第6話 魔の海にて
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ヒース・クロックフォードの職業は、フリーの航海士である。
『フリーの航海士』というだけでは正確な職務内容は想像の範疇を出ないだろうが、あえて定義するのなら、飛鯨船版の『雇われ運転手』といったところだ。
十四歳で国を飛び出し、とある大船団で修業を積んだヒースは、またたくまに十八歳で独立を許され、ケトー号に乗って大海原へと飛び出した。
そのおもな仕事は、手が足りない船団に雇われ、かわりに目的地まで飛ばすことである。
海は様々。腕の立つ航海士は絶対数が少ないうえに、田舎では物資運送業務の緊急性が高いわりに船が来ないという矛盾した現実もある。
ヒースの相棒こそ小型船だが、大型船の操縦もできたので、『どんな船でも乗りこなせる』という触れ込みで、この事業ではそれなりに名が知れつつあった。
「魔の海を飛ぶのに、頭から尻尾まで必要なのは、ただ一つ。経験ってやつだけなのさ。ネーロ」
ヒースを『黒いの』と呼ぶ師匠は、魔の海について、そう言った。
『魔の海は、飛ぶヒトを選ぶ。文字通り、道を通す者を選び取る海だ。あの暗黒の海では何が起きるかわからねえ。たいそうな気分屋でよォ、こっちが下出に出りゃア
運も必要なんですね、と言った弟子に、バカァ言っちゃいけねェ! と師匠は片目を見開いた。
『運なんてモン信じちゃならねえぞ。あの海はとにかくイヤらしい。魔の海の踏破に必要なのは、どんな風にも対応できる応用力。つまり経験だ。いいか? チビのネーロ。あの海は五十年やってきた航海士でも堕ちるときゃ堕とされる。世界中、隅々まで、すべての空を飛んだと思って初めて、あの海は胸襟を開くんだ。間違っても飛ぼうとするんじゃあねえぞ。そンときゃア……それこそ運しか味方しねえ。そんな不義理は船にしちゃアいけねえ……』
その時ヒースは『ハイ』と頷いた。その時は確かに、心から師匠の言葉を胸に刻んで、みずからの船に誓ったのだ。
(おやじ、僕が魔の海を渡ったって言ったら怒るだろうな。「おまえには早すぎる! 」って)
ヒースは操縦桿から指先すらも剥がせなかった。
離陸し、雲海を突破してからこの調子だ。人差し指一本でも、数センチずらせば天地がひっくり返る自信がある。ガラス越しに見えるものは塗りこめたように真っ黒で、時おり、様々な色の紫電が血管のように奔って闇が脈打ち、乗客を怯えさせる。毛細血管の先でも触れてしまえば、この船はお陀仏だ。
――――この海は生きている。
この船はいにしえの怪物の腹の中にいるのだと、ヒースは飲み込んだ。
同じ体勢を維持し続けて、首から背中、肩や腕もぱんぱんに張っている。血が下がりきって、足の爪先の感覚が無い。いつもなら片手間に飲み物を口に運ぶことも出来るのに、そんなことすらままならない。
(……僕には経験が足らない)
ふつうは、下から上に浮上するほうが簡単だ。雲海まで浮上できれば天候差なんて無いものだし、海層突破点の近くには、必ず港と街がある。
上から下へ下るときは、光の届かない深海で海層突破点のある断層を探しあてなければならないし、ガスを入れるタイミングを間違えると重力に従って真っ逆さまに落ちるリスクもあれば、燃料がもつまでに港へ辿り着かなければ船も船員も命はない。
魔の海は逆だ。
降下は易い。経験の浅いヒースでも、技術とセンスのごり押しでなんとかできた。
魔の海の海層突破点は特殊で、ひどく広く、そして雲海からの光が漏れて輝いている。それは魔の海の海層突破点を『光の大陸』と呼ぶほどだった。そこへ向かって降下すればいいだけだ。
もともとヒースは、帰りは大型船に船ごと乗せてもらって上昇するつもりだった。小型船ならそれができる。乗る船も決まっていた。
(でもこうなっちゃ仕方ないよな。許してくれよ、おやじ)
ぺろりと唇を舐めて不敵に笑う。スリルと挑戦を好まなければ、たったひとりで船乗りなんてやっていない。ヒースの仕事の本質は、冒険家と紙一重の職業だ。
「僕にはいつだって運が味方するのさ」
ただ祈ることはしなかった。ヒースの頭から全身の筋肉が記憶をたどり、あらゆる経験を総動員する。
ヒースの縋る『運』とは、この土壇場での自身の成長であった。
糸口は見えている。針孔から見える先っぽでしかないが、これをうまく引き出せば、ずるずると今のヒースに必要なものたちが顔を出すかもしれない。
痙攣する船体をなだめながら、ヒースは舌先でちろりと唇を撫でた。
これは挑戦だ。
たった十九歳の航海士が挑むにはあまりに悪烈な海である。無謀だったと誰もが云うだろう。そして『愚かな若造がいたもんだ』と悲しみを込めて首を振って、次の航海には忘れてしまう。
しかしヒースの感覚では違う。これは不可能な挑戦ではない。
(でも『もう少し』だけ、届かない)
