第11話 フレイアの黄金船
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西南に位置するフェルヴィンの王城は、切り立った山肌に背中を預けた造りをしている。
崖を切り出して装飾したように見える王城は、実は山肌を侵食し、見かけよりもずっと奥へと続いていた。さらに隠されたそこかしこに、坑道跡に見せかけた抜け道が蟻の巣穴のように存在しているという。ヴェロニカ皇女らが逃亡に使ったのもここである。
フェルヴィン皇国の首都ミルグースは、背面に連なる鉱山の山脈から掘り出された金属の加工と細工で栄えた都市だ。『魔界』とまで呼ばれるほど痩せた硬い土壌を持つ土地で生きていくために、フェルヴィン人は、長い時をかけて数々の試行を繰り返してきたが、何より国を潤したのは、彼らが大地と炎と水から生み出す細工ものたちだった。
いわく。フェルヴィンの剣は刃こぼれすることがなく、若枝のように軽く、鋼とは思えぬほどにしなって折れず、砥いでも刃が減らないとか。
いわく。フェルヴィンの鎧を通すのは同じフェルヴィンの鋼だけ。戦へ向かう子息に、フェルヴィンの鎧を用意できない金持ちは外道か阿呆かと謗られたとか。
いわく。フェルヴィンの銀細工は、水のように艶めかしく、レースのように繊細で、羽のように軽い。淑女にはもちろんのこと、ひとかどの男であるならば、仕込み時計や仕込みナイフのブローチやステッキを持つのが粋というもの。
時代の流れとともに商品は変わった。しかしそれは、歴史の文字にフェルヴィンの名が消えることは無かったという証である。そうして財を得たフェルヴィンであるが、さてこの地でどうやって貿易を行っていたのか?
「答えはかんたんです。この国には、ほんとうはずっと移動手段があった。世の中に『飛鯨船』なるものが飛び交うようになるよりずっと前、それこそ魔女が死んで神話が終わった古代から、ほんの百年ほど前まで」
前を歩くダッチェスの背中が、黒い影を被せている。ダッチェスの手にある明かりが、一行の先を照らすために右へ左へ動くたび、人型の影もぬるぬると地面や壁を揺らめいた。もしかしたら道順を覚えられないようにするための技だったのかもしれない。網目のような坑道をダッチェスの導きに沿って歩いていく。疲れからか、ダッチェスの澄んだ声を聴き洩らさないようにするためか、このころになると誰も言葉を交わさなかった。
「……これは王家、いいえ。魔女とともに旅をし、この地へ辿り着いたものたちの秘密です。流人や罪人や奴隷であった彼らは、職人となり、鉱山夫となり、農夫となり、騎士となり、漁師となり、商人となり、学徒となり、王となった。それぞれの一族の末裔だけが知らされる秘密。魔女が与えた『隠された』二つ目の魔法……それが魔女の財宝『フレイヤの黄金船』。彼らはこの船で、このフェルヴィンに降り立ったのです。そこは、戴冠の間でもあります。この場所へは、皇帝ですら道順を教えられません。語り部の導きを以てしか辿り着けないのです」
灯りが揺れる。土が剥き出しでいつ崩れるかも分からなかったそこに、とつぜん黄金のきらめきが現れた。
海と冥府、大樹と天空の二枚一対の扉には、向かい合うように、赤い宝石と青い宝石を瞳にはめた女の貌がある。ふたりの女の揺らめく髪には、薄く切り出された漆黒の水晶が重ねられていた。
始祖の魔女は、美しい黒髪に輝くように青い瞳の女性であったと伝わっている。そして彼女の最大の協力者である『蛇』は、赤い瞳の女の姿を取った。
「……さあ、グウィン様。この先が戴冠の間。最初の王が産まれた場所でもあります。貴方が開けるべき扉ですわ
……と、言いたいところですが、老朽化が心配なので、あたしが開けるわね! 」
皇太子は踏み出しかけた足を引き、気まずげに頬を掻いた。
「――――さあ! とくとご覧なさい! そう見られるものじゃあないわよ! 」
眩い光が、長らく太陽を忘れた一行の網膜を刺した。
そこは途方もなく、高く、深い、一本の縦穴であった。
