第8話 蘇りしもの
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「もはやここまでか」
皇帝は押し寄せる諦観に顔を歪めた。諦めるわけにはいかない。なぜならば、あの怪物をここからどこにも行かせるわけにはいかないからだ。
レイバーン・アトラスという、ひとりの男の責任として、そうしなければならない。
「『どろどろに溶かして』か」
魔人が戯れに口にした言葉。そして魔術師の少年が、実行した手段。
生まれたばかりの灼銅の怪物は、幸いにも、まだ自分が持つ火炎の力を制御しきれてはいなかった。残る八体のスート兵は、それぞれは半壊していつつも動いている。
「…………ぅ、うぅ」
苦し気な声。レイバーンのものではない。
「そうか。声を出せるようになったか。ではじきに、言葉も取り戻すだろうなぁ」
亡霊の胸の内を、絶望の冷たい風が吹いていく。
「そのときお前は、何を言うのだろう……」
「うぁああああぁああああ!」
灼銅の拳が迫る。
老人は瞼を閉じた。
「―――――ッフ、ぐ……っ、レイ、レイバーン! しっかりしろ! 」
眼を開く。皇帝は震えた。守るように立つその人が、いるはずのない人物であったからだ。
「ジ、ジーン陛下……! 」
「ふざ――――ふざけるなよ……! 」
上段に構えた祭儀用の宝剣で、怪物の拳を受け止めるジーン・アトラスは、あまりに細い腕をぶるぶると振るわせている。噛み締めた歯列の隙間から鮮血が滴った。見開いて目前の怪物を睨む碧眼からは、よりいっそう冥界の色をした炎が噴き出し、髪を揺らしている。
「ちッ――――父親殺しの真似事など……! 俺の前で、よくも……ッ! 」
ジーンの全身を青い炎が包む。酸素ではないものを食らって生きている炎は、ジーンの頭を超えて立ち昇り、激しく揺れていた。
炎から力を得たジーンは、とうてい英雄らしくない足さばきで怪物の腹を蹴り上げると、剣で殴りつけるように畳みかける。
「それなら貴様の相手は、この俺だッ! 」
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熱が脳を蕩けさせる。
眼球は景色を歪め、纏わりつく熱気はねばついて離れない。
すべてが蜃気楼のように薄っぺらで頼りなく、ここがどこかも分からなかった。それでも体を動かせるのは、胸の内に、何よりも熱い激情の嵐が吹き荒れているからだ。
強い怒りと喪失感。
体の奥にぽっかりと空いた穴は、焼け爛れてひりひりと痛み、掻きむしりたくなる疼きをもって苛む。
さまざまなことを忘れていることを、『彼』自身も分かっていたが、それすらも意識しないと忘れてしまう。
この穴を埋めたい。
ここにもともと在ったもの。『奪われたもの』を取り戻したい。
そうすれば、『彼』はもっと楽になれるはずだ。
蕩けた脳みそから膿のように染み出る渇望が、『彼』の肉体を闘争へと駆り立てる。
『あれ』は『それ』を持っていると思った。あの『青い騎士』と、目の前の『青い老人』。どちらも、一目見たときから記憶を叩く存在だった。
『彼』が振り上げた拳は、ことごとく金属の兵士たちに遮られるが、問題はない。
この拳はもっと熱く、突きは鋼鉄の鎧を熔かしながら穴をあける。
合間に、『青い騎士』が剣を振り上げて肉薄した。
刃が、突き出した腕の表面を火花を散らしながら滑る。肘ひじを掬い上げるようにして刃先をそらし、拳を打ち込んだ。
――――動きも、こちらのほうがずっと早い。
勝てる。
その確信が、『彼』の動きを、よりなめらかにする。
弓は少し怖いが、当たっても大丈夫だとわかった。突進するしかない楯や剣などは、遅くて簡単に避けられる。
青い騎士にいたっては論外だ。剣戟は、灼銅の鎧に覆われた体には一撃が軽すぎた。
『青い老人』は、この黒鉄の兵士たちの『王』であるようだった。
『王』――――その単語に至ったとき、ちくりと胸を刺すものがあったような気もしたが。まあ、どうでもいい。
『青い王』を斃せば終わり。『青い騎士』は、驚異ではない。
兵たちが『青い王』の前で円陣を組む。意図に気が付いたのだ。
兵士どもは肩を組んで、自らの身体を防壁にして青い王を囲い込んだ。
その前には重歩兵どもが楯を構えて陣取る。
兵士で造ったドームの上には、仁王立ちの弓兵が油断なく弓を構えた。
『彼』は一度壁際まで下がり、十分な距離を取る。
壁を蹴って床と並行に跳ぶ。
足首の骨が砕ける音がした。
この身に纏う灼熱の泥は、壊れた箇所を修復する。かまわず、『彼』は、ひと筋の焼けた砲弾となって突進する。
弓を構えたままの弓兵は立ち尽くしたまま何もできず、足場の円陣が崩れたことで手放した矢が弧を描いて飛んでいった。
砕けた足を面から滴った銅が覆って補強するのを待って、『彼』は兵士たちの残骸の中、立ち上がる。
……仕留めたと思ったのに。
踏み出そうとして、足が持ち上がらないことに気が付いた。
見れば、熔け、砕けた黒鉄の兵士の残骸が、『彼』の足を縫いとめている。
もう一度熔かしてやろうと叩いた腕も、黒鉄に掴まれた。
膝。腰。肩。首――――兵士の残骸が、冷たい黒鉄が、『彼』の身体に這い上がって飲み込んでいく。
もがいても、熔かしても、次から次へと、圧倒的な質量が覆いかぶさる。
もがけばもがくほど、鉄は『彼』の体に巻き付いていく。
逃げられない。
怖い。
『青い騎士』が『青い王』に向かって何かを言い、どこかへと消えた。
怒りが冷えていく。
渇望が塗り替えられる。
衝動が萎えていく。
怖い。怖い。怖い――――。
『青い王』が、『彼』へ歩み寄ってまた何かを言ったが、分からない。
近くで見た『青い王』は、どこか疲れて、ひどく悲しげだった。『彼』の仮面を暴こうとでもしたのか、手を伸ばして触れようとして、うなだれる。
『青い王』は、また何かを言った。
何も聞こえない。
何も分からない。
もう何もわからない。
(ごめんなさい)
暗闇で『彼』は呟いた。その言葉が誰に向けてなのかも、もうわからない。
それがとても怖いことのような気がしたので、『彼』はみずから眠ることにした。
(……もう、どうでもいいや)
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