第3話 皇女ヴェロニカ
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群衆から離れたところでそれを見ていたサリヴァンは、路地を行くふたりの女が目についた。
殺気迫るようすなのは、背中ごしにもわかった。ちらりと見えた目は吊り上がり、らんらんとしている。サリヴァンの視線にヒースも気が付き、小走りに歩き出した。遅れて、サリヴァンもついていく。
女性のひとりはサリヴァンらと同じくらいの体格だった。黒髪に黒い服を着た女。もうひとりは、何かから顔を隠すようにマントを被っている白いドレスのフェルヴィン人だ。
駆け出したふたりとすれ違うように、ヒースは角から何気なく飛び出した。
「わっ」
ヒースがよろける。サリヴァンは、ヒースが本気で体勢を崩して転んだことに驚いた。ぶつけられた側であるドレスの女性は、片足を出したところだったというのにびくともしていない。
「まあっ、もうしわけございません」
女性は素早く腰を落とし、倒れ込んだヒースに手を伸ばす。
「こちらこそ、前を見ていなかったから。……あの、大丈夫ですか? 」
「いいえ、こちらは何ともございません。あの、すみません。先を急いでいるもので。いきましょう、ダイアナ」
「はい。こちらです」
黒い服の女がちらりとこちらを見る。ヒースの後ろにいたサリヴァンと視線が合い、次にその背後に立つジジのほうを見た。なんの興味もなさそうにそらされた視線だったが、サリヴァンには背後のジジが舌舐めずりするようすが、ありありと分かった。
サリヴァンは歩き出した白いドレスの女の腕を掴む。
「あなたは、ヴェロニカ殿下ですね。フェルヴィンの皇女、ヴェロニカ・アトラス殿下」
振り向いた女の……皇女の顔が、警戒もあらわに剣呑な冷たさを帯びる。
掴んだ腕の筋肉が緊張し、とっさにサリヴァンは自ら手をほどいた。皇女の脚の引き方、体にほとばしった闘気が、彼女が皇女であることと、このままでは猛烈な反撃にあうということの二つを伝えてきたのだ。
振り向いた皇女は、しかし逃げることをやめた。じっとこちらを見ている。その視線の先にいるのはジジだ。
「ミケ……? いいえ、違う。あの子はそんなふうに笑わない」
「ミケ? それは誰のことだい。ボクはあなたと会ったことなんてないはずだけれど」
ジジの恍惚ともした声が、サリヴァンの隣を過ぎる。
ジジは皇女の隣に立つ、黒い服の女をじろじろと見た。
「これが語り部」
女も、観察するような眼をジジに向ける。
同じ輝きの金の瞳が、お互いを見つめていた。
サリヴァンがジジと出会ったのは二年と少し前だった。ジジはそのとき、自分はずっと世界中を旅しているのだと言った。
「何のために? 」その質問に、ジジは「故郷を探しているんだよ」と吐き捨てるように言った。
「自分がどこで、なんのために作られたのかを知りたいんだ。……もう、ずっと長くね」
語り部ダイアナの姿は、ジジとよく似ていた。
初老の女の姿をしている。老眼鏡だろうか。金の鎖のついた眼鏡をかけていて、髪は白髪交じりの黒髪をきっちりと結い上げていた。フェルヴィン人らしい見上げるような体格の女主人に比べて、その三分の二ほどの体格である。
年齢も性別も違う。しかし眠たげな眼と輝く金の瞳、、血の気の無い白い肌、鼻筋、小さな唇の造形。そのどれもに、ジジと共通点がある。
(師匠の目的はこれだ)
天啓のようにサリヴァンは思った。この皇女と魔人との出会いが、今回の鍵であると。
「あなたは何」
皇女の警戒はあらわだった。彼女と話をしなければならない。
サリヴァンはなんと言おうか迷い、じっとその淡い水色の瞳をみつめた。
群衆は誰も聞いていない。
……まさか、こんな路地裏で名乗りを上げることになるとは。
「お待ちください。皇女殿下」
ジジを下がらせ、ヒースが何をするのかを察して頷く。
石畳に膝をつく。じっさいに人前でしたことはない、最高の礼儀を示す動き。武器が無いことを示して右手を前に出し、左腕は背中にまわす。誠に皇女であるならば知ってしかるべき作法。