円柱型の穴の内壁へ取りついた螺旋を描く通路は、闇を塗りこめたような黒だが、下から吹き上がってくるような寒々しい冥府の青いマグマの燐火と、反して天上から降り注ぐ温かな白い光で、上層世界の雲一つない晴れの日ほどにも明るい。
その淵に立ちつくすサリヴァンたちの目の前に、その船はあった。ぽっかりと、円柱のなかに支えもなく浮かんでいる。
帆も甲板の無いそれは『船』というよりは、『箱』だ。
そしてただの『箱』というよりも『棺桶』のようだった。
『黄金』の名を戴いているのに、主には黒い。金は船体を縁取る渦巻くように絡まっていく装飾に刻まれているだけ。おそらく芽吹く草木や波しぶきを表している金の紋様は、経年によりインクの途切れかけたペンで描いたように、ところどころ剥がれて擦れ、黒ずんでいる。
それでも、少なくとも三千五百年以上の時を経ていると推定すると、驚くほど魅力的な姿を保っているように見えた。
「下は冥界、上は最高層マクルトにまで続いています。数々の冥界下りの舞台はこの縦穴。もちろん、雲海以外で各海層へと直結しているのはここだけ。この船の中で初代フェルヴィン皇帝は王となりました」
「どうやって船まで行くんだ? 」
虚空を覗き込んで、ヒューゴ皇子が言った。顔が引きつっている。
「当然、資格があるものには道ができますわ」
当たり前でしょう? とばかりに語り部が言う。
「神秘だな」
と、グウィンはのんびりと呟いた。これからいよいよ皇帝になるというのに、緊張はあまり見えない。
「………」
ケヴィンは、始終、感情の見えない無表情で黙り込んでいた。
「先導するのはあなたよ。立会人さん。次はグウィンさま。その次に殿下たちですよ。さあ、皇太子殿下。あなたは船を出たとき、すでに『皇帝』です。お覚悟は? 」
グウィンは高い額の影にある瞳を細めて、父の語り部に微笑んだ。
「……とうの昔に出来ているよ」
グウィンの語り部は、大柄な老爺の姿をしている。
総髪と髭と皺に覆われた四角い顔の中に、猛禽を思わせる金の瞳が鋭く輝き、かっちりと黒い詰襟を締めた、寡黙で穏やかなベルリオズ翁は、今となっては、もう一人の父のような存在だった。
グウィンには、そんな語り部の存在を疎ましく思っていた頃があった。
先に産まれたということは、それだけで責任がともなう。妹とたった十五ヶ月しか違わなくても、グウィンは皇太子であり、長男であった。
そんなことを理不尽だと拗ねていた頃があり、貫禄のあるベルリオズの存在は、何もかもが足らない自分の劣等感を刺激する鬱陶しい存在だった。
昔の話だ。
皇帝となる覚悟ができたのはいつのことだろうと、三十四歳のグウィンは思う。
少なくとも、二十になったころまではまだ出来ていなかった。軍へ進んだのは、それが健康な皇太子として妥当な進路であったからだ。
期となったのは、おそらく二番目の母――――アルヴィンの生母が亡くなったとき。
打ちのめされる家族と過ごした一夜。父や弟妹を守るためには、自分が父の跡を継ぎ、その志のまま国を治めることが最善手だと、冬の夜空に消えていく煙草の煙を見ながら漠然と思った。
その瞬間、かちりと胸の内で確かに音がした。それは、運命というものが奏でる音だったのかもしれないし、グウィン自身の持つ迷いが溶けた感覚だったのかもしれない。
あの日、何かの歯車がはまったのだろうことは確かだ。
除隊し、留学したのは、未来の自分の迷いの種を一つでも消すためだった。
体を動かすことと同じほど、本を読むことも好きだったから。許してくれた父たちと妹には、生涯頭が上がらない。その先で未来の妻と出会ったのも、きっと何かの導きだったのだ。
グウィンは運命論者ではないが、彼女との出会いだけは、そう思わざるを得ない。
今ごろモニカはどうしているだろう。怖い思いをさせたことだろう。いまも彼女は、石になって西の船着き場にいるとサリヴァンは教えてくれた。眠りにつくように、安穏とした夢の中にいてほしい。
