二章 冥界の扉
第5話 旅立ちの朝
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朝が来る前に漂う独特の空気は、いつだってサリヴァンを不安にさせる。
思えば、幼いサリヴァンが眠い目を擦りながら故郷のサマンサ領を旅立ったのも、まだ星が光る早朝だった。別れ際の両親の顔よりも、初夏の良く晴れた肌寒い日であったことや、車窓から夜明けを見たことのほうをよく覚えている。
誰もが寝静まるこの時間は、一日で最も暗い。空気そのものが、あらゆる生命を拒絶して尖っているような気がして、いったい自分は何をしているのだろうという気分になるのだ。
サリヴァンは奥歯の奥からにじみ出る苦い汁を飲み込んで、らしくもなく緊張している自分の胸の内に向かって笑った。
「……よかったのかい。乗らなくて」
「ああ。これで終わりなら、おれが送り込まれた意味がない」
雲の中に消えていく船を見送り、サリヴァンは大きく伸びをしながら立ち上がった。
街には生活の名残のものが多く転がっている。
立ったまま石になった人の多くが、足元と石畳が同化してしまっていた。
動かすこともできず、サリヴァンとジジは、石像の間を縫うようにして再び歩き出す。
「皇子は生きていると思う? 」
「わからない。だから、それを確かめに行ってから帰ってもいいだろ。それができるのは、おれたちだけだ」
「まあ、そうだろうね。……まったく。今まででいちばんの大冒険だ」
サリヴァンは「そうだな」と微かに笑い、すぐにその顔を引き締めた。
「ジジ、ここからは、お互い手加減なしでいこう。手札を出し惜しみしている場合じゃあないと思う」
「いいの? 」
「命には代えられないだろ。責任はおれが取るさ」
「そう。じゃあ遠慮なく」
ジジは歌うように言って、地面を蹴った。誰に見られるわけでもないから、街中を飛んで進んでいく。
薄暗いフェルヴィンの朝が来ていた。
ふたりは西にある、城のたもとの街にまで来て一度足を止めた。
街には城から噴き出す霧がかかり、青白く霞んでいる。白濁した街並みにジジのコートが遊泳するくらげの触手のように長くたなびき、空気にとけていった。
「……すくなくともこの街には、もう立って歩ける人がいないことは確認できた。お城の中を探るよ」
薄く、細かく、粒になったジジの一部が、城の中を探っていく。
「……地下だ。何かいる。たくさん」
「たくさん? 」
「たくさんだ」
城門を超える理由が補強された。
マエストロが指揮棒を振り上げるように、サリーが頭上に掲げた魔法の杖から、澄んだ青銀の光が帯になって後ろへたなびく。
鞭のようにしなりながら帯が飛ぶ。魔法を叩きつけられた城の大扉は、軋みを上げながら内側へ開かれた。
潮騒は、城の内部に入っても聞こえてきた。それほど静かだということだ。サリヴァンひとりの足音だけが、潮騒に重なる。
吐く息が白い。おそらくこの青白い霧のせいだった。
「何かいる」
ジジがそう言ったのは、一階の中央部に近づいたときだった。廊下の先には王の玉座の間があるはずだ。
サリヴァンは杖を上腕ほどの長さの剣にして取り出した。
玉座の間の扉は開け放たれていた。おそらくそこは、霧の発生源と思われた。
床が大きく崩落している。そこにたたずむ人影があった。振り向き、青い瞳がサリヴァンを見る。
「……誰だ」
フェルヴィン人の老人であった。
整えられた髭。豪奢な衣装。落ちくぼんだ目は、悲哀に染まっている。
その背後。遥か高い天井を支える、巨木ほどもある白亜の柱の奥から、ニュッと出て来たその巨腕。その巨人の腕は、刃渡りが大衆食堂の長机ほどもある剣を握りしめ、感情の無い顔で眼下の敵を視認する。