つたない経験の中にある、砂粒のような正解を探している。時間さえ許されれば掴めるであろう感覚だ。それでも時間が許さない。ヒースは『今』、その正解が……打開までの一歩がほしい。
それが天才とうたわれたプライドだった。
(できないなんて僕は言わないし、お前にも言わせないぞ。なあ、相棒――――! )
紫電が奔る。今まででいちばん大きい。直撃だ。避ける動作が間に合わない。
かちりと脳裏で音がする。闇の中で白く光る穴が見えた気がした。カチリカチリと何かがハマっていく。ぴったりと隙間なく、あるべき場所へ、あるべき形へ。
『正解』がとつぜん、ヒースの目の前へとあらわれた。
全身になめらかに血が流れだす。指が導かれるように『正解』の動きをなぞり、目はすでに三手先の操作確認を行っている。脳幹がしびれ、鼓膜は勝手に音を遮断している。
万能感などない。ただ、どこからか与えられた『正解』が体を動かしていた。
我に返ったとき、ヒースの目の前ではすべてが終わっていた。
細い風の音が聴こえてくる。『魔の海』は凪いでいた。暗闇はそのままに、驚くほど静かな風がケトー号を揺さぶっている。
「……僕ってすごい」
ヒースはしばし余韻に震えた。
同じことをやれと言われても、しばらくは御免だとため息をつく。この凪もいつまで保つか分からないが、とりあえず最初の壁は超えられたのだという達成感に酔う。モチベーションをたっぷりと蓄えなければ、こんな旅はやってられない。安心したからか、体から『グウ』と音が鳴った。ヒースは床に転げ落ちたサンドイッチの包みを拾い、片手で噛りつく。
「いやあ、実に楽しい世界だ。サリーも早く連れてこなきゃね」
「……ヴェロニカ様」
か細い声が、影の中から頭に響いた。
「ダイアナ! 」
峠を越え、揺れが静かになった船室の中で、ヴェロニカは背面にある自分の影に触れた。
窓の外にはまだ断続的に雷光がはしっている。伸び縮みする自身の影の中に、黒衣の貴婦人の姿をした語り部の姿がふっとあらわれ、ヴェロニカの膝に頭を乗せてもたれかかった。
「あなた、あれからいったいどうしたの。あの尋常ではない悲鳴……はじめて聞いたわ」
「ヴェロニカ様、ここは」
「飛鯨船の中です。今は魔の海。さあ、床は冷えるわ。どうか座って」
「ああ、魔の海……距離ができたからそれで……」
ダイアナは立ち上がるようすもなく、ヴェロニカの膝に額を押し付けた。スカートを握り、何度も肩が上下する。ヴェロニカはその後頭部に手を添えて、「どうか話して」と穏やかに声をかけた。
「ダイアナ。主人として、この世に生まれた瞬間からあなたのことが分からなかったことはない。でも今は、あなたの話を聞きたいの」
「ああ、ああ、ヴェロニカ様。大変なことです。私にはわかりました。あの光の先、ありえざることが起こったのです」
「ありえざること」
「死者が蘇っている。あの屍どもとは違う。魂が肉を持ち、冥界から蘇っている」
ダイアナはゆっくりと顔を上げた。
本来の魔人の姿は不確定なものだ。ジジがそうであるように、語り部たちも例外ではない。『意志ある魔法』である彼らは、人間を主人にするその機能から、人間に擬態してこの姿を取る。
そして語り部は、主人の影響を受けて姿が変わる魔人だった。
二十四枚の銅板からそれぞれ生まれた語り部たちの個性は、主人の心に寄り添うために、その都度違う。
語り部は一枚につき九人の主人を持つ。そのたびに年も性別すらも変わるのだ。
「ダイアナ、あなた、姿が」
「ヴェロニカ様。もっとわたしの名前をお呼びください。でないとわたしは、あなたの語り部でいられなくなる」
ダイアナのまとめていた髪が落ちる。白髪交じりだった黒髪は、一本のまだらもない。ヴェロニカと同じ年ごろの女が、目に涙をたたえてすがりついていた。
「わたしの前のご主人様が蘇りました。死者の魂が語り部を呼んでいる。そして語り部の本能が主人を呼ぶのです。わたしはとっくに、あの方の物語を書き上げたのに。あの方の人生は完結したのに……」
「しっかりなさいダイアナ。誰が蘇ったというの」
「ジーン様です」
ダイアナの眼から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「おかわいそうに、あの方の心がわたしに流れ込んでくる。ああ、どうしてそんな、わたしの皇子さまにそんな残酷なことを、いったい誰が……。ヴェロニカ様、このままではわたしは壊れてしまう。どうか、どうか、もっと、わたしの名前を……」
「ダイアナ! 」
雷光が船内を照らす。そのまばゆい光に攫われたように、ダイアナの姿はふたたび影の中へと消えてしまった。ドレスに濡れた感触だけを残して。
「ダイアナ……」
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