第12話 終末王の戴冠
●
ソファと安楽椅子とテーブルを移動し、広くなった『書斎』で、ダッチェスは中心に立ち、うんと腰を伸ばした。
「いよいよ始めるわよ。……準備はいい? 」
「いつでも」
相対するグウィンは微笑んで頷く。隣に立つサリヴァンもまた頷いた。女語り部の不敵な微笑みはなりを潜め、スッと雰囲気が変わる。
「独立端末、語り部のダッチェスが【フレイアの黄金船】へ要請。【フェルヴィン皇帝の戴冠】モード起動」
《 ピッ 【語り部】からの要請を確認しました。【フェルヴィン皇帝の戴冠】モード起動を受諾。》
《 【デウス・エクス・マキナ】シナリオが起動されています。》
《 ピッ 条件を達成しました。 》《【ホルスの目】より指示。》
《 これより【終末王の戴冠】シナリオを起動します…… 》
ヴヴン……と部屋全体が唸りを上げる。
《 起動を確認。オールグリーン 》
「これより、前任レイバーン・アース・フェルヴィン・アトラス皇帝の代理として、製造番号06独立端末ダッチェスによる『皇帝』継承の儀を行う」
《 認証。エラー。前任レイバーン・アース・フェルヴィン・アトラス皇帝の魂魄を確認。条件を満たしていません。完全な継承を行うには、前任者からの継承の儀を推奨します。 》
「それが出来ないから言っているのよ。代理として、製造番号06独立端末ダッチェスによる『皇帝』継承の儀を、再度システムへ要請。――――権限を寄越しなさい! 」
《 ピッ 要請を確認。継承権限の一部を、製造番号06独立端末名ダッチェスへと移行。 》
《 ピッ インストール開始。82%起動成功 》
《 継承の儀を開始します 》
「……殿下、レイバーンの魂がまだこの世に縛られている以上、あたしでは完全な継承の儀にはできません。ただし、その問題は、レイバーンを冥界へ送ることができれば自動的に解決します。死者の冥界落ちという大いなる神々が定めたシステムには、どんな外法も対抗できません。その時点でレイバーンの魂は『魔術師』から自動的に解放されるはずです」
「……不正に交わされた契約には、正当なる契約で対抗するしかない。先にぼくが不完全でも正式に『皇帝』を継承していれば、形勢は引っ繰り返せるということか」
『そのとおり』というように、ダッチェスが頷く。誰もが息をひそめ、じっと彼女を見つめた。
「―――――『皇帝』代理。語り部ダッチェスが告げる。
”これは大樹の根の一角を統べるもの”
”原初の巨人の踵”
”祖は地を支えしもの”
”女神に言祝がれしもの”
”罪科の魔境アトランティス”
”あるいは堕ちた光の国アルフフレイム”
”あるいは、神話に新しき再生の島、フェルヴィン”
”我があるじ、レイバーンの代理人として、語り部ダッチェスが継承の儀を執り行う”
異論あるものはいるか? 」
《 受諾 》
「よろしい。……”我が名はダッチェス 屍に寄り添うもの”」
そこから始まる文言は、『語り部』のみならず『魔人』なら必ず持っている、存在をあらわすための呪文。魔術の詩歌だった。
「”硝子の靴を履き”
”葬列の末尾を踊ろう”
”涙を真珠に変えて撒き”
”野ばらの戦士の旅路を飾ろう”
”言祝ぐ詩はいずれ蒼穹へと刻まれる”
”硝子の棺は光なき場所へ収められる”
”しかしその上には永遠を誓う野ばらが茂り”
”わたしが共に横たわる”
”数多の言葉を墓標としよう”
”わたしは屍に寄り添うもの”
”九度の愛”
”九度の誓い”
”死も時もわたしとあなたを別たない”
”わたしはあなたに寄り添うもの”
”あなたを永遠に変えるもの”
”わたしの名は、語り部ダッチェス”
”あなたの葬列を言祝ぐもの”
古き王から新しき王へ。わが主、レイバーン・アトラスに変わり、ここに『皇帝』の宣誓を返上する。わたしは―――――」
そのとき、『船』が大きく揺れた。
「……来たな」
その女は、黄金船の屋根の上に立ち上がり、『それ』と対峙していた
