第7話 燔祭の羊

 ●


 サリヴァンは、ふっと顔を上げた。

 肖像画がかかっている。歴代の王と、王族のたちのものだ。


 現皇帝レイバーン。その両脇にかかっているのは、先代皇帝の肖像画と、レイバーン帝の子供たちとの家族の肖像だ。

 周辺には、レイバーン帝と縁の深い王族を順番に並べているようだった。その一枚に、幼いレイバーン帝とまだ皇子だったころの先代皇帝の肖像画がある。

 先代皇帝とレイバーン帝は、たったの二十二歳差であったという。いとこ同士は、こうして家族の肖像をつくるほどに仲が深かったのだろう。


 かつて疫病が猛威をふるい、王族には語り部を持つ王の後継者が六人もあらわれた時代があった。皇帝の座を狙って、のちの無能王オーガスタスの姉ユリア皇女は、弟を皇位に据えるために暗躍し、次々と候補者たちを屠っていた。それはユリア自身の子さえ例外ではない。

 ユリアの息子である双子の皇子は、祖父であり当時の皇帝ダミアンの庇護のもと、戦乱のさなかにある宮廷を脱出し、疫病の治療法を探して国を出る。

 当時、世界は大戦の真っただ中。双子が疫病の特効薬を探し当てるまで九年を要した。


 九年の間にダミアン帝は斃れ、無能王は処刑され、ユリアは因果が巡るように疫病で惨たらしい死を遂げる。その後、玉座に座らんとする偽りの王が乱立しては失敗し、国は荒れていた。


 そこに截ったのが、双子の兄であるジーン帝である。


 サリヴァンは絵画の中にいる、子供のレイバーンよりもずいぶん小柄な青年を見つめた。

 その隣の肖像画では、その小柄な青年の倍ほどの質量がありそうな弟が並んで立っている。

 その肖像画は、レイバーン帝が即位するまでもっと目立つ場所にかかっていたのだろう。題がついていた。


『我が兄ジーンと我が弟コネリウス』


「この人が、ジーン・アトラス」

 大望を成し、夭折した英雄。国を建て直した先代皇帝。


 近代、語り部の書く物語で最も人気を博したのが、このジーン皇帝若かりしころの冒険譚だ。

 陽気で大柄な弟コネリウスと、虚弱だが賢く立ち回る兄ジーン。

 終盤、弟コネリウスは船の墜落事故で語り部を失い、王位継承権をも失くす。コネリウスは旅を続け、ジーンは皇帝に即位して平和をもたらした。双子の路は分かたれたが、その絆は消えることはない。そういう物語だ。

 肖像画のかかった回廊は、東の端の塔へと続いてた。

 アルヴィン皇子が目撃されたという鐘楼。サリヴァンはそこに向かっているのだ。


「何か手がかりが見つかればいいが」

「ここまで誰もいないのも不気味だこと。死体や血のひとつも無いっていうのはどういうわけ? 床も壁も、舐めとったみたいに綺麗だ」

「このあたりは建物もあまり壊れていないしな」


 回廊のつきあたりの扉は開いていた。敷かれていた絨毯が途切れ、外気にさらされる石畳に変わる。庭園をまっすぐに通り、海側の城壁と一体化した鐘楼へと続いていた。


「血痕だ」

「……ああ」


 それは、鐘楼の入り口から石畳の上を半ばまで通り、直角に曲がって庭園のほうに消えている。


「とりあえず塔の中を見てみよう」

 血痕は、塔の階段の中を点々と続いていた。やはり、皇子を目撃した市民が言ったとおり、この血痕は鐘があるという最上階が起点なのだ。するとアルヴィン皇子は、傷を負ったまま連れ去られたことになる。

 階段を上る足音と潮騒が響いていた。


「……誰かがいる」

 ジジが先に気が付いた。音はじゅうぶん響いている。あちらも誰かが登ってきていることに気が付いているだろう。ただしそれは、サリヴァンひとりぶんのはずだ。

 ジジが影に戻り、サリヴァンは最後の段を登りきった。海を見つめる背中が見える。


「……生きている人間が、まだいたとは」

 男は振り向かぬまま呟くように言った。長い耳をしているが、身長がサリヴァンと同じほどしかない。そしてその特徴は、アルヴィン皇子と合致している。


「ここからすぐに逃げなさい。逃げられるところまで、どこまでも。ここには誰も来なかったことにしてやる」

 ゆったりとした声。背後からでも、立ち姿に隙が無い。十四歳の少年が放つそれではない。

 サリヴァンは一歩下がり、階段に足をかけた。


「皇子の行方を知っていますか」

 細い肩がびくりと揺れた。

(……動揺した? )