「お会いするつもりはなかった。されどお会いしたからには、ここで名乗らねばなりません。私の名はサリヴァン。捨てた名を、サリヴァン・コネリウス・ライト」
「コネリウス……まさか、あなたは」
「曾祖父の名をいただきました。皇女殿下。あなたさまをお助けするには、この名は不足でありましょうか? 」
サリヴァンは、じっと首を垂れた。
「……顔をお上げになって。目立ちますわ」
皇女の瞳からは、やや険が取れていた。話を聞いてくれる姿勢だ。
「そのように礼儀をつくされては、ここで背を向けるわけにはまいりません。あなたが真実、コネリウス・ライトという名であるならば、いっそうのこと、あとで後悔するでしょう。けれど、わたくしは本当に急いでいるのです」
「御助力いたします」
「……わかりました。願っても無いことです。どこか、話ができる場所は」
「西の船着き場に逗留しております。よろしければそこに」
「いいでしょう。連れて行ってくださいませ」
サリヴァンは胸を撫でおろし、頷いた。
サリヴァンが緊張を解いたのとは逆に、ヴェロニカ皇女はマントの前を掻き合わせて言う。
「すべてをお話しいたします。それでお互いに決めればよいこと」
ヒースが先だって歩き出した。皇女の隣をサリヴァン、最後をジジが歩いている。皇女の語り部は主人の影の中に戻っていた。
ケトー号の脇腹に沿うようにして、全員が椅子がわりの木片に座っても、皇女の水色の眼は警戒を消してはいない。
戦いを前にしたように、ふう、と息を継いで、皇女は口を開いた。
「ことの起こりは、数日前のことでした」
●
ヴェロニカには、四人の男きょうだいがいる。
長兄のグウィン、二つ下の弟のケヴィン、五つ下のヒューゴ、そして十八歳下の腹違いの末弟、アルヴィン。
グウィンは皇太子として、海外に留学していた時期があり、そのときに出会った女性とこのたびめでたく婚約した。
長兄にして皇太子であるグウィンの婚姻に、彼を知るものは誰もが喜んだ。
父王レイバーンの子供のころまでは、兄弟同士で王座をかけて殺しあうような時代が続いていたこともあって、兄弟仲のいい今の王室の人気はそうとうなものだ。
祝いの席は盛大になるはずだった。
父の補佐である次男ケヴィンはまだしも、きょうだいはヴェロニカも含めて、外交のためにこの海の外を跳びまわっていることも多い。すっかり大人になったきょうだいが揃うのは、そうそうあることではなかったから、『やつら』は確実に全員がそろう時期を見極めていたのだろう。
今日から数えて四日前。ヴェロニカは末弟アルヴィンとともに、居室でお茶を楽しんでいた。
兄は婚約者とともに昨晩帰国している。「あとはヒューゴ兄さんだけだね」と、ふたりで家族の思い出話に花を咲かせていた。
廊下から、どたどたと慌ただしい音が近づいてきた。けたたましい音と怒声。弟のヒューゴが、兵とともに飛び込んできて言った。
「ここから逃げろ姉さん! アル! 」
「ヒューゴッ! 」
廊下の奥から、金属をすり合わせるようなおぞましい音が近づいてくる。それはひとつふたつではない。無数の、群れともいうべき量の『羽音』。
緑とも灰色とも思える体の色。鼻をつく硫黄の臭気。鋭いとげを持った触腕が、槍を構える兵を絡み取り、ぎちぎちと締めあげては、巨大なくるみ割りのような歯を突き立てていく。
悲鳴。
無数の怪物たちを先導しているのは、灰色のローブの魔術師だった。
フェルヴィンの民ではないことは明白。そのもとに鎧の騎士がふたり。
仮面をつけた黒い鎧の騎士と、フェルヴィン人にも匹敵する巨躯の赤毛の騎士。
ヴェロニカはアルヴィンとともに逃げた。屈強なフェルヴィンの男たちがそろえられた近衛兵が、たやすく討ち取られたのを見た。
殺戮の舞台に変えられた見慣れた城を、駆け、そして捕まった。
どこともしれぬ窓のない小部屋。それが城の地下にあったのだと知ったのは、脱出の時だ。
ベッドはひとつ。日に一度、一皿のスープだけがあの怪物から届けられた。