まとわりつく風が女の――――アイリーンの黒髪を舞い上げる。右へ左へ大きく揺れる足場にも関わらず、足裏を張り付かせたようにアイリーンは仁王立ちし、神聖な継承の儀の邪魔をする
冥界と地上を穿つ長大な縦穴が、黒煙を吸い上げていく。
互いの姿を認識したのは同時であった。耳鳴りを重ねたような、不快な声色で『それ』は言った。
「……あれまぁ、
象と蟻のような体格差だった。
馬に似た、されどあまりに醜悪な頭。油光りする頭から背にかけての黒い皮膚と、膿んだような黄色い腹、まとわりつく硫黄の臭気。背中の皮膜は大きく広がり、羽ばたくたびに空気を掻き混ぜる。
アイリーンは乱れる髪を掻き上げ、その怪物を見据えた。瞳が火種を得たように赤みを増し、真紅へと染まっていく。
「……アポリュオン。深淵の
昆虫のそれに似た歯列の奥で、アポリュオンは低く哂った。
アイリーンの真紅の瞳は、炎のそれというよりも、滴る生き血の色だった。アポリュオンの瞳は、さらにそれよりも数段濁った赤をしている。
アポリュオンは奈落の王と呼ばれる。
冥界が冥界として整地されるよりも以前、深淵に巣食った怪物を母とし、太陽神の血を受け、人類終焉のおりには、配下とともに人類世界の文明を食らう役目を担われた、『黙示録の天使』の一人にして、今もなお冥界より深い場所の王として君臨している存在。
こうして直接冥界の火の粉を浴びるなどは、奈落の王にとっては、産湯を浴びるに等しい。そこから来る自信は、小山ほどもの巨躯から収まり切れずにあふれていた。
対する『陰王』。それは、彼女の人間としての身分だった。その本性たる時空蛇は、アポリュオンよりもさらに古い、世界創造そのものに関わる、いにしえの存在である。
「しかし、いくら時空蛇の化身といえど、貴様は人間にすぎなかろう。……我が相手をするには、その矮小な身では荷が重いのではないか? 」
そう言って、アポリュオンは含み笑った。
「……」
アイリーンは僅かに眉を上げるのみで黙し、手の中の懐中時計をズボンのポケットへしまうと、シャツの襟を正して、崩れた袖を肘まで捲り上げる。視線すら相手を見ていない。火傷のあとのある、女にしては逞しい腕をいくらか露出させると、細いため息を吐いた。
アポリュオンはなおも蔑む。
「……その矮小な人間の姿でも変わらぬな。何を考えているのか。何を求めるのか。そもそも貴様に何かを求める意志はあるのか。海の底で寝そべるだけの、いにしえの怪物には、渇望する願いなど無いのだろうと思っていた。しかし貴様は『混沌の夜』において、ただの人間の女に加担した。……なぜ? 」
「簡単なことだ。時空蛇にも渇望はあった」
「その渇望を、あの魔女が埋めたというのか? ただの人間が? 」
「彼女はわたしに未来を示した。わたしは彼女の示す未来に恋をしたのだ」
「恋? 恋だと!? 混沌の兄弟たる時空蛇の口から、よりにもよって『恋』!? 」
「……なにを驚く。神々も色恋にうつつを抜かしてきたではないか。そもそもあらゆる物事は、『混沌』より生まれし兄弟。我が子、孫たちだろう」
「それは屁理屈というものだ。時空蛇よ。金の矢に右往左往する神々と貴様では、おおいに違うであろうよ」
「アポリュオンよ。このわたしは時空蛇ではない。アイリーン・クロックフォードという、ただの人間。下町で夫の帰りを待つ、一児の母さ」
アイリーンの顔に、滲むように微笑みが浮かぶ。柔らかく緩んだ目元とわずかに差した頬の血色に、アポリュオンは「なぜ……? 」と困惑を隠せなかった。
醜い馬頭が、ゆっくりと振られる。やけに人間くさい仕草だった。
「――――アポリュオンよ。わからぬなら退くがいい。今の貴様は、ああ、確かに。わたしを捻り潰すには容易いだろうさ。わたしは人間。貴様は奈落の王アポリュオンだ。しかし、わたしは愛のために戦っているのだ。この足の下には、加護する愛弟子たちがいる。愛をかかげて戦う以上、どんな敵であっても退く気は無く、どんな手を使ってでも、この船を守らねばならないと決めた。この船は、我が親友、かの魔女の棺でもあるのだからな」
