第5話

 体育祭の一件以来、雫月と少し距離ができてしまった。話しかければ今まで通り笑顔で応えてくれるが、雫月から話しかけてくることはほとんど無い。部活後に会ったら一緒に帰っていたのに、最近は互いにひとりで帰るようになった。いつも雫月が誘ってくれていたから、俺がそれに甘えている部分もあるのだろう。それでも何となく話しかけにくくなってしまった。

 どうしようかなぁ、と信号の赤い光を見つめながら考える。ここの信号は一度赤になると長い。嫌な信号に捕まったようだ。



 ◇



 目が覚める。いつも通り気味の悪い夢だった。


 肌に直接伝わる他人の手の感覚と、突き抜けるような快感。高まっていく不快感と、近づく何か。

 僕の意思に反して襲いかかってくる逃げ出したくなるような感覚に、怖気が走る。

 反抗しても、意味の無い言葉だけが発せられる。背後の人間が笑う気配がした。


 嫌な夢だ。生きているうちは、この過去から逃れられない。

 大和に説明しなければいけないことは分かっている。その重要性も、今の状況を早く抜け出す必要があることも。頭でも心でも分かっているけれど、正直に言って話したくない。 大和のことは信用している。誰かに漏らすことなんて絶対に無いと言い切れる。ただ、僕はもうこの話をしたくなかった。自分の身に何が起こったのか、もう誰にも説明したくなかった。口から吐き出す言葉達に耐えられる気がしなかった。

 大和と話していると早くその話を説明しなければいけないような、妙に急き立てられるような気がして、最近少し距離をとっている。

 大和は悪くない。ついでに言うと僕も悪くない。悪いのはきっと、大和と僕を取り巻く環境なのだろう。それでもそんなくだらないもののせいで仲違いはしたくないし、だからといって嫌な話はしたくない。

 板挟みの状態のまま、2週間が過ぎようとしていた。

 朝っぱらから少し不快な気分でリビングのドアを開ける。

「おはようございま……」

「おっ、16歳おめでとう!」

 いつも通り陽気な声と朗らかな笑顔で僕を迎えたのは、先生――清原泰輝さんだった。先生と言っても学校の先生ではなく、僕が少し前まで勉強を教わっていた家庭教師だ。訳あって2人で暮らしている。

 ……今はそれどころではなくて。

「え、16歳って」

「雫月、今日誕生日だよ」

「今日って、10月……」

「13日」

 そう。完全に自分の誕生日を忘れていたのだ。多忙を極めた社会人なら忘れてもおかしくはないかもしれないが、僕はまだ高校一年生。絶対に忘れるべきでは無いのに、忘れてしまっていた。誕生日なんかよりも重要なことが多すぎる。

 いつもの微妙な味付けに苺とオレンジが付け足された朝食を食べ、身支度を整えて家を出る。先生は料理が下手だ。下手なくせして目分量で調味料を入れるから、本当に救いようがない。名乗り出れば料理を作らせてくれるけど、もし今日名乗り出たとしてもきっと作らせてくれなかっただろう。「バースデーボーイは座って見てろ」と言う声が、聞いたこともないのに聞こえてくる気がする。

 また1日適当に過ごし、部活も終わって駐輪場へ向かう。自転車を数十分漕いで家に帰り、また先生と2人で家を出た。今日は誕生日ということもあって、僕が行きたいお店で夕飯を食べさせてくれるらしい。昔家族でそういう風にしていた、と言うと連れて行ってくれることになった。

 到着した先は、ごくごくありふれたファストフードのチェーン店。親の制限でこういう場所にあまり出入りできなかった僕にとって、誕生日は年に一度だけ、親の教えに刃向かえる日だったのだ。

 この店は学校が近くにないから、部活終わりの時間帯でも人が少なくて楽だ。そう思って店内に足を踏み入れ、おかしな巡り合わせに溜息をつきそうになる。

 意外と客が多かった訳では無い。同級生がたくさんいたわけでもない。客は、たったひとりだけだった。そのたったひとりが大和だった。

 ドアを開ける音に顔を上げた大和と目が合う。一応笑って会釈をしてみるけど、僕達にしか分からない気まずい空気が漂った。大和のテーブルには未だ包装を開かれていないハンバーガーと、ストローが刺されていないドリンク、そして1本も減っていなそうなポテトがのっている。

 今しかないのだろうか。知らず知らずのうちに歯を食いしばる。

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