「……うわぁ、ゴーレムだ。あんなの博物館でしか見たことねぇ」
鉛色の巨人は、ゆっくりと、しかしその巨体を思えば驚異的に早い速度で、サリヴァンらのもとへ足を踏み出していた。
「ほんとうに動くもんなんだな」
「悠長に言ってる場合!? 石の塊なんて、ボクとの相性最悪なんですけど! 」
いつしか老人の姿は広間から消えていた。
ジジの叫んだ声に、黒鋼の巨人……ゴーレムの、瞳の境がない石の目玉が、ギョロリと敵意を宿した。服も肌も黒鉄の質感をしていて、臼のような歯の隙間から獰猛な青い火の粉が漏れている。
「ぎゃあ! ボク、ターゲットにされてる! 」
ふたりはろくな言葉も無く、分かれて飛び出した。
ジジはゴーレムの眼の高さを飛びまわり、腕が届かない距離を見極めながらゴーレムを観察する。サリヴァンはゴーレムの視線から逃れるように、死角を取って駆け出していた。
サリヴァンは垂れさがる国章入りのカーテンをつかむと、その大幕を下げている大きな鍵爪状の金具までをするすると器用に登る。玉座の上に突き出した梁に落ち着くと、ちょうど眼下に、ゴーレムのうなじがあった。
「どうするの? 」
「火を使う。タイミングを見て離れてろよ」
サリヴァンが杖を向けた。魔法の風で操られたカーテンが、ゴーレムの肩首に巻きつく。
「《夜を照らすのは叡智の光》《鉄を操るのは神のともしび》《鋼を打つのはその焔》《炉に灯るのは劫火の熾火》」
「《汝、我が古き朋よ! 熱き御手の主よ! 燃やせ! かの薪のごとく! 》」
みみずは蛇に、そして龍となり、空間を燃やしながら巨体をくねらせ、カーテンを伝ってゴーレムの首に向かって上下に裂ける口を開けた。
ゴォオオ、と火炎の龍が発する音ともに、ゴーレムは声なき悲鳴を上げる。黒鋼の頭から赤く溶け出すが、ゴーレムは生き物ではない。体のほうは、龍を握りつぶすほどに元気である。
龍が飛び掛かると同時に、サリヴァンは燃えつきようとするカーテンの上を疾走していた。
ゴーレムの赤く爛れた首を踏みしめても、猛烈な熱気にさらされても、サリヴァンの背になびく赤い髪の一本も焼けることはない。
「鍛冶神よ! その加護に感謝いたします! 《銀蛇》! 」
サリヴァンは肩の上に立ち、杖に膨大な魔力を送り込む。
杖職人アイリーン・クロックフォードの打つ杖。その銘は『銀蛇』。
その名は魔術師が使う、最も短い『杖の起動のための呪文』でもあった。
刃はその幅を規格外なほどに伸ばし、しかし所有者の腕に負担になるほどの重さを与えない。
サリヴァンは、身の丈ほどもある大斧を、その熱で柔らかくなった頸へと振りかぶった。
ぐずり、と刃が深く沈む。そこからも炎が、いや、純粋な『熱』が噴き出し、死んだはずの龍が食い破るかたちで復活する。空気を飲み込んで蜷局を巻く炎龍となり、顎を開けて黒鉄の肌に食いつき、食い破る。巨人は赤黒い鉄鋼場の炉と化した。黒鋼のゴーレムは今度こそ、歩みを止める。
対象だけを燃やし熱する、鍛冶神の炉から取り出される魔法。
これこそがサリヴァンが長年の修行によって会得した、鍛冶神からの寵愛のあかし。
「よっ! 耐熱型魔術師! 本領発揮! 」
「耐熱型いうな! 」
「それでどうよ。長年隠していた力を全力で発揮した気分は」
ジジは上機嫌に、サリヴァンの周りをくるくると回遊する。
サリヴァンは気まずそうに眉をひそめ、首を回した。
「はらはらするから、今後もここぞという時だけにしたい」
「ハッ! キミらしいね」
「仕方ないだろ。何かを壊すと、壊したあとのことが気になる性分なんだよ」
巻き上げられた熱風で、サリヴァンの耳に下がる宝石たちが、光を放って揺れていた。