「……おまえは誰だ」

 男の体から青い炎が吹きあがったように見えた。

 炎に包まれ振り向いた顔は、肖像画で見たばかりの姿をしている。青い瞳がサリヴァンをとらえ、「違う。あいつじゃない」と呟いた口からも、青い火の子を放った。

 魔術師の知識において青い炎といえば、冥界に灯る死者たちの魂の輝きを指す。

 あたりが一段霧が深くなった。魔術の奔流を感じる。


「あんたこそ誰だ。アルヴィン皇子の顔をしているが、別人だろう! 」

 サリヴァンの言葉に、アルヴィンの顔をした男は、また動揺したように見えた。


「……わが名はジーン。この国の先代皇帝ジーン・アトラス。とうに死んだはずの男」

「……ジーン・アトラスだって? 」

「お前。早く逃げろと言ったはずだ。おれの眼に映ったものは、あの魔術師も見ているぞ! 」

 追い立てるように男は……ジーンは叫んだ。


「皇子を救いたくば、奴らより先に探しだせ! この城の地下だ! 行け! コネリウス! 」


 サリヴァンは言われるがまま階段を駆け下りた。背後から追ってくることもできたというのに、ジーンを名乗る男は追ってこない。


「あの人、キミの本名を呼んだよ」

「……いいや。おれの名前を呼んだわけじゃない。たぶんな」


(あれが本当にジーン・アトラスであるなら)

 サリヴァンは一目見て、その男に似ていなかっただろう。大きな体も、尖った耳も、髪や瞳の色も。顔立ちだってぜんぜん違う。

 けれどもしかしたら。外見ではないところが、あの男にとっての『コネリウス』に似ていたのだとしたら。双子の弟との繋がりに気が付いたのだとしたら。


「あいつの呼んだコネリウスは、ひい爺さんだ」

 それは息をひそめるほど、神聖な繋がりに思えた。

 やはり、あの男は先代皇帝のジーン・アトラスその人なのだ。


「ああ、これは……大変なことになってるんだなぁ」

 ついこぼれた本音に、ジジが不思議な顔をする。


「そんなの今さらだろぉ? 」

「実感がついてきたんだよ」

「あらそぉ。で、サリーどうする? 言われたとおり、地下に行く? 」


 血痕は庭園へ続いている。地下へ向かうとしたら、玉座の間の崩落も気になるところだった。


「血の跡を追う。皇子が地下にいるのなら、この血痕が地下へ続いているかもしれない」

「わかった。じゃあ見えやすくしよう」


 ジジが黒い煙を放つ。それは庭園の植え込みをもうもうと重く流れていき、血痕の場所で針のように細い、腰ほどの高さの柱になってとどまった。


「ジジ、おまえなんでもできるな」

 感心したようにサリヴァンが言うと、ジジは不敵に片頬を上げた。

「ボクって、コンパクトで多機能が売りなんだ。知らなかった? 」

「奇遇だな。おれも同じようなもんだ」

「言うじゃん」


 ジジの先導で、ふたたび走り出す。

「ここか」


 サリヴァンは、目の前の石垣に触れた。血痕はこの石垣の前で途切れている。まるで秘密の扉を開いたあとのように。


「魔術じゃあない。絡繰り仕掛けのほうか。……ここだな」

 石垣を組んである建材のひとつだけ形が違う。おそらく皇子を抱えた人物もそうしたのだろう。サリヴァンがその正方形の石をつま先で蹴り押すと、かちり、と意外に軽い音がした。