「……陰王よ。これまでの無礼を許せ。貴様は、このアポリュオンが知る中で、最も尊敬すべき人間となった。しかしな……王と呼ばれる人間よ。人間とは、まことに純真から『愛のため』に戦うことは無いのだと、このアポリュオンは知っているのだ。人間の王よ……哀れな古老の化身よ。……『愛のもとに』戦うというあなた様は、その動機を持ち出せる貴方は、『人間』ではない。怪物の心を捨てきれない、ただの成り損ないにすぎないのではないか? 」
「ふん」アイリーンは鼻で笑った。
「理解しているとも。人はもっと複雑だ。『愛』などという不確かな報酬では、全力を出せない欲深さを持っている。……しかし忘れたか? わたしは時空蛇の化身であるぞ」
アイリーンは首をそらして、尊大にアポリュオンを見下ろした。唇が吊り上がり、赤く濡れた咥内で舌が踊る。真紅の瞳はらんらんと輝き、髪はゆらゆらと逆立った。
「……想像してみるがいいぞ若造! 虚無より生まれ、もの言わぬ混沌と相対し、それを教育するという途方もない事態を! 時すら飲み込み、自らが整地した世界が滅ぶ未来を予見する。そのおぞましさを、貴様に想像できるのか? 絶望のなかで眠りに落ちたそんなわたしに、我が朋は語り掛け、わたしが見えぬ未来を示した。その意味を! すべてを変える鍵をもたらしたのは、 異なる世界からいずれ訪れるという、一人の男の存在! 朋はわたしに教えてくれた!この体は、あの男を手に入れるために創り上げたものだ。アポリュオンよ! 順番が逆なのだ! 時空蛇にも渇望はあったのだ。忘れていただけで!
わたしは、あの男の創る未来を渇望した!
その未来に恋をした!
彼を夫とし、子を成し、そして今!
わたしは、わたしが数億年求めた『わたしの知らない未来』を手に入れようとしている! 時を呑み込んだあの時から、満たされることがなかった渇望を忘れるときが、今そこに来ているかもしれない、というそんな時に!
アポリュオンよ! 理解は及んだか! わたしの『愛』とはいかなるものか!
わたしは『人間ではない』? 上等だ。時が歩み始めたと同じだけの時間、わたしは苦しんだのだぞ。そんな時を知っている『人間』がどこにいる? 今もなお不安を抱え、怯えているのだ。
しかし『未来への不安』という一点の感情においては、わたしはあらゆる人間と感情を共有している! これは神々では抱かぬ感情だぞ! 人間は何代も、この渇望に耐えているのだ!
どうだ、貴様にこの人間を弑することができるか! 彼らは貴様らがとうてい知りえぬことを知り、それに耐えるすべを知っているのだ!
アイリーン・クロックフォードは人間であるぞ!
さあ、アポリュオンよ! 退くか! 殺すか! 貴様にその覚悟があるというのか! 」
アポリュオンは沈黙した。人の心は、彼には及びもつかない。いずれ神々が鉄の世代の人類を消滅させると決定すれば、配下とともに食らうものと定められている生物の在り方など、アポリュオンは見下すだけ見下し、深く知る必要を感じていなかった。
相対するこの人間の女は、ただの人間の女ではない。
時空蛇の化身―――――いや、それ以上だ。
ともすれば、時空蛇はこの、自身の分身だけでも生き永らえることを望むのだろう。だって、時空蛇本体のままでは、望む『未来』とやらを歩めないのだ。この矮小な人間の肉体は、かの時空蛇の(『人間』流にいうところの)『夢』を託されている。それがわかった。
胸の内に、悲壮な焦りが芽吹いていた。アポリュオンが一度しか知らない味をした感情だ。
――――人はこれを、『不安』と呼ぶ。
はたして『夢』破れた時空蛇の怒りを、アポリュオンは受け止めきれるのか?