●
「これで、全部かな」
ヒースの手が、箱に収まった貴金属をサリヴァンの前に並べた。ピアスや耳飾りが七割、腕輪と指輪、首飾り、髪留めが残りの三割を占めている。ヒースは一つ一つを指差して、サリヴァンに『効果』を説明していった。
「この橙色と水晶のやつは魔力増幅。こっちの水色の丸いのは精神統一系。この黒と赤と青の三つは、ぜんぶ魔除けだとか呪詛そらし。サリーは火の魔法が得意だから、このルビーと磁石とダイアモンドを使った髪留めがいいと思う。水晶とダイヤはなんにでも合うから、数に迷ったらその中から選べばいいよ」
サリヴァンの三白眼が凶悪なほど吊り上がり、箱の中身を睨みつけている。そんなものでは、ビロード張の化粧箱に収められた粒の煌びやかさは損なわれない。やがて手だけが、気圧されたようにすでに耳にぶら下がっている菱形ひしがたの石をいじった。
「売り物だろ。いいのかよ」
「売り物じゃあないよ。このヒース・クロックフォードが、こんな時もあろうかとサリーに用意したやつだ」
「いや、でも、こんな高価そうなやつ……」
「こんなところで小市民の貧乏性を発揮しないでよ。デザインに留意しないなら、ほしい効果のやつを僕が見繕ってやるから」
ヒースは笑って、いくつかの箱の蓋を締めてひっこめた。『デザインに留意しないなら』とヒースは言ったが、その装飾もそろいのものだ。明らかに一式セットのあつらえである。
「……三十くらいあるんだが、いくらしたんだよ」
「こんなの投資と保険だよ。自分の船を持つと、こういうものにはお金を惜しまなくなるんだ。ちゃんと天然石を加工してあるからね。どれも一級品だよ」
サリヴァンは気まずそうに、三つ四つと指定をしていく。そのうち開き直ったのか、より詳しい効果を聞き出して吟味を重ねた。その様子は、あたかも剣を吟味する武器屋と戦士だ。
交渉がノッてくると、ヒースは化粧箱のほかに、黒い小さなトランクと、そこに詰め込んだ水晶の小瓶も山ほど取り出した。香水瓶のようにも見えるが、手書きのラベルが貼られたそれらは、大量の魔法薬だった。魔法薬といっても様々だ。服用して効果を発揮するものもあれば、投げ割ることが前提の一風変わった火炎瓶のようなものまで。
便利になった現代、一般的な魔法使いは必要最低限の技術しか体得しないものだった。
『魔法戦士』がゴロゴロしていた時代は、半世紀も前に終わっている。そしてサリヴァンは時代錯誤の魔法戦士だった。
『魔法戦士』の戦い方にも様々あるが、彼らの強みはとにかく『手数の多さ』だ。
何もない所から火を取り出し、魔法の剣は刃こぼれ知らず。搦め手、罠、不意打ち、呪詛、幻覚。魔法での戦いは、あらゆる道具を駆使して勝つことを目的としている。体中に便利な道具を装備するのは当たり前。サリヴァンの魔力をたくわえた長髪や、特別な宝石をぶら下げるために耳に開けた穴も、戦いに備えた日頃の準備である。
魔法は技術だ。手順と準備を間違えなければ、魔法は必ず作動する。
万全の備えというには、きっと足りないだろう。しかしサリヴァンは時代錯誤な魔法戦士で、今はそんな時代錯誤な『勇者』が必要な状況だった。
「……十日だ」
ヒースは微笑んだ。
「十日以内に、かならずフェルヴィンに戻ってくる。それまで持ちこたえて」
「ああ。ついでに皇子たちを見つけて待ってるよ」
「………気を付けて」
「エリも。無茶はするなよ」
「無茶はそりゃするさ」
立ち上がりながら、いたずらっぽい口調でヒースは言った。
「僕はこのために航海士になったんだぜ」
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