「ダイアナ! ダイアナ! なぜ姿を見せないの。どうして」
その日を境に、語り部の魔人は姿を現さなくなった。
「父も他の弟たちも、行方がわからぬままに三日」
ヴェロニカは拳を握る。ぎりぎりと奥歯を噛んだ。
末弟アルヴィンは、そうかからないうちに「姉さんだけでも逃げてくれ」と口にするようになった。
「僕は足手まといになる」
末弟アルヴィンは、体が小さく生まれていた。
王家にたびたびあらわれる体質で、寿命もうんと短い。成長期の十四歳だというのに、体重はヴェロニカの何分の一かしかないだろう。運動も不得意で、語り部のミケが現れなくなってからは、より覇気を失っていた。そのかわり、よくない決意を固めていくように思えた。
「あなたはそのミケに、顔かたちだけならそっくり同じといっていいほど似ていますね」
ヴェロニカは、じっとジジを見た。
「……ほんとうによく似ている」
「そのミケって魔人は知らないよ。ただね、思い当たるとしたら、ひとつだ」
ジジは上目遣いに、唇を三日月形に曲げた。
「製造元が同じって可能性はある。生まれたときなんて、記憶にはないけれどね」
「どうでしょうか。ミケはそのような笑い方はしない。あの子は、はつらつとした性質の魔人でした。語り部らしからぬ表情豊かな子で」
ヴェロニカは目を伏せた。
「昨晩でした。そのミケが、わたくしたちの前にあらわれたのは。あの子はダイアナをつれてきてくれた」
「陛下から命を受けました。どうかお逃げください」
ミケが開口一番に口にしたのは、その言葉だった。
「ダイアナが先導いたします。さあ、ヴェロニカ様」
「待って。わたくしだけですか。アルヴィンは」
「ともに逃げることはできません。二手に分かれ、必ずどちらかが逃げ延びねばならないからです」
「そしてそれは、姉さんのほうがいい。何度も僕はそう言っているだろう? 」
ベッドから起き上がり、アルヴィンが言った。真剣な、縋るような眼で。
「逃げるべきだ、姉さん。僕にはミケがいる」
アルヴィンは立ち上がってミケの手を取った。ちょうどミケと同じくらいの身長と年のころをしているアルヴィンは、並ぶと揃いのように見える。
理屈ではわかる。理性は抗っている。ヴェロニカは最終的には、その提案に従うほかなかった。
「助けを呼んで戻ります」
「僕も、逃げ切れたなら、このことを外に伝えます」
「ヴェロニカ様」
「アルヴィン様」
それぞれの語り部が呼ぶ。ヴェロニカは握り締めていた弟の手を離した。
「さあ、参りましょう」
「わたくしは、成し遂げねばなりません」
ヴェロニカは地下を駆けた。ダイアナの導きは正確で、身を隠しながら、何度も敵をやり過ごすことができた。
そして、ついに脱出したとき、ダイアナは言ったのだ。
「ヴェロニカ様。お伝えせねばならぬことがございます」と。
「語り部魔人がどういうものか、御存じでしょうか」
ヴェロニカは、一転して穏やかさを取り戻して言った。
「王の後継者を選定する魔人。それだけではございません。彼らの真の役目は、王家を記録すること。彼らは自らあるじとなる者を選び、その人生を、忘却というものを知らない目で記録し、一冊の本にするのです」
サリヴァンは頷いた。
「語り部が主人の死後に執筆する、『伝記』ですね。こちらの国でも、たいへんな人気です」
「ええ、おかげで、フェルヴィン皇国という辺境の小国の名は、広く知られることとなりました。語り部が記す物語は、脚色はあっても嘘がない。そう彼らの機能の中に組み込まれている。どんな悪行も、どんな秘めた思いも、語り部は知っていて、それをじつに巧みな物語に起こすのです。後世の人々は明かされた過去に思いをはせ、今に繋げることができる。我がアトラスの民が混沌の夜を超え、三千五百年という時を、ひとつの王家で治めることができたのは、この語り部たちの存在があってこそでしょう。彼らは強い力を秘めている。そのぶん、強い誓約で縛られています。これもお判りでしょう? 」
サリヴァンは肯定するかわりに、ジジを見た。