相手は混沌の片割れ。時を呑み込み、大地を成した原初の怪物。深淵の底で生まれ出でた母よりも古く、強大な力を持ち、しかしそれを使わずに蓄えてきた存在。
そんなアポリュオンに、時空蛇の化身は優しく促した。
「……退きなさい。アポリュオン。いまここで、わたしと戦う利は貴様には無いとわかったはずだ。強大な力だけで打ち据えようとも、次に待つのは、強大な『意志』のみによる行使だと、もう理解しただろう。
●
大きな揺れだった。『様子を見てくるか』というジジの眼差しによる問いかけを、サリヴァンは首を横に振って制した。
船が襲撃されているのだということは、『船』自身の感情の無い声で告げられていた。不安そうに視線を交す語り部や皇子たちへも、サリヴァンは儀式を強行することを薦める。ダッチェスもまた、同じ意見だった。
「……船は頑丈ですわ。そう簡単には落ちません。それよりも最悪なのは、継承の儀が行われないままでいることです。『審判』に正式な『皇帝』の椅子が空く……そんなことは許されません」
ダッチェスは、続く儀式の文言を再開した。
「……古き王から新しき王へ。わが主、レイバーン・アトラスに変わり、ここに『皇帝』の宣誓を返上する。
『わたしは安寧の礎となる。』
”愚かにも身内が争う国にはもうしない” ”わたしに栄光も名誉も不要” ”ただ、幼子が何ものにも裏切られない世界を” ”兄弟が互いに手を取る未来を” ”異なるものを虐げない人々を”
皇帝レイバーンは、この宣誓を返上し、次代の『皇帝』へと継承する。立会人コネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト」
サリヴァンは、なるべく意識を集中して杖を抜いた。手のひらほどの長さの銀色のダガーは、サリヴァンに一番しっくりくる『杖』の形態だった。それを差し出すようにして、『王』と『代理人』の間に跪き、「受諾いたします」と言葉にする。
《 宣誓の返上を受諾 》
手の中の杖が、とたんに熱をもった。
熱せられたようにとろけだし、無数のすじになって手のひらから零れていく。液状に見えるそれは、雫のように粒にはならず、長い幾本もの紐のようにおれの手からこぼれ、うねり、『銀蛇』の名の通りの形を成した。
目を剥く観衆の目の前で、無数の銀の蛇が、サリヴァンのまわりを渦を巻くようにして行進を始める。渦はどんどん速くなり、蛇たちの体は細分化されていき、サリヴァンとグウィンを閉じ込め、銀色をした小さな竜巻の様相を成した。
「魔女の与えた魔法が蛇の形をしているというのは、本当だったんだな」
額の影になった瞳をきらきらさせて、皇太子はサリヴァンに囁いた。
「殿下!? 続けますわよ! 」
竜巻の向こうから、ダッチェスの声がした。
「”告げる”
”祖は女神の友、青き魔女””王の選定者” ”すべての勇者を慰撫せしもの”
”我が名は黒き瞳をあらわす。銀蛇の担い手である”
”告げる”
”天秤は傾いた”
”告げる”
”フェルヴィンの新たなる王基を継承せし者は、ここに”
かの者の名は、グウィン・サーヴァンス・アトラス」
《 継承者を認証。グウィン・サーヴァンス・アトラス 認識。受諾。》
《 継承者の証明を承認。製造番号15独立端末ベルリオズ 》
《 ベルリオズ。詩歌の登録を行って下さい 》
「ご主人さま。ともに唱えてください」
ベルリオズが、自身の銅板をグウィンに差し出した。
緻密な筆跡で刻まれた花畑の彫刻。それに重なる詩歌を、主従が読み上げる。
”黒檀の靴を履き、あなたは処女雪の丘を行く”
”真白が四辻を隠し”
”やがてあなたは、眠りの森で立ち止まる”
”あなたの歩みの芽吹きから”
”あまたの小さきものたちが背伸びをして”
”春の歩みはすぐそこに”
”泉のほとり”
”夜伽の鳥がしるべに立つ”
”夜告げの声に導かれ”
”星はあなたを旅立って”
”暁の訪れに夢は泡沫へ”
”恐れることは何もない”
”やがて雲は晴れるもの”
”やがて木々は芽吹くもの”
”やがて星は還るもの”
”森の夜告げはそこにいる”
”ここは芽吹のほとり”
”始まりの泉”
”喉を潤し、また歩きましょう”
「”我が名こそはベルリオズ”
”あなたの歩みを助ける杖とならん”」
ベルリオズが下がると、ついにグウィンが前に進み出た。『船』が告げる。
《 証明を承認。登録。 これより継承者の死亡まで、語り部ベルリオズの詩歌は保全されます。ピッ 》
《かちり》
ひとつ歯車がはまる。
《かちり》
もうひとつ歯車がはまる。