「おおあたり。地下への道だ」

 むわりと青い霧が噴き出した。暗闇へと続く階段が口を開けている。サリヴァンが明かりで照らすと、中はぎっしりと詰め込まれた霧で白く輝くだけだった。


「明かりは無駄だな。ジジ、案内頼んだ」

「オッケー」

 慎重に歩を進める。霧のせいか、空気は重く冷たい。まるで水の底を歩いているようだった。

 どこからか、水が滴る音がする。


「あと三歩で床だよ」

「よし。ずいぶん降りたな」

「三階ぶんは降りてるよ。ここからまっすぐ長い廊下だ」

「わかった」


 サリヴァンは素直に頷き、すたすたと歩きだした。もちろん警戒はしているのだが、ジジは呆れたように鼻を鳴らす。

「あの山道でのキミはなんだったのって言いたくなるね。今も見えてないのは同じでしょ? 」

「あそこ、火山だろ。そのせいだ」

「っていうと? 」

「山肌が火でぬるかった。山はとくに神の加護が強いんだ。この国はまだ古代の信仰が残っているせいもあるな。山じたいの気配が大きすぎて、感覚が取りづらかった。そういうこと」

「よくわかんないな」

「補うために身に着けた技術が、感覚を邪魔することもあるってことだよ」


 サリヴァンはぴったり扉の前で足を止めた。

「開けるぞ」

 軋む音を立て、杖が操るままに扉が開く。光が帯になって差し込んだ。


「ここまで来たか」

 その広間だけ霧が晴れている。中心に、あの老人が立っていた。

 玉座の間に似ている。玉座の場所にはアトラスの巨像が置かれ、その前に、ゴーレムとともにいた老人が立ち尽くしていた。

 その両脇には、いくらか小さいが、あの黒鉄のゴーレムとそろいの騎士の像が、二体ずつ。

 老人のまわりにも青い炎が取り巻いていることにも、サリヴァンは気が付いた。


「あなたはもしや、レイバーン皇帝陛下ですか」

「……なぜ来た」

 そう問う声は、サリヴァンの身を案じる響きがあった。


「ヴェロニカ皇女から望みを託されて参じました」

「そうか……あの子は逃げ延びたか」

 皇帝は息をつく。しかし瞳は、より悲しげだった。


「……勇士よ。すまない。私の魂はすでに魔術師に使役され、なすすべがない。おまえの行く先を遮らねばならない」

 だからどうか。と、皇帝は首を垂れた。

「どうか、私を殺してくれ」


 皇帝が体を傾けると、その背後には大きく崩落した穴が開いていた。皇帝の手はそれを指し、瞳はサリヴァンを見つめている。サリヴァンが頷きを返したと同時、皇帝は声を上げた。


「――――スート兵よ! この者を殺せ! 」

 声なき雄たけびとともに、四体の黒鋼の騎士が剣を抜いて迫る。サリヴァンもまた、杖を抜いて迎え撃つように腰を落とした。


「ジジ! 」

「まかせて! 」

 サリヴァンの影が広間の床を埋める勢いで伸びる。その中から無数の腕が伸び、黒鉄の騎士のうち三体の体に絡みついた。残る一体に向かって、サリヴァンは赤く熱を持つ刃をあてる。首が跳んだ。残った体に、炎が巻き付く。


「まずは一体」

 脇から二体目が迫る。首を狙った剣戟を身をかがめて交わし、流れるように斬り上げて右手首を落とした。しかし相手は生身の人間ではない。動揺もなく左手に持ち替えようとする。そのわずかな瞬間を狙い、サリヴァンは二の手で左手も落とした。左手ごと剣が床をすべり、それを追って動いた頭も肩からころりと落ちた。


「二体目」

 サリヴァンは赤い光を背負って三体目に向き直る。

 あっという間に二体が斬り伏せられた。


「……始祖の魔女が製造した黒鉄の兵をたやすく……あれは何者だ」

「あれは、しがない下町の杖職人だよ」

 おののく皇帝に、ジジが答えた。

 コートの裾を翼のように広げながら、耳まで裂けるように皇帝へ笑いかける。

「アンタの相手はボクさ」


 三体目が、正面からサリヴァンに迫っていた。

「『銀蛇』」

 サリヴァンの手の中の剣が手斧へと形を変えた。左手に持ち替えながら横に回り込むと、その頭に叩きつける。素朴な武器の破壊力は、打撃の衝撃も含んでその鉄の頭を半壊させた。

