‐01:あの日の執務室

「ミツキちゃん、わたし今ちょっと思ったことがあるんですけど」


 既に冷め切ったコーヒーが、旬をとうに過ぎてしまった香りを物悲しげに机の上から漂わせている。

 少しだけブラインドが下げられた状態の窓ガラスからは、空を厚く覆う雲のカーテンを通過した後の、淡い白のフィルターがかかった光が差し込んでいた。

 

「……また随分と唐突ですね。一応お聞きしますが——いったいなんです?」


 それまで部屋を満たしていた唯一の音源——紙にペンでなにかを書き込むときのかりかりという音が、突然ぴたりと止んだ。

 その代わりに今度は、極めて真面目に、深刻な問題に直面した学者のように、あるいは世界の理を明らかにしようとする哲学者のような調子の、慎重な声が発された。


「————人間って、どうして働くんでしょうか」

「…………」


 ……………………。

 …………………………。

 はらり、と。

 部屋の端に積みあがっていた書類の山脈、その頂上の一つから、一枚の紙が舞い落ちていく。

 それとほぼ同時に、一旦止んでいたペンの音が再び、その室内でかりかりと音を立て始め——中断していた作業が再開されたことを告げる。

 だが哲学的にして深遠なる問いを投げかける声は構わず、冷静にして沈着に、一歩一歩理詰めしていくかのように言葉を重ねていく。


「まずもって、昔の人間が働いていたのは、今日というその日を生きるためでした。その日の食料を確保したり、外敵を排除したり。すべては命を明日へとつなぐためです」


 その空間は、たとえ十数人がその場に集まってもなお十分な広さがあり、空いた場所にはいくつかのソファや机、ファイルと書類が整理されている棚などが配置されていた。

 ただ現在、その底面積のうち半分近くは人ではなく、さながら高層建築物の如く無数に建てられたの塔によって占有されており。

 あまりにも大量の書類がさながらビル群の如く積み上がり、もはやひとつの都市のような様相すら呈しているその部屋に、本来の広さの面影はない。

 身も蓋もない言い方をするのであれば……その部屋はとにかく、散らかっていた。


「やがて様々な技術が発達し、高度なシステムに基づく人間社会が形成されたことで、人間はそうした非効率的な肉体労働には従事しなくてもよくなったわけです!」


 その空間でもひときわ目立つ大きめの執務机の前を、なにかプレゼンでもしているかのように行き来する、その声の主。

 美しい桜を想起させる色の長髪と、着込んでいる白いコートの長い裾を、ゆらりと背後になびかせるその少女は。

 部屋にそびえ立つ紙の塔に触れぬようにさりげなく注意を払いながら、ゆっくりとその往復運動を続けていたが。

 

「ですがっ!! それでも結局「お仕事」という形で、肉体に加えて頭脳・精神・その他諸々のリソースをフル稼働した、昔より明らかにハードな職務に追われているんですよわたしたちはっ! これはいったいなぜなのか……わかりますかミツキちゃん!?」

「…………はぁ」


 バンッ、と机に手が叩きつけられ、室内に響いた大きな打撃音に、呆れが主成分を占めた小さなため息が重なる。

 この世の真理を真剣に追究するが如く、熱くその問いを放つその声の主は——だが己が問いに答えが返ってくるのを待つことなく、食い気味に答えを告げた。


「そう、生きていくため——お金ですよお金っ! 要はキャッシュです! マネーです! クレジットです!!」

「………クレジットは金銭ではなく『信用』という意味では……」

「信用を積み重ねることも生きていくには必要なのでセーフです! 異論は認めませんっ!!」

「は、はあ……」


 ——そう、結局人間の生きていくための本質は変わっていない。

 人間が必要とする三つの要素——衣・食・住。それを手に入れるための手段が、直接的な方法から、金銭という代替物を経て交換される形になっただけのことだ。

 所詮、人間は労働の義務なるものから逃れることなど不可能だったのである。


「そう、人間は生きている限り逃げることができないんです……自らの人生から時間というものを奪う、忌むべき『労働』という悪魔の鎖からっ!!」

「……いや、あの……いくらなんでも認識がひねくれ過ぎなのでは……」

「いいや労働は悪です! 根絶すべき邪なるものです! 唾棄すべき宿敵です!!」


 真理を求める哲学者から、思想が極端に偏りきった独裁者へと秒速で堕落ジョブチェンジした少女は、なおも腕を振って吠える!


