンの舌が震える。


「ミケェ―――――ッ! 」



 彼が視たのは、アルヴィンの二の腕を掴んでいた手首が、弧を描いて皇帝の足元へと落下するところだった。深緑のローブに包まれた矮躯が二つ折りに曲がりながら飛んでいく。

 両断され、二つに分かたれた断面から、血の代わりとなって黒い霞が溢れた。

 遅れて、鉄を叩いたような硬質な音が広間に響いた。アルヴィンは足を踏み出し、両腕を伸ばす――――。


 目に映るすべてのものが緩慢になった。


 胴と足が分かたれたミケは、金色の瞳を見開いて、アルヴィンをまっすぐに見つめている。

 ぽっかりと開かれた口の中で、舌が何かを言わんと動いた。

 その口からも泥のような霞が吐き出される。

 代わりに、千切れた右腕が持ち上がって、アルヴィンに伸ばされた。

 魔法が解けていく。ミケを作っていたものが崩れて消えていく。


 鼻の先から黒い霞の中に顔を押し付けると、微かな肉体の名残りの抵抗と、古紙とインクと金臭さの混じった嗅ぎ慣れた体臭、その持ち主の囁くような最後の息吹が耳に触れた。ミケの解けかけた体にも、少年の肌の感触が、名残りのようにかすめる。


(わたしはこうなることを知っていた)


 あなたが泣くことを知っていた。

 最期にあなたの笑顔を見たかった。

 こんな顔をさせたことが、わたしの一番の罪だった。


 ああ――――どうして神様。この子にこんな試練をお与えになるのですか。

 この涙がこの子のさだめだというのなら、わたしはその運命を否定したい。


 だってわたしは、どうしようもなくこの人を愛しているのだから。

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