 しかしそれはゴーレムにとって致命傷ではない。騎士の足が跳ね上がり、とっさに体をひねったサリヴァンの腹をとらえた。


「ゔッ! 」

 サリヴァンがうめく。双方が、よろめきながら後ろへ距離を取る。サリヴァンは体をひねりながら、手斧を体の前に構えていた。その刃が、騎士自身の攻撃の衝撃を受けて深く突き刺さり、騎士の片足の脛を斜めに抉り抜くことに成功していた。熱で溶かされた断面は戻らず、騎士の動きは目に見えて精彩を欠く。

 サリヴァンのほうは、変幻自在の杖を間に挟んでいたためか、後を引くほどのダメージは無い。


 サリヴァンは、どこまでも冷静だった。

 神秘を含んだ相手との戦闘。頭などの急所が急所にならない相手。

 それに相当する敵との交戦経験は、サリヴァンの十七年の人生においては二年前に一度だけ。

 その敵は、無数の粒子の体をもって子供や女、ときに男や老人に擬態し、人の目を騙すことにたけていた。粒子の密度を変えることで質量さえ変える変幻自在の体は、弱点であるはずの本体から遠く離れても粒子ひとつひとつが意思を共有しているため、索敵能力にも優れ、破壊されても粒子の一粒から再生できる。

 紆余曲折あってその魔人の主となったが、サリヴァンは今でも、ジジを殺せるほどの実力は自分にはないと自己採点している。


 ――――でも、師匠ほどの実力があれば、ジジを殺せる。


 サリヴァンには責任があった。

 それは、ジジという危険な魔人の主人になった責任。ひいては、自身の運命への責任。

 けしてジジを殺したいわけではない。『何があっても生き延びる力をつけろ』『運命に備えろ』サリヴァンはそう言い聞かされて育てられてきた。

 ジジを殺せるほどの実力を持つことが、サリヴァンの考える『何があっても生き残ることができる人』の指針になっているのだ。彼が自らを鍛え上げる理由のひとつはそこにあった。


(こいつは強敵だけど、ジジほどではない)

「サリー、また加勢が必要かい」

 サリヴァンは血の混じった唾を吐いた。


「いい。もう少しだ」

「そ。頑張んな。こっちはこっちで楽しくやってるからさ」


 そう言いつつも、ジジの粒子は皇帝の体を上滑りするばかりだった。なかなか地面に堕ちない落ち葉のように、空中をひらひらと舞っているジジを四体目の騎士が追う。ジジは粒子を無数の硬い杭に形成し、四方から投げつけた。かすかに表面を抉るが、装飾を飛ばすのがせいぜいで、黒鉄の体を貫くには至らない。


「うーん、やっぱり相性が悪いな」


 ジジの状況は奇しくもサリヴァンとは真逆だった。屍人たちは体に粒子を送り込んで内側から破壊したが、今回は粒子を吸い込む呼吸器も、破壊すべき内臓もない。


「ま、いいや。あとでサリーにやってもらおっと」

 粒子が巨大な手をかたどる。それは虫をつかむように、騎士を掌の中に納めて握り込んだ。

 騎士が内側で暴れて鈍い殴打音が響くが、結合した粒子は伸び縮みしながらも獲物を逃がさない。


「そんなに急ぐことないさ。あとでボクのご主人様が、キミのこともどろどろに溶かして、兄弟たちとひとつにしてあげる」


 サリヴァンの手斧が、三体目の騎士を斬った。

 皇帝には、もはや戦意が感じられない。サリヴァンは急ぐことなくレイバーン帝の霊のもとへ歩み寄った。


「スート兵というからには、残りは八体か九体でしょうか。それとも四十五体? 」

「……いいや。増援を出す気はない。見事なものだった」

 老人の背は、フェルヴィン人らしく高かった。サリヴァンの頭が胸の位置にある。悲哀を含んだ理知的な目が、サリヴァンを見下ろして微笑んでいる。


「行くがいい。すべてを託そう」

 皇帝の手が何かを差し出した。指先に冷たい金属と凹凸を感じる。

 深い飴色をした銅板の切れ端だった。繊細に彫り込まれた絵と、詩の一節が読み取れる。


「《星よきいてくれ》」

「これが今、わたしが託せる『すべて』だ。それは、」


 レイバーンの言葉尻をさえぎるように、地響きとともに地面が重く跳ねた。

「サリー来るよ! とても大きい何か! 」


 床の亀裂に金の光がほとばしる。小石が振動に跳ね、空を舞う。

 息をひそめて事態を見極める視線を浴びながら、『それ』はすとん、と足をつけた。

 乾き始めたばかりの血濡れのシャツ。首のない子供。


(また屍人か? )