「いやまあ百歩譲って、ちゃんと働いたぶんに見合うお金が稼げるなら、ある程度キツ~い労働も甘んじて受け入れられますよ? でも、わたしたちのお仕事は一体どうですかっ!?」

「———そうですね……私たち【イーリスI.R.I.S.】は、営利団体や企業とは違った枠組みの、学生による自治組織。あくまで、いわば超大規模な生徒会のようなものですから——正式な給料といったものは支払われませんね」

「そうですイグザグトリーですまさにその通りです! ある程度の経費だったら、おこづかいみたいな感じで使えますけど……決して多くはないですしっ!」

「その認識はどうかと思いますが……まあ、実質的に各員の活動経費がそのような扱いであることは否定しません」

「現代の労働はお金のため——なら労働の対価に報酬が見合ってないのに、なんでわたしたちはお仕事しなくちゃいけないんですかっ!? おかしいですよね!!」


 ——人間はなぜ、働くのか。

 彼女が唐突に発し、謎に真面目に考察していたその話題へとついに回帰して、ここが肝だと言わんばかりに声を張り上げる桜色の髪の少女。

 だが、唾すら飛びそうな勢いでなされる彼女のそんなアツい演説とは裏腹に、返ってくる反応は冷ややかだった。


「……そういえば主席、ずっと気になっていたのですが……本日は随分と饒舌でいらっしゃいますね? 普段に比べると語彙も妙に豊富ですし、教養の不足を補うためにお勉強でもなさいましたか」

「ぎくっ」


 ミツキと呼ばれた水色の短髪の少女が向ける、氷点下まで冷え切ったジト目。

 彼女が他の学生たちから密かに「氷の女帝」などと呼ばれるようになった主たる原因の、氷を思わせる鋭い目つきから向けられたそれに。

 「主席」と呼ばれた少女が一瞬——ほんの一瞬だけ、固まる。

 だが彼女を射抜かんばかりに細められた氷の瞳は、その僅かな異変を見逃さない。


「そうですね……たとえばまるで、レポート課題か何かで主張を行うためにときのような、文章の正確さを思わせましたが……どうですか、?」

「ぎくぎくぎくっ!?」


 ……もはや隠すとかそういう次元ではなく、変な体勢でフリーズしながら思いっきり頬を引きつらせている様子からして、何かを隠しているのは明白そのものだった。

 というか、いままでミツキが彼女——セラと付き合ってきた中で、こうした隠し事が上手くいった試しがないが。


(…………なるほど)


 呆れから訝しみへと、そこに含まれる意味を変化させた視線が、やがて目の前の少女が羽織るコート——右手側ポケットに潜む違和感を認める。 

 そしてそこからなんとなく今回のセラの異変の原因に勘づいたミツキは、自信の推論を裏付ける根拠を得るために、次の一手を打った。


「あ」

「え? なんですk——」


 極めて古典的でシンプルな手段——相手の後方、なにもないところに視線を向け、まるでその場所になにかがあることに気づいたような声を、小さく漏らす。

 セラが私にカマをかけられ焦っていたことと、彼女の生来の単純さを鑑みれば、こんな適当な方法が結構効果的だということは、想像に難くない。

 案の定、彼女は私の声につられて意識を自身の後方へと向け、振り返ろうとする。


「主席、失礼します」

「え————ちょ、待っ——!」


 その動作に入ったことを確認した刹那、私は椅子から立ち上がり、意識と身体の両面で無防備になったセラの懐へと手を伸ばす。

 意識外からの私の動きに気づいた彼女セラは、どうにかその試みを阻もうと身を捻る——が、遅い。

 一旦逸らされた集中を再び別の位置へ戻すのは、一瞬の、しかし致命的なタイムロスを生む。


「へっ——ちょ、わわわわわっ!!」


 私が素早い手つきで奪い取ったそれを、どうにか抑えて取り戻そうとセラの手が翻るが、結果はお察しの通り——彼女の両の手は虚しく空を切るのみ。

 そして無理に体勢を変えたことで、そのままバランスを失った彼女の身体は、素っ頓狂な声を残して、無慈悲に——


「あっ」

「あっ」

——ガッ!

ドサ…………バサバサバサ——ッ!!

ドドドドドドドドド———!!!


 …………と、執務机の近くに積みあがった書類の摩天楼の一つへとダイナミックに突撃。

 ひとつの高みの崩落は、即座に周囲の山々をも巻き込んで——大規模な紙の土砂崩れが、あっという間に容赦なく彼女の身体を巻き込み、埋め立てていく。

 結果としてそこに残されたのは、処理が終わって内容ごとに仕分けされていたはずの紙の束が、無情にも混ざり合って形成された白い大海原と。


「——…………も、もうダ、メ……」


 突発的な事故によりその深淵へと沈められ、無残にも心身共に打ちのめされた、哀れな少女の屍だった——。



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