語り部二十四枚に内蔵された魔術式が、新たな文言を刻まれ、ゆっくりと回転を始める。
同調した黄金船もまた、埃を被り、奥底で役目を待っていた宝箱の蓋を、次々と開いていく。
《かちり》
《かちり》
《かちり》
《かち……カチッ……カチカチカチカチ―――――》
フェルヴィンという国の地下、誰も知らない閉ざされた場所で、リズミカルに、猛然と、無数の歯車たちが噛み合い蠢き始める。
《 同期 》
《 同期 》
《 同期 》
フレイアの黄金船は、数秒ごとに行われる『端末』との同期と同時に、システムの解凍を進めていく。
《 32%……35%…… 》
『黄金船』に意志は無い。魔女の手が入った端末の中で、意思を持つのは『語り部』たちだけだ。しかし『黄金船』の一度も起動したことが無いシステムたちが、母たる魔女によって謹製された魔術式たちが、起動していく歓喜に震えて、おのおのの役目に動き出していく。
《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》
おおいなる魔術式が、ここに為ろうとしていた。
《 かちり 》
銀の風はやがて、細く、細く、グウィンの中に溶けた。
固い杖としてのかたちを取り戻した銀蛇が、グウィンの両肩を二度ずつ叩き、最後に額に触れる。魔法使いが喉を鳴らして唾を飲みこんだ。
「……告げる。人民の王。統治のあかし。秩序の守護者。『皇帝』のさだめをここに。……皇帝グウィン。さだめを全うすることを誓いますか」
呼ばれて顔を上げてすぐ、グウィンは目の前に立つサリヴァンの異変に気が付いた。
レンズの奥で見開かれた黒い瞳。耐えるように強張った顔。
見て分かるほど全身が震えている。
杖は両手でようやく持ち上げていた。グウィンは一瞬浮かんだ戸惑いを千切り、誓いの言葉を口にする。
「……我が名、グウィン・サーヴァンス・アトラス。宿る血において『皇帝』の継承を受諾」
……こんなにも立会人に負担を強いる戴冠式があるだろうか。
本来であれば、ここに前皇帝退任の儀式も挟む。しかしレイバーン帝亡き今、その語り部であったダッチェスがその手から書き上げた『伝記』を収めることでその儀式は省略される。
進み出たダッチェスが、白い皮表紙を付けられた父の伝記を捧げ持って、グウィンに差し出す。
「……陛下」
小さくダッチェスが囁いた。まだ儀式は終わっていない。
少女のうっすらと笑っている口元に、予感がよぎった。少女らしからぬ、どこか艶のある微笑みをして、ダッチェスは魔力で編まれた指先で表紙をなぞり、鮮やかな翠色で、タイトルを刻み込む。
「ダッチェスの知るレイバーンを、すべてここに書ききりました。こんな時でも、語り部として最後まで誇らしい仕事を成せたことを、心より感謝いたします」
伝記を手渡す瞬間、ダッチェスのインクで斑らになった白い指先が、グウィンの手の甲ごと名残惜し気に撫でていった。その袖口から、光の粒が零れている。
「あと、もう少しですわ」ダッチェスはそう言って、目を細めてグウィンを見上げた。
「ああ……」
溜息のように声が漏れた。
グウィンは、九番目の主人と別れたあとの語り部がどうなるのかを知らない。
しかし予想はできる。きっと、あの地下深い、冥界に最も近い大図書館の闇の中で、永い眠りにつくのだろう。
ダッチェス自身が、他の語り部たちの銅板にそうしたように、魔女の造った装置として稼働することはあっても、きっともう、ダッチェスがダッチェスとして、グウィンたちの乳母がわりのときのままで存在することは、永劫無いのだろうと予感する。
父レイバーンの影には、姿はなくとも必ず彼女がいた。彼女が幼い少女の姿をしているのは、父の中の幼児性があらわれた結果だと知っていたが、グウィンたちは父に少年のような心を感じたことは無かった。
厳格というほど叱られた覚えも無い。しかし歯を出して笑っている顔を見た覚えも無い。
無口で、不器用で、頑固で、不愛想で、壁のようにいつも人に囲まれているのに、孤独をはらんだ人だった。長子として、その孤独にもどかしさを感じていたが、結局その影を薄くすることが出来ないまま、今日を迎えてしまった。
ダッチェスという語り部は、陽だまりのような人だ。幼いころに感じた印象は、再会してもちっとも変化しなかった。
大人になった今、子供の時には感じなかった疑問を抱く。
(こんな語り部がいながら、父はどうして、あんなにも孤独だったのだろうか? )
すべての真実は、父自身と、この語り部の中にしか無いのだろう。
語り部とはそういうものだ。
