第6話
「うわ、やっぱいいなぁここのポテト」
キャッキャとはしゃぐ謎の男の向かいに座るのは、明らかに硬い表情をした雫月。そして、窓向きのカウンター席で孤独にハンバーガーを食べているのにも関わらず、ガラスにうつる雫月と同じような表情の俺。
なぜ、雫月がここにいるのだろうか。それも知らない男と2人で。兄がいるというのは聞いたことがないし、父親にしては若すぎる。もし店内で俺と雫月のふたりきりなら、どうにかして近くの席に移動できたかもしれない。だが、事情を知らないかもしれない人が雫月といる、となるとそれはかなり難しいだろう。この気まずい空気のまま、なんの進展もなくハンバーガーで胃を埋めるしかない。
そう思いつつ左手にハンバーガーを持ち、右手でポテトをつまんだ時だった。
「隣、いい?」
上から降ってきた声に、驚いて顔を上げる。そこにいたのは言うまでもなく雫月だった。
「……おう」
下手くそに返事をして左隣の椅子を引く。雫月はそこに座った。
しんとした空気が流れている。ガラスの反射で後ろを確認すると、あの見知らぬ男はひとりで満足気にポテトをつまんでいた。あのままでいいのだろうか。
「あの人はあれでいいよ。自由人だから」
「まぁ、それっぽいな」
雫月の言葉に少し頬が緩む。
自分のプレートを持って移動してきた雫月は、隣でハンバーガーを食べ始めた。小さな顔が全部口になりそうなほど大きく口を開ける。口に入れた物は、何故か全て右側の頬にためているようだった。
「なんでそんな……ハムスターみたいな食べ方」
雫月は俺の方を見て苦笑いした。ぺったんこの左頬を指さして、全て飲み込んでから口を開く。
「ごく稀にできる口内炎がこのタイミングでできちゃって」
へへ、と声に出して笑う。思わず撫で回したくなる小動物のような可愛さに手を伸ばしそうになり、引っ込めた。どんなに空気が緩んでいても、きっとそれだけは自制を効かせないといけない。
「雫月、先車戻ってるから。ゆっくり話しておいで」
さっきまで無邪気にポテトをつまんでいた男が、雫月の手元のテーブルをコツコツと叩いて言う。あまりにも保護者感のある立ち振る舞いに、俺は少し戸惑った。雫月は口いっぱいにポテトを詰め込んで、両手を合わせて頭を下げる。笑って手を振りながら、男は店を出た。
「あれ、誰」
「……んー、一緒に住んでる人」
言いよどんでいる様子の雫月を見て、雫月が話したいことの本題に繋がっているのだろうと察した。雫月が話し始めるのを待とうと思い、再びガラスに目を向けてハンバーガーを口に運ぶ。車通りの多い交差点。右から左へ、左から右へ光が駆け抜ける。
雫月は重い口を開き、言葉を探しながら話し始めた。
◇
人に話せるようなものでは無いことは分かっている。
母親は公認会計士、父親は弁護士。ただ広いだけの家で、両親の帰りを待つ時間をひとりで過ごしていた。
案外平凡で案外薄っぺらい生活を送ってきた僕の人生が狂ったのは、中学一年生の時の母親の自殺がきっかけだった。温厚で決して気が強くない母親は、父親の不倫に気が付きながらも指摘することができなかった。部活から帰り、いつも通り開けたドアの先でナイフを振り上げる彼女が放った言葉は今でも思い出せる。
父親は大学時代の同級生に僕を預け、別の女性と再婚した。それからは連絡もとっていないし、どこに住んでいるのかも知らない。
新しい生活の中で始まったのは虐待だった。その時の痣は今も消えていない。
それよりも酷かったのは性的虐待だ。自らの感情とは無関係に、強制的に押し付けられる快感の連続。周囲に助けを求めようとしなかった訳では無いが、相談窓口とはいえ相手は赤の他人だった。靴がどこかに隠されていたから逃げることも難しかったし、塾に通わず家庭教師――先生を呼んでいたから関われる人間は比較的少なかった。
高校一年生の春。一度家を出た先生がまた戻ってきたことがあった。リビングに置き忘れていたスマホを取りに来たのだ。先生は、授業の内容を記録するためにスマホで声を録音していた。録音が続くスマホ。それが証拠となり、男は逮捕された。
男がいなくなったからといって平和な暮らしに戻れる訳では無い。何度も何度も何度も何度も、警察相手に同じ話をした。どういう風に殴られたのか、どういう風に蹴られたのか、どういう風に触られたのか、どういう体勢で、どういう動きで、どういうタイミングで、どういう順番で。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も。必要なのかも分からない事を繰り返し話した。先生の家に帰ってからも疲労で黙り込む僕を見て、先生は一度だけ深々と頭を下げた。余計なことをしてしまったかもしれない、と。僕はそれに何も言えなかった。絞り出した言葉は確か、「どう転んでも同じです」。
解放されたと思った矢先、何故か学校や近所でこの件が広まっていることに気付いた。どこから漏れ出たのか分からないが、面白ければペラペラと話してしまうのが人間なんだろう。先生と話し合い、2人で県外に引っ越すことを決めた。大嫌いな勉強をどうにかこうにか乗り越えて入学した高校をほんの数カ月で中退し、ここに来た。
数年ぶりに平穏な暮らしが戻ってきた――かと言えば、別にそうでも無い。平穏ではあるが、両親と暮らしていた頃に思い描いたようなものとは違った。同性に抱く恐怖ほど面倒なものは無い。特に中年の男性や、手が引き取り手の男と似ている人に対しては本能的な恐怖を覚えてしまう。元々触覚が敏感なせいか、触られるだけでその人の性別や年齢層がなんとなく分かるようになった。この手の重さは、厚みは、温度はあの人に似ている、というような考えもするようになった。
普通でよかった。裕福な家庭も、温厚な母親も、厳格な父親も、高級なピアノも、庭のバスケットゴールもいらないから、もっと普通に生きてみたかった。
もう叶わない。
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