彼女なら、いずれ普通の男と結婚する道もあったろうし、その生活は皇后の生活よりもずっと自由で彼女らしい人生になったかもしれない。しかし彼女は自分を選び、自分も彼女を手放さなかった。これからも手放すつもりはない。きっと苦労をかけると思う。障害は多いだろう。不安はあるが、戦いはまだ始まってもいない。そう、恐ろしいことに、まだなのだ。
グウィンが守るべきものは、まだこの国にたくさん残っている。
(まずは生きること)
(次に、命の使い道を知ること)
(覚悟という言葉に囚われないこと)
(やるべきことに覚悟は要らない)
(王らしく胸を張ること)
(……常に、忘れないこと)
今からグウィンは父から皇帝の冠を奪うために儀式をする。
今日、グウィンは、亡霊となった父へ刃を向ける。
『かちり』
運命が噛み合う音がする。
●
「息は止めた方がいいのか? 目は閉じたほうが? 」
「……別にどっちでも大丈夫よ。怖いなら走っていけば? 」
ダッチェスに追い払うように手で示されて、サリヴァンは上腕の中ほどまで突っ込んだままに漆黒の壁へと直進した。サリヴァンはしっかりと目をあけて、『壁』の中を見通そうと考えたのだが、ぬるくもなく冷たくもない『壁』のようなものは、少し肌に張り付くような感触があるだけの、面白みのない暗闇でしかない。
抜けたという感触はあった。内部はひやりとして、照明がついていなかった。『ブゥーン……』と、かすかに小さな音が聞こえる。
暗闇に立ち止まったまま、三拍ほど呼吸をしただろうか。
《 ピッ 端末を認識しました。起動を開始します 》
とうとつに上のほうで、感情を感じられない女の声がした。
「誰かいるのか? 」
ヴヴン……。
重いものを振ったときのような低い風斬り音が、言葉のかわりに応える。
《 端末『銀蛇』から遺伝子情報を検索。特定。ピッ データベースより照合します。ピッ データベースより該当者を特定。》
《 ピッ ようこそ。サリヴァン。ワタシはアナタを歓迎します 》
「どこにいるんだ? どうしておれの名前を知っている? 」
《 ピッ 条件を達成しました。【ホルスの目】の起動を確認。同期を終了しました。ピッ 》
声は、こちらのいっさいの問いかけを無視して、理解を放棄した言葉を連ねていった。
《 ピッ 【審判】からの応答を確認。認証しました。 ピッ 》
《 ピッ 条件の達成を認識しました。【資格あるもの】の存在を認識しました。【デウス・エクス・マキナ】システム起動を開始します。》
《 ピッ 凍結フォルダー解凍。ピッ 成功しました。オールグリーン。100パーセント。展開します。 》
《 ピッ 【影の王】からの応答を確認。起動要請を受諾。》
《 ピッ 条件を達成しました。(二十二人の選ばれしもの】データを解凍。成功。》
《 ピッ 条件を達成しました。【預言の成就】シナリオ40%達成。【青薔薇の城】データを解凍。成功。》
《 ピッ 条件を達成しました。【シオンへの告知】データを解凍。成功。起動します。成功。データは削除されました。 》
《 ピッ 条件を達成しました。【デウス・エクス・マキナ】起動を確認。【シオンへの告知】削除を確認。【デウス・エクス・マキナ】シナリオの5%が達成されました。 》
《 ピッ 条件を達成しました。【黒龍城への告知】データを解凍。成功。起動します。データを送信。……応答がありません。データを再起動します。 》
《 ピッ 再起動成功。起動を確認。データを送信。応答がありません。》
《 ピッ 【黒龍城への告知】のデータ送信を一時保留します。 ピッ 》
《 ピッ 【黒衣の魔女】からの応答を確認。認証しました。 ピッ 》
《 ピッ 【三邪神同盟】からの応答を確認。認証しました。ピッ 》
《 ピッ 【四聖四柱神助成組合】からの応答を確認。認証しました。ピッ 》
《 ピッ 【虹蛇の獏】からの応答を確認―――――》
ここにあるのは、もはや声の奔流だ。暗闇を埋め尽くす途切れない言葉が、渦を巻きながら鼓膜を叩く。
(ここに長くいたら気が可笑しくなりそうだ)