「魔人の別名を、『陰に潜むもの』あるいは『意志ある魔法』といいます。魔法とは、誓約があるほど強い力を発揮するようになる。魔人はそれを利用して、人間を模造した魔術です」
肉体のかわりに『器物』を。
魂のかわりに『呪文』を。
命のかわりに『誓約』を。
「そうして魔人は生まれる……とされています」
「さすが、魔術師は明瞭ですね。そう、語り部は呪文を刻み込まれた銅板を本体に持ち、『舌の誓約』と呼ばれる二百を超える誓約がある。彼らはその誓いを厳密に守ることで、命を保っているのです」
城を脱出したヴェロニカに、ダイアナは言った。
「ヴェロニカ様。お伝えせねばならぬことがございます」と。
「これはミケが、ヴェロニカ様が必ず捕まらないところへ逃げ延びたあと、お伝えするようにとダイアナに言ったことで、わたくしも同意したお話でございます」
ヴェロニカの胸に不吉な予感がよぎった。言葉を遮り、耳を塞ぎたい気持ちを抑え、ヴェロニカは言葉の続きを待った。
「皇帝陛下は、昨晩ご逝去されました。そのさいミケに命じ、わたくしを連れてヴェロニカ様を守れとお命じになられました。そしてヴェロニカ様には、城下にいるであろうモニカ様と合流し保護せよと」
「お義姉さまは城下に? 」
モニカ・アーレは、兄グウィンの婚約者であり次期皇太子妃である。「もちろんです」とヴェロニカは頷いた。父の死は予感があったからこそ、悲しみは胸にしまうことができた。
「そしてヴェロニカ様。アルヴィン殿下は、王位継承権を失うことになります。ミケは言いました。決してヴェロニカ様を失ってはいけないと。ミケは『舌の誓約』を破り、その存在は消える運命にございます。あれは自ら、語り部としての枠を越えてアルヴィン殿下の運命を変えたのです。語り部はけっして、誰かの運命を変えてはならない。誓約の縛りによりすぐにでも消滅するところを、皇帝陛下の命により、すこし長らえているだけ。アルヴィン殿下はそれをご存じで、城に残られました。アルヴィン殿下は、」
そのとき、鐘が鳴った。三度の鐘。その音が鼓膜を覆おうとも、魔人の声は、主人の頭に届く。
「アルヴィン殿下は命を賭して、最後にやるべきことを成すとおっしゃられました。どうか姉上お元気で、と」
「弟は役目を果たしたのでしょう。あの鐘の音が、そのあかし」
ヴェロニカはゆっくりと伏せていた目を上げた。
目じりの垂れた優し気な面立ちは、張り詰めて乾いている。仮面のような無表情の奥に、煮え立つ怒りを秘め、その強い意思が瞳から漏れ出していた。
「ダイアナ。まだ兄と弟たちは生きておりますね」
「はい」
「こういうことです。わたくしは、義姉と合流し、兄と残る弟たちを奪還したいのです。いえ、せねばなりません。なにも伴をせよとは申しません。今のわたくしには、差し伸べられる手はすべてがありがたいのですから」
「いいえ」
サリヴァンは大きく首を振った。
「殿下、それはいけません」
「……何がいけないというのです」
「私は、殿下のお話で、自分がなぜこの国へと送り込まれたのかを理解いたしました。どうか、この私にお任せいただきたくお願いいたします」
サリヴァンは眼鏡ごしに、じっと皇女の瞳を見つめた。
「皇女は生きなければならない。お分かりのはずです」
「……戦うすべはございます。無茶を申し上げているのは、百も承知のこと」
皇女はおもむろに立ち上がった。
「いましがた、笛の音が聞こえました。丁度よいでしょう」
「何も聞こえませんでしたが」
「いいや、サリー、聞こえたよ」
ジジが肩に手を置いた。「フェルヴィン人は耳がいいね。長いだけある」
「ええ、この長い耳は、よく聞こえるのです。だからお義姉さまには、笛を渡してありました。外国人のお義姉さまには聞こえない笛を鳴らしてちょうだい、そうしたら、わたくしたち兄弟はすぐにお義姉さまをお迎えに参りますわ、と」
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