どんなに親兄弟と過ごそうとも、語り部との時間と密度にはとうてい敵わない。語り部の中には、生まれた時から一瞬も切り取られていない父の姿がある。
悔しかった。
こんな形で、父と別れるはずではなかった。もっと話をするべきだった。無口で、不器用で、頑固で、不愛想で、壁のようにいつも人に囲まれているのに、孤独をはらんだ人だった。
それなのに、不思議と父の愛情を知っていたのは、いったいなぜだったのか? 遠い幼い日、母がまだいたころに、抱き上げられたことを覚えている。夢ではない。きっとヴェロニカとケヴィンも覚えている。ヒューゴはまだ小さくて、覚えていないだろう。
長子として、父の孤独にもどかしさを感じていたのに、何もできなかった。あの愛情を覚えているのに。
ああ、どうして父は、自分に与えた思い出を、弟たちにも与えてくれなかったのか。そうすれば何かが違ったのかもしれないのに。アルヴィンは、もしかしたら。ヒューゴは、ケヴィンは、ヴェロニカは。
どうして。どうして……。どうして――――。
その疑問の答えのすべてが、この一冊に収められているのかもしれなかった。
ずっしりと、赤ん坊ほどにも本は重い。
きっと国を背負うという事は、これより比べ物にならないほど重いのだろう。
グウィンは、モニカに逢いたいと思った。これから戦いにおもむく自分に、彼女の一言が必要だった。
無理とわかっていても、家族を失った分だけ重くなった身体には、彼女の持つものが必要だった。
そんなグウィンの悼みも迷いも、傍から見れば、瞳によぎる微かな影と、分からないほどの沈黙でしかなかった。
グウィンの鍛えられた精神は、すぐに儀式の進行へと意識を向ける。
ダッチェスは、光に解けかけた手を後ろでに隠し、見届け人であるサリヴァンへ道を空けた。
サリヴァンの額の脂汗はひどくなる一方である。眼鏡ごしに、下目蓋が痛みにこらえるように痙攣している。
(……儀式はまだ終わらないのだろうか)
あとは最後に立会人の宣言をするだけのはずだ。だというのに、いっこうにサリヴァンの口から宣言の言葉が出ない。
じりじりとサリヴァンの口が開くのを待った。
「――――戴冠は、成された……」
やがて擦れた声で、サリヴァンが言った。
《 ピッ 承認 》
「……我が名において、また……青き魔女の名において。審判の名において承認する。此処に、新たなるアトラスの王が起つ。そして、」
『そして』?
(その先にそんな文句があっただろうか)
進行を知っている弟たちにも緊張がはしった。サリヴァンは震える手で、縋るように持った杖を自身の額に押し当て、グウィンの知らない文句を口にした。
「――――戴冠は成された。我が名を得たり。我がさだめを得たり……
我がさだめは『教皇』。審判の名において選抜された、知恵授かりしもの……」
《 ピッ 条件を達成しました 》
《 『教皇』の出現 》
《 宣誓を 》
背後で、絹擦れの音とともに、小さな悲鳴が聞こえた。
耐え切れず振り向くと、あの小さな魔人が、マリアの腕の中で崩れ落ちている。それらの光景が見えているのだろう。睨むように顔を上げ、サリヴァンは早口で文句を最後まで繋げた。
「『教皇』として【認証】! 我が名はコネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト。ここに【宣誓】する! 」
《 ピッ 【教皇】の【宣誓】を受諾。記録しました 》
船が低く唸りを上げる。
《 条件を達成しました 》
床にいくつもの汗が落ちる。
「……教皇の名において、ここに、『皇帝』の戴冠を宣言、」
サリヴァンの体もまた、魔人ジジに続いた。
「す、る――――」
首から力が抜けるように、四肢が崩れていく。
グウィンはすかさず逞しい腕を差し出して、少年の体を受け止めた。しかし支えるグウィンの体も、どっと何かが抜けてしまったような疲労感がある。
「彼はどうしたんだ! 」
「招かれたのでしょう」
「どこに」
「お気になさらなくとも大丈夫。いずれ目覚めますわ」
ダッチェスはからりと言って、全員に退出をうながした。こんどは皇子たちから、足早に船を出て行く。
最後尾になったグウィンは、隣を歩くダッチェスにたずねた。
「ダッチェス。ぼくは、ちゃんと出来たのだろうか……? 」
「案ずることはございません。完璧、でしたわ」
ダッチェスは、晴れ晴れとグウィンに微笑んだ。
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