《 ピッ システム起動を確認。条件を達成しました。【伝説の帰還】データを解凍。成功。シナリオを起動します。 》
「ちょっとサリー! これは何の音!? 」
『壁』を抜けてサリヴァンの隣に現れたジジが、声に負けないほどに言葉を強くして尋ねた。
「おれにもわからない! さっきからずっと――――」
《 ピッ 個体認識。データベースと照合します 》
とつぜん視界が明るくなった。照明が付いたのだ。
照らし出されたものに、サリヴァンとジジは言葉を忘れてその光景を見つめる。
目の前にあるそれは、ひとつの街だった。
等間隔に天高くそびえる建物たちは水晶のように輝いて、空をゆっくり流れていく雲を映している。広い道路の脇に植えられた樹木は、枝ぶりにあきらかに人の手が入っており、青々として繁っていた。針山のように連なる建物の向こう側に、カーブを描いて街を横断する河川と、そこにかかる大きな橋まである。
《 ピッ 拡張空間テクスチャの変更がオーダーされました 》
そして、早くも聴き慣れた女の声がそう言った瞬間、『街』の風景にいくつもの縦線がはしりながら擦れて消えた。まるで皮を剥くように、新しい空間を仕切る壁が現れる。
《 ピッ テクスチャを『書斎』へ変更 》
静かな場所だった。
そのまま寝転べそうな、清潔で柔らかい絨毯。青い蔓薔薇の壁紙。夜風に揺れる菫の柄のカーテン。オレンジ色の明かりを降り注ぐシャンデリア。火が落された暖炉は、夏場の様相だ。使い込まれた木製のロッキングチェアと、そこに陣取る白いうさぎのぬいぐるみ、童話でいっぱいの本棚。
大きな部屋ではない。
サリヴァンの眼は、自然と出口を探す。金色のドアノブの木の扉が、暖炉に向かい合うようにあった。
菫の柄をしたカーテンの向こうには、こじんまりとしたテラスが見える。そしてその先には、はてしない星の海が広がっていた。天の川どころか、緑や紫の星雲すら鮮やかだった。それでいて、星々のひとつひとつが、どんなに小さくてもクッキリと丸く浮かび上がっている。
《 ピッ 》
もはや馴染みになった音が、ジジ一人を示して鳴った。
棒立ちになっているジジの体を囲むように、青い箱状の光の幕があらわれる。囲まれてしまったジジは、とっさに逃れるように身を引いたが、すぐに光の膜へ触れないように身体を縮めた。青い幕の表面に、波状の模様が何度も流れていく。
《 個体認識。個体認識。優先個体認識。ピッ ようこそジジ。ワタシたちのジジ。ピッ アナタには、サプライズプレゼントがあります。》
青く透ける幕の中で、ジジが驚いた顔をするのが見えた。サリヴァンを見つめるジジの瞳が、思いがけず名前を呼ばれて隠し切れない動揺に震える。波状を描いていた幕が、何かの輪郭をつくったのが分かった。外側から見ているサリヴァンには、青と白のおおまかな輪郭しか把握は出来ない。
《 データを解凍。成功。音声データ再生します。》
《 ピピピッ 》
『……ぉか……えりなさい。ジジ』
上から聞こえる声とは別の女の声が、幕の中で口を利いた。
ジジを囲む幕の表面に描かれた影のようなものが、四方から歓迎の言葉と笑顔を向けている。サリヴァンの位置からは、顔立ちまでは判然としない。
『あなたが来る日をずっと待っていたわ! どうか良い旅を。心の底から願ってる! 』
《 …ピッ 再生終了。ピッ 音声データを削除します。 ピッ 》
シュン、と音を立てて、青い幕が消えた。
「…………」
「……ジジ? 」
帽子のつばの陰になった顔が、いつにも増して白くなっている。金色の瞳がいつになく爛々と輝きを増し、黙り込んだままの唇は、真一文字に結ばれて表情が抜け落ちていた。
《 条件を達成しました。【鍵の帰還】シナリオ解凍します。この処理には、時間がかかる場合があります。……1%……5%……7%…… 》
「ねえサリー。ここはどこ? 」
「船の中……のはずだ」
「そういう意味じゃあない。どうしてあの女の声はボクに『おかえり』って言うわけ? 」
「おれには分からない」
「………」
ジジの瞳孔が尖る。
「腹立つよな。この世に分からないことがあるって」