 サリヴァンが剣を構える後ろで、レイバーンが言葉になり損ねたような声を立てた。


「……『あれ』は」

「サリー、あいつ、様子がおかしい」


 首の断面が赤く泡立っていた。血を失って灰色をした指が、指すようにサリヴァンのほうに伸ばされる。泡立つ赤が、ねばついた動きで断面から枝のようなものを伸ばして、何かを形成していく。盲者のような足取りが、一歩、また一歩と床を進む。

 サリヴァンは円を描くように『それ』から大きく後ずさった。


 『それ』から異様な臭気がする。首の断面が発光している。端から黒ずみ、その上を零れた赤いものが『どろり』と流れて、硬質な輝きをまとう。

 溶岩のように肉を焼きながら、『それ』は体を作り替えようとしていた。

 金属製の頭蓋骨。もはや鎖骨のくぼみを落ちながら肩にまで手を伸ばし、伸ばされた腕のほうにまで重力を無視して浸食していく。

 眼どころか、眼孔も、鼻孔さえなかった。がぱ、と頭が裂け、金属が擦れるような異音が響く。


(来る)と思った瞬間には『来て』いた。


(速い)

 衝撃と熱。視界が黒と白に瞬く。


「サリー! 」


 頭に直接響くジジの声だけが明瞭だ。自分は今、『どこ』にいるのか。視線を巡らせ、レイバーン帝が口を開いてあの『スート兵』とやらを呼び出しているのが見えた。全部で八体。


(残り全部を……なんてもったいない)

「サリー! 現実逃避もほどほどにして! 立てるの、立てないの! 」

「……ああ、立つ。立つよ」


 熱は痛みだけではなかった。胸のあたりが焦げている。鍛冶神の加護のあるサリヴァンでなければ、おそらく無事ではすまなかった。


「ジジ、あの泥みたいなもの」

「なんだい、こんな時に」

「魔法使いの杖に似ている」


 聴覚が戻ってきて、怪物の金切り音が耐えがたいほど響いていることも認識できるようになった。鼓膜が痛いほどの振動。


(ああ、あのスート兵ではあいつに勝つのは無理だ……)

 レイバーンの眼が、何かを必死に訴えている。


「――――行け! 」

 耳鳴りの奥で、レイバーンの声が届いた。その手が床の亀裂を指している。

 ――――頼む。

 悲壮に満ちた顔だった。


「行くぞ」

 サリヴァンは駆け出した。乱戦の中を突っ切らなければ、あの亀裂までたどり着けない。


「《さざなみの源 しらなみの主よ》《深淵におわしまする祖神アトラスの血において》《その爪音をこの戦場へ》」


 魔力を練りあげ、物質として召喚する。むっと磯の香りが広間を満たした。

 海神の血が少しでも流れているからか、水の魔法は火の次に得意だった。呼び出された冷たい潮の流れは、水面を駆ける白波の馬の群れをかたどる。猛る蹄が重いスート兵たちをそのままに小柄な怪物の体だけを押し流す。まだ肉を持った足腰には、その流れに抵抗できるほど踏ん張る力はない。

 頭蓋の空洞から水がこぼれた。じゅう、と胸より上から、おびただしい蒸気が上がっている。

 それを横目に、サリヴァンはスート兵の間を駆けた。


「こちらは任せて行け」

 すれ違いざまの皇帝の言葉に、一瞬だけ振り向いて頷き返した。その顔はまっすぐ怪物を見つめ、振り返ることはなかった。


「こちらはお任せください」

 サリヴァンも応えを確認することなく、亀裂へと身を投げた。

 落ちていくサリヴァンに、怪物がまた手を伸ばしていた。


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