瞬時に疑問を怒りに変換したジジの後ろの壁から、ようやくダッチェスが現れた。
続いて、次々に皇子たちも顔を出す。
《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名ダッチェス。ようこそ 》
《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名ベルリオズ。ようこそ 》
《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名トゥルーズ。ようこそ 》
《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名マリア。ようこそ 》
《 ピッ 個体認識。独立端末『語り部』より個体確認。ようこそ。グウィン・サーヴァンス・アトラス》
《 ピッ 個体認識。独立端末『語り部』より個体確認。ようこそ。ケヴィン・サーヴァンス・アトラス》
《 ピッ 個体認識。独立端末『語り部』より個体確認。ようこそ。ヒューゴ・サーヴァンス・アトラス》
伝統的な戴冠の儀式には牧歌的すぎる内装に、ダッチェスの眉が寄せられた。
「前はこんなふうじゃあ無かったのに」
しかし、それらしく場を整える時間も余裕も無い。ダッチェスはぐるりと書斎を見渡し、テーブルを片付けるようにと、同じ語り部たちに指示を飛ばしていった。
「何かあったのかい? 」
グウィンがサリヴァンに尋ねた。
「……いいえ」サリヴァンは、なんでもないように首を振る。
「ついにこの時が来たと思って」
「ああ。確かにそうだな」
グウィンは、厳つい顔を和ませて微笑んだ。
『かち……かち……』
時計が針を刻む音がする。
『かち……かちち……かちっ……』
何かが起こる。そんな予感の音がする。
『かち……かち……かち……かち……かち……―――――』
真っ白な文字盤にある一本きりの金色の針だけが、規則正しく働いている。その時計の時を刻む針は、不思議なことに、秒針一本しか存在していなかった。
懐中時計を握る女が座すのは、漆黒をした棺に似た『なにか』の屋根である。
細身で引き締まった、長い手足を持つ女だった。
女はその『何か』が、船であることを知っていた。眼下にマグマのように沸騰している冥界の炎を望み、底の浅い、歩きやすそうな革靴を履いた足裏を、虚空にぶらぶらと揺らしている。
冥界からの青い光に照らされて、いっそう白い顔のまわりを、縁取る黒髪がさらさらと流れていた。
その表情は『無』である。
感情による歪みも、経年により備わるはずの、筋肉の使い方の違いから顕れる皺などの個性も、女の肌にはいっさい無い。なめらかな白い肌は、しかし無機質なそれではなく、どちらかといえば、爬虫類や魚を思わせる『そういうもの』とした印象があった。女は小さく――――男性的にも見える外見からはギャップのある、横笛のような柔らかい声で――――囁いた。
「陰王として【認証】。宣誓する。『私は未来を終わらせない』。
”命ある限り夢に馳せよう”
”なぜならこの意志は、青薔薇の魔女と寄り添うものだから”
”朋ともよ”
”我が恋はいま”
”おまえの観た未来へと委ねた”
これにより、陰王アイリーン・クロックフォード『女教皇』を担うわたしの、世界への宣誓とする」
宣誓を終え、しばし。女の相貌に、はじめて感情が顕れた。
優しげな、慈愛に満ちたその微笑みは、手中の時計に落されている。文字盤に落とす目は、赤みの強い茶色である。あたたかな紅茶色の瞳だけが、女に色彩を与えている。屋根の淵でぶらぶらと揺れていた足を引き上げ、女は子供のように膝を抱いて頬を預けると、紅茶色の瞳を閉じた。
「……我が弟子よ。おまえの望みはなんだろう? 」
応えの無い問いかけは、冥界へ繋がる虚空へ消える。
「……サリヴァン。どうか、おまえの心望むままに……」
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